第23話 誰かの平穏を守るために
黒い怪物が上空に向かって咆哮を上げる。その様は獣。
「全員走れ!」
来見田さんの大声が私の耳から耳へと通り抜けた。目の前の状況に頭が追い付かない。
全長5Mはあるであろう人型の怪物。その全身からは漆黒の濃煙を纏っており、まるで燃え盛る炎のようにユラユラと揺れている。顔すら認識できない。
「なに……これはなんなの……――きゃっ!」
逡巡していたとき、急に身体が浮かび上がった。
「モタモタしてんじゃあねぇっ……!」
立ち上がった金平君が私を両腕で抱きかかえ、黒い怪物から逃げるように走り出していたのだ。
「背中大丈夫なの!?」
「問題……ねぇ……!」
来見田さんも赤川さんもすでに後退を始めている。
「あれは一体なんなの!?」
「あれは咎人が……『ストレス同一化症候群』を……発症した姿だ……」
「咎人が発症……!? そんなことって……! じゃああの黒いのは――!」
「あぁ、尼寺山伊吹だ」
振り返り、遥か後方でゆっくりと歩いている黒い化物を見る。尼寺山伊吹の面影はまるで感じない。共通点があるとすれば、人の形をしているという点だけ。
「通称『廃人』……あぁなったら最後……もう戻れない……」
金平君は「そろそろ自分で歩け」と私を背中から降ろすと、土瀝青の上を全力で駆け抜けていく。その後ろを追う。
「来見田が奴の眉間に……弾丸を撃つ……その直前……あいつは廃人に――」
「待って、尼寺山には右腕が無かったはず。それが今は――!」
あの化物は五体満足だ。それどころか腹に空いていた2つの大穴も塞がっている。
「廃人は……咎人のあらゆる能力を……遥かに凌駕している……」
「それって……腕を再生したってこと……!?」
もしそれが本当なら、廃人の治癒能力は常軌を逸している。
「俺ら咎人でも……廃人を……殺すことは不可能に近い……」
「……ねぇ、ちょっと……!」
「なによりも……廃人の異能は……――」
「その背中! 大丈夫なの!?」
「うるせぇ……問題ねぇって……言ってるだろ……」
背中から赤黒い液体がボタボタと地面を濡らしている。私が来見田さんと話していたときは怪我を負っていなかった。要するに、大火傷はあの謎の爆発によって生じたものだ。
彼は脂汗を垂らしながら、激しく息を切らしている。その眼光にいつものような鋭さはない。
「いいから聞け……廃人の……一番厄介なところは異能――」
再び廃人の咆哮が耳に入る。
「っ……!」
そして、瞬きをする間に黒い影が私たちを追い抜いていた。間合いは軽く1KMはあったはずなのにだ。
「――――」
「があぁっ!!」
急いで【右腕発散】で盾を形成、迫りくる攻撃を防御しようとしたが、とてもじゃないがちゃちな盾で耐えしのげるものではなかった。空中で踏ん張りが効かない中で放たれたはずの足蹴りだが、その威力は圧倒的。ゴギッという嫌な音と共に、私はどこかにぶっとばされた。
「くっ……どこまで……弾き飛ばされた……!」
どうやら雑居ビルの窓ガラスを突き破り、柱に衝突したらしい。また建物内の照明はついているにも関わらず人気が全くないことから、避難区域の中だということが分かる。
立ち上がろうとして、左太ももに大きなガラスの破片が刺さっているのに気づいた。
「っ……!」
それを抜こうとして、自分の右腕が原形を留めていないほど破壊されつくされていることに気づいた。あまり痛くないのはアドレナリンが分泌しているからだろうか。
「異能が……使えない……!」
金平の右腕然り、尼寺山の右腕然り、自然治癒の範囲を大きく超える部位欠損はいくら咎人といえども治らない。そして何より致命的なのは、円谷の異能【右腕発散】はその名称の通り、右腕がなければ異能を行使できないのだ。
ダメ元で異能の行使を試みるも黒煙が身体から噴出するだけ。まずい。本当にまずい。
「――――」
尼寺山伊吹だったものの咆哮が少し遠くから聞こえた。
異能が使えないとはいえ、まずは急いで怪我を負っていた金平君のところに戻らなければいけない。私が行っても焼け石に水かもしれないが、助けなければ―――
「円谷さん!」
割れた窓ガラスから颯爽と跳んで入ってきたのは赤川さんだった。その小脇にはぐったりとした金平君を抱えている。スーツは焼け焦げ、背中は依然として熟々としている。
「金平君は大丈夫なんですか!?」
「気を失っているだけで、命に別状はありません。円谷さんは?」
「私は右腕が――……?」
右腕がある。傷もなく、汚れすらない。異能も――問題なく使える。
どういうことだ。アドレナリンで幻覚を見た? そんなまさか……
「大丈夫ですか?」
「……はい、いけます」
いや、考えるのは後だ。右腕があるのなら私は戦力になれる。
廃人と化した尼寺山伊吹を私と赤川さんで――
「では、撤退します」
「え?」
反射的に呟いた。ありえない。
廃人の危険性は一瞬交わっただけでも理解できた。このまま野放しにしておいたら、街が壊滅するということも想像に容易い。それなのに、撤退する?
