61.落下
わたくしがリサちゃんに声をかけると、彼女はこちらを怯えるような目で見た。
たしかに、ジョン君と顔つきが似ている。着飾れば貴族令嬢と見分けがつかないだろうというぐらいには整った顔立ちだ。
「自分で降りられる? 手伝おうか」
わたくしが彼女にそう尋ねると、彼女は何も言わずにするすると下に降りていった。
ジョン君は登れないと言っていたけれど、そうではなかったらしい。
ここにとどまっていたのは、本当にかくれんぼを全力で楽しみたかったからなのだろう。彼女が下に着いたのを見届けたわたくしもここから降りようと脚を動かしたのだが。
「──!」
あれ? そう思った時にはもう遅かった。一瞬、裾に引っかかりを覚えたのだが、勢いのままに脚を動かしたせいで、わたくしはバランスを崩したらしい。
そして、木の上で背中側にバランスを崩したわたくしは今、宙を舞っているのだ。いや落ちていると言った方が正しいのかもしれない。
目の前に見えるのは先ほどまでわたくしが立っていた場所だ。緑の生い茂った向こう側には太陽の光も見える。
ああ、わたしはこんなところでしんじゃうのかな。物心ついた頃には孤児院にいたわたしにはきっとこれがお似合いなのだ。
わたしはもうすぐフレデリクさまと結婚するはずだった。でも、わたしはもうきっと生きられないから。
そう、わたしは初恋の人と婚約することができてとても、とてもしあわせだったのだ。
──と、そこまで思い返してふとわたくしは我に返った。まだ死にたくない。フレデリク様と結婚したい。婚約者で終わりたくない。死ぬのは嫌だ。
今死んで神々の国に行ってしまったらきっと後悔する。絶対に。
でもどうしたら助かるの? 万一慈悲深き神様が助けてくれたとして。これ、どちらにせよものすごく痛いやつなのでは? 死にたくないし痛いのも嫌。やめて!
「──イェニー!」
そう思って恐怖のあまり目を瞑った、のだけれど。わたくしが予想していた衝撃が訪れることはなくて。そのことにわたくしは安堵した。
よかった。生きている。周囲からも大丈夫かと尋ねる声があるけれど、怪我はなさそうだ。しかし、背中にあたっているのは地面ではないらしい。わたくしは一体何の上に落下したのだろう。
「よかった」
「……フ、フレデリク様!?」
やけに近くからフレデリク様の声がするなと思ったら、なんとわたくしは彼に抱えられていた。しかも、赤子をあやすかのように背中と膝裏でがっちりと支えられている。
「お姫様みたいだー」とか周囲の子供たちは囃し立ててくるけれど、ものすごく恥ずかしい。
「! ……生きてる。本当によかった──!」
わたくしが言葉を紡いだからだろうか。いつもより、それこそわたくしたちがはじめて出会った時よりも幼い話し方をするフレデリク様。
彼はついに泣き崩れてしまった。彼の泣き顔を見るなど、はじめてのことかもしれない。目の前の彼は子供に戻ってしまったかのようで、とても弱弱しかった。
「生きて、ます」
「……イェニーを失うかと思うと生きた心地がしなかった」
「ごめんなさい……」
「謝ってほしいわけではない」
「はい……」
「貴女が生きてくれているだけで、貴女の隣にいられるというだけで十分だ」
その言葉に頭が回らなくなる。ぽたぽたとこぼれてくる彼の涙から感じるぬくもり。つられて、わたくしも自然と涙がこぼれる。服が濡れることも気にならなかった。
ああ、きっとわたくしも怖かったのだ。彼がいなければ大怪我を負っていたかもしれないし、最悪命を落とすことになってしまっていたのかもしれないのだから。
わたくしは彼の肩に腕を回して顔をうずめた。
「!?」
彼が息を飲む音が聞こえた。フレデリク様の匂いが鼻いっぱいに広がる。彼と会うといつも漂っていた優しい香り。それを強く感じられたのは距離のせいだけではないと思う。
わたくしが彼の背中に回した腕に力を込めると、彼もそれ応えるように背中を優しくさすってくれた。それがとても嬉しい。
やがてフレデリク様がわたくしの足を地面に下ろすと、わたくしはやっと頭が普段通りに回るようになってきた。
「フレデリク様。お怪我は……」
「私は大丈夫だ。それより心配なのはイェニーだ。薬をもらって来よう」
「いえいえ。子供たちのために用意されたものを使うわけにはいきません」
彼はわたくしを抱きしめる力を弱め、わたくしに背を向けた。それをわたくしは両手で引き留める。別に寂しいからではない。
たしかに、寂しいと思ったのは事実だ。しかし、子供たちのために用意された大事なものを使わせてもらうわけにはいかない。
そもそも、フレデリク様のおかげでわたくしには傷ひとつないのだ。むしろ、わたくしを受け止めた彼の方が治療を受けるべきだろう。
