19.汚れは消えない
「……そう、見えるか」
ロマノフは、花瓶の縁に置いたままの手をゆっくりと離した。
「勝手な憶測ですけどね」
ツバキは視線を逸らさなかった。
病室の白い壁に夕方の光が薄く差し込み、花の影を長く伸ばしている。花瓶の水面がかすかに揺れ、その向こうでクローデルの閉じた目が静かに横たわっていた。
「そうでないと言えば、嘘になる。だがな、それだけのためにあんな真似をしていると思われては、心外だぞ」
「流石に、そこまで酷いことだとは思っていませんよ」
言いながらも、胸の中にはまだ黒い澱のようなものが残っていた。
ロマノフのやっていることは、心から応援はできない。しかしそれを真っ直ぐに否定したいわけでもない。単なる私情とか狂気などで片づけるには、あまりにも静かだった。
アンドレイは窓際に寄りかかるように立ったまま、二人の間を見ている。軽口を叩く様子はない。今はただ、黙ってこのやり取りを聞いていた。
「ロマノフ司令。ひとつ聞きたいことがあります」
沈黙の中に響いたツバキの刻然とした声に、ロマノフが目だけを向ける。
「リーゼの両親も、リオンさんも、どちらも亡くなっているものでした。……生きている人から魔力を採取するというのは、できないんですか」
なんとなく、答えはわかっていた。
でなければきっと、あんな悲劇的な再会にはならないと思ったから。目の前で眠るクローデルも、花を供えるロマノフも、ここにはいなかったと思ったから。
「それは……今の技術では不可能だ」
即答ではなかった。
ほんの一瞬の間があったことを、ツバキは見逃さなかった。
「じゃあ……クローデルさんのクローンを作ろうとしたら__」
「私には、覚悟がある」
ツバキの言葉に割り込んだロマノフの返答は、低い。
その一言で、病室の空気がひどく重く沈む。
「覚悟……ですか」
ツバキはクローデルの痩せた指先を見た。人の温かさがまだわずかに残っている手。しかしその人は、10年もの間目を開けることなく、この男に見守られ続けてきたのだ。
「この手を汚す覚悟をな。そのために……植物状態になったクローデルを生かしてきた。そうなんだ。10年も」
言葉の最後に混じったわずかな震え。
ロマノフは誰に言い訳するでもなく、自分に言い聞かせるように言う。
その声音には誇りもなければ酔いもない。引き返せない場所に立つ覚悟にも思えた。
「私は、彼女をクローンとして蘇らせるために、手をかけなければならないんだ」
「人の命を奪えばもう……後戻りできませんよ」
ツバキの喉から絞り出た声は、毅然と言い切れないまま、尻すぼみになって震えてきた。
説教をするつもりも、正しさを示したいわけでもないのに。
「知ったような事を……」
「知ってるから言ってんです」
「ほぉ……」
ロマノフの眉が寄る。
初めてそこで、彼の中にある苛立ちとは別種の揺れが見えた。
何かを言い返そうとした口が途中で止まり、その視線が、ゆっくりとツバキへ向いた。
「本気の目をしている……」
夕陽が逆光になり、僅かに暗く映ったツバキの目。
ずっとそうだったのかは定かではないが、ロマノフにはそれが、随分と虚に見えた。
「一体君は……誰に、手を」
「俺の、父親です」
病室の時計の秒針が、ひどく大きな音を立てたような気がした。
壁にもたれていたアンドレイの背がわずかに離れ、ロマノフの手が花瓶の縁から滑る。
「俺は昔、父さんを殴り殺しました。この手で」
「な……」
ロマノフの顔から一瞬で色が引く。
ツバキは自分でも気づかぬうちに拳を強く握りしめていた。
緊張か恐怖か、乾いた皮膚の下で懐かしい感覚がまだ残っているようだった。
「人にこんなこと言うの、初めてですよ……。けどね、あなたにその気があるのなら、知ってて欲しいんです」
視線は泳ぎ、喉元から違和感が込み上げては詰まる。そんな告白だった。
ロマノフの口元はかすかに震えていた。怒りでも嫌悪でもない。もっと純粋な戦慄だった。
「……どうだった。人を、殺めるというのは」
ロマノフが慎重に聞く。そして、ゆっくりとロマノフと見合ったツバキの目は、どこか真っ直ぐで、
「その瞬間のことは、あまり覚えていません」
そう言うだけだった。
ロマノフの顔に、拍子抜けとも取れる揺れが浮かぶ。
しかしツバキにとってそれは誤魔化しではなかった。本当に、記憶はまだらだった。
赤く濡れた視界と、息が乱れる感覚だけが、破片のように残っている。
「怒りと憎しみに呑まれて、俺は父さんに飛びかかって、殴り続けていました。……自分の体じゃないみたいに。気がついたら、父さんの顔が真っ赤になって動かないんですよ」
自分の声が、ガタガタと震えていた。
怒っているのか、笑っているのか、怯えているのか、そのどれでもないような。ただ、内臓を掴まれるような感覚だけは確かだった。
