不調
友人が優しく微笑む。楽しそうに笑うその顔が大好きで、時々喧嘩をしてもいつの間にか仲直りをして、いつも通り甘い物をこっそり食べる。そんな時間が好きだった。
「エラが月の魔女って呼ばれるの、何だか想像出来ないわ」
「だって私の知っているエラは、いつだって問題児なんだから」
そう笑ったアメリアが、大好きだった。
同じテルミットに配属され、休日が被ったら一緒に何処かへ行こうと約束していた。結局それが果たされる事は無かったけれど、時々手紙のやり取りをして、元気にしている事を確かめ合った。
もう二度と、あの優しい笑顔を向けてはもらえない。どうしたって、あの優しい友人が、名前を呼んでくれる事は無いのだ。会いたい、会いたくて堪らない。守ってあげられなくてごめんなさいと詫びたかった。
きっとあの優しいアメリアは、そんな詫びなど望んではいないだろうけれど、それでもエラは謝りたかった。
「エラ、あのね」
ああまただ。何か言いたそうにしているアメリアの体がぐらりと揺れる。助け起こそうとするのだが、その顔は酷く腫れあがり、アメリアなのかすら分からない。
最期に見た、あのアメリアの姿だった。
「嫌だ!」
叫んだエラの声に、アルフレッドがびくりと反応して起き上がる。
腕の中でパニックを起こしているエラを必死で抱きしめ、泣き喚く背中を何度も摩った。
大丈夫だ、悪い夢だ、ここは安全だと耳元で囁き、荒い呼吸を繰り返すエラを安心させようと必死になる。
「なんで!何でアメリアが!嫌だ離せ!私に触れるな!」
パンと渇いた音がする。
その音にハッとした顔をして、エラはゆるゆるとアルフレッドの顔を見上げた。
平手を入れてしまった事に気が付くと、さっと顔を真っ青にして小さく「ごめんなさい」と詫びた。
「落ち着いたか?」
ひりひりと痛む頬を摩りながら、アルフレッドが問う。こくりと頷いたエラは、アルフレッドの胸に頭を預けた。
少し眠ったおかげで多少動くようになった頭で、何故今アルフレッドと同じベッドで眠っていたのかを必死で考える。
漸く自分が勝手に部屋に入り込み、眠っていたのだと気が付くと、小さく呻きながらまた詫びた。
「まさか部屋に勝手に入り込まれ、ベッドまで使われた挙句寝起きに平手打ちとはな」
「悪かった…ごめん、迷惑かけた」
頭を抱え、腕の中で呻くエラをもう一度抱き直し、アルフレッドは見えないのを良い事に小さく微笑む。
魘され、叫びながら目を覚ました事は心配だが、弱った姿を見せて、こうして腕の中で大人しくしてくれているのが嬉しいのだ。
なんて歪んでいるのだろうと嫌になる。だが、この女が愛しくて堪らないのだ。今だけは、誰も知らないエラを一人占めしている。もしかしたらこの先、エラを抱きしめる男が自分ではない別の誰かになるのかもしれない。
それを考えると酷く重たい気分になったが、そうさせなければ良い、ここに収まってくれるようにすれば良いのだとほくそ笑む。
「エラ、腹減って無いか?何か持ってこさせよう」
「食べる気分じゃない…」
「死体の山の前で食事してたのに?」
冗談めかして言ってみたのだが、エラが突然口元を抑えて体を丸める。吐きそうなのだと判断し、背中を摩ってやれば、深呼吸を繰り返しながら体を起こした。
「言うな…」
「ごめん…どうしたんだ?」
「何が」
「何だか様子が可笑しい様に見える」
馬車の中から何となく様子が可笑しいのだ。疲れているのだろうと思っていたが、それにしたって弱りすぎだ。
普段のエラならば、何か腹に入れて眠れば回復すると言って食事を詰め込むのに、今は真っ青な顔で口元を抑えて必死で呼吸を繰り返している。
「体調悪いのか?」
「疲れているだけだから心配無い。アルだけ食べてくれ」
「いや…うん、まあ食べるけど」
自分が食べている物を少し分けてやれば、一口だけでも食べてくれるだろう。そう判断し、アルフレッドはそっとベッドから抜け出そうとする。
「…何?」
床に足を降ろそうとしたアルフレッドが動きを止めた。寝間着の裾をエラが握りしめたからだ。真っ青な顔で、行かないで懇願するような顔をしたエラは、何故自分がこんな事をしているのか分かっていないらしい。
「いや…何でもない」
困惑したまま、エラはそっと手を離す。ベッドの上で気まずそうな顔をしているが、部屋を出て行こうとするアルフレッドに向ける目はやはり不安そうだった。
「食事を貰ってすぐに戻るから」
