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余計な事を考えている暇は無かった。夜空と謳われる三人が、豪奢な軍服に身を包み、堂々とした足取りで現れたのだ。

まだ若い次期魔王とその側近たちが率いる隊では心配だと不安がっていた隊員たちは、皆目を輝かせて頭を下げた。

目の前に広がる人の頭、頭、頭。全て自分たちに向けて下げられている。夜空よと誰かが声を発した。期待するような目を向けながら、ゆっくりと上げられた顔は、誰もが高揚していた。


吐きそうだった。この人達は何を期待している?何を勘違いしている?この場に立つ三人はただの若人だ、小童だ。確かに強大な魔力を持っているが、ただそれだけ。


上手く扱えているかと問われればそうでもないし、無尽蔵の魔力があるのかと言われればそれは否だ。使いすぎれば倒れるし、ただそれが人よりも遅いというだけ。


「大丈夫かお嬢」

「ああ…問題ない」


必死で真顔を作り、エラはサラに言われた通り「威厳を持った氷の魔女」を演じ続けていた。エラという女を知っている者が見たら、きっと笑いを堪えるのに必死なのだろう。慣れない「演技」というものに苦労しながら、エラは真っ白な馬に揺られていた。


「何か、お嬢じゃないみたいだ」

「中身はいつもと変わらないさ。ただ、今は魔女を演じているだけ」


エラを守るように、アイザックとアルフレッドの馬が両脇を固める。何も持たない王子様と、そのお付きの人間。どうしてお前たちがそこにいるのだと睨みつける者は多かった。偉大な魔女となるその人を守るのは、正真正銘の魔族である自分たちの誰かだとでも思っていたのだろう。

だがその役目は奪われた。エラが望んだ事だったのだ。魔女をきちんと演じるから、せめてアルフレッドとアイザックを傍に置いてほしいと。


一人でいるのが怖かったという事もある。だが、これだけ近くにいれば、何かあった時に咄嗟に守ってやれると思ったのだ。


「無理するなよ。まだ道のりは長いんだから」

「分かっている。あまり喋るな」


ぼろが出るから。困ったように眉尻を下げ、こんな言い方をしてごめんとアルフレッドに目を向けた。

その途端に思い出す、ほんの少し前の出来事。城を出て既に三日が経過していたが、エラはアルフレッドの顔を見る度にあの事を思い出していた。


愛していると言われた事は忘れていなかった。アルフレッドが自分に向けている感情が何なのか、分からないわけでは無い。きっと、エラもアルフレッドに同じ想いを向けている。だが、それを素直に受け入れ、甘える事は許されない。そういう立場なのだ。


エラは月の魔女。アルフレッドは仮にも魔王の息子、王子だ。

結局あの女は王家に囲われた、何も持たないとはいえ、王家の血を望んだ。そう思われたくないような、アルフレッドと共に生きると決めた時、もう傍らにいるアイザックとの関係はどうなってしまうのかだとか、そういう余計な事を考えては、抱えてしまった感情に蓋をして仕舞い込んだ。


それなのに、穏やかに微笑むこの男はあっさりとその蓋を開こうとした。むしろこじ開けると言っても良いだろう。

兄であるテオドール、同期であるサラ、幼馴染であるアイザックの視線を全く気にせず、あっさりと唇を奪いに来たのだ。

抵抗する事すら出来なかった。反応すらも出来ない。昔から近い距離にいたというだけで、何をされるかも分からないのに、その動きに身を任せてしまっていた。


嫌では無かった。だが嬉しいのかと問われれば分からない。困惑の方がしっくりきた。

どうすれば良いのか、あの出来事は忘れてしまった方が良いのか、それとも受け入れてきちんと考えるべきなのかも分からない。


分からないから、エラは今必死で魔女を演じる事だけに集中した。


「月の魔女様、お待ち申し上げておりました」

「守備は」

「は、何事も無くお守りしております」

「そうか」


北の地と呼ばれるミングル地方の入り口で、領主は恭しく頭を垂れた。後方に続いている人数にひくりと口元を引き攣らせ、まだマメの様に小さなテオドールとサラに視線を向けようと首を動かした。


