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最期の晩餐  作者: 中め
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最期の晩餐

 隼人のお母さんの葬儀を終え、隼人は明日からまた学校へ出勤する。


 隼人が元気に働けるように、今日はちょっと豪華な手料理でも振る舞おうと、仕事帰りに材料を調達し、隼人のアパートへ向かった。


 アパートの前で隼人を見つけ、


「隼……」


 駆け寄ろうとした時、


「隼人‼」


 サラサラロングの髪を靡かせた女が、隼人に抱きついた。


 驚きのあまり、何故か建物の隙間に身を潜めてしまった。誰なんだ、この女。


 隼人に抱きつく女の肩は上下に揺れていて、どうやら泣いているらしい。


「どうしたの? 大丈夫? 亜子」


 隼人がその女の髪を撫でた。


 ……亜子って。優しくて気立てのいい、とっても良い子の隼人の元カノじゃないか。


 こんな時、漫画やドラマだったら、ショックで手に持っていたものを地面に落とし、その音に彼氏が気付いてしまい、慌てて逃げる彼女を走って追いかけるパターンになるのだろう。でも実際は買い物袋の取っ手を怒りのあまりに握りしめ、落としようもないし、走って逃げたりもしない。ずんずんふたりの方へと向かって行く。


「何してるの?」


「え⁉ 奈々未⁉ 何でもない‼ 何もないよ‼」


 突然現れた私に慌てふためいた隼人が、自分の身体から元カノを引き剥がした。


「何でもなくないよね?」


「…………」


 言い返す言葉を探して口をパクパクさせる隼人。


「材料、二人分しかないので、ふたりで何か作って食べてください。では、私はこれで」


 そんな隼人に買って来た材料を押し付け、背中を向ける。


「待って、奈々未。違うから‼」


 私の手首を掴んで止めた隼人の手を、


「触らないでください」


 思い切り振り払った。そしてそのまま歩き出す。隼人は追ってこない。頭に血が上っている状態の私と話しても仕方ないと思ったのだろう。時間をおいて落ち着いて話し合おうと考えたのかもしれない。でも、追ってこいよ‼


「~~~嘘吐き」


 歩きながら涙が出た。


 これのどこが滅茶苦茶大事にしてるって言うんだよ。


 この日の夜、何度も隼人から電話が来たが、一度も出なかった。


 私は隼人の誠実さに惹かれて、好きになった。だから、裏切られた気がして話す気分になれなかった。何を聞いても信じられなくなりそうで。


 翌日、モヤモヤしたまま働き、モヤつきながら、林田さんが作ってくれた賄いのチキン南蛮を食す。こんな気分の時に食べても林田さんの料理は美味い。タルタルソースが美味すぎる。一心不乱にガツガツ食べていると、

「昨日、隼人から電話きたよ。ケンカしたんだってー? 隼人、めっちゃ落ち込んでたよ」


 美知さんがニヤニヤしながら話し掛けて来た。


「隼人って、奈々未ちゃんの彼氏さん?」


 色恋沙汰好きな森山さんが素早く反応。


「どう考えても隼人が悪い。だって、元カノと抱き合ってたんですよ」


 昨日の光景を思い出し、怒り任せにガシガシと奥歯でチキンを噛み砕く。


「それはお前、乗り換えられたってことだな」


 林田さんが口角を上げながら話に加わる。


 ギロリと林田さんを睨みつけながら、チキン南蛮に喰らい付く。こんなに憎たらしい林田さんが作ったものなのに、滅茶苦茶美味しいのが滅茶滅茶腹立つ。


「イヤ、それにはちゃんと理由があったんだって。奈々未、隼人に弁解もさせずに怒って帰ったでしょ」


 美知さんが、怒りに震えながらチキン南蛮を貪り食う私の背中を「どうどう」と言いながら摩った。


「理由って?」


 森山さんは、私よりも隼人の行動に興味津々だ。


「隼人の職業って、小学校の先生なんですけど、隼人の元カノも別の小学校で先生をしてるんですよ。小学校教諭って大変じゃないですか。モンペはいるし、生徒間でイジメがあると、全部担任の責任にさせられたり。教師同士でも派閥があって気を遣うらしいし。で、精神的に参った元カノが、泣きつきにきたらしいですよ。隼人、同業者だから、一から説明しなくても分かってくれるので」


 美知さんは、隼人は悪くないと思っている様だが、私としては納得いかない。だって、抱き合う必要ありました⁉


「大変らしいわよね、学校の先生って。だから今、教師目指す人が少なくなってきてるって、ニュースで見たわ。そういえば」


 森山さんが、美知さんの話に頷いた。


「許してやれよ。俺らには分からない悩みがあるんだろうよ」


 林田さんまでもが隼人の味方をしだす。


「…………」


 許せない私が悪者みたいな構図に、唇を尖らせながらチキンを咀嚼し続けた。


「……隼人と元カノって、何で別れたんですか?」


 どうしても引っ掛かる。昨日、隼人は元カノの頭を撫でていた。少なくとも、隼人には元カノへの気持ちが残っている。だから私は、腹が立って、悲しくて、苦しいんだ。


「隼人の元カノ、二個下なのよ。大学時代に付き合って、隼人が社会人になったら時間が合わなくなって、すれ違いが多くなって別れたって聞いたけど」


 美知さんの説明に『あぁ、だからか』と腑に落ちた。ふたりは嫌い合って別れたわけじゃない。すれ違いが原因なら、それが解消されたら元に戻れる関係なんだ。


「隼人、お母さんを亡くしたばかりで精神的に辛い時期なんだから、悩み事を増やさないであげてよ。分かってあげて」


 美知さんに「ね?」と同意を求められたが、


「……ご馳走様でした」


 応える気にならなくて、一気に賄いを食べ切ると、食器を下げに席を立った。


 分かってあげることは出来た。だからもう、許す許さないの問題じゃない気がした。自分が隼人と元カノの邪魔者に思えた。私がいなくなれば、彼らは簡単によりを戻すのだろう。




 昼休みを終え、翌日のオーダー食のリクエストを聞きまわりに病室を巡回する。


「次は、楠木さんの部屋だな」


 少し前にゼリー食に切り替わった楠木さんを訪ねる。


「失礼しまーす」


 ノックをして楠木さんの部屋に入ると、


「ななみん、お疲れー」


 楠木さんが元気そうな笑顔で迎えてくれた。


「体調、良さそうですね」


「うん。普通のご飯が食べられなくなったから、激痩せするかと思いきや、ファミリーキッチンに置いてあるアイスが美味すぎるのと食べ易すぎるせいで、全然痩せずに元気いっぱい」


 楠木さんが肘を曲げて元気モリモリポーズを見せてくれた。


「アイスの感想、林田さんに伝えとくね。めっちゃ喜ぶよ、絶対」


 ニコっと笑顔を返したつもりだったが、


「ななみん、何かあったでしょ。いつもより元気ない」


 楠木さんにアッサリ見破られた。


「……仕事終わったら、また来てもいい? 話、長くなるから今は無理。聞いてくれる?」


 私の中では、楠木さんは【患者】というよりも【友だち】である意識が強い。友だちに愚痴りたかった。


「当然。いくらでも聞くよ。待ってるね」


 楠木さんが親指を立てながら『どーんと来い』とばかりに胸を叩いた。


「ありがとーう。じゃあ、まず仕事するー。明日のオーダー食、何がいい?」


 楠木さんに話を聞いてもらえることになり、心が少し軽くなり、仕事へのモチベーションが回復。


「あのさ……。噛み出し食、やってみようと思うんだ。お母さんのハンバーグ、また食べたくて……」


 楠木さんが、躊躇しまくっていた噛み出し食に挑戦の意思を見せた。


「OK。確と承りました‼」


 楠木さんがまた、お母さんのハンバーグを食べる気になってくれたことが嬉しかった。楠木さんにとって、お母さんのハンバーグは特別だから。


 楠木さんに話を聞いてもらうべく、お菓子も食べず、私語も一切せずにこの日の仕事を片付けた。そして、楠木さんの病室へ一直線に向かう。


「ちょっと聞いてよ、楠木さーん‼ まぁ、全然ちょっとじゃないんだけどさー」


 部屋に入るやいなや、壁際に置かれていた椅子を楠木さんベッドの近くまで移動させてドカッと座り、前傾姿勢で喋る気満々モードの私に、


「相当溜まってるねぇ、ななみん。気の済むまでどうぞ」


 楠木さんが「さぁ、お話しください」と右手の掌を向けた。ので、お言葉に甘え、隼人と隼人の元カノが抱き合っていたこと、その話を職場でしたら、何故かみんなが隼人の味方をして納得がいかなかったことを、息継ぎも忘れて一方的に喋りまくった。


「ねぇ、どう思う⁉」


「腹立つなぁ、その元カノ‼ 男に抱きつかないと泣けない癖なの⁉ 泣きながら男に抱き着いてないと相談出来ない習性なの⁉ 鬱陶しいわぁ。そんなんだから、悩みを聞いてくれる友だちが周りにひとりもいなくて、男に泣きつく羽目になるのよ。あぁ、嫌な女‼ イライラするー‼」


 楠木さんが枕を手に取り、「ムカつくわー‼」と言いながらぶん殴り出した。


 あぁ、やっぱり楠木さんは私の友だちだ。私は、隼人の情状酌量の部分を探って欲しいわけではなく、一緒に怒って欲しかったんだ。


「ななみんの彼氏も彼氏だよ。何を、元カノの髪撫でてんだよ。それで『何でもない』って何なんだよ。下心がなきゃしないわ、そんなこと‼」


 楠木さんが「クソが‼」とブチキレながら、布団の中で足をジタバタさせた。


「やっぱそうだよね⁉ そう思うよね⁉ 許せないのは当たり前だよね⁉」


 楠木さんに怒涛の念押し確認をすると、


「そりゃ、そうだよ‼ で、どうするの? 浮気とかって、謝られたとしてもモヤモヤが残るじゃん。ななみんは、このまま付き合い続ける気なの? 別れたいの?」


 楠木さんからも、隼人との今後のお付き合いについて確認された。


「うーん……。裏切られたからって、すぐには嫌いになれないじゃん。別れたいって気持ちにはなってない。でもさ、元カノの頭を撫でる彼氏を見ちゃうとね……。元カノへの未練を見せられちゃうとね……。別れた方がいいのかなって……」


 さっきまで興奮気味に話していたくせに、急にトーンダウン。だって、別れたいわけじゃない。でも、元カノの方を向いている隼人の隣にいたら、今よりもっと辛い思いをするだろう。


「それは元カノへの未練じゃなくて、本当に単なる浮気な気がするけどな。だって、元カノに気持ちが傾いてたら、ななみんに『何でもない‼』なんて言い訳しないでしょ」


「そうだとしても、結局許せないから別れるしかないのかなと……」


 楠木さんに話を聞いてもらいながら、私の気持ちはどんどん別れを選択する方向へと傾く。


「【別れた方がいい】とかじゃなくて、別れたいのか別れたくないのか、どっち? いいか悪いかじゃなくて、したいかしたくないかで決めないと後悔すると思うよ」


 楠木さんが「こういうことは、頭で考えるんじゃなくて、気持ちで決めた方がいい」と私の目を見た。


「別れたくない。でも楠木さん、モヤモヤが残るってさっき言ってたじゃん‼ モヤモヤしたまま付き合えないよ‼」


「うん、言った。モヤモヤは絶対に残る。でも、そのモヤモヤって別れたくない気持ちより大きいの? ななみんの頭の中にはさ、【許して付き合い続ける】と【許せないから別れる】の二択だけなの?」