「爽快でしたよ……怒りのままに動くっていうのは。それでもね……ずっと残ってんです。あの時の自分に言ったって聞かないでしょうけどね。へばり付くように虚しさと気持ち悪さが残るんです。あれだけ恨んでいた父なのにですよ」
言葉の途中で、記憶の底から拳に残っていた鈍い感触がよみがえった。
殴った時の骨の硬さや、肉が潰れる嫌な重みではない。
もっとずっと気味の悪い、止まることを知らない人間の、本質めいたエゴのようなわけのわからない戯言だけがただれてくる。
「これが、大事な人にそうしたら、それは、それは……絶対に、生き返ったとしても残り続けます。汚れた手は、どんなに徳を積んでも、そのままです」
病室に沈黙が落ちる。
クローデルの機械的な呼吸音だけが、規則正しく繰り返されていた。
「だから、あなたにはできませんよ……」
断言したつもりだった。
けれど、吐き出したそれはロマノフを責める言葉であると同時に、自分に向けている言葉でもあった。
「私には、その覚悟があると言っている……!」
そう返されたものだから、また喉が震える。
また喉から熱いものが込み上がってきた。
「じゃあやってみてなさいよ! 今!」
「二人ともやめなさい」
アンドレイの低い声が、張り詰めた空気を切った。
それまで壁に寄っていた男が一歩前に出ただけで、自分の感覚が現実に戻ってきた。
ロマノフは、何か言い返そうとして、結局言葉を失ったようにたじろいだ。
怒鳴りつけるでもなく、否定するでもなく、ただ苦いものを飲み込むように喉が動く。
やがて、彼はゆっくりと背を向けた。
「…………帰る」
それだけ言って、部屋を出て行ってしまった。
やりきれない気持ちが溢れる中、またベッドから声が響いてくる。
「クローデルさん……今度はなんですか」
ツバキは僅かに苛立ちが残ったまま、ベッドに眠る女性の手を再び取った。
指先は細く冷たい。だが、握った瞬間にその奥にまだ微かな灯があるのが分かる。
柔らかな光が、脳の裏側を撫でるようにして届く。
『あの人は、純粋なの……それを、分かってあげてほしい』
「だから、大人しく殺されてもいいと」
『私は、あの人の決断に任せるだけ』
「……わかりました。これ以上は言いません」
今度の接続は短かった。
言葉が尽きた瞬間に、ぴたりと糸が切れるように意識が離れた。
「はぁ…………」
ツバキは深く息を吐いてその場でしゃがみ込んだ。
胸の奥にあった熱が、今度は急速に冷えていくのを感じた。この感覚もまた、あの時と同じように思えて嫌になってくる。
「あんな中途半端な気持ちで、何がクローンだ。何が復活だ……ほんと」
「おい、その勢いでまた基地に乗り込むんじゃねえだろうな」
「しませんよ。もう、あんな研究、勝手にすればいいんです。魔物は俺が何とかしますから。失礼します」
言い捨てるようにそう言って、ツバキは病室を後にした。
背中にアンドレイの視線を感じたが、振り返る気力はなかった。
病院を出ると、夕方の街はまだ明るさを残していた。
駅前へ続く道を歩く人々の足取りはせわしなく、信号待ちの列も、店先の呼び込みも、何もかもが普通に流れている。
それなのにツバキだけが、その流れにうまく乗れなかった。
前を向いて歩けない。
視線は自然と足元へ落ち、アスファルトの継ぎ目ばかりを追ってしまう。
「みんなそうだ……みんな何かに縋って……そんなんじゃ、ダメでしょ。俺だって」
自分の声が、ひどく小さく聞こえた。
ロマノフも、クローデルも、ニコレスも、リーゼも。
みんな何かを守りたくて、何かに縋って、それで少しずつ歪んでくる。
それを責めた自分すら、じゃあ何にも縋っていないのかと言われれば、そんなはずがなかった。
「お兄ちゃん! 早く帰ろ!」
「え……?」
不意に、隣から呼ばれた気がした。
弾かれるように背後を振り返る。
「走るなって!」
そこを、小柄な妹とその少し前を走る兄らしい二人組が駆け抜けていく。
なんでもない、ただの兄妹だ。
普通に考えれば、自分が呼ばれたわけではないと分かる。
「俺だって……」
それでも今だけは、その一言が妙に深く刺さった。
胸の奥の、ずっと乾いて固まっていた場所に、爪を立てられたようだった。
ツバキは立ち止まったまま、兄妹の背を見送る。
やがてその姿が雑踏に紛れて見えなくなってからも、すぐには足を前へ出せなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ツバキの奥底がようやく見えてくる回になります。
2章はここまでとなり、いよいよ1巻分の最後となる3章を執筆中です。
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