「我が夜はまだ後ろに控えていらっしゃる。私では話にならないとでも言いたげだな?」

「滅相もありません!ただどれ程の軍を率いていらっしゃるのかと…」

「それを貴様が気にしてどうなる?」


お前はただ私たちをこの地へ入れ、物資を提供し、ひと時の間休ませ送り出せばそれで良い。

ひやりと背中を冷やす程冷たく射抜くエラの緑の瞳に、領主はごくりと喉を鳴らした。

まだ若い女、年齢もまだまだ若い。だが、真っ白な軍服に身を包み、真っ白な馬に跨ったまま静かに自分を見下ろしてくるその女の高圧的な雰囲気に気圧されたのだ。


「どうぞ、お通りください」

「進め、殿下をお待たせするな」


静かに命令するエラの声に、軍は静かに足を進める。がちゃがちゃと装備が立てる音が耳障りだ。此方をじっと見てくる住民たちが、あれはなんだと言いたげな目を向けた。それを気にしないように必死で背中を伸ばし、ただ真直ぐ前だけを睨みつけた。


「子供が邪魔だ。退かせろ」

「は」


このまま進めば、住民の子供が巻き込まれる。馬に蹴られればただでは済まないだろう。普段のエラが持つ優しさだったのだが、進むのに邪魔だから退かせろと理解した男はさっと走って子供の襟首を掴むと道の端へと放り投げた。


「何を!」

「邪魔だ。道を塞ぐな」


子供の母親らしき女性が、怒りを露わに男に食って掛かる。怒って当然だと眉間に皺を寄せながら、エラはその騒ぎの前で馬を止めた。


「子供を投げるな。退かせろとは言ったが、投げろとは言っていない」


不機嫌さを隠しもせず、エラはそっと馬から降りて泣いている子供を抱き上げた。まだ五歳程度の子供だ。突然見知らぬ武装した男に掴まれ放り投げられたら恐ろしくて堪らなかっただろう。怪我は無いかと手早く確認し、エラはそっと子供に微笑みかけた。


「怖かったでしょう。怪我は無い?」

「うん、だいじょぶ」


えぐえぐとしゃくりあげながら、子供はまた投げられるのではないかと体を強張らせた。怖がられて当然だと苦笑しながら、エラはもう一度子供に微笑みかけてから母親に返してやった。


「ご婦人、部下が手荒な真似をして申し訳なかった。怪我は無いようだが、怖い思いをさせてしまった」


すまなかったと、さらりと髪を落としながら頭を下げる。慌てた母親がそれをやめさせようと必死に言葉をかけるのだが、目の前で頭を下げる女が何者なのか理解したのだろう。ぴたりと動きを止め、口をぱくぱくと動かした。


「月の、魔女様…」


ああやっぱりそうか。国の何処でも知られている話。白銀の髪を持った月の魔女、エラ・ガルシア。名前は知られていないようだが、月の魔女という存在は知れ渡っている。


「月の魔女様に抱き上げられるなんて!」

「え…?」

「この子はきっと幸せに一生を終えるでしょう!ありがとうございます、魔女様!」


感激だと涙を浮かべ、女性は息子をきつく抱きしめた。よく見ると疲れ切ったように顔色が悪い。此方を見ている人々は皆、疲れ切ってるように見えた。


「何が…」

「魔女様、ご報告いたします」


恭しく頭を下げたアイザックが、苦々しい顔をしながらエラに跪く。何だと視線を向けると、聞きたくもない現実を突き付けられた。


「隊が東に集められ、北の国境を守っているのは訓練も受けていない一般人の男が多くいると聞きます」

「…では、この者らのこの様子は」

「男手を奪われ、働き詰めにされているせいかと」

「成程な」


舌打ちをし、エラはぐるりと民衆を見まわす。遅れてやってきたテオドールとサラも、様子が可笑しい事に気付いたらしい。顔を顰めないのは普段から慣れているせいなのだろうが、その目は確かに「これでは駄目だ」と言っていた。