 親指と人差し指を折り曲げて質問してきた楠木さんが、


「【許せないけど別れない】って選択肢はないの?」


 中指も折り曲げて、三択にした。


「別れない=許しますってことじゃない? 普通」


「何でよ。てか、普通とかどうでもいいよ。【どうしたって許せないけど、好きなので別れません】でいいと思う。意地っ張りは損するよ。意地なんか、張れば張るほど無駄だから。わざわざ損をする方を選ぶなんて無意味だよ。損なんかしちゃダメだよ。ウチラの歳だとさ、『人生まだまだ長いわー』って思うけど、私みたいに急にゴールテープ目の前に張られちゃうことだってあるんだからね。人生、無駄に損してる場合じゃないんだよ」


 楠木さんに人生を語られると、それはそれは重く、心にズシンときた。


「……確かに、そうだね」


 楠木さんの言葉が心に響くのは、楠木さんが死を目前にしているからではない。楠木さんが私の友だちとして、私の幸せを一番に考えてくれているからだ。


「明日、彼氏に会ってくる」


 楠木さんに話したおかげで、やっと隼人に会う気になれた。


「今日じゃないんかい。今から会えばいいじゃん。善は急げだよ」


 楠木さんが「早く行け‼」とドアの方を指差した。


「【許せないけど別れない】の方向で気持ちは決まったんだけど、何を話せばいいのか頭の整理がつかないんだもん。明日、楠木さんの噛み出し食を見届けてから行く。楠木さんもやったんだから、私もやらねば‼ ってなるでしょ」


 しかし、やっぱり今日は行きたくない。昨日の今日だし、どんな顔で会えば良いのか分からない。


「もし明日、私の具合が悪くなって噛み出し食が出来なかったら行かないつもり?」


 楠木さんが、先延ばしを決め込む私を白い目で見た。


「イヤ、行く。楠木さんを出しに使ってゴメン。どうしても今日行きたくなくて……。明日行くなら、楠木さんの顔を見てから行きたいなと思ってさ。楠木さんの顔を見るとさ、『よし‼ やってやろう‼』って気が沸いてくるからさ」


「なってないやん。そんな気が沸いてるなら、今日行くでしょ、普通」


 私の言い訳に、白い目どころか白目を剥く楠木さん。


「普通とかどうでもいいよ。頭の整理がつかないから無理だって言ったじゃん。今日行かないのは私の頭の問題‼」


「うわー。さっきの私の言葉、引用しやがったー」


 楠木さんが黒目を所定の位置に戻して笑った。


「よし‼ じゃあ、頭の整理でもしに帰るかな。長居してすみませんでしたー」


 楠木さんの笑顔も見れたし、楠木さんに相談出来たおかげで私の気持ちも落ち着いたしで、そろそろお暇しようかと椅子から立ち上がる。


「おやすみ、ななみん。また明日ね」


「うん。今日は本当にありがとうね。おやすみなさい。また明日」


 お互い笑顔で手を振り合うと、楠木さんの病室を出た。


 鞄からスマホを出し、画面を確認すると、隼人からの着信とLINEが来ていた。


【話がしたい。会いたい】のメッセージに【明日会おう。私も話がしたい】と返信してスマホをポケットに突っ込むと、明日はどう話を切り出そうか? と考えながら歩いた。


 そして翌日。昼食を食べ終わると、オーダー食の調理に追われる。


「ハイ‼ 楠木さんのハンバーグは私が作ります‼」


 右手を高らかに挙げ、楠木さんのハンバーグ作りを立候補すると、


「じゃあ、頼むー」


 市販のハンバーグの素を使い、自分の腕の見せ所がない料理の為か、林田さんはアッサリ譲ってくれた。


「俺が作るより、お前が作った方が楠木さんも喜ぶだろ。楠木さんがまた食べる気になってくれたハンバーグだからな、市販の素を使うからって手を抜くなよ」


 林田さんは、私の低俗な勘繰りとは違う理由で譲ってくれたらしい。


「ハイ‼ 頑張ります‼」


 猛省しながら返事をして、他の患者さんのオーダー食も一所懸命丁寧に作りながら、楠木さんのハンバーグを調理した。


 夕食の時間になり、出来上がったハンバーグと噛み出し用の袋をトレ―に乗せ、楠木さんの部屋にサーブしに行く。


「失礼しまーす。夕食でーす」


 ノックをして中に入ると、


「うわー‼ いい匂い‼」


 ハンバーグを見た楠木さんが、目を輝かせながら拍手をした。


「でしょ? 私が腕に縒りを掛けて作りました‼ はい、どうぞ」


 テーブルにハンバーグをセットするが、


「…………」


 楠木さんはハンバーグを見つめたまま食べようとしない。


「体調悪い? 食欲ない? 大丈夫?」


 心配になり、楠木さんの顔を覗き込むと、


「ななみんがいると食べられない」


 楠木さんは、私の額に手を置いて押し、私の顔を遠ざけた。


「えぇー。何でよー」


「友だちに食べ物を吐き出してるところなんか見られたくないよ‼ 分かるでしょ?」


 ぷくっとほっぺたを膨らませる楠木さん。


「イヤでもさ、喉詰まらせたりしないか確認しないと。私の前だと食べ辛いなら、看護師さん呼んでくるよ。ごめんね、気が利かなくて」


 手の空いている看護師さんを捕まえようと、病室を出ようとする私を、


「そんなに仲良くもない看護師さんにじっと見られるのもちょっと……。気まずいじゃん」


 楠木さんが引き留めた。


「えぇー。じゃあ、食べられないじゃん」


「イヤ、食べる。食べたいもん。だからさ、吐き出す時だけ後ろ向くとかしてくれない?」


 恥ずかしそうにモジモジする楠木さんが、なんか可愛かった。


「うん。分かったよ」


 楠木さんに頷くと、


「それじゃあ、いただきます」


 楠木さんは合掌した後、右手に箸を持った。


 久々の一般食を口にする楠木さんの姿を、固唾を呑んで見守る。


 楠木さんは、箸でハンバーグを小さく切って口に入れると、ゆっくりと咀嚼し始めた。


 そろそろ吐き出すタイミングかな? と後ろを向こうとした時、


「ゴホゴホゴホゴホ……‼」


 楠木さんが盛大にむせた。


「大丈夫⁉ 吐き出して‼ 後ろ向くって約束破ってゴメンだけど‼」


 即座に楠木さんの口元に吐き出し用の袋を当て、楠木さんの背中を摩る。


 ハンバーグを吐き出し、呼吸を整えた楠木さんが、


「……大丈夫大丈夫。ゴメン。久々のハンバーグに感動しちゃって、涙出そうになっちゃって、洟も出てきそうで、啜り上げたらハンバーグが喉の方に入ってきちゃって……」


 喉に手を当てながら笑った。


「焦ったー」


 一気に上がった心拍数を押さえようと、胸に手を当てる私に、


「死ぬかと思った? 死なないよ。少なくとも、ななみんと彼氏の今日の結果を聞くまでは死んでたまるか」


 楠木さんがいたずらっ子のような笑顔を向けた。


「……分かってるよー」


 楽しい話し合いにならないことが分かりきっているから、気が重くて重くて仕方がない。


「分かってるならいいよ。しかし、やっぱハンバーグは美味しいね。味は勿論いいとして、この食感‼ ゼリーばっかり食べてたから、この肉の歯ざわり、たまらん‼」


 気重な私とは反対に、ハンバーグにより英気が養われた楠木さんは、ご機嫌に箸を進める。一度吐き出すところを見られたら、もうどうでも良くなったのか、私の前で堂々と噛み出しする楠木さん。気持ちの切り替えの早さに驚きつつも、楠木さんの喜ぶ顔に私まで嬉しくなった。


 楠木さんの噛み出し食の成功(むせはしてたけど、成功と言っていいでしょう)を見届け、今度は自分の問題の解決にいざ出発。


 隼人のアパートに向かう途中でスーパーに寄り、豚バラブロックを購入。隼人の部屋で、豚の角煮を作ろうと思ったからだ。隼人のお母さんの味の前では、嘘も酷いことも言えないだろうと考えたから。こんなことに隼人のお母さんの豚の角煮を使う私は、浮気をされても仕方のない最低女だ。でも、これ以上傷つきたくない。


 買い物袋を肩に掛け、隼人のアパートまで歩く。


「……え」


 まただ。また、隼人と隼人の元カノがアパートの前で抱き合っていた。なんかもう、話し合うだけ無駄な気がした。何も話したくなくなった。


「…………」


 無言でふたりに近づき、


「…………」


 無言で豚バラブロックを隼人に押し付け、


「…………」


 無言で立ち去ろうとする私の手頸を、


「待って、奈々未‼ 話聞いて‼」


 隼人が掴んだ。


「…………」


 その手を無言で振り払う。


「待ってって‼ お願いだから、話しよう⁉」


 一昨日は追いかけても来なかったくせに、今日は食い下がる隼人。さすがに追わねばマズイと判断したのだろう。


「…………」


 無言を決め込み、隼人をシカトして歩き続ける私の前に、


「無視しないで‼ 話しようよ‼」


 隼人が両手を広げて立ちはだかった。


「……今日は急に来たわけじゃないじゃん。ちゃんと連絡してから来たじゃん。私が来るって分かっててやるってことはさ、私に見せたかったからだよね?」


 怒りと悲しみが同時に襲ってきて、頭痛を引き起こし、眼球まで熱くなるから、涙が出てきそうになってしまう。


「だから断った。今日は来ないでって亜子にはちゃんと言った」


「今日は無理だけど、明日ならいいよ。的な?」


 隼人のよく分からない言い訳に呆れて、乾いた笑いが漏れた。


「違うよ‼ 亜子には『彼女の誤解が解けるまで会えないよ』って言ったのに、来ちゃって……」


 私のせいで会えないと説明していた隼人に、悪寒が走る。


「ちゃんと言っておいたのに来ちゃったから、抱き合っちゃったわけだ。じゅあ、仕方ないね」


 そんな隼人とちゃんと話す気になど、なるはずがない。


「抱き合ってない‼ 亜子が泣きながら抱きついてきただけで……」


「隼人はただ、抱きとめただけだもんね。抱きつく女性を抱きとめないなんて、男として間違っているんだとしたら、隼人のしたことは正しいんだと思うよ。うん。隼人は悪くないね。全然悪くない」


 わざと笑顔を作ってみせたが、私の目はきっと、というか絶対に全然笑っていないだろう。


「隼人だってしっかり応えてたじゃん。この前、亜子さんの髪を撫でながら抱きしめてるところ、しっかり見たし。亜子さんだって、今も隼人のことが好きなんでしょ? だから隼人に会いに来てるんでしょ? わざわざ私が来る日を狙って、厭らしい。本当に辛くて泣いてるのかも疑わしいわ。隼人の気を引く為としか思えないわ」


 嫌味ばかりを放っていた私の口は、終いに隼人の元カノの悪口まで話し出してしまった。どんどん自分が嫌な奴になっていくのが、ほとほと嫌になる。


「泣いてる人をそんな風に言うのは、ちょっとあんまりだよ、奈々未」


 だから、隼人だって私に嫌気が差す。


「それに俺、亜子の髪撫でた? 全く覚えてないけど、本当にやってたとしたら無意識だった。多分、亜子と付き合ってた頃の癖だと思う」


 隼人は『だから、深い意味なんかないよ』とでも言いたいのだろう。この世に、昔の彼女に行っていた癖を見せられて、気分を害さない女がいるはずがない。


「……あのさ。私が仕事で悩んだ時、隼人じゃなくて料理長の林田さんに泣きながら抱きついても、隼人は『俺は奈々未の仕事のことはよく分からないから、仕方ないな』って許せる?」


 私が林田さんに抱きつくこと絶対に有り得ない。冷静な時なら、言いながら笑ってしまったであろう仮定の話も、頭に血が上っている今なら真顔で話せてしまう。


「……それは、嫌だ」


「だよね」


「でも、抱き合っただけで本当に疚しいことは何もしてないから‼」


 抱き合っていたことが黒だと指摘されているのに、潔白を主張する隼人。


「もし私が現れなかったら、抱き合った後にどうしてた? アパートの前で抱き合ってたら、生徒や父兄に見られるかもしれないよ? ふたりで隼人の部屋に入ってたんじゃないのかな」


