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帰還

アダムを守るように進む隊列は、殆どが戦場に立てなくなった怪我人だった。皆重い足を必死で動かし、長い道のりを必死に歩く。何日もかけて歩く中、力尽きる者もいた。その度に、哀しみの涙を流す者がいる。


エラも始めこそ落ち込んだりもしたが、道のりが半分に来る頃には涙も枯れたらしい。疲れているのだからと押し込められた馬車の中で、ぼんやりとただ座っているだけになった。

アダムを押し込めた馬車の前を行きながら、エラと共に馬車に乗るアルフレッドはじっとエラを観察する。


あまり眠れていないせいで、真っ白な肌は青白く、目の下には色濃い隈が存在を主張し、唇も潤いを失い、カサカサとしているように見えた。


考えてみれば、エラはテルミットからずっと戦い続けている。新米として配属され、ただ穏やかに訓練生活の延長戦になるはずだった生活は、いつの間にか穏やかさも平和すらも姿を隠し、物騒で血生臭いものへと姿を変えた。


あれだけ嫌だと嘆いていた月の魔女になるしかなかった。「なる」と決めたのではない、諦めたのだろう。

何処にも逃げ場など無い、誰もが皆「月の魔女」であるエラを求めていた。きっと今でも心の奥底では、まだ月の魔女なんて嫌だと思っているのだろうと、アルフレッドはぎゅっと拳を握りしめながら呆けているエラに声をかけた。


「もう王都には入った。城に着いたら風呂にでも入って少し休もう」

「…ああ」


ずっと黙り込んでいるせいなのか、エラの絞り出した声は掠れていた。

疲れ切って体を真直ぐにしている事すら億劫なのか、エラはだらしなく壁に体を預けてじっと窓の外を眺める。


閉められたカーテンの隙間から覗く民衆の顔。怪我人ばかりの隊列に、信じられないといった顔を向けていた。夜空が行ってくれたのだから、皆無傷で元気に戻って来るとでも思っていたのだろうか。

夜空と呼ばれていようが、それは民衆が勝手に呼んでいるだけで、本人たちは普通の、少し魔力保有量が多くて魔術が使えるだけの普通の人だ。


勝手に期待をして、勝手に失望して、勝手に嘆くなんてどれだけ勝手な人達なのだろう。エラがどれだけ身体を張っただろう。心を殺しただろう。しなくても良い経験をして、疲れ切っている若い女のこの姿を見ても、彼らはまだ勝手な失望をするのだろうか。


「アル」

「うん?」

「顔が怖い」


それだけぽつりと零すと、エラはそっと目を閉じた。

寝苦しいだろうに、そっと意識を溶かしてぴくりとも動かない。規則正しく漏れている寝息は、ガタガタと煩い車輪の音にかき消されていた。


◆◆◆


アダムは国の客人として丁重に城に迎え入れられた。それを連れてきたエラたちは、十分な休息を取れという魔王の心優しきお言葉に恭しく頭を垂れ、各々与えられた部屋で休むこととなる。


「迷ったな」


休むことにはなったのだ。だが、長い事満足に身体を清める事が出来ないストレスが限界だった。風呂を借り、新しい寝間着に着替えたエラは、眠気と戦いながら複雑な城の道をあちらこちらへと歩き続けていた。


完全に道に迷ったことに気付いた時にはもう遅い。何故城のそう奥まったところまで行かなかった筈なのに中庭に出ているんだと眉間に皺を寄せ、まだ濡れている髪をがしがしとかき回す。


不揃いな毛先は、先程風呂の世話をされている時についでだからと揃えてもらった。方より少し上で揃えられた髪。首元がスカスカして落ち着かないなとどうでも良い事を考え、エラは周囲を見回してみる。


殆ど入った事の無い城。朧げな記憶を遡ってみれば、確か一度だけこの場所を見た事があった。アルフレッドの母親の部屋が近い筈だ。もしかしたらアルフレッドがそこにいるかもしれない。いれば道案内してもらえるだろうし、居ないなら知っている場所からもう一度記憶を辿って歩けば良い。


そもそも警備の者が見当たらないのが理解不能だ。アルフレッドとその母親の部屋が近いなら、この辺りはあまり警戒しなくても良い場所とされているのだろうか。


考えても仕方のない事を、眠気で回らない頭で考えながら、ゆっくりと足を進めた。折角温まった体は、すっかり冷えてしまっている。

何度か迷いながら漸く辿り着いた部屋の扉を、控えめにコンコンとノックしてみる。中に誰も居ないのか、眠っているのかは分からないが何も返事は無かった。


困ったなと溜息を吐き、念のためと細く扉を開く。相変わらずどこか寂しい部屋には誰も居ない。居ないというのに、エラは何となくその部屋に足を踏み入れてみた。


背後で閉まる扉。誰も居ない、一人きりの部屋はしんと静まり返り、何となく寒い。だが、よく見れば部屋の暖炉には火がくべられている。まるでこの部屋の誰かの為に温めているかのようなその火が、ぱちぱちと音を立てて爆ぜる。


ベッドまできちんと整えられ、もしかして部屋を間違えただろうかと不安になる。だが、確かにこの部屋はアルフレッドの母親の部屋だ。いや、アルフレッドの部屋だったか。どちらだっただろうか。ぼんやりとしてきた頭では、何を考えたところで無駄なのだ。誘惑するように視界に飛び込んでくる大きなベッドに、エラはばたりと倒れ込む。


