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殺意

アルフレッドたちがファータイルへ戻っている頃、エラは次の部隊が此方に来るだろうからと北の国境付近で陣を張っていた。元居た場所よりもかなり前に出てきたが、まだこの地は静かに冷たく凍り付いていた。

ハンスはこの場所にエラを置きたがらなかったし、ザッカリーも同じでデンバーに食ってかかった。だが、上の命令に逆らえないのは軍人の定めである。誰よりも後方で毛布に包まりながら寒い寒いと駄々を捏ねるだけのデンバーに、誰もが憎しみの籠った視線を向けていた。


あの日雪の中から掘り起こした同胞たちは、麓から上がってきた別部隊に預ける事になった。たった一人の生き残りになってしまったあの男は、呆然とした顔のまま仲間たちの亡骸と共に山を下りた。きっと彼はもう戦場に戻る事は無いだろう。心に深すぎる傷を負ったのだから、無理もない。


「エラ、大丈夫かい」

「はい、問題ありません」


じっと前だけを睨みつけるエラは、あれから一度も笑わない。表情を動かす事すら無かった。何処か遠くを見ているだけのぼうっとした目。普段のエラならば青筋を立てている筈のデンバーの態度にさえ、ただ冷たい視線をぼうっと空虚に向けるだけだった。エラもまた、心に深い傷を負った。


「何か食べた方が良い。昨日少しパンを齧っただけじゃないか」

「いりません。小隊長は何かお召し上がりになられてください。私はここで見張りをします」


明確な拒否。このままでは死んでしまうよと促されても、それで良いと固辞し続ける。空腹など感じないのだ。気絶するように数十分だけ眠り、それ以外はただじっと周囲を警戒し続ける。そんな生活をもう何日続けているだろう。もう少し山を登った方が良いのではないか。山の向こう、ほんの少し先ならば魔術も使える。此方に来る前に叩き潰してしまいたい。だがそれはデンバーが動きたくないという我儘のせいで叶わない。

苛立ちだけが募る。何もさせてもらえない。友人の仇を討つことも、これから此方に侵入しようとする邪魔者を排除する事すらも出来ない。ただこうして、じっと凍り付きそうな寒さの中待ち続けるだけ。あとどれだけこれが続く?全部潰してしまえば、此方に来られる道を氷の壁で塞いでしまえば良いのに。


「命令だ。エラ・ガルシア、何か腹に入れてこい」

「…はい、小隊長」


ああ、憎らしい。ただ自分よりも階級と立場が上だからと簡単に命令なんかして。普段へらへらと頼りないくせに、こういう時ばかり自分の立場を利用するのだ。

自分よりも上に居るやつらが嫌いだ。国で一番偉いからと人の生きる道を勝手に決める男も、動きたくないからと待機命令しか出さない肉団子も、何もかも嫌いだ。嫌になる。


「そう睨まないで。良いよ、ここで食べなさい。何か食べてくれれば俺はそれで良いから」

「…はい」

「それと、これは大隊長には秘密だよ」


にこりと微笑んだハンスが取り出したのは、テルミットの簡単な地図だった。土地勘のない者が見ても何が書いてあるのかすら分からないそれは、父が昔教えてくれたものをそのまま書き写したものだった。

仲間内で相談するには便利なものだが、敵の手に渡れば面倒なのが地図。それを敵には分かり難く、仲間たちでも一部の者しか分からないようにしておきなさいというのが、父の教えだった。


「慣れるまで時間がかかったけど、これはとても便利だね。月の模様が書いてあるようにしか見えないんだから」

「書くのは至極面倒ですが、お役に立てたのならば何よりです」


地図と共に出した保存食の袋をエラに手渡し、ハンスはその場に腰を降ろす。エラもその隣に腰を降ろし、食べたくもない干し肉をあぐあぐと奥歯で噛み締めた。ただでさえ固いのに、この極寒の地では半分凍っている。もっと寒冷地向けの保存食を開発してくれても良いのに。落ち着いたらサラにでも手紙を出そうと考えながら、エラはハンスの手元に視線wの向けた。


