第百六十四話:地獄の沙汰も金次第、黒縄地獄にて強欲は、待つ
地獄には、戦えば勝てる相手がいる。
だが、
戦わなければ負ける相手もいる。
黒縄地獄に剣はいらない。
必要なのは、
財布と、時間と、ほんの少しの油断だ。
ここでは血ではなく、
数字が流れる。
——ようこそ。
地獄で最も安全で、最も危険な場所へ
黒縄地獄
ここに堕ちる者は皆、金に縛られた過去を背負う。
最初の縛りが、彼ら自身の罪を形取る。
焼けた鉄の墨縄は、闇金業者の指には金銭を数える時の動きで、盗人の手首には壊した錠前の形で、強盗の腕には奪った財布の紐のように、それぞれの罪に応じて絡みつく。縄目は単なる線ではなく、歪んだ帳簿の罫線や、偽った契約の条項、あるいは盗んだ金貨の縁模様をなぞる。皮肉にも、最も細かく正確な縄目が、最も精巧な罪を犯した者に焼き刻まれる。
熱鉄の斧がその縄目を辿る時、金切り声のような金属音を立てて肉を切断する。これは単なる切断ではない――奪った金額に応じた回数、盗んだ品の数だけ、契約で騙した条文の数だけ、切り刻まれる。肉体は金銭に換算され、罪の重さが痛みの量となる。
両脇にそびえる灼熱の鉄の山は、彼らが追い求めた富の重さを具現化する。盗んだ金塊の重み、不当に奪った財産の総量、あるいは利息で膨れ上がった借金の額が、文字通り背負わされる重荷となる。山頂の鉄の幢には、彼らの罪が金銭単位で刻まれた札が無数に吊るされ、鉄の縄は計算違いの綱渡りや、危険な投機そのもののように張られている。
罪人がその縄を渡る時、足元には奪った金貨が熔けた熱鉄の雨として降り注ぐ。落ちれば、かつて他者を陥れた金銭的破綻の深淵へ、あるいは貪り食った富を煮えたぎらせた鉄の釜へと真っ逆さまに墜ちる。
この地獄で彼らは、金に縛られ、金によって刻まれ、金の重みに潰され、金の熱に煮られる。かつて己が金銭に刻みつけた罪の痕跡が、今は焼きごてとなって己が身に返ってくるのだ。
*
毛玉たちが訪れた九つの地獄のうち四番目、かつ肝心な中間点でもある。
「しっかりしてください、寝ちゃったら死ぬでありますよ。」
「それは雪山の遭難の時の言い方。彼女たちをそれ以上揺らすな。」
セリナとレンは限界に来ている。王クラスとの連戦の消耗に加え、もう十日以上何も食べていない。見るからにやつれ、レンに至っては、意識すら保たれていない状態だ。それ以上は危ない。
「どうすればいいですか、兄貴…」
「強欲の王マムブスを倒して食事を出させろ。動けるのは今、我々三人だけだ。」
「ええ、私、戦う力がないんですよ。」
「知っている。それでも同行を許可したのは、戦いが必ずしも力のぶつかり合いではないからだ。騙し合いも必要だ。お前と戦った時のようにな。だけど、出来ればマムブスが武闘派じゃないことを祈るよ。」
「ドクター、レーダーに反応があります。敵は空から来るであります!」
「さすがに王を三人も倒すと、向こうも警戒して自ら探しに来るか。探す手間は省けるが、情報なしの遭遇戦は嫌いだな。ザガン、セリナとレンを隠せ。エンプラはいつでも変身できる準備をしておけ。」
毛玉は魔力を指先に集中し、空にいる黒い影を撃つ構えを取った。
「黒縄地獄へようこそ!小生は戦う意志はございません。どうかお手を収めてください。」黒い影は白旗を振って降伏の意思を示している。
罠か?毛玉はその言葉の真偽を警戒していたが、モリアが言っていた。黒縄地獄に食事を出せる王がいる。戦わずに早く事を納められるなら越したことはない、セリナとレンのためにも。ならば話だけは聞くべきだ。
毛玉はエンプラに合図して一旦武器を収めさせた。その影は毛玉たちの動きを見て安心したように、そらから飛び降りた。
影が濃くなる。
薄暗い書斎の隅で、影が密度を増し、深みを帯びる。パーチメントとインクの匂いの中に、冷たい金属と古い革の香りが混ざり込む。
やがて形を成したのは、
人間ほどもある梟の姿だ。しかし、その羽毛は分厚い帳簿の革装丁のような質感で、表面には細かな数字と貸借の記号が浮き彫りにされている。翼を広げれば、その内側には複雑な利息計算表がびっしりと記された羊皮紙のような膜が張られている。
顔こそが本質を物語っていた。
大きな円い顔には、左右で異なる金貨が嵌め込まれている。右目は磨かれた金貨で、表面には貪欲の女神の横顔が刻まれ、瞳孔の位置が通貨の中心孔になっている。左目は暗い銀貨で、蝕まれた月のように曇っている。その間には、一つだけ嵌められた宝石のモノクル──増大する欲望を歪みなく見通す単眼鏡が、冷たい光を反射している。