「それは……」


 隼人の言葉が続かなくなった。それは、きっと亜子さんを部屋に招いて、そうなっていただろうということだ。


「泣いてるあの子の元に戻りなよ。泣いてない私には、どんなに嫌な思いをさせても平気でしょ? だって、泣いてないんだから」


 泣いて堪るかと奥歯を噛みしめるが、


「隼人は、隼人のお母さんの豚の角煮を作れないあの子と、末永く幸せに暮らせばいいよ」


 捨て台詞を吐いた後、


「……ウチラ、もうダメだ」


 瞬きと同時に涙が零れてしまった。堪えきれなかった。


 私の涙を見て、隼人も泣きそうな顔になった。私に何か言いた気なのに、言葉が出てこない様子の隼人に、


「バイバイ」


 背中を向けた。突き当りまで歩き、角を曲がったところでしゃがみ込む。


「……うぅ……」


 涙が溢れて止まらない。


 別れようと思ってなかったのに。【許せないけど別れない】予定だったのに。


「別れちゃったよ、楠木さん」


 これだけ泣けば、きっと目は腫れる。明日、何も言わずとも、楠木さんは多分私の顔を見ただけで全てを察してくれるだろう。




 翌日、やっぱり瞼がパンパンになった。凄くヒリヒリする。化粧で誤魔化そうにも、痛くて施せない。一番どうにかしたい目だけがスッピンという、意味不明な顔で出勤する羽目になった。


 これは絶対に弄られる。森山さんは優しいからスルーしてくれそうだけど、美知さんと林田さんは『どうした、その目‼』って指さしながら笑うに決まってる。目に浮かぶ。


「はぁー」


 朝イチで大きなため息を吐き、白衣に着替え、


「おはようございまーす」


 栄養管理室のドアを開けると、


「奈々未、あのね……」


 私の変な顔など気に留めず、美知さんが深刻な表情をしながら近づいてきた。


「何? トラブルですか?」


 嫌ーな予感に顔を顰めると、


「……昨日の深夜に、楠木さんが亡くなった」


 美知さんの口から、トラブルどころではない言葉が飛び出した。


「……え」


 一瞬にして頭が真っ白になった後に襲ってきたのは、


「……嘘だ」


 信じられない思い。死ぬわけない。楠木さんが死ぬわけない。だって、私と隼人の結果を聞くまで死なないって言ってたもん。だから、死ぬわけないんだ。


 入ってきたばかりのドアを勢いよく開け、出て行こうとする私の腕を、


「どこに行くの⁉」


 美知さんが掴んだ。


「楠木さんの病室に行ってもいないよ。昨日のうちに、楠木さんの親戚の方が迎えに来られえたから」


 美知さんが言い聞かせるように「楠木さんは、もうここには居ないんだよ」と私の目を見た。


「そんな……」


 そんなの嘘だ。楠木さんが死ぬわけない……わけない。楠木さん余命が長くないことは最初から分かっていたはずなのに、楠木さんと話をするのが楽しくて、一緒にいるのが心地よくて、『また明日ね』なんて無神経に挨拶が出来てしまっていたほどに、楠木さんの残りの時間を意識していなかった。違う。楠木さんが死んでしまうことを受け入れたくんなくて、意識するのを辞めたんだ。


 この仕事を始めてから、何人かの患者さんを見送った。だから、心の準備などしなくとも自分は大丈夫だと思っていた。全然大丈夫じゃない。思い違いもいいところだ。


 今まで、患者さんに優劣をつけたり、依怙贔屓をしたことはない。だから、楠木さんを特別扱いしたりもしなかった。なのに、なんで他の患者さんの時みたいに、心静かに偲ぶことが出来ないのだろう。友だちになってしまったからなのか?


「取り乱してすみません。仕事しましょう」


 無理矢理気持ちを立て直す。ここで崩れてしまったら、『今後は患者さんと距離を置いて接するように』と注意を受けそうな気がしたから。楠木さんと友だちになったことが、間違いだったかのように言われたくなかった。


「今日も一日頑張りましょう‼」


 美知さんに、とんでもなく引き攣った笑顔を向ける。目には今にも零れ落ちそうなほどに涙が溜まる。泣くことは堪えられても、涙目を我慢するスキルは、私にはなかった。


「ごめんね、奈々未。辛い仕事に引っ張り込んでごめん」


 美知さんが私を抱き寄せ、背中を摩った。


「勘弁してくださいよ。こんなことされたら、泣いちゃうじゃないですか。私、泣くと長いから、やめてくださいよ。それに私、この仕事大好きなのに、『ごめん』とか言わないでもらえますかね」


本当は美知さんの肩を借りて泣いてしまいたかった。でも、ここで泣いたら仕事が出来なくなってしまう。だから、ゆっくり美知さんの肩を押して離れた。


「大丈夫ですから‼ 本当に大丈夫‼」


 もう一度ぐっちゃぐちゃな笑顔を作り、パソコンを立ち上げて事務処理に取り掛かった。仕事に集中することで、辛さを忘れたかったから。


 こんなボロボロな精神状態なのに、普通に仕事が出来た。でも、いつものように美知さんと冗談を言い合ったりしたりは出来なくて、一切口を開かずに、黙々と働く。


 伝票整理を終え、朝食・昼食作りの為に調理室に移動しても、私の口は動かない。喋りたくないというより、喋る気力がない。


 楠木さんが亡くなったことは、もちろん林田さんも森山さんも知っている為、「今日はそっとしておこう」と私に話し掛けてこない。


お喋りでいつも騒がしい私が何も喋らないから、『冷蔵庫の音ってこんなに大きかったっけ?』と思うほどに、今日の調理室は静かだ。


いつもなら、十時くらいにお腹が鳴るのに、お昼になってもお腹は減らず、空腹にならないままお昼休みになった。


今日の賄いは滅茶苦茶美味しそうな山掛けうどんだった。多分、林田さんが気を遣って、スルスル食べられそうなメニューにしてくれたのだと思う。


いつもなら余裕で食べきり、おかわりを催促するであろう林田さんの山掛けうどんに、全く箸が進まない。箸を持ったまま動かずにうどんを見つめ続けていると、


「なーんか今日は、食欲が止まらないわ。奈々未ちゃんの分も貰っちゃお」


 森山さんが、私のうどんの器を自分の方に寄せた。場の空気を悪くしない為に、【私が落ち込んで食べられない】のではなく、【森山さんが空腹すぎて私の分に手を出した】ように振舞ってくれたのだ。なのに、


「……やっぱりさ、患者さんとの向き合い方、少し考えた方が良いんじゃない? 今後もご飯が食べられなくなるようなことがあるとちょっとさ……」


 遂に美知さんに、言ってほしくない言葉を言われてしまった。


「大丈夫ですって‼」


 うどん一本啜れない私の【大丈夫】になど、何の説得力もないとは分かっているが、そう言うしかない。


「どこが大丈夫なの? 全くそんな風に見えないんだけど。私はただ、奈々未のことが心配で言ってるんだよ?」


 だから,当然美知さんにツッコまれる。


「そうですよ、嘘ですよ。何も大丈夫じゃないですよ。でも、私は患者さんとの接し方を変える気ないです。だって私、楠木さんと友だちになれて嬉しかったもん。楽しかったもん。後悔なんか一つもしてないもん。友だちが死んじゃったんですよ‼ 悲しむくらい大目に見てくれてもいいじゃないですか‼」


 美知さんは間違ったことなど言っていない。分かっているが、冷静とは程遠い状態の私は、開き直って美知さんに当たる。


「ウチラだって友だちでしょ⁉ 奈々未はそうは思ってないかもしれないけど、私のことはただの大学の先輩で、ただの同僚だと思ってるかもしれないけど、私は一方的に奈々未とは友だちだと思ってる。友だちの心配くらいしたっていいじゃん‼ そんな、【余計なお世話】みたいな言い方しなくてもいいじゃん‼ ちょっとくらい私の話に耳を貸してくれてもいいじゃん‼」


 美知さんが悲しそうに顔を顰めた。

「あ……。そんなつもりじゃ……。ごめんなさい」


 美知さんの表情を見て我に返る。


 これでは、林田さんや隼人のお父さんのことを頑固だの言えない。他人の話に耳をかさないなんて、自分が一番面倒な人間ではないか。


 感情を上手くコントロール出来ない自分に苛立って、「もう‼」と太ももを拳でぶん殴るという自傷行為に走っていると、


「カッカすんな。これでも食って、頭を冷やせ」


 林田さんが、美知さんと私の目の前にアイスが入ったカップを置いた。


 黄色と茶色のマーブル模様のアイスだった。


「……チョコバナナ」


 こんな時に満を持したかのようにチョコバナナ味のアイスを作るとは……。必要以上に心に沁みて泣いてまうやろが。と、心の中で林田さんに憎まれ口を叩きつつ、大好物のチョコバナナアイスに『これなら食べられそう』と、カップを手に持ち、スプーンでアイスを掬い上げた。


「……うまー」


 口に入れた瞬間にスッと溶ける滑らかなアイスに、鼻息が漏れた。


「俺の料理って、何で全部美味いんだろうな? 逆に不味い料理が作れねぇんだわ。……天才だからかな?」


 腰に手を当て、胸を張る林田さん。


 相手にする元気などないので、構わずアイスを食べ続けていると、


「……ッ」


 突然下腹部に激痛が走った。二十六年生きているから分かる。これは、一刻の猶予もない勢いで下している。ヤバイ‼ と立ち上がった拍子にスプーンが床に落ちてしまったが、拾ってる余裕すらない。ここで漏らすわけにいかないと、トイレへ急ぐ。


「オイ、どうした⁉」


 アイスを食べてから異変を起こした私に、林田さんが焦りの表情を見せた。が、説明している場合ではもちろんない。


 お尻の穴を精いっぱいすぼめながら走り、トイレの個室へ入った途端に便器に座ると、文字で説明してはいけないくらいに下した。


 経験上、分かる。これは一波では終わらない。だって、一通り出し終わってもまだお腹が痛い。第二波に備えてその場に留まる。


 お昼休みが終わっても戻ってこない私を心配して、


「奈々未ー。生きてるー?」


 美知さんがトイレまでやって来た。


「生きてます。すみません。まだちょっと出られない……。トイレに立て篭もってた時間はちゃんとサービス残業するので、もう少しの間見逃して……」


 決してサボりたいわけじゃないの。お腹がビチビチなの。とお腹を摩りながら涙目になる。


「そんなことはどうでもいいよ。具合が悪いなら、帰りなよ? 無理しなくていいからね」


 ギスギスしたばかりだというのに、私を気遣ってトイレに留まる美知さん。


「……帰れないです。便器から離れられないです。……美知さん、仕事に戻ってください。盛大に下しているので、水流音で誤魔化しきれない生々しい音と、大砲放ったかのような爆音がお尻の穴から鳴ってしまいます。いくら友だちと言えど、聞かれたくない……」


 美知さんの優しさに感動しつつも、美知さんがここにいると思い切り出せない。


「……友だち。そうだよね、ごめんごめん。じゃあ、戻るわ。奈々未は急がなくていいからね。ゆっくりおいで」


 トイレの個室のドアの向こう側で「フフッ」と漏らす美知さんの声が聞こえた。


 自分のお腹とは大戦争を繰り広げているが、大事な友だちとは仲直りが出来たようだ。


「早くお前とも和解したいよ」


 半泣きになりながら、お腹を撫でる。


 結局、二波では収まらず、第三波で体内の水分を出し切り、トイレを後にした。


 脱水症状でフラつきながらも、夕食作りの手伝いをしようと調理場へ歩く。


「ちょっと‼ 大丈夫⁉」


 調理場へ入った途端によろめいた私を、森山さんが抱きとめた。


「すみません。出せるものは全部出しちゃったので、干からびちゃいまして……」


 頭をポリポリ掻きながら「えへへ」と笑う。


 排便をすることは、生物として当たり前の行為なのに、何故か恥ずかしいものと思われがちで、特に女子なんかは、ウンコだと思われたくなくてあまりトイレに長居をしなかったりする中、ウンコをしてきたことがバレバレの私は、もう変な薄ら笑いでもするしかない。


