第百八十六話:世界で一番幸せな日,勇者セリナは花嫁になりました
長い旅でした。
地獄も、千年前も、戦いも――すべてを越えて。
勇者セリナは、ようやくここまで来ました。
今日という日を迎えるために。
王歴142年4月21日。
勇者セリナ、十五歳。
そして――
花嫁になる日です。
今日は王歴142年、4月21日。
セリナの15歳の誕生日です。今までの人生では、それを祝う余裕などありませんでした。
メイド学校の時、マリさんがこっそり私のために祝おうとしてくれましたが、
学校の規定が厳しくて、それもできずに終わりました。
でも――15歳の誕生日は、セリナにとって大切な日です。
何せ、王国では15歳は成人扱い。結婚ができるようになるのですから。
*
「愛しています。絶対に勝って、セリナのお婿さんになってください。」
それは千年前、セリナがマオウさんにしたプロポーズの言葉。
非常に一方的で、女の子からするのも伝統的ではないけれど――
セリナは、待ちたくなかったのです。
モリアさんの依頼を達成して、レンと一緒に永遠の時間を得ました。
それも、できる限り永遠に生きるマオウさんと一緒にいたいから。
セリナはその時間を、一刻でも無駄にしたくありません。
でも――同時に不安な気持ちもありました。
マオウさんはモリアさんのことが好き。二人はすでに結ばれた。
その間に、セリナが入れる隙などあるのでしょうか。
もしかしたら――ダメかもしれません。断られるかもしれません。
「あら、あの人が負ける可能性は考えないのかしら?」
「マオウさんは負けません。それはモリアさんも知っていますよね?」
「本当に……食えない娘ね。お好きになさい。私がウェディングドレスを着られたのも、あなたのおかげでもあるから。貸し一つであなたたちがあの人の側にいることを許してあげる。でも――一番は私よ。そこは譲らないわ。」
モリアさんの許しを得て、私は気持ちを整え、この時代のマオウさんを探し始めました。
――どこにいるのでしょう。
前に会ったのは――つい先ほどのようだけど、でもそれは千年前のマオウさん。
セリナたちが先に千年後へ戻りましたが、マオウさんはそのまま千年の時間を過ごしたのです。
つまり、今のマオウさんとは、もう一か月も会っていない。
心臓の鼓動が止まりません。
セリナたちの影響で、今のマオウさんは正史のマオウさん……
セリナが知っているマオウさんと、変わっていないでしょうか?
千年前に行った時、初めて千年前の彼に会った時――
その懐かしくも、他人のような疎外感が怖い。
もし……
――いや!
怖気づいてどうするんですか!
思い出してください。今まで、これ以上の苦難を乗り越えてきたではありませんか。
それに比べて、ただ今のマオウさんと対面するだけで、何が怖いのでしょう?
マオウさんは、マオウさんです!
そして、そんなマオウさんなら、きっとあそこへ行くはず。
私は迷わず、先に『あそこ』へ向かいました。
*
――王国図書館。
セリナの夢の始まりの場所。そして、マオウさんと最初に出会った場所でもあります。
王国に文字が読める人が少なくて、ここは人が滅多に来ません。そして、君主制になって、今まで学問の教育が解禁された今でも、ここへ来てまで本を読む人はまだいません。
すべてが――あの時のままです。
軽くドアに手を当てると、拒むこともなく扉が開いた。
そうですよね、一般人にも開放していて、ここは昼間はいつも鍵を閉めないようにしていましたから。
そこはちょっと嬉しいけれど――
マオウさんと二人だけの特別な場所じゃなくなるのは、ちょっと寂しい気もします。
中に入ると、埃もなく、掃除は丁寧に行き届いている。きっと腕のいいメイドさんなのでしょう。
まあ、セリナも首相になってもメイドの腕は落ちていませんけど。
古い本が並べられて――
一年前までは、本のタイトルさえ読めなかったセリナは、
今では、どこにどんな本があるかもう知っています。
それも、マオウさんのおかげです。
「おのれ! くたばれ! なんと卑しい豚野郎め! これだから――!」
――懐かしい声です。
相変わらず、勇者ものを読んでいますね。『勇者ハラルド戦記』がお好きなんですね。
勇者ならセリナがいるのに、他の勇者様に目移りするとか――もう、マオウさんのバカ。
大体、図書館だから、静かにしないと他の人に迷惑でしょ。
――今は私一人以外、誰もいないけれど。
「マオウさん、本は静かに読むものですよ。」
「君は誰だ?」
――え?