「……なぜですか」
赤川さんは質問には答えてくれず、代わりに目線を逸らした。
おそらく何度も廃人と相対してきたであろう赤川さんは私以上にその脅威を理解しているはずだ。それなのに『放置して撤退』という判断を取る……
この考えは、この方針は――
「これが最適解だから、だ」
赤川さんの後方から答えが返ってきた。回答者は予想通りであった。
「私では力不足、金平は動けない、赤川もせいぜい数分の足止めが限界、お前も手負い。とすると、撤退するのが最善だろう」
「……逃げ遅れた人がまだ残っているという可能性はないんですか」
「ないな、“ひゃくぱー“ない」
「じゃあもしも、廃人尼寺山が気まぐれで避難区域外に移動したらどうするんですか。ここからそう遠くないところで、たくさんの人たちが暮らしています。悲劇は免れません」
「こんなこともあろうかと、要人はすでに遠くに避難させてあるから安心し――」
「なにも安心できない!!」
思わず声を張り上げた。ツカツカと前進し、無表情の隊長の首根っこを掴む勢いで詰め寄る。
「あなたは一体何を考えているんですか!? 一般人の安全は!? ただ日々を平穏に生活しているだけの罪のない人たちの命はどうだっていいんですか!?」
「言っただろう? ほんの少し背景から人影が消えようが、私にはどうでもいいと。お前は小説を読んでいて、名前もないセリフもない活躍もない一般人が死んだときに、悲しんだことがあるか? 否、ないだろ? そういうことだ」
来見田さんが望むのは、幸と不幸の平衡。
要人が死ぬと世界にとっての不利益がいくつも生じ、結果として多くの不幸が生まれる。だが要人以外が死んでも、悲しむのは死人の周りだけ。不幸は少ない。ならば、要人以外は助けずとも良い。そんな非倫理的な極論。
「あなたにとってはただの背景でも、その人には家族がいて、友達がいて、恋人がいて、人生があるんです!」
「人生があるから何だ。目の前のモブ数人を救済した結果、何十、何百、何千、何万人が死ぬかもしれないんだぞ」
「なら、その何万人すらも救えばいい」
「ガキが」
平行線だ。こんなことに時間を掛けている場合ではない。
「円谷さん! どこへ!?」
「私は行きます、1人でも多く救ってみせます」
私はすでに来見田さんの奥を――割れた窓ガラスから遠くにいる漆黒の廃人を見据えている。依然としてたまに咆哮を上げるだけで、目立った動きはない。
来見田さんも隣に立って、怪物を一瞥する。そして、一言告げた。
「なら、お前1人で行け」
「由香子さん! それはあまりにも――」
「黙れ」
「っ……」
「大丈夫です。言われなくても、1人でやります」
爆発による圧倒的な攻撃力、咎人を遥かに上回る再生能力と身体能力――正直、廃人と化した尼寺山に勝つビジョンは見えない。
「赤川さん、金平君を連れて早く退いてください」
「しかし……」
それでも、逃げるという選択肢はない。
今ここで戦わなかったら、救わなかったら、私は私に顔向けできない。
「赤川、行くぞ」
「っ…………はい」
戦って、救う。私は割れた窓ガラスから単身空の下に躍り出た。