「胃薬飲む? 下痢止めの方がいい?」


 美知さんが「栄養管理室の薬箱に多分どっちもあるから、取ってくるよ」と言ってくれたが、


「イヤ……。水飲んだら、絶対また下る」


 私のお腹は薬さえも受け付けない、最悪なコンディションになっていた。


「……なぁ、食中毒じゃないか……? 一大事だぞ」


 お腹を壊して顔面蒼白な私とは違った意味で、林田さんの顔が青ざめていた。


「だから、違いますって。私も食べましたけど、何ともないですし。林田さん、奈々未がトイレに行った後からずっとこの調子なのよ」


 美知さんが「林田さんは思い込んだら周りの声が聞こえなくなるからねー」と眉を八の字にして困り顔を作ると、


「私も食べたけど、全然平気。林田さん、『ファミリーキッチンのアイス、全部下げるぞ‼』って大騒ぎよ。午前中、患者さんと職員の何人かは既に食べちゃってるし、誰も何の異常もないから大丈夫って言ってるのに、聞かないのよねー」


 森山さんが美知さんに「ねー」と言いながら深めの相槌をした。


「時間が経ってから体調崩す人だっているだろうよ。そんなの、個人差があるに決まってるじゃねぇか‼」


 ファミリーキッチンのアイスを片付けようとしている林田さんは、当然夕食作りを始める気はなく、見る限り作業が滞っていた。これはマズイ。


「変な優しさなんか出さなきゃ良かった。チョコバナナアイスなんか作らなきゃ良かったわ」


 食中毒だと思い込んだ林田さんは、終いに私への親切を後悔し始めた。


「私への心遣いを後悔されたら、二次災害で私まで傷つくでしょうが‼ ただでさえ傷心でお腹もぶっ壊れてるのに、傷口に塩を塗り込むようなことを言わないでくださいよ‼」 


【傷つく】などと言っておきながら、落ち込むどころかブチ切れ、ヨロヨロと歩きながら林田さんに近づく。


 今日は泣いたり怒ったり、本当に忙しい日だ。


「林田さん、調理器具の洗浄・消毒はバッチリですよね?」


 そして、林田さんに質問攻めを開始。


「当たり前だろ‼」


「原材料は全て加熱処理されてますよね⁉」


「当然‼」


「卵は? 生卵使いました?」


「アレルギーの人も食べれるように、全部のアイスに卵は使ってない‼」


「アイスは何度で保存してました?」


「いつもちゃんとマイナス十八度以下で冷凍保存してるわ‼ 基本だろうが‼」


「それなら、菌の繁殖は有り得ない。仮に私が食中毒を起こしていたとしても、アイスが原因じゃない。私がここで食べたものはアイスのみ。だから、腹痛の原因が食べ物だとしたら、ここにくるまでに食べた何か」


 人差し指を立てながら、アイスは安全であることを林田さんに懇々と説明する。


「お前、朝何食って来たんだよ」


 林田さんが『アイスじゃないなら、何が原因なんだ』とばかりに、私の食生活を探る。


「朝ですか? 朝は……」


 黒目を左上に向けて朝食を思い出す。


「あ、四枚切りの食パンを二枚食べました。一枚はチーズたっぷりのピザトーストにして、もう一枚はバターを塗ってその上に砂糖を塗しました」


 そう、私は朝までは食欲旺盛だったのだ。


「え? 朝から⁉」


 私がペロリと平らげた朝食に、美知さんドン引き。


「四枚切りって、一枚が相当分厚いわよね。それを二枚……。しかも、ピザトーストとシュガーバター……」


 森山さんは、自分が食べたわけでもないのに「何か胃がムカムカする」と鳩尾の辺りを摩り、


「ただの食いすぎじゃねぇか。人騒がせな女だな‼ 一応管理栄養士の端くれだろうが。もう少し考えて食え」


 林田さんは、呆れながら「チッ」と舌打ちをした。


 隼人と別れてしまい、あんなに泣いたのに、何でこんなに食っているんだと、自分でもどうかと思ったさ。でも、悲しみと同時に襲ってきた怒りが食欲を増進させたんだもん。


「いいじゃん、別に‼ それに、管理栄養士の端くれじゃありませんー‼ ど真ん中ですー‼」


 フンッ‼ と鼻息を撒き散らすと、


「【管理栄養士の頂点】とか言わないあたり、何気に謙虚よね」


「奈々未が管理栄養士のトップに君臨してたら、世も末ですよ」


 私の傍で、森山さんと美知さんが笑った。


「あー‼ 馬鹿にしてるー‼」


 今度は森山さんと美知さんに怒りの鼻息を吹きかけようとした瞬間、何故か膝の力が抜け、床にへたりこんでしまった。立とうとしても、足に力が入らず、なかなか立ち上がれない。


「ちょっとちょっと‼ これはただの食べすぎじゃないわよ。様子がおかしいもの」


 私の右腕を自分の肩に回して、私の身体を支えてくれた森山さんが、


「……ん?」


 眉を顰めて美知さんの顔を見た。


「奈々未ちゃん、熱あるわよ。奈々未ちゃんの身体、熱いもん」


「え? ちょっとおでこ触るよ」


 森山さんと顔を見合わせた美知さんが、私の額に手を当てた。


「あー、あるね。体温計で測らなくても分かるわ。かなり高い。奈々未、帰りな」


 美知さんが私の左腕を持ち上げ、森山さんと一緒に私の身体を起こした。


「大丈夫ですって‼」


 長時間トイレに籠った挙句に帰るのは気が引ける。「私はやれる‼」と、帰宅を拒否すると、


「さっさと帰れよ。風邪引いてるんだろ? シャキっと立てない奴なんか足手まといなだけだろうが。しかも、ここは少人数の職場だぞ。お前に風邪菌ばら撒かれて、全員に移されたら迷惑極まりないんだよ」


 林田さんに冷たく退場を命じられた。


「……酷い」


 頑張って働きますって言っている私に、なんて酷い言い方なんだと、林田さんを睨むと、


「【体調を押して働く健気な私】なんて美学は、とうの昔に滅びてるのよ。【体調の悪い自分に気を遣わせないように帰りまーす】が、現代の常識よ」


 森山さんが「奈々未ちゃん、ちょっと古いわよ」と、私を宥めた。イヤ、小馬鹿にされたのか?


「現代の常識、ドライすぎる。人間味という味付けはどこに消えてしまったの……」


 イイ子ちゃんアピールの失敗に打ち拉がれている私に、


「グダグダ言ってないで、荷物を纏めて早く帰れ」


 林田さんからの撤退命令が再度飛ぶ。


「何、その退去勧告みたいな言い方―‼」


 ひとりで立っていられないくせに、林田さんに刃向うと、


「奈々未、ハウス」


 美知さんには、美知さんの愛犬の豆太と同じ接し方をされ、


「お元気で」


 森山さんには、今生の別れかのような挨拶をされた。


「帰ればいいんでしょ⁉ 帰れば‼ 帰りますよ、もう‼」


 三人の雑な扱いに、ほっぺたをパンパンに膨らませた。


 本当はプンスカプンスカしながら、乱暴な歩き方でもして『怒ってますよ、私は』オーラを発しながら帰りたいところだが、如何せん身体は怠いのに足はフワフワして踏ん張りが利かないよく分からないコンディションの為、壁に寄り掛かり、手すりを頼りに更衣室へとヨボヨボ歩く。


 私服に着替え、電車で帰る……気力がなくて、


「リッチにタクシー呼んじゃうか」


 スマホを手に取り、アプリでタクシーを手配。


「……何がリッチだよ。痛い出費なだけじゃんか」


 更衣室の椅子に、足を投げ出しながらだらしなく座り、タクシーの到着を待つ。


 お腹の痛みが落ち着き、誰もいない静かな部屋にいると、


「……楠木さん……」


 途轍もない悲しみが呼び起されて涙が溢れる。


 体調不良でも帰りたくなかったのは、イイ子ちゃんアピールがしたかっただけじゃない。ひとりでは、このどうしよもない悲しみを、どうしたら良いのか分からないからだ。誰かと一緒に居たかった。ひとりになりたくなかった。


 涙も乾かぬうちに、タクシーの到着時刻になり、ティッシュで豪快に鼻をかんで、俯きながらホスピスを出た。


 タクシーに乗り込み、運転手さんに自宅の住所を告げると、そっと目を閉じた。


 目を開けていることすらしんどいのもそうだけど、目を瞑っていれば涙も流れにくいから。……が、


「……イテテテテテテ」


 再びやってきた腹痛に、目をかっ開く。あまりにも痛い。誰かに腸を鷲掴みされて、捻じり絞られているかのような痛み。さっき全部出しちゃったから、もう出せるものなど何もないはずなのに、何かを排泄しようとする自分の身体に『ダメ‼ ここ、タクシーの中‼』と心の中で抗ってみるが、全然言うことを聞いてくれる気配がない。


 無理だ。ウチまで持たない。というか、お医者さんに診てもらわないと治る気がしない。


「……運転手さん、すみません。行き先変更してください。ここから一番近い内科のクリニックに行ってください」


 座っていることが儘ならなくなり、シートに横たわる。


「お客さん‼ 大丈夫⁉ すぐそこに内科があるけど、救急病院じゃなくていいの⁉」


 バックミラーで私の様子を確認し、慌てる運転手さん。


「すぐそこの内科に行ってください‼ 早く‼」


 安全第一のドライバーさんに『急げ‼』などと言ってはいけないと分かってはいるが、私は今、一刻の猶予もない緊急事態。今にもケツの穴が爆発しそうなのである。


「お客さん、着いたよ‼ 中までお連れしますよ」


 一分もしないうちに内科クリニックに到着。


「大丈夫です。ひとりで行けます。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」


 全く大丈夫ではないが、私の腹の痛みは陣痛ではない。可愛い赤ちゃんが生まれてくるわけではなく、出てくるとしたら最早固形ではない水っぽくて茶色い液体が、別の穴から勢いよく噴射されるだけだ。そんな私を『中まで連れてってください』とは、さすがに言いづらい。


 スマホで電子決済をして、タクシーを降りる。一瞬でお会計が出来る電子決済の有り難さに今更ながら感謝。開発した人、誰か分かりませんが、本当にありがとうございます。


お腹を抱えながら、いざクリニックの中へ。フラフラだったはずなのに、漏らしかけると途端に足に力が入る人体の不思議。しかし、


「……お腹、千切れる……」


 一歩入口に入った途端に、無事にクリニックに辿り着けた安堵からか、また身体中の力が抜けて倒れ込んでしまった。


「大丈夫ですか⁉」


 受付にいた女の子が駆け寄ってきた。


「……あ、あの……」


 鞄の中に右手を突っ込み、ガサゴソと粗雑に掻きまわしてカードケースを探し当てると、


「ほ……保険証です。初診です。……トイレはどこでしょうか? 自分の番がくるまでトイレにいても良いですか……?」


 お腹もケツの穴も切羽詰っているというのに、一目散にトイレに行ったがばっかりに、診察の順番が後回しになってしまうのが嫌ながめつい私は、意地で保険証を取り出し、受付の子に渡した。