そう言い残して静かに閉じた扉の向こうで、思わず緩んでしまった頬を必死で手で隠す。誰かに見られたら何を思われるか分かったものではないからだ。
自分でもどうかしていると思う。
誰にでも期待され、月の魔女として熱望されるエラが、今ああして弱り切った姿で自分の腕の中に納まっていたのだから。
ずっと望んでいた。
ただの一人の女として、守らせてくれる人として一緒にいてくれたならと。今それが叶うかもしれないと思うと、どうしたって緩んでしまう頬を引き締める事なんて出来そうになかった。
「…顔、すげぇ気持ち悪いけど」
「見るな」
呆れ顔のアイザックがカラカラと食事を乗せたカートを押しながら現れる。なんてタイミングだとじとりと視線を向けるが、ニタニタと笑うアイザックは扉に向けて顎をくいと動かした。
「中か」
「何がだ」
「お嬢だよ。何処にもいねぇって大騒ぎだったぜ?」
「自分から来たんだ。追い返す理由も無いだろう」
「それで一晩一緒でしたーってか。あーあ、これじゃ月は王位継承権の無い第二王子に抱かれたって大騒ぎになるな…」
大袈裟に嘆く真似をしてみせるアイザックだったが、アルフレッドはにんまりと笑う。そう噂されるならばそれで良いのだ。エラ・ガルシアは、何も持たないアルフレッド・ハワードのものであると、好き勝手に噂をすれば良い。
逃げられないように外から埋めて、じわじわと追い込んで捕まえれば良いのだ。
「わーるい顔。そういうとこ父親そっくりなのな」
「一緒にするな。俺はあそこまで腹黒くない」
「どうだか」
いい加減退けとアルフレッドを蹴散らし、アイザックは無遠慮に部屋の扉を開け放つ。怯えたように視線を向けるエラに言葉を失っていたが、入って来たのがアイザックであると理解したエラの嬉しそうな顔に、何も言えないまま複雑そうな顔でカートを押して入って行く。文句を言いたいのを堪えながら、アルフレッドも同じように部屋へと戻った。
いくら腐れ縁とは言え、今はエラと二人きりになりたい。弱った姿を見せたくなかった。だが、エラは三人でいる事を望んでいる。彼女の望む事を、自分の身勝手な嫉妬で却下してはいけないのだ。
「お嬢が此処に居るんじゃないかと思って、ちょっと多めにかっぱらてきた!一緒に食おうぜ」
「いや…ちょっと、食欲が無くて」
「果物くらいならどうだ?ちょっとは食えよな」
てきぱきと小さなナイフで果物を切るアイザックに、怯えた表情を向けるエラはどうしたのだろう。見ているのは手元のようだ。
「…ザック、それをエラに見せるな」
それとは何だと小首を傾げたアイザックだったが、エラがじっと自分の手元を見ている事に気付いたらしい。慌てて背中を向け、ナイフをエラの視線から外してやるのだが、強張ってしまったエラの体は、なかなか力を緩めてはくれなかった。
「なーあお嬢、これ食ったら少し散歩でもしようぜ。お嬢が何処にもいねぇって大騒ぎなんだ」
「あー…そうか、客間にいつまでも戻らないんじゃ騒がれるよな」
「騒ぎ出したの朝だけどな。この城の警備どうなってんだ?」
「さあな。多分消耗したエラなら簡単に何処かに行ったりしないと思ってたんだろ」
「それでも世話する人とかさあ」
「それは私が煩わしいから来るなと言った」
もうこのじゃじゃ馬娘!と声を上げながら、アイザックは小さく切った林檎をエラの前に出した。勿論ナイフはさり気なく隠したし、にこにこといつも通りの笑顔を意識した。
食べたくないと眉間に皺を寄せるエラに、アルフレッドが無理矢理口元に一切れ持って行く。かさついてしまっている唇に押し当てられてしまえば、嫌々ながらも小さく口を開いた。
自分の手から食べてくれた事がこんなにも嬉しいとは。ゆったりと微笑みながら、アルフレッドは「美味しい?」とエラに問いかける。
「…もういらない」
気分が悪いのだろう。口元を抑えたエラは、これ以上何も入れてくれるなとベッドに体を横たえる。
「相当疲れてるんだな…散歩はやめとくか。お嬢が見つかったって俺が言っとくから休んでろよ」
後は任せたとアルフレッドに軽く手を上げ、アイザックは忙しなく部屋を出て行く。
今度こそ二人きりに戻れたこの部屋で、何をして過ごそうか。食事を拒否されるのなら、何をすれば良いのか分からない。
「まだ寝てていい。食事が終わったら声をかけるから」
「そうする…」
ぐったりと枕を抱きしめたエラは、そのまま小さな寝息を立て始めるのだった。