鉤爪は、羽ペンと算盤の珠を掛け合わせたような形状で、机に触れるたびに微かな計算音を立てる。首をかしげる動作は、人間の笑みにも審査の視線にも見える。
フクロウが翼をひとたたきする。
その音は、紙幣の束がはためく乾いた音と、硬貨がざらりと落ちる音が混ざり合っている。周囲の書類が少しずつ、目に見えない力でページを捲られ、全ての数字が僅かに──しかし確実に──彼の都合の良い方へと書き換えられていく。
「お話を聞いていただきありがとうございます。小生はこの黒縄地獄を経営する者でございます。マムブスとお呼びください。こちらは名刺でございます。お近づきの印に、どうぞ。」
マムブスはさながら普通のサラリーマンのように丁寧に名刺を取り出し、両手持ちで頭を下げて毛玉に差し出した。
「七十二柱の悪魔の一人、王クラス、強欲の悪魔、マムブス。そんな者から名刺など頂ける身分ではありません。私はただの毛玉だ、身の程はわきまえているつもりだ。」そう言いながらも、毛玉はマムブスが罠を仕掛けてくるのではないかと警戒しているだけだった。
「王だなんて、とんでもございません。小生はただの商売人でございます。お客様こそ第一、この地獄で最高の商品とサービスを提供するだけが生き甲斐でございます。ですが、信頼は虚しい言葉ではなく行動で示すものだと存じ上げています。お客様は小生の名刺より、他にご所望のものがあると、勝手ながらそう判断させていただきました。」
名刺を収め、マムブスはもう一つのものを取り出した。それは彼のシジルを刻んだコインだ。
「こちらは粗末なものですが、どうぞお納めください。小生からの誠意としてお認め頂ければ幸いです。」ザガンはマムブスのシジルを刻んだコインを受け取り鑑定した。贋作のプロである彼女から見て、そのコインは紛れなく本物だ。強欲の王マムブスが、まさかのいきなりの投降。誰もそれを予測していない。ザベルトとザガンの時ともまだ違い、マムブスは闘志を失っているわけでも、単に弱いわけでもない。何を企んでいるのか。毛玉は逆に不安がつのる。
「マムブスよ、君は食事を出すことができるか。」だが、肝心なのは食事だ。セリナとレンの安否が一番重要なこと。ここが危険であっても、賭けに出るしかない。
「もちろんでございます。お客様のニーズにお応えするため、小生は様々な商品を扱っております。では、どんな食事をご所望でしょうか。最高級のA5牛肉でしょうか、極めて稀少なマグロのトロでしょうか。ご要望であれば満漢全席もすぐに用意できますが。」
「白米のお粥をくれ、なるべくよく煮込んだものを。」
「よろしいでしょうか。もしかしてお代金をご心配でしょうか。ならばご安心ください。初めてのお客様がご購入される一品目は、サービスとさせていただいております。ご遠慮なく…」
「十日以上何も食べていない者に、そんな重い食事をさせるとか?彼女たちを殺したいのか。『お客様のニーズにお応えする』のが君の売り文句だろう?ならば、客の需要をちゃんと見極めろ。」
「これは大変失礼いたしました。考慮が足りませんでした。では直ちに用意させていただきます。」
「待て。金は払う。なにせ、ただより高いものはないからな。」毛玉は一つ、魔力の結晶を取り出しマムブスに渡した。それは彼の魔力で凝縮したもの、宝石としての価値はもちろん、魔力としての価値も高い。マムブスもそれを理解している。
「いや、そんな高価なものは頂けません。明らかにお粥の価値を超えております。」
「ギブアンドテイクだ。これから旅に必要な物資を君から買わなければならない。これはその前金だ。」
「ご愛顧いただき誠にありがとうございます。では、後ほどお持ちします。」マムブスは満面の笑みでお粥の準備にかかった。だが毛玉は見逃さなかった。そんな人畜無害を演じるマムブスが、毛玉が金を払うと言い出した時、一瞬だけ目つきが鋭くなったことを。
*
間もなくして、この生きる息をしていない地獄に、初めて生活らしい熱気が湧き出た。
お粥だ。
ちゃんと食べられるものなのか。セリナたちに食べさせる前に、毛玉はまず両方とも一口ずつ毒見した。
お粥だ。
これはザガンが変化させたものではなく、ちゃんと栄養がこもっている。地獄の沙汰も金次第──それはこの黒縄地獄では真理なのかもしれない。