「分かりました。トイレ、ご案内しますね」


 受付の子がそっと私の身体を支えてくれたので、


「ご迷惑を掛けてしまってすみません。ありがとうございます」


 受付の子に凭れ掛りながら、ゆっくり立ち上がる。


「気にしないでください」


 優しく微笑む受付の子が天使に見えた。そんな天使が連れて行ってくれる場所は、天国でも楽園でもなく、トイレなのだが。まぁ、私が「トイレに行きたい」と言ったわけだから、当然なのだが。天使に会えても依然お腹は痛いままだし。


 トイレに案内され、個室のドアを閉めると、


「何かありましたら、右側の壁にある呼び出しボタンを押してくださいね」


 ドアの向こうから天使が声を掛けた。


「はい。お手数をお掛けしました」


 天使に返事をして、便器に跨り蹲る。


「……天使かぁ」


 フランダースの犬みたいに、楠木さんにも天使のお迎えが来たのだろうか。楠木さんはもう、神様に会えただろうか。お母さんとも再会出来ただろうか。


「……ふぇ……」


 ひとりになると、やっぱり泣いてしまう。


 こんなにも悲しいのに、尋常じゃなくお腹も痛い。私にはもう、泣かない理由がない。


 お腹に手を当てながら、さめざめと泣いていると、


「……くっ」


 下っ腹に今日一番の激痛が走った。尋常じゃなく痛い。プリッという乾いたオナラではない、生々しい湿った音の放屁をすると、お尻の穴からなけなしの水分が出た。


「これしか出ないのに、何でこんなに痛いのさ……。しかも、出しても痛いやん」


 何をしても収まらない痛みに、トイレの中でひとり悶える。


 どのくらいそうしていたか分からないが、同じ態勢のまま便器に座ってお腹を抱えていると、痛みが少しだけ落ち着いてきた。


 よし、トイレから出られるぞ。待合室に行こう。


 気力を振り絞り、便器から腰を上げ、手を洗ってヨタヨタと待合室まで歩き、壁側のソファに雪崩れ込むように座ると、背もたれに身体を預けた。大変申し訳ないが、行儀良く座っていられる体力など残っていない。


 熱があるからなのか呼吸がし辛くて、「はぁはぁ」と肩で少し荒めの呼吸をしていると、


「順番が来るまで、ベッドで寝ていてください。お辛そうなので」


 心配そうな顔をした看護師さんが寄ってきた。


 ベッドで待ってていいの⁉ 何て有り難い。看護師さんが、神様に見えた。


「歩けますか?」


 と、私の顔を覗き込む看護師さんに、


「はい‼」


 顔が胸にめり込みそうなほど深く頷いた。ベッドで横になれるなら、身体に鞭打ってでも歩く。


 看護師さんに、診察室とカーテンで仕切られた隣の部屋のベッドに案内してもらう。


 ベッドにコロンと横たわると、看護師さんが毛布を掛けてくれた。


やはり、座っているより寝ている方が遥かに楽だ。ベッド、最高。ベッドの素晴らしさを痛感していると、


「体温測りますねー」


 ベッドに連れて来てくれた看護師さんが、非接触の電子体温計を私の額に翳した。


 体温計からピピッという音が鳴って、表示画面を見た看護師さんが、


「四十度二分……。かなり高いですね。寒気はありますか? 毛布、もう一枚お掛けしましょうか?」


 予想以上に高い数字を口にした。私の普段の体温は、三十六度ジャストだ。いつもより四度以上高いなら、具合が悪くて当然だわ。と納得。具体的な数字を言われると、


「……じゃあ、すみませんがもう一枚……」


【四十度二分の私】が頭に刷り込まれてしまい、さっきまで何ともなかった寒気を感じてきてしまう。


 看護師さんに追加の毛布を掛けてもらい、自分の順番が来るまで布団に包まって寝る。


 毛布の暖かさと、クリニックのベッドという、何があっても大丈夫な安心感で、少しウトウトしていると、


「お待たせしましたー。高熱と腹痛ですね?」


 仕切りのカーテンが開き、お医者さんの方からベッドに来てくれた。


 私の体調を配慮してくれたのだろう。お医者さんが、仏に思えた。ここのクリニックはきっと、神様と仏様と天使が運営しているんだと思う。


神様と仏様たちに血液検査と画像検査をしてもらい、


「急性胃腸炎ですね」


 病名が発覚した。……まぁ、そんなことだろうとは察しがついていましたさ。


「……胃腸炎。食中毒ではないですよね?」


 違うとは思いつつ、一応確認する。食中毒だったとしたら、本当に大変なことになる。絶対に林さんが作ったアイスが原因じゃないのに、検査機関が入ってしまうかもしれない。私のせいでとんでもない迷惑が掛かってしまう。ホスピスの信用問題にも係ってくる。


「体内のイオン濃度もちゃんと調べさせてもらったんだけどね、ウイルス性じゃなくて心因性の方だと思うよ。最近、ストレスを感じることが多かったりしませんでした?」


 お医者さんが「もし、眠れなかったり、食欲がなかったり、心が疲れてるなーって感じるようなら、精神科に紹介状を書きますよ。遠慮なく仰ってくださいね」と、私の精神面を気遣ってくれた。


 確かに今、心の状態は良くない。隼人のお母さんが亡くなり、隼人の浮気を目撃し、楠木さんまでいなくなってしまった。このトリプルパンチは、大喰らいで強靭な胃腸を持つ私であっても参ってしまったか……。


「ストレス……。なくはないのですが、精神科はひとまず大丈夫かと思います」


 心も辛い。でも、何より先にお腹の痛みを取って欲しい。胃腸炎が完治しても心の不調が続けば、自発的に精神科に行くので、今日のところはどうにかして腹痛から解放されたい。


「分かりました。では、今から点滴三個しましょうね。倉橋さん、かなり脱水してるので」


 お医者さんは看護師さんに点滴の指示をすると、私に「お大事に」と微笑んで診察室へ戻って行った。


 点滴三個……。五時間コースだな。看護師さんに点滴を刺してもらった後、当然爆睡した。


 点滴が終わり、薬を処方してもらってクリニックを出ると、外は真っ暗になっていた。


 点滴のおかげで脱水症状がなくなったせいなのか、身体の怠さは残れど普通に歩けるようになった。腹痛も今はない。なので、電車で帰宅することに。


 初めて使う駅から電車に乗り、いつもの駅で下車すると、ほぼ毎日通っているスーパーに立ち寄り、水とゼリーとヨーグルトを購入。今は大丈夫だけど、また腹痛にやられるかもしれない恐怖で、ガッツリ系の食べ物を買う勇気が出なかった。


 アパートに着き、自分の部屋に入ると、


「早速シャワー浴びちゃうか」


 一息つくこともせずに、買って来たものを適当に冷蔵庫に突っ込むと、お風呂場へ直行。体調が良いうちにお風呂に入ってしまいたかったからだ。湯船を張って身体を温めた方が良いのは分かっているが、湯船を作るのが面倒で、シャワーで済ますズボラな私。こんなんだから、浮気をされてしまったのだろう。


「イカンイカン‼ ストレス溜めない‼ 考えない‼」


 頭を左右に振って、隼人の顔を脳内から打ち消した。


 サクっとお風呂を済ませ、ドライヤーでワシワシと、丁寧とは程遠いやり方で髪を乾かすと、


「ふぅー」


 自分のベッドにダイブ。もう、私が今日しなければならないことは何もない。


「恋しかったよ、マイ枕」


 愛用の枕に顔を埋める。


「…………うぅ……」


 誰もいない部屋にひとり。腹痛から解放され、心に余裕が出来ると、頭の中は楠木さんでいっぱいになる。


 楠木さんに訊いて欲しいことがたくさんあった。楠木さんの話だっていっぱい聞きたかった。


「……会いたいよー。楠木さん」


 あっという間に枕が涙でびしょびしょになった。


 ケツの穴が水分を出すのをやめたら、今度は目かよ。と、自分でも呆れるが、止まらない。今日はもう、誰とも会う予定がないから、無理に泣き止む必要もないが、点滴中に爆睡してしまったせいで、全く眠くない。私は夜通し泣く羽目になるのだろうか。


「泣きすぎて瞼の皮むけて血が出たら、楠木さんのせいだからな‼」


 悪態をついたところで、当然楠木さんの返事はない。あっても怖い。『幽霊になって出て来ちゃいましたー』と、勝手に私の部屋に上がりこまれても困る。でも、


「何か言ってよ」


 やっぱり楠木さんの声が聞きたい。完全なる矛盾。


 悲しすぎて、辛すぎて、自分の情緒がぐっちゃぐちゃで手に負えず、涙も加速度を増して溢れ出す。


【泣いても仕方がない】とはよく言うが、私からしたら、笑っても怒っても歌っても仕方がないと思っている。だって私は役者でも歌手でも何でもない。私の喜怒哀楽や歌声には価値がない。『でも、あなたの笑顔が周りを笑顔にして、それが連鎖反応を起こしてみんなが笑顔になれるのよ』などと、どこかの良く分からない団体が言いそうだけど、自分の笑顔にそんな力があるなんて、そんなおこがましい考えはない。仕方がないから泣くしかないのだ。


『こうなったら、飽きるか疲れ果てるまで泣いてやろうではないか』と、ベッドから身体を起こし、枕元に箱ティッシュとゴミ箱をセットした。


 涙涸れ果てるまで泣いてやろうではないか。と意気込んでベッドに入り直したとこで、


「……あー、薬飲んでないじゃん」


 早速薬を飲み忘れていることに気が付く間抜けな私。要領の悪い自分に苛立ちながら被っていた毛布を剥がし、もう一度ベッドから起き上がる。


 クローゼットに入れもせず、フローリングに置きっぱなしにしていた通勤鞄を開け、クリニックで処方された薬の袋を手に取った。(余談ですが、鞄を放置したのは身体の具合が悪いからではなく、いつものことです。どうせ明日も使うのに、片づける意味が分からないのです。『だらしのない女』なんて呼ばないで。時短です。『せめて壁掛けに吊るしとけよ』と言いたいですよね? そんな気の利いたものはウチのアパートにはございませんし、取り付ける予定もありません。なくても不便を感じていないので)


「一日三回、食後……。そう言われましてもねぇ……」


 袋の文字を読みながらため息を吐く。買って来たゼリーもヨーグルトも、今はまだ食べる気になれない。普段、食欲のない患者さんにのうのうと『一口で良いから食べましょうよ。元気でませんよ』などとほざいていた自分をぶん殴りたい。食えんものは、食えんのだ。


 日頃の自分を大いに反省していると、鞄の中からスマホが震える音がした。


「誰だろ?」


 鞄からスマホを取り出し、画面を確認して通話ボタンをタップ。


「お疲れさまです、美知さん」


『お疲れー。やっと出た』


 電話の向こうの美知さんに、『やっと?』と首を傾げながら、耳からスマホを外して着信履歴を確認。美知さんからの着信履歴が五件あった。


「すみませーん。内科で点滴三本打ってて気づきませんでしたー」


『大丈夫なの⁉』


 点滴の量に驚く美知さん。


「大丈夫です大丈夫です。脱水症状が酷かっただけなので。胃腸炎でした」


『そっか。具合はどう? 良くなった?』


「はい。今は腹痛も熱もありません。明日は出勤出来そうです」


『イヤ、休みなさい。しっかり治してから出勤しな。そうじゃないと、他の人が体調不良の時に休み辛くなるでしょ? 『この程度じゃ休めない』って無理させちゃう』


「そんな気を遣いますかね? あの林田さんが」


『林田さんじゃなくて、森山さん』


「あぁ、そっか」


 美知さんとの会話で「フフッ」と笑いが漏れた。


 あれ? 笑ったのいつぶりだ? 最近、笑ってなかった気がする。


「……美知さーん。今日、ウチに泊まりにきませんか?」


 悲しくて辛くて寂しくて、ひとりでいたくなくて。美知さんがそばに居てくれたらなと思った。病人だし、甘えてもいいだろうと思った。


『無理』


 なのに、あっさり振られた。


「病人のお願い事ですよ⁉ 聞いてくれてもいいじゃーん‼」


『だって奈々未、今日も明日もいないから、奈々未の分も仕事しなきゃでしょ。言っとくけど、今私、残業中だからね』


「やっぱり私、明日出勤しますよ」


 暗に『お前のせいで残業じゃ‼』と言われたら、休んでなどいられない。


『来るなっつーの。今回は私が奈々未のカバーをする。だから、私が体調崩した時は助けてね』


 美知さんは、私に嫌味で『残業中』と言ったわけではなかったらしい。


「もちろんですよー」


 持ちつ持たれつってことか。と納得し、明日は休むことにした。


『で、本題なんだけどね』


「あ、私の体調確認はただの前置きだったんですね」


 私の身体を気にかけて電話をくれたのかと思いきや、美知さんの用件は別にあったらしい。


『そんなことないよ。サブ本題』


「それ、本題とは言わない」


『具合悪くて心細いからって、無駄話で話を長引かせないでくれるかな。私、残業中って言ったでしょ。仕事中‼』


 来てもらえないなら、ちょっとでも長く電話をしていたいなどという下心を、美知さんはあっさり見透かした。というか、単に私が邪魔だったのだろう。そりゃそうだ。残業なんかさっさと片付けて帰りたいに決まっている。


