28話 兆し
「クラ!」
名を呼ばれ、クラリスははっと振り返った。
そこには、腕で口元を覆ったルスカが立っていた。
「ルスカ!大丈夫なの、その……色々と……!?」
周囲を見回す。
だが城内は混乱の只中で、誰もが自分のことで精一杯だ。
他人を気に留める余裕など、どこにもない。
「皆、混乱している。今は誰も気づかん。……それより、あれを見ろ」
ルスカに手を引かれ、窓際へと向かう。
離れた場所に見える龍は、まるで日向ぼっこでもしているかのように、巨体を丸めて眠っているようだった。
「寝てる?あの息が体力奪ったのかな?」
「わからん。だが、魔物の中には、何か仕掛けて、獲物が弱ってから食うやつもいる。やつも、その類かもしれん」
「こわっ」
クラリスは両手で己を抱き、ぶるっと震えた。
「……どうしよう。わたしが、消す?」
「いや……」
ルスカは目を細める。
眠る龍の下には瓦礫の山。
そして、舞い上がる土埃。
「この国には優秀な軍がある。傭兵もいる。
お前の力と診察能力は、温存すべきだ」
そう言い切った直後、ルスカは咳き込んだ。
短く、だが苦しそうに。
「……奴が動かないうちに診療所へ戻るぞ。
怪我人が運ばれる可能性が高い。
ミュラーとヴィルだけでは、明らかに人手が足りん」
再び、咳。
「……ルスカ」
「なんだ」
「……ここにいなくて、いいの?」
一瞬の沈黙。
「ああ。兄上を見ただろう。
ここに俺がいなくとも、この城は回る」
息を吸うたび、喉が鳴る。
「俺は、医師だ。それで死んだとて覚悟の上だ。診療所に戻る」
最後の方には掠れた様な声のルスカに、
「……ちょっと待って」
クラリスは一歩近づき、指を立てた。
「さっきの、吸ったんだよね。外にいた」
「ああ。だが、じきに――」
クラリスは人差し指で、そっとルスカの口元を制した。
「喋らないで。
でも……“顕現”して。上下気道、肺胞まで」
ルスカが喉元に手をかざす。
次の瞬間、手のひらに現れたのは、紫色の微細な粒子だった。
「……やっぱり」
クラリスの喉が鳴る。
「気管支喘息様の発作か、それとも過敏性肺炎や化学性肺炎の初期症状をみている可能性もある」
クラリスは息を呑む。
「何もわからない……でも、やることは一つ」
光がルスカを包んだ。
「どう?治療的診断だけど……」
「……息苦しさが、消えた」
その言葉に、二人は同時に息を呑んだ。
「これは……」
背筋を、冷たいものが走る。
「正直、病態はまだ何もわからない」
クラリスはゆっくりと続けた。
「けど……ひとつだけ、確実なことがある」
ルスカが、静かに頷く。
「これから、同じ症状の患者が――大量に発生するってこと」
それが、何を意味するのか。
二人とも、理解していた。
「急げ!謁見室はこっちだ!」
「わ、わかってる、けど……!」
前を走るルスカの背中は、みるみる遠ざかる。
鍛え抜かれた体と、女性であるクラリスとの体力差は明らかだった。
『このままじゃ患者が大量にでちゃう!城下町のみんなを屋内に避難させないと!』
『……王は、その手段をお持ちだ。走れ!』
そうして走り出した二人だった。
しかし。
(こ、こんなに遠かった……!?)
クラリスはついに足をもつれさせ、両手から地面に倒れ込んだ。
石畳に、ずしゃりと鈍い音が響く。
すぐには起き上がれず、何度も浅く息を吸う。
「大丈夫か!」
引き返してきたルスカが、手を差し出した。
「ご、ごめ……最近、引きこもり気味で……」
息切れの合間にそう言うと、ルスカは何も言わず、強く引き上げた。
(早く診療所にもどらないと、いけないのに……!)
額の汗を拭った、その時。
「お兄様!それに……お姉様!?」
澄んだ声が響く。
振り返ると、フィーリアが息を切らせて駆け寄ってきていた。
「ふ、フィー…!!」
フィーリアはクラリスの肩にそっと手を添える。
「お姉様、ご無事で良かった!あの龍はなんですの?あんなもの、物語の中にしかいないとおもっていましたわ」
クラリスは小さく頷く。
「フィーはあの煙吸ってない?」
「ええ、わたくしは……」
フィーリアは小さく頷き、それからはっと息を呑む。
「まさか、あの煙……」
「有害だ。詳細は不明だが、吸入は危険だ。呼吸器障害をきたす」
ルスカの言葉に、フィーリアは一瞬考え込み、すぐに顔を上げた。
「わかりました。お二人は診療所へお戻りください。わたくしが王に伝えます」
ルスカが口を開く前に、フィーリアは手を挙げてそれを制する。
「避難できる者は屋内へ。咳や息苦しさがある者は診療所へ……と、王に依頼に向かうところだった。そうでしょう?」
クラリスとルスカは、目を見合わせ、頷く。
フィーリアは二人を見て、そっと微笑んだ。
「それくらいわかりますわ。この5年、お姉様に身体のこと、病気のこと、色々教えていただきましたから。さあ、お早く。……無理は、なさらぬよう」
フィーリアがそっとクラリスの背中を押した。
「ありがとうフィー!おちついたら、またお茶会しようね!」
クラリスが手を振るその背が小さくなっていくのを、フィーリアはじっと見つめ続けていた。