「セリナ、レン、食事だぞ。ゆっくり食べろ、早すぎると胃が痛む。」
「わ…い、食事…です…うれしい…」
「食べ…たく…ない。食欲が…ない。」
「なにを言ってるでありますか!今までお腹を空かせてたじゃありませんか!もっと喜んでもいいでありますよ!」
せっかく久しぶりの食事なのに、二人は予想どおり歓迎していない。レンに至っては食事を拒む始末だった。
「責めないでやれ。なにせ長い間何も食べていなかったんだ。消化機能が休眠して食欲がないのは当然だ。だが、食べてもらわないのは危険だ。セリナ、レン、何か食べたいものはあるか?」
「プ…リンを…食べ…たいです。」
「…ステ…ーキ…」
「プリンはともかく、ステーキか…ぶれないな、君は。ザガン、頼む。このお粥を、プリンとステーキに変えてくれ。」
「えええ!?できますけど…本質はお粥のままですよ?いいんですか?」
「それがいいんだ。お粥は消化しやすいが味が薄く、食欲をそそらない。だから、お前の力で美味しそうなプリンやステーキに変化させる。お粥の本質は変わらないが、味と見た目が変わる。そうすれば、彼女たちは美味しい食事を楽しみながら、消化に負担をかけずに済む。」
ザガンも、自分の力がまさかこんなところで使われるとは思っていなかった。ぬいぐるみの両手をお碗の上に置き、小さな光が輝いた後、碗の中身が変容した。
セリナの碗の中にあるはずのお粥は、豪華なプリンになっていた。
金色に輝く表面は、バニラビーンズの粒が散りばめられた夜空のよう。スプーンが沈む時の、微かな抵抗と滑らかな弾力。セリナは一口サイズを口に運び、含むと、上品な甘みがふわりと広がり、濃厚な乳香が優しく鼻腔をくすぐる。とろりと舌の上で溶け、ほのかなバニラの余韻が、幸せな間をゆっくりと紡いでいく。
「美味しいです!爽やかな甘さで、柔らかい口当たり…とてもお粥だったとは思えません!」
一方、レンの方は碗すら鉄板に代わっていた。
高温の鉄板で焼き上げられたステーキは、表面にこんがりとした焦げ目が香ばしく、切ると肉汁がじわっと溢れ出す。芳醇な香りが立ち上る。スプーンもナイフとフォークに変わっており、毛玉はステーキを丁寧に切り、熱くない程度に冷ましてからレンに食べさせた。肉を口に含むと、とろけるような柔らかさでほぐれ、濃厚な肉汁が広がる。ほのかな塩気と肉の甘みが調和し、至福の瞬間を味わわせてくれる。
「うそ…お肉なのに、さっぱりしてる。油っこくないし、味わい深い…最高。早く次をください。」
「はいはい。まったく、世話が焼けるな。」そう言いながらも、毛玉は珍しく優しい笑顔を見せた。今までずっと危惧していた問題が、ようやく解決できたのだ。
「すごいです、ザガンちゃん!この能力は、女の子にとって神様の力ですよ!」
「えええ?本当ですか?うち、悪魔ですけど…」
「はい!本質が変わらないなら、低カロリーのものを惜しいデザートに変えれば、いくら食べても太りません。安い材料で高級食材の味も出せるので、主婦としても大助かりです。」
セリナの気付きは正しかった。ザガンの変化はまさに悪魔の錬金術。本質が変わらないのは、時には欠点ではなく利点にもなる。見た目、味、香り、食感、全てを再現できれば、その付加価値は本来のものを遥かに超える。本物が手に入りにくい分だけ、ザガンの“偽物”の破壊力は大きいのだ。
「これで、最低限の食材を買って、糖質、タンパク質、ビタミンなど人体に必要な栄養を含むものさえ用意すれば、これからの旅で食事のバリエーションが尽きることはない。ザガン君、君はすごいぞ。」
「兄貴!ありがとうです!うち、初めて自分の力が『騙す』以外で役に立ちましたよ!」二つのボタンの目がプルプルと揺れ、まるで泣いているかのようだった。どうやら彼女は、最初の一歩を踏み出せたようだ。
楽しい食事は進み、これまでの疲れた体と心を癒していった。険しい一か月の中、こんな気ままに休める時間は、そう多くはないだろう。
*
食事が終わり、毛玉はマムブスから残りの物資を受け取り、次の地獄を目指そうとしていた。そんな時、マムブスは怪しげな提案をしてきた。
「そんなにお急ぎにならなくてもよろしいのではございませんか。お聞きしたところ、十日で三つの地獄を攻略なさったとか。この安全な黒縄地獄で少しばかりお休みになってはいかがでしょう。」