だが、この苦しい情況でも食糧を始めとした物資は貰っていかなければならない。大勢の兵を連れてきた。戦う前に飢えさせては意味が無いのだから。


「領主、終戦後貴様は城へ。話がある」

「は、はい、殿下」


ぎくりと体を強張らせた領主は、哀れになる程青ざめていた。


◆◆◆


どこを通っても民は苦しんでいる。アルフレッドとアイザックは「ステプよりはマシ」と言うが、それでもこの国である筈がなかった飢えが民を苦しめようとしていた。


夜空が現れた、これで救われる、生きて行ける。

希望に満ちた視線を向けられる事にも慣れた。戦場に近付くにつれ、それは更に色濃くなった。なけなしの食糧をありったけ差し出す家もあった。それをやんわりと断り、お前たちで食べなさいと促す度に、何故かエラは「慈悲深き月の魔女様」とあがめられた。


「勘弁してくれ…」

「良いじゃないか、指示されるのは」


くっくと喉を鳴らして笑うアルフレッドを睨みながら、エラは与えられている大きめのテントの中でぐったりと力を抜いていた。

寒い土地だろうが気にするでもなく、上着を脱いでシャツ姿になると、ふうと大きく息を吐いた。


「冷えるぞ」

「これくらい何ともない。重いんだよ、これ」


傍らに置いた真っ白な上着。相変わらず見事な刺繍だが、おかげで重たくなっているそれが恨めしい。

皺になると言って広げて掛けてくれるアルフレッドが、そっと毛布をエラの肩に掛ける。


ふと、テントの中で二人きりという事を意識してしまった。体を固くし、じっと動きを止めたエラを不思議そうに見つめるアルフレッドの目は、いつも通り優しく垂れる。


「どうした?」

「…別に」

「ああ、もういきなりキスなんかしないから安心して。お望みならいくらでもするけれど」

「出て行け馬鹿!」


ぶんと大きく振った腕を避け、アルフレッドは楽しそうに笑う。何てことを言うんだと顔を真っ赤にするエラは、すっかり普段のエラに戻っていた。アルフレッドなりの気遣いなのだ。この幕一枚向こうでは、月の魔女として振舞わなければならないエラの為、今このひと時だけは自然体でいられるようにと。


「少し休んだらまた進むんだろ?前線はもう目の前だ」

「ああ…本当に、何か奇跡が起きて辿り着く前に終わってくれるのが一番良いんだが」


ぐしゃりと髪を握り、エラは苛々と地面を睨みつける。どっかりと敷布の上で胡坐をかき、偉そうな口調になっているのはもう癖になり始めていた。


「そんな奇跡が起きてくれるのを、俺も願ってるんだけどな」

「叶わないんだろうな、どうせ」


舌打ちももう癖だ。きっと母が生きていて、こんな姿を見たら卒倒する。まだ軍人になる前のエラは、由緒正しきお嬢様だった。もう見る影も無いその過去を思い出し、自嘲するように口元を緩ませた。


「おじょーう、失礼しますよっと」


ひょっこりと顔を覗かせたアイザックは、許しを得る前にずかずかとテントの中に入り込む。流石に大人三人が入っていると少々狭い。


「何かあったか」

「いんや、飯と休憩が済んだら出るって女王様からお達し」

「分かった。ザックとアルも食べてくると良い」

「お嬢も食うの。ほれ」


ふわふわと湯気を立てる野菜がこれでもかと突っ込まれたシチューを差し出し、アイザックはアルフレッドにも同じものを差し出した。三人揃って膝を付き合わせそれを食べながら、黙々と咀嚼しては飲み込んだ。


「近隣の住民が差し入れてくれた。夜空の三人が飢えませんようにって」

「有難いな」


住民たちはきちんと食べられるのだろうか。前線に殆どの物を持って行かれているだろうに、何処でも皆何か差し出したがる。

サラの言っていた、「着飾った夜空の姿の効果」というのはこういう事かと最近やっと理解が出来た。


有難いと思う存在は、そう思われるだけの装いをすべき。そうした時の効果は絶大だから。


「早く帰りたい」

「帰ったらアルに滅茶苦茶アタックされるぜ?」

「別に今からやっても良いけど」

「黙って食え馬鹿共」


顔を赤くしながら怒ったところで、何の迫力も無いと、男二人はけらけらと笑った。


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