一瞬、心臓がドキッとしました。まるで剣に刺されたように、抉られたように、体の震えが止まりません。
うそ……ですよね……
「セリナですよ。……覚えていませんか?」
必死にすがる。お願い、私のことを忘れないで。
声に出せずに、何度も何度も祈りました。
「セリナ? 現役の勇者であり、王国の首相が、この毛玉に何のご用で? もしかして――『本は人が読むもの。毛玉が読むべきじゃない』と、ここから追い出すつもりか?」
「いいえ……そんなつもりじゃ……」
――あれ……言葉がうまくまとまらない。
何を言えばいいのでしょう。体が言うことを聞きません。
涙が目尻からこぼれ落ちて、前が何も見えません。
逃げたい。この辛い場所から、今すぐ逃げ出したい。
でも……
「ごめん、ちょっと冗談が過ぎたかも。ほら、今日は4月1日だろ? エイプリルフールだ。知ってると思ったんだけど……」
「マオウさんのバカ!」
マオウさんを抱きしめ、ほっとしたせいか、一気に感情が爆発しました。
先までの涙が小雨なら、今は――豪雨になっていたでしょう。
「……酷いです。」
「ごめん……」
「冗談のセンス、なさすぎです!」
「そこは認める……」
「セリナと結婚してください!」
「わかった。――って、どさくさに紛れて何か変なのを入れなかったか⁉」
「言質は取りました。」
「君……嘘泣きが上手すぎないか……」
「マオウさんが先に嘘をつきました。おあいこです。それに、エイプリルフールですよね? ならば、セリナは悪くありません。」
――嘘、さっきのは本当に泣きました。
でも、そのまま騙されるのも、なんだか悔しい。
これが、私なりのお返しです。
それをわかっているかのように、マオウさんが優しくセリナの頭に手を乗せました。
「お帰りなさい。セリナ。」
「ただいまです。マオウさん。」
――家に帰るまでが遠足です。
セリナの、千年前の地獄旅も――
こうやって、本当に終わることになりました。
*
それから、マオウさんと二人で本を読みながら、他愛もない話をしました。
マオウさんの話によると、今までの千年の時間は正史と変わりなく、
セリナたちに関する記憶を抜かれたマオウさんがモリアにそそのかされて、
勇者育成計画を始め、正史通りセリナを育成することになった――
そして、情に勝てず計画は失敗した。
そして、正史通り私たちがモリアさんによって千年前に送り出される時、
抜かれていた記憶が戻され、今に至るというわけです。
「天使様に、勝てたんですね。」
「ああ、勝ったぞ。約束だからな。」
「どうやって勝ったんですか?」
「つまらない勝ち方よ。ルーにダメージを与えられないから――生存を第一にして、千年近い消耗戦に持ち込んだ。泥仕合だ。ルーに無意識に単純反復作業をさせ続けて、精神を削った。プロトタイプは厄介だが、攻略法も……いや、これは今は言わない方がいいか。知られて困る話でもないが、言葉にした時点で情報が漏れる。ルーのためにも、ここは秘密にしておく。」
「なるほど……だからハラルド様をあんなに嫌ってるんですね。同族嫌悪――いや、むしろマオウさんの方がもっと酷いかもしれません。」
――せっかく千年も短縮できた時間が、全部天使様に費やされてしまったんですね。モリアさん、気の毒です。
その結末を知っていたから、あそこまで天使様を嫌っているんですね……
だからこそ、私は時間を無駄にしたくない。
「マオウさん、愛しています。セリナのお婿さんになってください。」
「それもエイプリルフールか?」
「バカはマオウさんの方です。」
「ははは、セリナもそういうことが言えるようになったんだな。……いいのか? 俺は君を、モリアと同じように愛せる自信はないぞ。それは君にとって、不公平なんじゃないか?」
――やっぱり、マオウさんは正史のマオウさんと少し変わっていました。
もし正史の彼なら、きっと迷わず――欲しいものなら相手の気持ちなど関係なく、手に入れようとしたはずです。
千年前の、新しいセリナたちと過ごした一か月の時間が、今のマオウさんを新しく作り変えている。
それが、ちょっと嬉しいくらいです。
「セリナは――マオウさんの隣にいたいんです。もしマオウさんもセリナと一緒にいたいなら、それでいいじゃありませんか。モリアさんもそれを許してくれました。」
「セリナは愛を比べたくありません。それを量で測る時点で、愛の純粋さは失われます。それに――」
「セリナはマオウさんだけじゃなく、モリアさん、レン、エンプラちゃん、天使様――みんなとずっと一緒にいたいんです。これはセリナにとって、フェアなことです。」
――そうです。