彼が歩みを止めたのでわたくしの思いが通じた──のだと思ったのだけれど。
「イェニー……この手は私と共にいたいという意味か? 嬉しいな」
「な、な」
「どうしてこれほどまでに可愛いのだろうか……貴女が無事で本当によかった」
その言葉を聞いた途端、かろうじて戻ってきたわたくしの思考力は完全に溶け切ってしまった。
☆☆☆☆☆
次に気がついた時には、わたくしは先ほどかくれんぼでリサちゃんを探して入室した、孤児院内の一室にいた。
わたくしが座っていたのは部屋の窓側に何台か並べられたベッドのうちのひとつだ。
廊下側の壁には薬が入っているのだろう箪笥がいくつか並べられている。
少しとはいえ、せっかくのお薬をわたくしなんかが使ってしまったことに、少々の罪悪感を覚える。
「お顔をちょっとだけすりむいてますね……ちょっと痛いかもしれませんが我慢してくださいね」
「う、うん」
痛いのは嫌だけれど、わたくしはつとめて笑顔で答えた……のだが。
この薬を使ってしまったことを心配していたのが顔に浮かんでいたのだろうか。薬を使ってもフレデリク様が心配ないと仰っていたということをアニーが教えてくれた。
この孤児院に用意されている応急治療用の道具一式は王家が負担しているのだとか。考えてみれば当然のことだった。そこでふと、とても大事なことに気がつく。
「二人とも! フレデリク様はどちらに……?」
「殿下でしたら、外で子供たちのお相手をしておられます。治療するとなるとお嬢様の肌を見ることになってしまいますので、席を外しておられるだけです」
アニーの答えにわたくしは納得した。それもそうだ。
貴族令嬢は婚約者相手とはいえ、素肌──特に足──をむやみやたらに晒さないものだという。
今、わたくしはガーターストッキングを脱いでいるので彼の行動は貴族的には正しい対応なのだと思う。結局足は大丈夫そうだったけれど。
律儀だなと思う。そう感じるのはわたくしが生粋の貴族令嬢ではなく、孤児院育ちだからなのかもしれない。
家に迎え入れられた当初、シェリーやベスからも何度も言われていたので、素肌を見られるなど普通の貴族令嬢には耐えられない仕打ちなのだろう。
「これでよし、と。イェニー様、終わりましたよ」
「ありがとうミア」
えへへ、と笑顔を浮かべる彼女はいたっていつも通りだ。子供たちがよく怪我をするせいですっかり慣れてしまったのだとか。
そう言われずとも、流れるような手当てが彼女の経験を如実に語っている。
治療が終わると、今度はアニーが一度脱いでいたガーターストッキングをもう一度穿かせてくれる。いつも見慣れているけれど改めて見るととてもスムーズだ。
その間にミアは治療用道具を元の場所に戻しているようだった。せっかくの休日なのにちょっと申し訳ない。
わたくしの準備が終わると、ミアはフレデリク様を呼んでくると言って部屋を出ていった。しかし、ずっとこの部屋で待っているのは憚られたので、わたくしもアニーを伴って部屋を出ることにした。
そのまま、わたくしが再び外に戻ろうと玄関まで着くと。
「イェニー……! もう怪我は大丈夫なのか?」
「はい。ミアに手当てしてもらったので大丈夫です。顔だけでしたし、フレデリク様が気づかないぐらい軽いものでしたし」
「やはり怪我をしていたのか。イェニーは我慢のしすぎだ。傷に気がつかなかったのは、その……すまない」
その言葉を言い終わるとふたたび彼はわたくしを強く、しかし慈しむように抱きしめた。彼の温もりが心地よい。ひとまず、彼を安心させるためにわたくしは口を開いた。
「それはわたくしの方もです。もう木登りはいたしません。フレデリク様を心配させたくないのです。それに、フレデリク様に嫁ぐわたくしはそのようなことをしてはならないと思いますから」
「先ほどは緊急事態だったから注意しなかったのだが……今日はフレッドと呼んでほしい」
「……ごめんなさい」
「繰り返すようだが、謝ってほしい訳ではない。そうか……たしかに私は先ほど、木登りは淑女がすべきことではないと言ったと思う。だが、それは貴女に怪我をしてほしくないからだ。決して淑女だからしてはいけないと言いたかったわけではないのだ。だが一応男が周りにいないかとか安全かといったことは確認してくれ」
わたくしは彼の言葉にこくこくと頷いた。先ほどの忠告の意味をわたくしはどうやら勘違いしていたらしい。ぼーっとしていると、彼の顔がこちらに近づいてきて──
「姉ちゃん、兄ちゃん。ここ孤児院なんだけど」
その言葉に、わたくしたちは同時にその声の主の方を振り向いた。もちろん、話しかけてきたのはジョン君だった。
こんな場所でイチャイチャさせた犯人は私です…