「ごめんなさーい。で、本題とは?」


『今日ね、奈々未が帰った後に楠木さんの親戚の方がいらしたのよ。楠木さん、奈々未に手紙を残してくれててね、それを持って来て下さったの』


「行きます‼ やっぱり明日、出社します‼ ていうか、今から行きます‼」


 亡くなってしまった友だちの、顔は見れずとも声は聞けずとも、文字に触れられるなんて‼ と、感激のあまり居ても立ってもいられない。


 スッピンだけど、まぁいいか。マスクしてしまえばいい。そもそも私の顔など誰も興味ないだろう。着替えは……しなきゃだよな。さすがにスウェットはないわな。と、スマホを頬と肩で挟みながら、まずズボンを脱ぎ捨てていると、


『だから、来るなって言ってるでしょうが。来たところでもうここにはない』


「え⁉ どうして⁉ まさか、捨てたりしてないですよね⁉」


 パンツ一丁で美知さんにキレる。


『アンタ、私をどんなサイコパスだと思ってるのよ。捨てるわけないでしょうが。奈々未のことだから一秒でも早く読みたがるだろうなと思って、隼人に持って行くように頼んだ。三十分くらい前に受け取りに来てくれたから、もうそろそろ奈々未の家に着くんじゃない?』


 美知さんに、いらいない気を遣わせてしまった。


 美知さんから隼人を紹介してもらった分際で、しっかり報告しなかった自分が悪い。


「……申し訳ないんですけど、ホスピスに引き返すように隼人に言ってもらえませんか?」


『はぁ⁉ なんで⁉』


「楠木さんのことで頭がいっぱいでお話しするのを忘れてたんですけど……。実は、隼人と別れまして……。紹介してもらっておいて、本当にすみません」


 パンイチで、電話なのに頭を下げながら懺悔する私は、とんだ変態なんだと思う。そりゃあ、隼人だって元カノに靡くわ。


『え? 隼人、そんなこと言ってなかったけど。『ケンカした。どうしたら許してもらえるかな』って落ち込んでたけど』


「えぇ⁉」


 美知さんの話に目が点になった。


 あの時の会話を、別れ話ではなくケンカと捉える隼人もまた、どこかおかしい。


『そんなことより……』


「そんなことじゃないですよ‼ 困りますよ‼ 隼人に会いたくない‼」


『まぁまぁ……』


「まぁまぁじゃなーい‼」


『奈々未‼ 私、仕事中だって言ってるでしょ‼ 話の腰を折るな‼』


 いつまでも駄々をこねる私を、美知さんが母親のようにピシャリと叱った。


 反射的に『楠木さんが亡くなって悲しいうえに体調不良の時に隼人になんか会ったら、余計に具合悪くなるわ‼』と口を衝きそうになったが、それはさすがに言い過ぎだわ。と、出そうになった言葉を丸飲みして、


「……ごめんなさい」


 代わりに謝罪を吐き出す。正直、美知さんの仕事の手を止めてしまってしることは申し訳ないと思っているが、【隼人に会いたくない】という抗議に対しては反省をしていない為、半分くらい心がこもっていない。そんな私に、


『実はね、私もごめんなさいなんだ』


 美知さんが、しっかり申し訳なさを沁みこませたお詫びを返してきた。


「うん?」


 美知さんに、謝られなきゃいけないことも、謝ってほしいこともない為、首を右にも左にも捻る。


『お預かりした楠木さんの手紙なんだけどね、封がしてなかったから読んじゃったんだ。奈々未に断りもなく、奈々未より先に読むなんて酷いよね。悪気はなかったんだ。ゴメン』


「悪気はなくとも興味はあったんですよね」


 美知さんの詫び言の内容に、『なんだそんなことか』と笑ってしまった。


『言い方がムカつくなぁ。まぁ、そうなんだけどさ』


 テレビ電話ではないから、美知さんの表情は分からないけれど、美知さんが鼻の穴を膨らませてむくれている姿が想像出来て、また笑ってしまう。


「別にいいですよ。楠木さんだって、見られても構わないと思ったから封をしなかったんだろうし。ていうか、読んだか読んでないかなんか言わなきゃ分かんないのに、正直者だなぁ、美知さんは」


『そうなんだよねー』


 完全同意の美知さんの相槌に、


「『そんなことないよー。別に正直者なんかじゃないよー』っていう謙遜はしないんですね」


 すかさずツッコむ。


『そうじゃなくて、私も楠木さんは、私みたいな人間にも読んでもらいたくてわざと封をしなかったんじゃないかなと思って』


「手紙、何て書かれてたんですか?」


 美知さんの意味深な言葉が気になる。


『私の口から聞くより、楠木さんの文字を見た方がいいでしょうよ。てか、隼人まだ? 遅くない?』


「来なくていいよ‼」


『楠木さんの手紙、いらないの?』


「いるよ‼ いるけどさ‼」


 自分の言っていることが矛盾していることなど分かっている。でも、どうにもこうにも隼人に会いたくない。


『手紙の内容は、自分の目で確認しな。私が言いたいのは、【私のやり方を奈々未に押し付ける気はない。奈々未のやり方を応援する。今までは、奈々未の心が壊れない働き方をするのが良いに違いないと思ってたけど、決めつけは良くないね。奈々未はそうは思ってなくて、患者さんも奈々未のやり方を喜んでいるなら、私の口出しは余計なお世話だったなって思う。もしそれで奈々未が苦しくなったとしたら、周りが支えればいい話だもんね】ってこと。以上です』


 美知さんが『用は済んだから切るね』と言った時、玄関のベルが鳴った。


『あ、やっと隼人が到着したね』


 ベルの音は、電話を筒抜けて美知さんの耳にも入ったらしい。が、


「してませんよ」


 おとぼけをかましてみる。しかし、玄関の向こうではなかなか出てこない私に向かって、再度隼人がベルを押す。


『してるじゃん。ベル鳴ってるじゃん』


「してない、してない。聞こえない」


 もう一度すっとぼけた直後、隼人がまたベルを鳴らした。


「……チッ」


 思わず林田さんバリの舌打ちをしてしまう。


『オイ』


 それが美知さんの気分を害してしまう。


「ごめんなさい。美知さんに向けてしたわけじゃなくて……」


『分かってるよ。もういい加減出なさいよ。出なかったら絶交だからね‼』


 病人の私に『お大事にー』の言葉もなく、美知さんが電話を切った。


「絶交て……。小学生かよ」


 どこの誰にも繋がっていないスマホに、とりあえずのツッコミを入れ、


「……美知さんからの預かりものを持って来てくれたんだよね。ありがとう」


 渋々嫌々仕方なくインターホンに出る。


「あ、良かった‼ なかなか出ないから部屋で倒れてるのかと思って、今アパートの管理会社に電話しなきゃって番号調べてた」


 インターホンに映る、スマホを握りしめた隼人の姿に、『危なっ‼ 居留守を貫いてたら大事になるところだった‼』と顔の全筋肉がヒクヒクと引き攣った。どのみち私は、逃げ切ることなど出来なかったらしい。


「美知さんから預かった手紙、郵便受けに入れといてもらえるかな?」


 往生際の悪い私は、どうしても玄関のドアを開けたくない。


「美知から、奈々未の具合が良くないって聞いて、フルーツとかお茶とかアイスとかプリンとか、めっちゃ買って来たんだ。玄関開けて」


 隼人がインターホンのカメラに向けて『ホラ‼』と両手に持っているパンパンの買い物袋を見せた。


「私、胃腸炎なんだよ。私は食べられないから、ごめんだけど持ち帰って隼人が食べな」


「今すぐ食べなくてもいいじゃん。すぐに腐るわけじゃないんだから、冷蔵庫に入れておいて具合が良くなった時に食べなよ。てか、玄関開けてって。アイス、冷凍庫に入れてあげないとヤバイ」


 隼人が袋の中を覗き込み、アイスを気に掛けながら「早く開けてよー」と私を急かした。


『ちょっとは私の気持ちを察してくれよ』とげんなりしながらドアの鍵に手を伸ばし、ふと思った。


 わざとじゃないか? いつも通りの振る舞いをしながら、過去二回の彼女との抱擁をなかったことにする気じゃないか? ノーカウントになんかなるわけないだろ‼ させるかボケ‼


 さっきまで、隼人に会いたくない。話しても無駄だと諦めていたが、怒り再燃。ガッツリ顔合わせてこっぴどく叱りつけてやろう。


素早く開錠し、勢いよく玄関の鍵を開けた。


「遅いよー」


 可愛い顔で唇を尖らせながら「もう」と怒ってみせる隼人が経っていた。


 いつもなら『いい大人が可愛い顔なんか作ちゃって』と笑いながら迎え入れていただろう。が、今日は『何が、『もう』だよ』としか思わない。


「買い物、ありがとう」


 隼人が持っている買い物袋を受け取ろうすると、


「病人は重たいものなんか持たなくていいの。お邪魔しまーす」


 隼人は私の横をスルリと通り抜け、まるで自分の家かのように慣れた足取りでキッチンへ行くと、冷蔵庫を開けて買って来たものを詰め込み始めた。


 下ろせばいいのに、通勤用のリュックを背負ったまま作業をする隼人は、よっぽど溶けかかっていたアイスが気になっていたらしい。


 まるで図書館の本棚ように、冷蔵庫に綺麗に食べ物を収納する隼人の背中を感心しながら眺めていると、


「……ごめんね、奈々未。胃腸炎って、ストレスなんじゃないの? 俺のせいだよね」


 冷蔵庫の中を整理整頓し終わった隼人が、くるりと振り返った。


「イヤ、違う」


「え、違うの⁉」


「うん。違う」


 そりゃあ、隼人のしでかしたことはショックではあったけど、楠木さんが亡くなってしまった悲しみに比べたら米粒みたいなものだ。


「何でだよー。何でノーダメージなんだよー。俺なんか授業してても給食食っててもずっと気にしてたのにー‼」


 あたかも、私の胃腸炎の原因が自分だったら良かったとでも言いたげな隼人の口ぶりに呆気に取られた。


「大人なんだから、しっかり気持ち切り替えて授業しなさいよ。生徒たちに失礼でしょうが」


 と、自分だって楠木さんのことをずっと引きずって仕事をしていたくせに、偉そうに言ってみる。


「切り替えなくても仕事出来るもん。大人だから‼」


 腰に手を当て、フンッと鼻から息を吐く子どもっぽい隼人。


 こういうところが生徒から好かれるんだろうなと思う。


「そんなことより、美知さんから預かった手紙ちょうだい」


 右手を突き出し『早くくれ』と手紙をせびる。


 隼人と話をすることよりも、楠木さんからの手紙を読むことの方が遥かに大事だ。


「あ、うん」


 ようやく背中からリュックを外した隼人が、中からバインダーを取出し、そこに挟んであった楠木さんの手紙を私の手の上に置いた。


 大事な大事な手紙だから、折り目や皺が付かないように大切に扱ってくれた隼人に、戦闘態勢だった心が少し治まった。


 少しドキドキしながら、楠木さんの手紙をゆっくり開く。


【この手紙がななみんの手に渡っている頃には、私はもうこの世にはいないのでしょうね。っていう、映画とかドラマでよく見るヤツ、私もやってみたかったから書いてみた】という冒頭の文章に、