「ここ。ええと…ここからもう少し東かな?ここに人間が巣を作ってる。明日の朝日が昇る頃、ザッカリー中隊だけで潰しにかかるよ」

「大隊長には報告せず、ですか」

「どうせ何を言っても駄目としか言わないんだ。それに、この道はまっすぐ進めば君の実家の方だろう?」


すっと指で線をなぞった先には、確かにガルシアの屋敷がある。その更に向こうには集落があった。エラの居場所がこのテルミットである事は既に知れ渡っただろう。実家を人質にすれば大人しく出てくるとでも思っているのだろうが、残念ながらそんなに簡単に話が済むはずがない。ガルシアの主、アルバートはエラ程では無いが相当な腕を持つ術者だ。元々軍人一家であるガルシア家ならば、既にそれなりの数の人員を集めている。きっとエラが一声かけるだけで前線を埋め尽くせる程の人数が集まる筈だ。


「ガルシアは使いますか」

「いいや、万が一ここを突破された時に守ってくれる人達が欲しい。ガルシア家にはその役をしてもらいたい」

「…わかりました」


それならば、今自分に出来る事は分かっている。ハンスとザッカリーに従い、出来る限りの事をする。ただそれだけなのに、エラはそれが出来る程大人では無かった。じっと地図に見えない地図を睨みつけながら、半分凍った干し肉を咀嚼し、飲み込んだ。


◆◆◆


今日は空が明るい。冷たい空気が肺を満たし、ざくざくと踏みしめる雪は凍り付く。灯りも必要ない程明るい月はまん丸で、体の内側が冷え切る感覚で満ちていた。


ああ、今夜が満月で良かった。こっそり陣から離れるのは難しかったし、どうせハンスあたりにはバレているのだろうが、後をついてくる様子もない。自分が何をするつもりなのかもきっと分かっていて知らぬふりをしてくれている。出来ると分かっているからだろう。


「ああ…最低な夜だな」


大嫌いな月。大嫌いな白銀。それに紛れるのに最適な自分の色。誰も動く気配のない静かな夜。ざくざくと雪を踏みしめる自分の足音だけが静かに響くが、それを気にする事もなく、エラはただ目的を果たす為だけに歩き続けた。

どれくらい歩いたのかも分からない。ただ周囲の景色を記憶と照らし合わせ、自分が今どのあたりに居るのかだけを考える。遠くから何か燃やしている匂いがする。ああ、もうすぐだ。もうすぐ忌々しい人間を叩き潰せる。今夜は満月、月に一度のエラの最大限の魔力を使える日。最低で最良な夜だった。


「誰だ!」


エラに気付いた人間が剣を向けながら叫んだ。ぴたりと目の前で動きを止めてやれば、人間はエラの髪を見て口をあんぐりと開けた。


「こんばんは」


にこりと微笑み、可愛らしく小首を傾げる。こんな所で何をしていらっしゃるの?と優しい声色で話し掛けているのに、人間は口をぱくぱくとさせるだけだった。


「魔女だ!」


漸く叫んだ言葉がそれか。すっと細めた目で後ろを振り返った人間を睨みつけ、エラは右手を肩の高さまで上げた。掌に冷気が集まっていく。酸素の少ない純度の高い氷を生み出したい。赤子の掌くらいの大きさの、固い氷を。その想像をそのままに、エラの掌には透明な氷の球が乗っていた。


「動くな!」

「そんなに大きな口を開けるもんじゃない」

「がっ」


威嚇するように大口を開けた男の口の中に、勢い良く氷の球を叩き込む。掌を男の口を覆うように置いたままなのは少々不快だが、突然口の中を襲う冷たさに一瞬動きを止めた隙を逃すものか。

氷よ、質量を増せ。この男の顎を外せる程の大きさに。出来れば肉を抉るように滑らかさを失ってくれ。


「ぁがっ…!あ…!」

「成程、案外うまい事出来るもんだな」


痛みに体を折りたたんだ男を蹴り上げ、地面に叩き付ける。涙を零しながらエラを見上げる人間の顔は、口元から溢れる血液で濡れている。いい気味だ。お前たちは仲間たちにもっと酷い事をしたのだ。この程度で終わらせてやると思うなよ。


