86.執務室で二人きり
わたくしはフレッドと二人で廊下を歩いている。行き先はわからないけれど、おそらく先ほどまでフレッドがいた部屋だと思う。
そんなこんなで連れて来られたのは、客間ではなかった。どうやらフレッドの執務室らしい。
わたくしが部屋の入口に立ち尽くしていると、フレッドが部屋に散らかった資料をまとめていく。
「ここは……フレデリク様の執務室、ですか?」
「ああ。そうだが……」
豪華絢爛な装飾はきっとそのすべてが一級品なのだろう。わたくしには価値はわからないけれど、たぶんそうだ。
それが品よくまとまっている辺りに、調度を選んだ方のセンスの高さがうかがえる。
しかし、わたくしは先ほど尻すぼみにトーンを落としたフレッドの言葉の続きが気になって仕方がない。
「?」
「先ほどフレッドと呼んでくれただろう? 嬉しかった」
「なっ……!」
そういえば先ほどお兄様たちと一緒の部屋にいた時、誰も聞いていないと思って「フレッド」と愛称で呼んでしまった気もする。
そのことを思い出したせいで顔が沸騰してしまいそうだ。
「今後は、できればこうした私的な場ではフレッドと呼んでくれたら嬉しいのだが……」
「──っ!」
わたくしはフレッドの言葉に息を呑んだ。そういえば、式典の日にもそんなことを言っていた気がする。
あの時は恥ずかしくておざなりな態度を取ってしまった。でも。
「……フレッド」
「──ありがとう」
もう既に一度聞かれてしまったからなのか。わたくしは恥ずかしいながらも「フレッド」とみずからの意志で、そう口にすることができた。
返ってきた感謝の言葉に、彼の願いをひとつ叶えられたのだと思うと、胸が熱くなる。
少し下を向いていた間に、部屋はすっかり整えられてしまったらしい。
わたくしには見せられない資料もあるのだろう。入口の扉が閉まる音に後ろを向くと、フレッドもいつの間にか、わたくしの側にいた。
「あの、フレッド?」
「……今日は本当に幸せだ」
彼がそう言い終えるが早いか、わたくしはフレッドの腕の中にいた。身体がポカポカする。
わたくしたち以外、誰もいない室内。だからだろうか? わたくしは恥ずかしいという思いよりも、嬉しいという思いの方が勝っていた。
「今日は王太子妃教育が休みだから会えないと思っていたのだ。だから、今私は本当に幸せなのだ」
「はい。わたくしもです」
フレッドの言葉にわたくしは頷く。わたくしも、今朝ここに来た当初はフレッドと会えるなんて思ってもみなかった。
彼は仕事で忙しいのではないかと。ローザ様を見ていれば王宮の仕事が忙しいのは明らかなのに、わたくしのために時間をとってくれるフレッド。
こんなに独り占めしていても大丈夫なのかと心配にはなる。でも、彼と一緒にいられることが嬉しいという気持ちに偽りはない。
わたくしもまた、フレッドの腰に腕を回す。
少しぴくりとしたけれど、すぐに彼はわたくしを抱きしめる腕の力を強める。
久しぶりだからか、それとも過ごした時間が長くなったからか。彼の温もりを以前に増してより一層強く感じる。
どうやらわたくしは、フレッドと過ごす時間に慣れはしたけれど、彼との触れ合いに慣れたわけではないらしかった。
☆☆☆☆☆
どのくらい時が経っただろうか。わたくしたちは互いの息遣いまでもが聞こえるほどの距離で、かなり長い時間を過ごしたと思う。
フレッドの手がわたくしから離れていくのがやはり寂しい。
「もう少し……もう少しでいいから、あのまま」
そうわたくしは、思わず小さな声で独り言を呟いてしまったのだけれど。どうやらフレッドに届いてしまったらしい。
これではただ自分の我儘を彼に押しつけてしまっているだけではないだろうか。
「そうか。私ももう少しイェニーとこうしていたい」
その言葉に、彼がわたくしと同じ気持ちだとわかると、先ほどの比ではないほど胸が暖かくなる。
同じ気持ちなのだということが、これほどまでに嬉しいことなのだということをわたくしは知らなかった。
「大聖堂の時のことを思い出すな……」
「えっと……。──っ!」
わたくしははっとした。先ほど彼に告げた言葉は、初夏に訪れた大聖堂で告げた時のそれにそっくりで。嬉しいという気持ちは、たちまち羞恥心へと塗り替えられていく。
運命の神様というのは少々いたずら好きなのか、それとも……。コンコンコンと扉が規則正しくノックされる。
「殿下、フランツです。只今戻りました」
フレッドは「すまない」とわたくしだけにしか届かないであろう小声を口に出すと、申し訳なさそうにしながら扉へと向かった。どうやら、フレッドは先ほどまでフランツさんと仕事をしていたらしい。
「許可する」
「失礼いたします」
そう言って開かれる扉。フランツさんはわたくしと目が合うと、手で自身の頭を軽く押さえて呆れ気味に溜め息をついた。
「殿下。婚約者様を執務室に連れ込むのでしたら、せめて椅子を用意するべきでは?」
「──! すまない。イェニー、疲れただろう?」
「は、はい」
他の方から見ると、わたくしは連れ込まれたように見えるらしい。
それはともかく。今日は普段の王太子妃教育がある日と同様に、かっちりとしたドレスを着ているので、動きにくいし疲れる。
それに、ここで断って話が先ほどまでのわたくしたちのことに移されても恥ずかしい。
あれは、あくまで二人きりだからできることであり、第三者がいる状況でできたものではないのだから。
そう思って椅子の方に移動しようとすると、フレッドが口を開く。それも、ちょっと意地悪な顔をしながら、である。
「イェニー。喉は渇いていないだろうか?」
フレッドから「はいと言ってくれ」という圧力をひしひしと感じる。
しかし彼も何か考えあってのことだと思うし、お茶も朝食に飲んだきりだ。喉が渇いているのは本当なので断る理由はない。わたくしが頷くと、彼はフランツさんの方を見てこう告げた。
「だそうだ。フランツ、茶の準備を頼めないだろうか?」
「こちらには濡らしてはならない資料が多数あると存じておりますが……よろしいので?」
「構わん。散らばった資料は粗方片づけたし、問題ない」
「そうですか。承知いたしました」
そう口にするフランツさんの笑顔にはどこか含んだものがあった気がする。
彼はお茶の準備をするとのことで一旦下がる旨を口にすると、再び扉を閉めて退出していった。後に残されたのはわたくしとフレッドの二人だけだ。
「イェニー。先ほど貴女は『もう少し』と言ったな。今も変わりないか?」
「……っ! はい!」
その答えに、待っていましたとばかりにわたくしを抱きしめるフレッド。わたくしたちは再び扉が叩かれるまでのしばらくの間、幸せな時間を満喫した。