「さすが、楠木さん」


 私のツボを見事に押えてくる楠木さんに、感服しながら吹いた。


【私、家族はもうみんな死んじゃってるし、楽しそうに生きてるキラキラした友だちの姿を見たくなくて、自分がホスピスに入院してることを親戚以外には言ってなかった。もう少しでどうせ死ぬし、どうでもいいやって思ってた。寂しさはね、そんなに感じなかった。この歳で家族全員失ってる人ってそんなにいないから、他の人より寂しさには耐性あるのかもね。でも、つまんなかった。面白い本を読んでも、共有することも共感してくれる人もいなかったから。私と年齢が近そうな看護師さんと仲良くなってみようと思ったこともあったけど、ななみんみたいにフランクな感じじゃなかったから、ダメだった。人見知りをしないタイプのななみんを『馴れ馴れしいな』と感じる人もいると思うけど、私は大好きだよ。私を『友だち』って言ってくれたこと、本当に嬉しかった。ななみんとのお喋りが楽しすぎて、どうせ死ぬのが嫌で嫌で、辛くて寂しくて仕方がない。私がこんなに悲しいのなら、ななみんは私が死んだ後に辛い思いをするかもしれない。してるよね? え? してない? しなさいよ‼ きっとしているはずだという体で話を続けます。私と友だちになんてならなければ、そんな思いをしなくて済んだかと思うと、申し訳なさでいっぱいになる。ごめんね。本当にごめん。だからね、お詫びに私がななみんの幸せを確保してあげる。ななみんが幸せになるために自分で出来ることなんて、神社で拝むことくらいでしょ? 私、死んだら神様に会いに行けるから、ななみんの幸せを直談判してあげるよ。だから、幸せになってね。ずっと幸せでいるんだぞ‼ 追伸、ななみんは私の好物が【お母さんのハンバーグ】の一択だと思っているみたいだけど、もう一個あるんだよね。私のもう一つの好物は【ななみんが作る、お母さんのハンバーグ】です。美味しかったよ。ありがとう。人生最後にななみんに会えて良かった】


「ちゃんと直談判してくれたのかよぉ……」


 読み出しでは笑っていたくせに、読み終わる頃には泣いてしまった。


 私は今、楠木さんがいなくなってしまって途方もない悲しみに暮れているし、幸せでも全然ない。


 手紙に涙を落としてしまわぬように、しきりに手の甲で涙を拭う私の頭を撫でようとした隼人が、私の髪に触れそうになった瞬間に手を止めて引っ込めるのが見えた。


隼人と元カノの逢瀬を目撃した日に、私が『触らないで』と激怒したことを思い出したのだろう。キョロキョロと部屋の周りを見渡し、私がさっきベッドの枕元に移動させた箱ティッシュを見つけた隼人が、


「大丈夫?」


 私にティッシュを箱ごと差し出した。


 箱から大量にティッシュを抜き取り、目ではなく鼻に押し当て、豪快に洟をかむ恥じらいの無い私。隼人の元カノは、こんなことしないのかもしれない。隼人の前で、ずっと可愛いままでいるのかもしれない。私の努力が足りないのかもしれない。だとしたら、やっぱり隼人の浮気は責められないのかもしれない。……でも、私の部屋は1DKなのに、どこでかめと? いちいちトイレに行けと? ていうか、人目を忍んで洟をかまなくてはいけないような努力を強いられるお付き合いって、楽しいか? 


 良く知りもしない隼人の元カノと自分を比較して、自分のダメなところを再確認しつつも、自分の悪いところも容認してくれる浮気をしない彼氏じゃなきゃ嫌だという我儘な私は『私、本当に幸せになれるの? 楠木さーん‼』と、最早声にも出さずに念力で天界との疎通を試みるが、当然返事はない。返事がないからまた泣いてしまう。


「手紙、そんなに辛いことが書いてあったの? それともお腹痛い?」


 隼人が、泣き続ける私の顔を覗き込んだ。


「……読んでないの?」


「勝手に他人の手紙を読むわけないじゃん。犯罪だよ」


 浮気はするが、こういうところは律儀な隼人。


「美知さんは読んだってよ」


「今の、美知には言わないで」


「黙っていられたらね。私、お喋りだから」


「知ってる。怒られたら謝るから、黙ってて欲しいけど言ってもいいよ」


 私の性格を良く知っている隼人が「ふふ」と小さな息を吐いて笑った。


「読んでみる?」


「いいの?」


「うん」


 隼人に楠木さんの手紙を渡すと、隼人がそっとそれを開き、黒目で文字を追い出した。


「……この手紙の患者さんって、奈々未がハンバーグの味を探してた、その人?」


「うん。隼人がハンバーグの味を探し当ててくれたんだもんね。ありがとう」


 隼人が見つけてくれたハンバーグの味なのに、今までちゃんとお礼を言ってなかった。


 隼人がいなかったらきっと、楠木さんにお母さんのハンバーグを食べてもらうことは出来なかっただろう。楠木さんとあんなに仲良くなれなかったかもしれないのに。


「俺だけじゃないでしょ。奈々未も一緒に探したじゃん。……亡くなっちゃったんだね」


「うん。昨日の深夜に。……最後、会えなかった」


 楠木さんに会いたい悲しみが、大粒の涙になって溢れ出す。


「【ななみん】って呼ばれてたんだね。自分の彼女が患者さんからこんなにも好かれてたと思うと、なんか嬉しい」


 私の大泣きの最中に、間抜けなことをぬかす隼人に、大粒だった涙も小粒になる。


「元・彼女」


「それは亜子」


「亜子さんは前々彼女でしょ」


「俺、亜子と奈々未の間に付き合った人いないけど」


「わざとふざけてるよね。アナタの目の前にいるのは、元彼女の倉橋奈々未さん、二十六歳です。こんにちは」


 そっちがそういうスタンスくるのなら。と、ふざけ返す。


「……そんなに俺と別れたい? 亜子と抱き合っていたのは確かに俺が悪いけど、別れなきゃいけないほどの悪事だった?」


 今度は隼人が目に涙を浮かべた。


「……一回じっくり話合おうか。ソファ座って。お茶淹れてくる」


 そんなに悪いことをしたと思っていない隼人との話し合いは長時間になるだろうと、お湯を沸かしにキッチンへ行こうとすると、


「自分でやる。奈々未はベッドで寝てて。何飲みたい?」


 隼人が私を追い越してポットを手に取り、水を汲んだ。


「私はいらない。水分取るとビッチビチに下しちゃって話し合いどころじゃなくなるから」


「でも、水分たくさん取った方がいいんじゃないの?」


「まぁ、そうだけど。クリニックで点滴三本打ってから帰ってきたから、まだ大丈夫。ウチラのこの状態を長引かせる方が良くない」


「そんなに⁉ ……じゃあ、ちょっと待ってて」


 点滴の数を聞いた隼人が「重症じゃん」と驚きながら、マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れた。


『ベッドで寝てて』と言われたが、うっかり寝落ちしたら最悪だと思い、ソファでお湯が沸くのを待つ。しばらくすると、隼人がマグカップを二つ持って戻ってきた。


「いらないって言ったのに」


「話してる最中に飲みたくなるかもしれないでしょ? 飲みたくなかったら飲まなくていいよ。俺だけ飲んで女性に飲み物なしっていうのは、何かちょっとねぇ……。野郎だったら別にどうでもいいけど。あ、奈々未はココアにしておいたよ」


 私の前にココアを置き、自分には『どんだけ粉入れたんだよ』くらい真っ黒なブラックコーヒーを用意して、私の隣に座る隼人。


「今の言い方はLGBTQとかの団体が黙っておかない案件だよ」


「生きづらい世の中になったねぇ。ただのレディーファースト精神なだけなのに。だったらレディーファーストって言葉自体をこの世から抹消して欲しいわ」


 渋い顔をした隼人が、コーヒーを一口啜り、更に険しい表情をした。やっぱりコーヒーが濃すぎたらしい。


「……隼人はさぁ、元カノと会うことは別に悪いことだとは思ってないんだよね? それを咎める私の心の狭さの方がどうかしてると思ってるんだよね?」


 無駄話をそこそこに、話を切り出す。


「別にそんな風には思ってないよ。でも、困ってる人に手を差し伸べるのは当然じゃない? 元カノだから無視しろっていうのは、ちょっと理解出来ない」


 不服そうな顔をしながらまたコーヒーを口に含み「苦ッ」と呟く隼人。あまりにも不味そうに飲むから、


「冷蔵庫に牛乳あるよ。取ってくる」


 飲み易くしてあげようと、ソファから腰を上げると、


「大丈夫。話しようよ」


 隼人が顔を左右に振った。


「……うん」


 上げた腰をまた下ろす。悪びれのない隼人に、『自分の考え方の方がおかしいのか?』と不安になって、牛乳を取りに行きながら頭の中を整理したかったけど、失敗。


「……私も困ってることがあるから元彼に相談しようかな」


 隼人の言っていることは正しいかもしれない。でも、正しいことが相手を不快にしないとは限らない。正しさで勝負が出来ないのなら、私の立場になって考えてもらうしかない。


「俺がいるじゃん」


「亜子さんにはいないの? 今彼氏がいなかったとしても、話を聞いてくれる家族や友だちはひとりもいないの? 隼人じゃなきゃダメだったの?」


「分からないけど、俺だけだったのかもしれないじゃん。だから、俺に頼ってきたのかもしれないじゃん」


「じゃあ、私も相談出来る相手が元彼しかいないから、元彼と連絡取ってみよう。隼人と倫理観が違い過ぎてどうしたらいいか分からないって相談してみる。隼人のことを隼人に相談出来ないし、男の考えていることは男に聞きたいけど、男友達いないから元彼しか頼れないし、いいよね? 具合良くなったら、元彼の家の前で待ち伏せしてみる」


【元彼】といワードを連発しているが、今更会いたいとも思わないし、会う気もない。嘘しか話していないけれど、例え話にフィクションを用いても問題ないでしょうと、堂々とした態度でホラを吹きまくった。


「ダメだよ‼ 奈々未は女の子でしょ‼ 部屋に引きずり込まれたらどうするの⁉」


 私の嘘をアッサリ真に受ける素直な隼人。そういうところを好きになったんだけどなぁ……。


「大丈夫だよ。そんなことするような奴じゃないもん」


「分かんないじゃん‼」


「じゃあ、隼人も亜子さんを引きずり込んでたかも分からないってことだよね? ていうか、部屋に招く気だったんだもんね。外でずっと抱き合ってるわけにもいかないから」


「俺は浮気なんかしないよ‼ 部屋に亜子を入れたとしても、関係を持ったりなんか絶対しない‼ 奈々未を失いたくないもん。そんなに俺は信用ない⁉」


 疑われていることが納得出来ない隼人は、自分を信用してくれない私に苛立ちを見せた。


「抱き合って元カノの髪を撫でる彼氏を信用出来る彼女って、この世に存在するの?」


 間接話法で『信用出来ない』旨を述べると、


「…………」


 隼人は言葉を返してこなかった。だったら、私が喋り続けるほかない。黙っていたら会話にならない。


「……ウチラ、付き合ってもうすぐ三年じゃん? 一緒にいて楽しいし、普通に仲も良かったけど、ラブラブか? って聞かれたら、そういう初々しさとかドキドキはもうないじゃん。そんな時にかつて好きだった女の子が現れた。しかも自分を頼っている。嬉しかったんでしょ? トキめいちゃったんでしょ? 元カノの髪を撫でる隼人のスケベ心が透けて見えて、なんか引いちゃったんだよね。私がどんなに嫌がっても、私の勘違い・私の誤解・ただの嫉妬ってことにして、元カノに会いたがってるのも気持ちが悪いんだよ。私が見たのは二回だけだけど、いつからふたりで会うようになってたの?」


