19話 見過ごせなかったもの
いつもはがやがやと騒がしい店内も、まだ夕陽の差すこの時間帯は、ひっそりと静かだった。
「お、クラリスちゃん。こんな時間に珍しいね。今日はヴィル君は一緒じゃないのかい?」
「今日はわたしは外仕事。ヴィルは診療所!」
店主のおじさんはそうか、と頷き、水路を臨む席へと二人を案内した。
水面には夕陽が反射し、きらきらと揺れている。
メニューを手渡しながら、店主はにやりと口角を上げた。
「……なに、もしかして。彼氏?」
「……!」
ルスカは、ぴたりと動きを止めた。
そろりと視線を上げ、クラリスの方を見る。
「やだな~、こんな顔整いが、わたしなんかと付き合うわけないでしょ!!」
クラリスは手を仰ぎ、大げさに笑った。
その仕草は、どう見ても色気より生活感が勝っていて。
完全におばさんのそれだった。
「クラリスちゃん、かわいいのに~。あ、俺のおすすめはそのワタンボのタタキね。最近はそればっか出るくらい人気なんだ」
ひらひらと手を振り、店主は厨房へ消えていった。
「ごめんね、ルスカ。あのおじさん、小さい頃から知っててさ」
何事もなかったように、クラリスはメニューをめくる。
「ね、なににする?ワタンボタタキ、初めて見たな~」
にこにこと紙面を追うその横で、ルスカはまだ、メニューの表紙から目を離せずにいた。
やがて、テーブルに並ぶサラダ、チーズ、焼き立てのパン。
「でさ、ミュラー先生が言ったの。
『お前、俺の婚活手伝ってくれるんじゃなかったの?』って。
いや、それはおかしいでしょ、って思わない?」
クラリスはけらけらと笑いながら、サラダを口に運ぶ。
「ねえ、このドレッシングおいしくない?昔から大好きなんだ~」
幸せそうに頬を緩める、その横顔。
(もし、俺が王族に生まれていなければ)
ふと、そんな考えが胸をよぎる。
ルスカには、なぜか目の前の彼女が、とても遠く感じられていた。
(……俺には、許されなかったことだ)
思い浮かぶのは、広すぎる個室。
背後に立つマナー講師の冷たい視線。
失敗すれば、即座に飛んでくる注意と指導。
(俺が、生まれた瞬間に失ったもの)
誰かと同じ食卓を囲むこと。
「おいしい」と感じ、それを共有したいと思う気持ち。
『彼氏?』
店主の言葉が、何度も耳の奥で反響する。
普通の人間が、普通に得るもの。
自分には、縁のないもの。
『ルスカ王子殿下は……ね。御能力が……』
かつて聞いた声が、脳裏に蘇り、胸の奥をちくりと刺した。
「……ルスカ?」
不意に、現実へと引き戻される。
「おーい、ルスカ?」
クラリスが心配そうに眉を下げていた。
「すまない。考え事をしていた」
ルスカはパンを手に取る。
クラリスはまじまじと見つめていたが、ふ、と肩をおろした。
「話したくなったらさ、聞くからね。わたしたち、仲間なんだから」
ルスカがはっと視線を上げた、その時。
「はーいおまちどう!ワタンボタタキ!」
どん、とテーブルの真ん中に置かれたお皿には、まるでレバーのような、内臓のようなものがぷるぷるとその身を揺らしていた。
「え、ワタンボってこんななの!?いつも焼いたやつしかたべたことなかった」
クラリスが少し眉を寄せると、店主は豪快に笑った。
「そうでしょ?これね、ヒポクルスの食べ方なんだって!最近行ってきた人が教えてくれたの!うまいのよ!」
「へぇ~……ちょっと食べるの勇気いる見た目……」
クラリスがつんつんとフォークでつつくと、ぷるぷると揺れた。
『最近行ってきた人が教えてくれたの!』
流行。
生食。
そして、肝膿瘍の患者。
ルスカの脳裏に重なっていく。
「まあ……おじさんの料理だし……みんな食べてるんだもんね……?では、いただいて……?」
クラリスがフォークで突き刺し、口元まで運んだ時だった。
「待て」
鋭い声に、クラリスの動きが止まる。
ルスカの手は、皿にかざされていた。
違和感を覚えた時、確かめる。
長年身に染みついた癖だった。
淡い光が満ち、そして、すっと消える。
その手のひらに残ったのは、見覚えのある、あのアメーバだった。
「そ、それって……」
クラリスは、かたん、とフォークを置いた。
ルスカは小さく頷く。
「……やはりな」
「じゃあ……ここで、みんなこれを食べて……?」
顔色を変え、クラリスは勢いよく立ち上がった。
「大変!おじさん!」
声を張り上げると、厨房から店主が顔を出す。
説明を聞くにつれ、にこにことしていた表情が、みるみるうちに青ざめていった。
「でも、ヒポクルスではみんなこうやって食べてるんだよ!?使節団の下見に行った人が教えてくれたんだから!」
「土地が違えば、体も違うの!」
クラリスは身振りを交え、必死に言葉を重ねる。
「向こうの人は平気でも、この国の人には合わないことがある。腸内細菌も、免疫も、全部違うの!」
そのやりとりの横で、ルスカの脳裏に、ある言葉が鋭く刺さった。
ヒポクルス。
使節団。
ルスカは、はっと息を呑んだ。
「今日だ」
「え?」
「ヒポクルス使節団の食事会。交流の名目で、使節団が食事を披露すると、そう聞いた」
二人は顔を見合わせる。
「い、行かなきゃ!」
クラリスは鞄を肩にかけた。
が、ルスカは机に両手をつき、目を伏せた。
(俺は、城には近づきたくない。だが……)
拳を強く握る。
(俺は医師だ。
これから病に罹ると分かっている行為を、見過ごしていい理由など、どこにもない)
ルスカは、きっ、と顔を上げた。
「急ぐぞ。走れば、まだ間に合う」
クラリスは一瞬、驚いたように目を見開き、すぐに、力強く頷いた。
「うん!」
二人は同時に踵を返し、店を飛び出した。




