30.夕暮れ時の逃避
夕日に照らされた王都は一面が赤く輝いていた。昼と夜の狭間のちょうどその時刻。
わたくしは二人で来た道を、帰りは一人で下りていった。王都の北西部は貴族街の一角というだけあり、人通りもまばらだ。
大通りはあちこちに見回りの兵士がいるため、治安はよいと聞いている。
夕日の向きと聞いていた話から、わたくしは邸があるだろう方向に走った。こんな姿を見られたら、それこそ淑女としてあるまじき行為として咎められるかもしれない。
それでも、わたくしは今はただただ、彼に追いつかれたくなかった。
その一心でしばらく走ったものの、気がつけば右も左もわからなくなってしまっていた。
つまり今のわたくしは迷子だ。当然といえば当然なのかもしれない。わたくしは自分の足で王都に出たことなど、今日がはじめてだったのだから。
こんなことになるなら、最初から逃げなければよかった。フレデリク様はどんなに恥ずかしくても、顔を赤くするだけで逃げなかった。それに比べてわたくしはこれだ。
半ば無意識とはいえ、自分の放った言葉の責任と、きちんと向き合うべきだったのだ。これはそんな責務から逃げ出したわたくしへの罰なのだろう。そう考えながらひとり寂しく歩いていると、ふいに後ろから声がかけられた。
「お嬢ちゃん、どこ行くの?」
「えっと、あなたは……?」
振り向けば、そこには長身の男性が立っていた。顔が整っているという以外にこれといった特徴はなく。髪の色も瞳の色も茶色という、ちょっと見た目がいいだけのおじさんだ。
年はきっと三十代ぐらいだろう。確実に言えるのは、彼は知り合いではなく、わたくしのまったく知らない人だというだけである。
「俺の名前なんていいからさ。お嬢ちゃんは?」
「イェニー、です」
「イェニーちゃんかぁ……カワイイ名前だね。ちょっと俺と遊んでみない?」
「遊ぶ、ですか? わたくしは家に帰らないといけなくて……」
「家? 家に帰ってどうするの? 俺と遊んだ方が楽しいよ! 保障する」
そう言うと、おじさんはこちらに一歩近づいた。このおじさんは怪しい、と脳内に警鐘が鳴り響く。その直観に従い、わたくしは半歩退いた。
「何逃げようとしてんの? 人生逃げてもイイコトなんてひとつもないよ?」
「お、お断りします!」
わたくしは今しがた、フレデリク様から逃げてきたところだ。そう言われると耳が痛い。
だが、あれとこれとは話が別だ。目の前の男は本当に危険だ。目を逸らすことなく、再びわたくしは後ろに下がった。
人を襲う山の獣からは目を逸らしてはいけない。それは村のみんなが教えてくれたことだ。そう考えていたところに、突然耳なれた声が鳴り響く。
「私の婚約者に何をしている!」
「何者だ!?」
「貴様に名乗る名などない。私の婚約者を返してもらおうか」
はたして声の主は、フレデリク様だった。彼が来てくれたことに安堵したためか、一度は止まっていた涙が、再び堰を切って溢れ出してくる。
彼はわたくしの側まで寄ってくると、わたくしの腰を軽く支えた。頭が彼の身体に当たったことに気づいたわたくしは、恥ずかしさのあまり小麦が一籾、小麦が二籾、などとよそ事を考え始めていた。
「ハッ! 冗談を。お嬢ちゃんが泣いているじゃないか。彼女はつい先ほどまで泣いていなかったんだぞ。本当に婚約者なのか? それに、そんな地位も金もなさそうなお前なんかより、俺の方がお嬢ちゃんを幸せにしてやれる。なあ、お嬢ちゃん。こっちに来るんだ。俺がお嬢ちゃんを幸せにしてやる。涙を流させる男なんかと一緒にいちゃ駄目だ。お嬢ちゃんが幸せになれない……だから、俺の手を取れよ」
目の前のおじさんは勝ち誇ったかのように自分の想いを口にした。
だが、わたくしは当然、彼の提案に従うつもりはない。何と言っても、相手は見ず知らずのおじさんだ。フレデリク様と比べるまでもない。
「先ほども申し上げましたが、お断りいたします」
「……ということだ。わかったか?」
「お嬢ちゃん、脅しに屈しては幸せなんて掴むことは一生できないよ。本当に俺は金を持っているから、俺の方がお嬢ちゃんを幸せにできる」
「わたくしはフレデ……フレッドと一緒にいるのが、幸せなんです! わたくしの幸せを勝手に決めないでください!」
「……だそうだ。残念だったな」
フレデリク様を見れば、今度はなぜかフレデリク様が勝ち誇ったような顔をしていた。
その様子を見て、おじさんは顔を曇らせたかと思えば、ニヤッと下卑た笑みをこちらに向けて浮かべる。
「坊ちゃん……お前、この俺を怒らせておいてタダで済むと思うな! いいか、よく聞け。俺は貴族、それも伯爵家の人間だ! 平民ごときが伯爵家の人間に逆らうとどうなるか、教えてやる必要がありそうだな!」
過去のわたくしはともかく、現在は二人とも平民ではない。
お忍びの服装をしているからそう見えるのかもしれないが、ここは訂正しておくべきなのだろうか。フレデリク様の方を向けば、彼は「あー」と気が抜けたような声を出す。
「もしこのまま去るのであれば、私の婚約者に手を出そうとしたことについては不問とする。だが……もしこれ以上事を荒立てようというなら、ただでは済まないぞ。何せ、貴様が手を出したのは平民ではないし、この国で誰もが知らないはずのないあの私の婚約者なのだからな。なぁ? オックス・バナーク殿」
「な、何だと!?」
そう告げるフレデリク様は先ほどの雰囲気が霧散したかのように、冷たい目をしていた。彼の濃紺色の双眸に貫かれたオックスさんは途端に震えだした。
バナーク家。セルマ夫人に教えてもらったが、この国の貴族家のひとつであり、伯爵位を賜っているという。
社交界デビューをしているわけではないため、特に今までに関わったことがなかったし、まったくわからなかった。
たしかに、着ている服はシンプルながらどこか豪華だ。わたくしはおじさんにセンスの面で負けているということがショックだった。まあ、まだ貴族として生きた日数の少ないわたくしが勝てるわけがないのだろう。うん。
「チッ! そういうことか……覚えとけ!」
そう言い残すと、おじさんは踵を返して走り去っていった。