「……四、五回会った。でも、本当に話しただけ」


「……全然気付かなかったなぁ。疚しくないなら言ってくれれば良かったのに」


 たった二回の逢瀬ではないとは予想してたけど、やっぱりそうだったんだと、眼球を涙が覆った。


「奈々未が嫌がると思って……」


「私に言ったら、元カノに会えなくなっちゃうもんね。スケベだなぁ」


 からかいながら嫌味を言って、唇を震わせながら笑った。泣くのは、あまりにも悔しいから。


「……奈々未には敵わないなぁ。全部見透かされてるんだね。普段はおちゃらけてるくせに、こういう時に否定の余地も与えない言い方で詰めるんだもん。本当は鋭いくせに、能天気を振る舞って油断させて……。怖いなぁ」


 苦々しい笑顔を作る隼人。さっきから渋い顔しかしていない。


「振る舞ってるんじゃなくて、能天気に生きていたいだけ」


 だから、こんな面倒な話し合いなど本当はしたくない。


「そうだね。ごめん、嫌味言った。スケベとか言われてカチンと来ちゃって。そう言われても仕方ないのに」


 この『ごめん』で仲直り出来ればいいのに。でも、隼人の『ごめん』は嫌味を言ったことに対しての謝罪であって、浮気についてではない。だから、話は終わらない。


「別にいいよ。私だってずっと嫌味と文句と悪口しか言ってないし」


「確かに。……結構キツイ」


 困った顔で辛そうに「ははは」と笑う隼人。


 お互いが嫌な思いをしている私たちが探るべき道は、仲直りする方法なのか、別れを選ぶべきなのか。


「ヨリを戻したいとかっていう話は出なかったの?」


 隼人の気持ちがどのくらい亜子さんに向いているのかも知りたかったが、亜子さんの思いも知りたい。


「……『やり直せないかな?』って言われた。でもちゃんと断った。俺は奈々未と別れる気ないから。そしたら『付き合ってくれなくていいから、会いたい。話を聞いてくれるだけでいい』って」


 言いにくそうに話す隼人は、【言いにくい】を装っているんだなと思った。眉間には皺を寄せているのに、口元が少し緩んだのが見えたから。


「亜子さんに『会いたい』って言われて嬉しかったんだね。そうだよね。昔の彼女が今も自分に気があるって分かったら、嬉しいよね」


「別にそんなんじゃ……」


 異を唱えようとした隼人が、私の目を見た途端に言葉を消し、


「……どうせお見通しだよね。うん、嬉しかった」


 言い訳するのを諦めた。私の目というのは、そんなにまでも圧があるのだろうか。


「……スケベだねぇ」


「……そうだね。その通りだわ」


 観念した隼人は、嫌がっていた【スケベ】も受け入れる。


「隼人はどうしたい? 私とは別れたくない? 亜子さんとも会い続けたい?」


 反論をしなくなった隼人に、最後の質問を投げかける。


「奈々未と別れたくない。だから亜子とはもう会わない。……だけど亜子、周りに話を聞いてくれる人いるのかな」


 私に別れたくないと縋りながらも元カノの心配をする隼人を、正直者と呼ぶのか。将又、無神経と呼ぶのか。


「そんなに心配なら、亜子さんを選べばいい。私に嫌な思いをさせることより、困ってる亜子さんを助けたい気持ちの方が強いなら、亜子さんの方に行くべきだよ。私と亜子さん、両方欲しいっていうのは、スケベが過ぎる」


 隼人の気持ちを理解は出来ても同意は全く出来ないため、突き放す。


「『スケベが過ぎる』って……。強い言い方するなぁ。どこにもいかないよ。奈々未の傍にいる」


 私の言い方に不満げな隼人だが、


「そっちこそ『どこにもいかないよ』なんて、あたかも私の方が縋り付てるみたいな言い方してさ」


 言い方に不満があるのはお互い様だ。


「……あのさ。確認なんだけど、元カノじゃなくてただの女友だちの相談に乗るのもダメ?」


 この期に及んでまだそんなことを言っている隼人。


「美知さんだったらいいよ。他は無理。だって、隼人の女友だちのことなんて聞いたことないから、相手が隼人をどう思ってるかなんか分からない。友だち以上の感情があるかもしれない。隼人だって、スケベ心を持った過去がある女の子かも分からない。私には『アイツは友だちだけど、イイなって思ってた時期がありました』なんて正直に言わないでしょ? どうせ」


「スケベスケベって言わないでよ。聞いた俺が間違ってた。ていうか、美知が俺に相談を持ち掛けることなんかまずないよ。今日、絶交されたし」


 肩を落としてコーヒーカップを見つめる隼人。美知さんとまで拗れていたとは……。


「美知さんと何かあったの?」


「その手紙を預かりにホスピスに行った時、亜子といるところをまた奈々未に見られて怒らせてしまったって話をしたら、『またかよ。一回目は隼人の肩を持ってやったけど、二回目はナシ。有り得ない。奈々未を傷つけるような男とは絶交』って言われた」


 隼人の口から伝い聞く美知さんの男前発言に、


「美知さーん‼ 今すぐ会いたい‼ 抱きしめたい‼ 抱きしめられたい‼」


 胸のきゅんきゅんが止まらない。あ、そういえば私も『絶交』って言われてるんだった。でも、居留守使わなかったんだから、無効だよね⁉ やっぱ、美知さん大好きだわ。明日、仕事休みたくないなー。仕事行きてー‼ と美知さんへの思いを馳せていると、


「いいなぁ、美知。俺には『触らないで』なのに」


 同じソファに並んで座っているというのに、隼人と私の間には微妙な空間が空いていた。隼人がその隙間に切なそうに視線を落とした。


「あのさ。ちょっと話を戻すけど、『女友だちの相談にも乗っちゃダメ?』って聞いた時さ、自分だったら許せるかどうか考えた? 私が隼人の知らない男友だちの相談に乗っても、別に気にならない?」


「奈々未、男友だちいないじゃん。さっき自分で言ってたじゃん」


「……チッ」


 隼人の無意識【モテない女認定】に、無意識なのかわざとなのか自分でも判別出来ない舌打ちを鳴らせてしまった。


「今はいないけど‼ ……じゃあ、作るよ‼ 飲み屋とかで偶然隣に座った男に声掛けて友だちになってくるよ‼」


「それ、ただの逆ナンじゃん。ていうか、無理矢理作らなくていいよ。女の子の友だちだけでいいじゃん」


「なんで? 私に男友だちが出来てその人の相談相手になれば、隼人だって同条件を得て然るべきだから、女友だちの相談に乗れるよ?」


「……そっか。そうだよね。想像したら凄く嫌だった。奈々未が俺の知らない男と一緒にいるなんて」


 私が隼人に持っていた【嫌な思い】をやっと理解したのか、隼人は『うんうん』と頷いた。


「長々と話し合いをしたけどさ、結局私が言いたいのは【自分が嫌なことは他の人にもするな】ってことなんだよね」


「人間として当然のことを改めて言われなきゃいけない状況になるなんて……。俺、子どもたちに教える立場の人間なのに。自信なくすわ」


 ヤケになった隼人が不味いコーヒーを飲み干し、「苦いなぁ、もう‼」とやりきれなさをまき散らした。


「逆に、反面教師として教壇に立てばいいじゃん」


「もうそろそろ、嫌味と文句と悪口言うの終わりにしない?」


 隼人が、病人の私よりぐったりしていた。


「あはははは。そうだね。ゴメンゴメン」


 ちょっと責め立てすぎちゃったなと、口の前て両手の人差し指をクロスさせ、『もう喋りません』 ポーズをとった。


「俺、子どもたちには『困っている人には進んで手を差し伸べましょう』って教えてきたのになぁ……」


 折角この話は終わりにしようと思っていたのに、隼人が喋り続けるから、


「夢と希望と理想論は、所詮綺麗事だからね」


 一瞬で口の前に作った×を振り解く。


「そんなこと、生徒たちに言えないよ」


「言わなくっていいよ。大人になったら夢ばかり見ていられなくなるんだから、子どものうちにいっぱい夢を見せて希望を語らせればいいよ。でもさ、『誰彼構わず助けろ』っていうのは、やっぱ違うと思う。だってさ、隼人の親友が借金で首が回らなくなって『連帯保証人になってくれ』って頼んで来たら、なる?」


「それは……無理」


「だよね。自分に借金が降りかかってくるかもしれないし、それで家族に迷惑が掛かるのも嫌だもんね。だからさ『目には入った困っている人を片っ端から助けようとしなくていい。自分が助けられる範囲でいい。自分に出来ないことは、他の誰かがやればいい。ただ、自分が助られる人を見て見ぬフリはするな』でいいんじゃん? あと、スケベ心を出すな」


「……まぁ、そうだね。てか、スケベスケベ言い過ぎ」


 理解は出来ていると思うが、生徒たちの前では夢や希望だけを話していたいだろう隼人は、何か腑に落ちない表情をしながら頷いた。


「だって、何が一番腹が立ったかって言ったら、隼人のスケベな顔なんだもん」


 ムスっとしながらも、頷いたまま俯いている隼人の髪を撫でると、隼人が顔を上げて、


「俺も撫でたい」


 と、私の髪を撫で返してきた。お互いがお互いの頭を撫で合うという奇妙な光景に、


「何、コレ」「何だ、コレ」


 ふたりで目を見合わせて笑ってしまった。


「……仲直りってことで、いい?」


 隼人が首を傾げながらお伺いを立ててきた。


「……楠木さんに……その手紙をくれた友だちにね、隼人とのことを相談しててね、『許せないから別れた方がいいのかもしれない』って言ったらね、『別れないことになったら、絶対に許さなきゃいけないのか? 【別れないけど許さない】で良くないか?』的なことを言われてね、そうしたいと思う。どうしたって、他の女にスケベ顔をした隼人がムカついてムカついて仕方がない。だから、許さないけど別れない。それでいい?」


 やっと、楠木さんからもらったアドバイスの言葉を口にする。


「……いいよ、今のところは。許してもらえるように頑張るから」


 隼人が、ホッとした表情を浮かべながら笑った。


 見てたか、楠木さん‼ 上手く行ったぞ‼ 別れずに済んだってことは、楠木さんが神様に直談判してくれたおかげってことだよね? でも、ちょっと遅いよ‼ 途中、ギスギスしすぎて危うく別れそうになったぞ‼ と心の中で楠木さんに話しかける。


『神様の前、大行列でなかなか順番回ってこなかったんだよ』


という楠木さんの声が聞こえた気がして笑いそうになった。


「良かった。奈々未に振られなくて。絶対に奈々未と別れたくなかったから。だって俺、人生最後に食べる料理は、奈々未の手料理って決めてるから」


 隼人が両手で、ぎゅうっと私の手を握った。が、


「何その、私を置いて死ぬ決意」


 私は握り返さない。


「……あ、そうなるか。ゴメン。じゃあ、奈々未が生きている間は手料理をご馳走してください。俺、奈々未を看取れるように長生きするから」


 言い直しながら、隼人が私の手を握り返すから、今度は握り返してやった。




「別にいいよ、見送る側でも。最期の晩餐を作ることが、私の仕事だから」

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