マオウさんが私たちと一緒にいたいのは、性欲じゃありません。
彼は愛に飢えていたからです。
家族の愛、恋人の愛――人間の文化を知識として学習した彼は、それを理解するほどには、感情が豊かではありませんでした。
「それとも――セリナが他の男の花嫁になっても、いいんですか?」
「それは……嫌だ。……俺は勝手だな。自分はたくさん欲しいくせに、君は誰にも渡したくないなんて。ちょっと自分を嫌いになりそうだ……」
「セリナが許します。マオウさんは魔王ですから。他人に迷惑をかけないくらいのわがままなら、いいじゃありませんか。それとも――セリナを幸せにできる自信がないんですか?」
「冗談が上手くなったな。 俺は明けの明星にだって勝った男だ。やってみせるよ。」
――そうでした。
だから、私はこんなマオウさんに――
「?」
恋したんです。
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夕方の光が、図書館の窓から差し込んでいた。
一つの机の隣で――
セリナとマオウさんの唇が、重なっていた。
セリナはやっぱり――
されるより、する方が好きなようです。
*
その日から婚約を結び、セリナが15歳になってから結婚式を挙げることに決めました。
それが――今日です。
女の子として生まれて、やはり一度はバージンロードを歩きたい。それも、大好きな人と。
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純白の布が、胸の奥で静かに息をしているみたいです。
鏡の前に立つと、そこには見慣れない私がいました。
いつもより少し背筋を伸ばして、恐る恐る視線を上げると、白いヴェールがふわりと揺れて、頬の横でやさしく光を散らします。
ドレスの裾は、思っていたよりずっと長い。
一歩動くだけで、さらさらと床をなぞる音がして、自分が小さな波を連れて歩いているような気分になります。
胸元のレースにそっと触れてみます。
指先に伝わる柔らかさは、まるで壊れやすい雪の結晶みたいで、強く触れたら消えてしまいそうです。
今、こんな服を、セリナが着ています。
その事実が、まだどこか現実ではないみたいで、鏡の中の少女をじっと見つめてしまいます。
白い布の重みが肩にのっています。
けれど不思議と重くはなくて、むしろ背中をそっと支えてくれているようです。
朝日の光が、ドレスの表面でやわらかくほどけていきます。
その光の中に立っていると、自分まで透き通ってしまいそうで、胸の奥が静かに高鳴ります。
ゆっくりと息を吸います。
白い裾がわずかに揺れて、まるで祝福するように、静かな音を立てています。
そして――仕上げに、アスタロトさんからもらった『龍涎香』の香水を付けました。
人生初めての香水。これで、セリナも大人の仲間入りを果たしたでしょうか。
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「おめでとう! でも悔しい! 父様があそこまで反対しなければな~ちくしょう、セリナに先越された!」
「えへん! 言ったはずです。キスも結婚も、セリナが先です。」
天涯孤独のセリナと違って、レンには家族がいます。そして王国の王女でもあります。
そんな彼女が、マオウさんのような毛玉と結婚したいと言い出せば――
『ならぬ! わしの目が黒いうちは、かわいい娘をあんな獣にやれるか!』
親バカの王様カズキに、強く反対されました。そして今でも親子喧嘩中で、家出までしています。
ちなみに、マオウさんは王以外の家族たちからは好評らしいです。
マオウさんの本体の毛玉姿は愛くるしくて、それが私の自慢です。
「セリナの式が終わったら、まだ講義してやる! あの天使に先越されるのだけは何とか避けたい。女のプライドを賭けて!」
気持ちはわかります……さすがに男の子の天使様に婚期を先越されたら、女の子としてやりきれないですよね。
――そして、婚期と言えば。
「はは……セリナにも先越されたよ……何やってるんだ、シエノ。商売はあんなに上手くいったのに、恋はそれから一歩も進んでないだろう。チキンで、天然ボケで、朴念仁――でも、そこが好き! ……すみません、おめでとう、セリナ。」
乾いた笑い声を漏らし、マリさんはセリナが先に結婚できたことに、思った以上にショックを受けているらしいです。
王国と帝国が和平を結び、マリ商会の商売はさらに繁盛している一方――
マリさんの婚約者シエノは仕事に没頭し、結婚の考えすら浮かばなかったらしい……
さすがに気の毒すぎます。