「悪いが、時間が迫っている。そんな余裕はない。」時間が限られているのはもちろん、毛玉はマムブスの側にいることへの不安のほうが大きかった。絶対に何かを企んでいる。しかし、あれほど早くコインを渡して勝負を降りた。彼の狙いは一体何なのか。
「それはもちろんでございますが…適度な休養は、今後の旅をよりスムーズに進めるための投資と、小生は愚考する次第でございます。ここから先の叫喚地獄、無限地獄、焦熱地獄、阿鼻地獄…どれもここより以上に過酷な環境です。それは地獄を渡って来られたお客様なら、お分かりのはずでは?」
「君はどうして私がまだどの地獄を攻略していないのか知っている?それに、私が地獄を歩き回っていることも。」
「小生は商人でございます。どんなお客様も、この目でしっかりと観察させていただいておりますので。」マムブスの目が不気味に光った。それは獲物を逃さない捕食者の目だった。
(なるほど…このフクロウは、かなり早い段階で私を監視していた。だから私が黒縄地獄に入った途端、取引を持ちかけたわけだ。侮れない。ザベルトは戦士、ザガンは詐欺師、アスタロトはメイド、アスモデウスは遊び人…だが、マムブスは『商人』だ。)
商人の価値観は、勝敗より利益を取る。だから最初から勝負を諦めた。それは、私から何かしらの利益を搾り取るためだ。あれだけのことをして、魔力結晶一つで満足できる『強欲の王』ではない。匂う…こいつからは、私と同じ匂いがする。 だから、ここに長く留まるのは危険だ。
「ストーカーか、君は。過度なサービスはウザがれるだけだ。さようなら。もう二度と会いたくはないが。」
「残念でございます。明日、小生の商会で一日限定のバーゲンを開催する予定だったのですが。何せ、全商品五割引の上に、ポイントが三倍になるのですけど…あぁ、残念でございます。」
『割引』『三倍』『バーゲン』――そのキーワードで、セリナの主婦魂に火がついた。
「一日くらい大丈夫ですよ、マオウさん!残りの王は5人、今までのペースからすると、時間は少し余裕があります。息抜きのためにも、ここは一日くらい休むべきです!」
「ちょっと、セリナ!俺たちは遊びに来たわけじゃないぜ。そんなセールに釣られた主婦みたいに…」
「色々な商品が並びまして、今回売り切れば二度とお目にかかれないものも多々ございます。例えば…『巨乳になれる薬』とか。」
「…まあ、一日くらいなら…」今でも巨乳になれることを諦めていないレンには、抗いがたい誘惑だった。
「みんな、だらしないでありますよ!」
「もう絶版した異世界のガンプラ、偶然にも明日出ますね。おや、残りは一体しかございませんね。明日の朝一番で、もう品切れになるかもしれませんね。」
「買うであります!もう予約を入れで、それは吾輩のものであります!」
「毎度ありがとうございます。」
まるで彼女たちの弱点を見透かしたように、マムブスは次々と、今しか買えない魅力的な品を囁いては煽っていた。その全ては、毛玉を一日でもこの黒縄地獄に滞在させるためだ。復活したセリナとレンは、エンプラと共にマムブスの商品カタログに見入っている。
「君は何か買わないのか。」毛玉は残されたザガンに話しかけた。
「買わないです。悪魔と取引するのは危険なことです。セリナたちはそれを理解していないのです。」
「そうだな。悪魔は狡くて悪徳だ。それが地獄の常識。だけど、彼女たちは運がいいのか悪いのか、出会った悪魔はみんな、そんなに悪くなかった。」
ザベルトには戦士としての誇りがあった。
ザガンとアスタロトには本物の主従の情があった。
アスモデウスとモリアの友情も確かなものだった。
特にザガンが仲間になったことで、彼女たちの悪魔への警戒心はますます薄れていた。
マムブスもそれを見込んだように、最初から柔らかい態度で接触してきた。信頼を得るために、いきなりコインを渡し、食事も無償で提供しようとした。それが、彼女たちに「これまでの悪魔たちと同じ、優しいところがある悪魔」という錯覚を起こさせている。
「君から見て、『強欲の王』は白か、黒か。」
「兄貴は面白いこと言いますね。」ザガンは静かに言った。
「悪魔に『白』があるわけないじゃないですか。」
依頼期限まで、残り19日。
強欲は、殴らない。
脅さない。
ただ、
「少しだけ休んでいきませんか?」
と微笑むだけだ。
黒縄地獄は、
罪人を焼く場所ではない。
選択を誤った者が、
自分で自分を縛る場所だ。
悪魔は親切だった。
食事も出した。
割引もした。
それでも忘れてはいけない。
悪魔に白はない。