視界の端で爆ぜ、揺れる炎は優しく明るい。重たくなった瞼を持ち上げる事が出来ないまま、エラはあっさりと意識を手放した。


◆◆◆


何故この女は人の部屋に勝手に入り込んだ挙句、すやすやと気持ちよさそうな顔で眠っているのだろう。


風呂から戻ったアルフレッドは、目の前で眠っているエラを見下ろしながらベッドの脇で困り果てていた。冷えるというのに布団もかけずに眠りこけている女をどう扱うべきなのか分からない。そもそも客間の一つを与えられている筈なのに、離れているアルフレッドの部屋まで来ているのだろう。


誰かに道案内を頼んだならば、部屋の主であるアルフレッドが何も聞いていないなんて事はあり得ない。

だが、部屋に戻ってすぐにでも眠ろうと思ったのにこうして無防備に眠っているエラは確かに此処にいるのだ。


起こすべきだろうか。だがあれだけ消耗し疲れ切っている所を見ていたのだ。やっと眠れたのだから、起こしてしまうのは可哀想だ。かといって、疲れているのはアルフレッドも同じ。柔らかく温かいベッドで休みたい。


「…酷い顔して」


ベッドに腰かけ、眠っているエラの頬をそっと撫でる。びくりと体を揺らしても、目を覚ます気配は無かった。


隈も酷いし、よく見るとうっすらと擦り傷がある。綺麗な顔をしているのに勿体ないと苦笑し、アルフレッドはさらさらとまだ湿っている髪に指を通す。


随分短くなってしまった髪。やっと整えられたその髪が元の長さになるまでどれだけかかるだろう。サラサラと風に揺れる長い髪が好きだった。触れる事を許して貰えるだけの関係になれたのが嬉しかった。


始めは何処かに逃げてしまわないように見張れという命令だった。見張り対象だったエラの事は、あまり好きではなかった筈なのに、今は心の底から恋焦がれている。


誰にも渡したくない。何処へもやりたくない。この部屋に閉じ込めて、誰の目にも触れないように大切に大切に守れたならどれだけ良いだろう。


エラが「そうしてくれ」と言ってくれたなら、喜んでいくらでも世話をしてやるのにと口元を歪めながら、何度も頭を撫でた。


「ん…」

「起こしたか」

「アル…?」


眠そな甘ったるい声なんて初めて聞いた。とろりと蕩けた目をアルフレッドに向け、頭を撫でる手をそっと握り、ぼんやりと呆けている姿は、ただの女の子だった。


髪を振り乱し、戦闘の興奮に頬を赤く染めたあの顔をしていた女と同一人物には思えなかった。


どきりと胸が高鳴る。こんな姿を誰か他に見せた事があるのだろうか。デンバーとかいうあの肉団子には見せていないだろうが、アイザックやらハンスだとか、他の誰かに。


もし見られていたのなら、今すぐにその男の頭を思い切り殴りつけて記憶を消してやりたいような衝動にかられた。


「何で俺の部屋にいるんだ?」

「道に迷ったんだ」

「ああ…城の中は複雑だもんな」


苦笑しながら、必死で穏やかな声を作ってエラの頭をまた撫でる。気持ちよさそうに目を閉じたエラがまた眠ってしまわないよう、また言葉を続けた。


「部屋に戻ろう。送って行くから」


その言葉に、エラは小さく呻く。その声すら甘ったるいのは、今この場で緊張の糸を完全に緩めているせいなのだろう。

安心してくれている、気を許してくれている。そんな気がした。


「もう歩きたくない」

「此処で寝る気か?」


うーんとまた声を漏らし、もう嫌だとベッドに顔を押し付けたエラが起き上がる様子はない。こんなに寝起きの悪いやつだったのかと苦笑しながらも、アルフレッドはやれやれと溜息を吐く。


「寝ても良いから、せめて布団を掛けろ。暖炉に火が入っていても冷えるんだから」


それくらいならばともぞもぞと動くエラに合わせ、体の下に入り込んでいた布団を引き出してやる。最後は無理矢理引き抜く恰好になったが、ころりとベッドに転がったエラの上にそっと布団を掛けてやれば、満足げに目を閉じるエラが体を丸める。


「全く…俺はソファーで寝るから、気が済んだら起こせよ。部屋まで送ってやるから」


おやすみと最後にもう一度頭をぽんぽんと撫でた手を、エラはしっかり握って離さない。うっすらと開いた目が、じっとアルフレッドを見つめた。


「…ここにいて」


この女は何を言い出すのだ。

仮にもアルフレッドは同じ年頃の男で、しかもエラに求愛しているのだ。好きだの愛しているだの散々言っている男に、その言葉に対する返事もしていないのに同じベッドで眠れと言うのか。

なんて残酷な事を言うのだと苦笑したが、眠そうにしているのにしっかりと離さない手を振りほどける程、アルフレッドは優しい男になりきれなかった。


「後で怒るなよ」


お前がそう望んだんだと、誰に向けるでもない言い訳をしながら、アルフレッドも布団に潜り込む。何処にも行かないというのに、体を摺り寄せるエラをしっかりと抱きしめながら、アルフレッドはエラの額に唇を落とす。


「おやすみエラ、良い夢を」


良い夢なんて見られるだろうか。あれだけ酷い世界を見てきたのだから、きっと悪夢にうなされるだろう。王都に向かう馬車の中でも、エラは転寝をする度に魘され跳び起きていた。周囲を見まわし、安全だと確認するまでうっすらと魔力を放出し、馬車の中は冷たく冷え切った。


どうか今は、今だけは穏やかな夢を見てほしい。そう願いながら、アルフレッドも静かに目を閉じた。


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