「ああそうだ…お前、うちの支援部隊を襲ったか?」


痛みに呻きながらも、敵襲だと仲間に助けを求めたい人間はずりずりと雪の上を這って行く。逃がさないとその背中を勢いよく踏みつけ、エラはもう一度同じ質問を繰り返した。


「うちの、支援部隊を、襲ったか」


言葉を切りながら、耳元で囁くように、低く唸るように言葉を紡ぐ。ふるふると首を横に振る男は、助けを求めるようにエラを見た。大きな月を背負うようにして、白銀の魔女が殺意たっぷりの目で自分を見ている。それがどれだけ恐ろしいことだろう。エラは全く意図していなかったが、白銀の魔女は満月の夜に力を増す事も知れていた。今夜だけは現れませんようにと願っていた人間達の前に、美しくも恐ろしい魔女が現れたのだ。


「そうか、お前たちじゃないのか。なら襲ったのはどこの馬鹿だ?どこにいるのか教えてくれないか」


教えろと言っても、口の中をズタズタにされた男では話にならない。これは失敗したなと溜息を吐いた時だった。叫び声がしていたなと気付いた人間達が、ぞろぞろと野営場所から出てきたのだ。仲間を踏みつけている白銀の髪を持つ女に、男たちは歓喜の声を上げた。当たりだ。月がいる。数で押せば何とかなるだろう。あちこちから聞こえるそんな声が、エラの苛立ちを更に増した。


「丁度良い。お前たち、うちの支援部隊を襲ったか?」

「ああ…?」

「山の中腹あたりにいた支援部隊だよ。同胞を眠らせてくれたクソ野郎全員出せ」

「何を偉そうに…月だか何だか知らんが、所詮ただの魔族の雌だろうが!」


雌。成程お前たちはそういう目で魔族を見ているのか。ぴきりと額に青筋が立った気がする。すっと浅く息を吸い込み、エラを威嚇する男に視線を向けた。地面に踏みつけたままの男の背中に、もう一度足を叩き込む。苦しむ声と共に、バキバキと氷が一直線に男の元へ走った。


「その口ぶりからすると、お前たちで当たりだな?」

「は、化け物退治をしてやっただけだ。それの何が悪い?」

「分かった。もう良い」


こいつらは呼吸する事すら許されない。可哀想なアメリア。こんなゴミムシ共に良いようんされ、寒い雪の中に埋もれていただなんて。守ってやれなくてごめんなさい。どうかもう一度だけで良い、私の名前を呼んでほしかった。


「お前、嘘を吐いたな。首を横に振っていたな?違うという意味だろう?それとも人間は首を横に振るのが肯定の意味か?」


もう虫の息になっている男をぐりぐりと踏みつけながら、エラは不機嫌そうに低く唸る。周囲に流れる空気は先程よりも冷たく痛い。人間達はその異変に気付いていないようだが、エラは確実にこの男たちを叩き潰せるだけの魔力を練っていた。

演じろ。出来るだけ頭の可笑しな女を演じろ。仲間を殺されて怒り狂っているのは本当だが、理性を失うような怒り方はしていないつもりだ。油断させろ、ただ虫の息になった人間をいたぶる魔族の女を演じろ。気付かれる前にやれ。


「さっさと捕まえろ!生け捕りだ!」


リーダー格らしい男がまた吠える。先程足元まで伸ばしてやった氷がそれ以上動かない事で油断したのだろう。その氷に足を乗せた瞬間を、エラは待っていた。


「馬鹿が」


男の脚が凍り付く。それに気付いた時にはもう遅い。男の全身を凍り付かせ、そこを起点に野営地全てを覆うように氷を這わせていく。まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた氷に、男たちは動きを止めた。


