12:必ず助けるから
「ぎゃああっ!」
背筋を凍らせるほどの絶叫が、森を揺らして響き渡った。
聖剣によっ斬り落とされた足は端から炭化するようにぼろぼろと崩れ、アラクネは紫色の体液を撒き散らしながら地面をのたうち回っている。その姿を見て、美言は若干の恐怖を感じてしまった。
魔物と言ってもアラクネの上半身は人間だ。だからなのか、一瞬人を傷つけてしまったと脳が誤認する。
これが昨日みたいに人の姿をしていないリザードマンだったら、そこまで躊躇はしなかっただろう。けれど髪を振り乱し、苦悶の表情を浮かべて睥睨してくるアラクネの姿に、美言の体は硬直してしまった。
「ミコト!」
耳元で強く名を呼ばれ、美言の意識が強制的に引き戻された。けれど後れを取ったのは美言の方で――アラクネは少し離れた場所にいたヘイちゃんを突き飛ばすと、枝の網に落ちていた繭のひとつを奪ってしまった。
「あ……っ!」
「よくも……っ、よくもやってくれたわね!」
血走った目で美言を睨みつけたまま、アラクネは腹から糸を出して再び木の上に飛び上がった。さっきの一撃のあと地上へ降りていた美言たちもすぐさま後を追おうとしたのだが、アラクネが勝ち誇ったように笑ったのを見てそれ以上動くことができなかった。
頭上に張られた巨大な蜘蛛の巣の真ん中で、アラクネが見せつけるように繭を切り裂いたのだ。中から引きずり出されたのは――。
「ユウ君!」
「動かないで。少しでも動いたら、この子の喉を切り裂くわよ」
アラクネの足がざわざわと動き、鋭い爪の先がユウ少年の喉元に押し当てられる。
「やめて! 少しでも傷付けたら許さないわよ」
「それはあなた次第よ」
人質を取られ、劣勢なのは美言の方だが、アラクネも完全に優位に立っているわけではない。斬られた足からは今もなお気色の悪い体液が溢れ続けており、痛みに耐える顔には脂汗が滲み出ている。人質を取るということは、そうしなければこの場から逃げられないということでもあるのだ。
けれど手負いの獣ほど危険なものもない。少年の首筋をいたずらに掠めて撫でる爪が、いつその柔肌を裂いて貫くか分からないのだ。
「……うぅ、ん……」
どちらともが相手の出方を窺っている中、張り詰めた空気を揺らして少年の小さな声が漏れ聞こえた。
「……あれ? ミコ、姉……? なんで……」
「ユウ君!」
「ここ、どこ……」
寝起きのぼんやりとした表情は次第に覚醒し、やがて状況を把握したであろう少年の小さな体が跳ねるようにぎくりと大きく震えた。
「……うぁ……っ」
自分を捕まえている化け物の姿に、少年が恐怖のあまり声を詰まらせた。見開かれた瞳はあっという間に涙に濡れ、助けを乞うように美言の方へ手が伸ばされる。その拍子に体が前に傾いて、少年はアラクネの爪に自ら首を突っ込んでしまった。
少年が、ひゅ、と息を呑んだ。痛みにすぐ体が硬直したため、幸いにしてアラクネの爪が彼の首を貫くことはなかったが、それでもわずかに切れた肌からはじわりと鮮血が滲み出ている。
「ミ、ミコ姉……」
堰を切ったように、ユウ少年の瞳からぼろぼろと大粒の涙が溢れ出した。その痛々しい姿を見た瞬間、美言の脳内で何かがぶつりと焼き切れたような気がした。
「アルトリウス」
「一撃でいける」
アルトリウスの動きに導かれるまま、美言は聖剣を正面に構えた。美言の視線の先にいるアラクネの姿を、構えた聖剣の剣先が重ねて捉える。
「ユウ君!」
あえて強めに名を呼ぶと、しゃくりを上げて泣いていた少年がハッとしたように目を瞠った。
「大丈夫。必ず助けるから!」
「ミコ姉……」
「怖いなら目を瞑って。一瞬で終わらせるわ」
言霊を載せて発した言葉は、自分への自信にも繋がる。それは剣を振るう力にも関係していて、美言の決意を表すように聖剣が美しい金色に輝いた。
『あぁ……ハニー。君の決意は、まるで蜂蜜に浸した赤いバラのように甘美な味がするよ。美しいけれど棘のあるバラと甘い蜂蜜のマリアージュが最高にボクの舌』
「行くぞ」
「うん」
ガリバーがまだ何か喋っていたが、構わずにアルトリウスが地を蹴って飛び上がる。アラクネよりも高い場所まで一気に駆け上がると、右手を頭上高くに振り上げた。
「ミコト!」
「えーーーーいっ!!」
『二人ともボクの話を聞い』
またもガリバーの声を遮って、美言は力いっぱい剣を振り下ろした。
「ぎゃああっ!」
甲高い悲鳴と共に、美言の手のひらに肉を斬り裂いた確かな感触が伝わった。
本当に一瞬だった。いくらアルトリウスが戦い慣れているといっても、美言にとってはこれが初めての魔物との実戦である。空中戦を強いられるし、人質がいる中での戦闘は決して楽とは言えない感覚だ。
それでも聖剣が敵に届けば状況は一変する。それほどまでに聖剣の力は絶対で、魔物にとっては死を呼ぶ脅威でしかない。
アラクネは上半身を斜めに斬り裂かれていた。斬り裂いたのは美言だ。人に似たものを斬る行為と感触に躊躇いを感じないわけではなかったが、それでもユウ少年を助けるために美言ができることは聖剣を振るうことだけだ。
斬られた箇所から、アラクネの皮膚がどろどろと溶けていく。人の皮が剥がれ落ち、中から現れたのは紫黒色の体毛に覆われた体だ。その体も聖剣から受けた傷を中心にして黒く変色していき、やがて傷口からほろほろと崩れ始めていく。
「……何でアタシが……こんな、女に……っ」
美言をぎろりと睨んだ顔のまま、アラクネの体が完全に塵となって崩れ落ちた。彼女の足に捕らえられていたユウ少年も空に投げ出されたが、瞬時に伸びてきた木の枝によって落下することを免れたようだ。眼下ではヘイちゃんが、褒められるのを待つ子犬のような顔で美言を見上げている。
「ユウ君!」
「……ミコ……姉……?」
一瞬気を失っていたらしく、ユウ少年は美言が何度か体を揺すってようやく目を開いた。
「もう大丈夫だからね」
「ミコ姉……。ミ、ミコ……っ」
嗚咽を漏らしながら、それでも泣き叫ぶのを必死に堪えたユウ少年の瞳から、再び大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。
美言の着物の袖を掴む手が震えている。その小さな手を温めるように包み込んで、美言は少年の体を腕の中に抱きしめた。びくりと跳ねた背中を優しく撫でて、もう大丈夫だと何度も繰り返し囁いてやる。
「大丈夫。大丈夫。よく頑張ったね」
「ミコ、姉……。俺……俺……っ、う、うぅ……うわぁぁん!」
美言の胸に縋りながら、ユウ少年が大声を上げて泣き叫んだ。小さな体に溜め込んだ恐怖が涙と共に流れ落ちるまで、美言はユウ少年をいつまでも抱きしめ続けた。