「セリナちゃん! 最後に投げるブーケトスは絶対あたしに投げて! ――いや、この際だから予約で先に売ってください! お願いします! お願いします!」
「大丈夫ですよ……セリナも前、リリアンヌさんのブーケトスを受け取れてなかったのに、結婚できたじゃないですか。」
「それはセリナちゃんが勇者だからよ! 女の子からプロポーズするなんて、その勇気があれば、あたしだって魔王を倒せるわよ!」
――セリナと同じスタートで、世界一のお金持ちにまで上り詰めたマリさんに、勇気が足りないとは思えませんが……
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「おめでとうであります! さあ、スペシャルゲストが来たでありますよ!」
「ザガンちゃん! そしてアスタロトさん!」
「千年ぶりなのです。セリナにとっては一か月も経ってないのですね。おめでとうなのです。」
「ザガン様、これは愛の逃避行のチャンスです! よくあるじゃありませんか? 主人公が式場へ駆けつけて、相手を奪う話。そのために、ザガン様サイズのウェディングドレスも用意しましたわ!」
「アスタロト! 恥ずかしいことしないで!」
エンプラと一緒に来たのは、地獄で知り合った彼女たち。
セリナにとってはそれほど時間が経っていないけれど――彼女たちにとっては、千年ぶりの再会ですね。
嬉しい。セリナを祝うために、わざわざ来てくれたのですから。
「セリナ、お久しぶりだクマ!」
「姉さんの男を奪う不届き者め……でも、おめでとうは言っておくデース。」
「ねえねえ、モリリン、あたしたちが式を挙げる場合、どっちがドレスを着るの♪」
「は? やめてください、アスモデウス様。人の前で……って、両方着ればいいじゃありませんか! 私はアスモデウス様のドレス姿を見たいし、アスモデウス様にも私のドレス姿を見せたい。……って、何を言わせるんですか!」
ヴェネ、ベリアル、アスモデウスとミリアム。
みんなが来てくれました。この一年で、こんなにたくさんの人と出会っていたんですね。
「これだけじゃないわ。暑苦しい男たちはあの人の部屋で騒いでいるわ。本当、たった一人のメイドの結婚式に、どれだけ暇なのかしら。」
「モリアさん?」
後ろから彼女が抱きしめてくれました。
モリアさんは、人の後ろを取るのがよほど好きらしい。今までいつも、セリナの後ろから接近してきました。
「失礼だわ。いきなり目の前に現れたらびっくりさせるでしょう。人を妖怪のように思わないで。……にしても、化けるものね。あの地味なメイドちゃんが、ここまで綺麗に仕上がるなんて。まあ、私ほどじゃないけど。私ほどじゃ。」
「はい。ありがとうございます。」
――お母さんにも、セリナの花嫁姿を見せたかったです。
でも……こんなにセリナの友達が来てくれたのに、贅沢を言い過ぎるのはダメですよね。
「ええ、贅沢よ。あの人と結ばれるんだから、それ以上望むなんて罰が当たるわ。……でもまあ。」
「え?」
モリアさんは私の手を取り、聖堂へ連れ出した。
「エスコートくらい、サービスしてあげる。一人のバージンロードは寂しいものだから。……勘違いしてほしくないけど、これはあなたをあの人に渡すんじゃなくて、あなたを我が家へ連れて行くのよ。あなたは天涯孤独なんかじゃない。私とあの人がいる限りはね。ふふふ。」
「はい、モリアさん!」
彼女に導かれ、私は人生のバージンロードを歩き出した。
そして――新しい家族ができるようになりました。
この日のことを、私は決して忘れはしません。
王歴142年4月21日――勇者セリナは、名もなき毛玉の魔王と結ばれました。
めでたし、めでたし。
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――しかし、物語はそれで終わってはいません。
なぜなら、その誰もが祝福に来た式場で、たった一人来なかった者がいたのです。
それも、私がよく知っている人。
「神よ……もし僕もマスターと結ばれたいと言い出したら、あなたは僕を祝福してくれるだろうか。それとも――」
大聖堂の上で、たった一人の天使様は、珍しく黄昏ていました。
この時、すでに第二回神魔大戦は、カウントダウンを始めている。
明けの明星は、再び煌めく。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
勇者セリナの長い旅は、
ひとつの終着点にたどり着きました。
けれど――
物語はまだ終わりません。
祝福の鐘が鳴るその時、
世界のどこかで、別の運命も動き始めています。
明けの明星は、再び輝く。
次章、開幕。