「さ、次は誰だ?」


にっこりと微笑むエラの足元では、もう人間は動かない。微かに動いていた背中はぴくりとも動かず、呼吸を止めている事に気付いた者はひくりと喉を鳴らした。


「まあ、誰だって良いけど」


パンと渇いた音が響く。あちこちから悲鳴が上がる。這わせた氷が人間の体を貫くように尖った支柱を地面から突き上げさせるからだ。散らばる赤、赤、赤。月明りに照らされた白銀の世界で、その赤はとても美しい花のように思えた。


「ああ駄目か。下からじゃよく見えない」


逃げようと必死でエラから距離を取る人間の群れ。それに視線を向けながら、エラはふむと口元に手をやって考える。

下から見えないのなら上から見ろ。それは至極当然の考えだ。どうせ朝になる頃には仲間がここに来る。それならば、自分がどうなっていようと人間どもを叩き潰しておけばそれで良い。


エラがゆっくりと両腕を広げ、月に向かって縋るように手を向ける。祈るように合わせられた手を見つめながら、エラは生まれて初めて祈りを口にした。


「忌々しい月よ、氷の精霊よ。憐れな愛し子に全てを凍てつかせる力を」


パキパキと音を立てながら自分の脚が氷で覆われていく。体ごとその氷を上に伸ばし、人間達を見下ろせるだけの高さへと上がる。合わせていた手をもう一度大きく開き、今度は背中の辺りに魔力を集中させた。いつかやってみせたあの技を、無数の氷柱が降り注ぐあれを。この場で怯えている人間全てを貫いてやろう。


「くそ…死ね魔族!」

「殺すな!」


ああそういえば弓なんてものがあった。左腕を射抜かれ一度体勢を崩すが、そんな痛み程度で怯む程軟ではない。じろりと上から弓を射った人間を睨みつけ、お返しだと指を向けた。


「死ね人間」


ぽつりと零した言葉と共に、勢いよく氷の矢が男の体を射抜く。一本だけで満足してやる程優しくはない。幾本もの矢が体に突き刺さった男は、何も出来ないまま雪に倒れ込んで動かなくなった。


何だ、簡単じゃないか。魔術も使えない非力な人間を殲滅するなんて簡単だ。だって私は普通じゃない、強大な魔力を持ち、今夜は満月の加護を受けている。この場に居る全てを物言わぬ肉塊にするなんて簡単だ。


にたりと口元が弧を描く。笑っている事にも気が付かず、エラはもう一度両腕を大きく広げて魔力を練り上げる。空中に現れた巨大な氷柱の先は鋭く、それが幾つも浮いているのだ。言葉を失った人間達が動きを止めてくれるのは有難かった。

広げた腕を勢いよく体の内側に向けて振り抜く。その動きに合わせ、生み出されたばかりの氷柱たちは人間たちに向けて降り注いだ。


「皆、嫌いだ」


癇癪を起した子供のように、何度も何度も自身の体を支える氷に拳を叩き込む。涙がこぼれるのは拳が痛むからなのか、友を殺された悔しさなのか、悲しさなのか、もうよく分からない。ただ、今は訳の分からない感情を何かにぶつけていないとやっていられない。

悲鳴が徐々に消えて行く。衝撃音だけが響き、ふと気が付く頃には辺りは氷の柱が無数に突き刺さる荒れた雪原が広がっていた。

人間「だったもの」たちは、それが人の形をしていた事すら分からない程に崩れていた。もう誰も何も話さない、動かない。絶望したように此方を見たまま絶命している男の顔が、エラを責めているように思えた。

もう何も考えたくない。疲れた。寒い、寒くて堪らない。アルフレッドに会いたい。いつも満月の夜は迎えに来てくれたのに。早く迎えに来てくれ、もう疲れて動きたくないんだ。そんな事を考えながら、エラはだらりと体の力を抜く。氷が支えていない腰から上が、地面に向かって垂れさがる。首から下げていた緑色の石が、キラキラと月の光を反射して輝いている。


疲れた。そっと目を閉じ、考える事をやめたエラは、肉塊と氷の柱の真ん中で意識を手放した。


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