光
離れ離れになったふたりの様子。
是非お楽しみくださいませ♪
アスランは再び花夏を追う日々を送っていた。
あの日、ふたりは海沿いを南下した小さな町の宿屋にいた。そろそろ支度をして宿屋から出ようかという時に、それは起こった。
空気が変わった。それまで生温かった湿気を帯びた空気が瞬時にひやりと冷たいものに変わったかと思うと、花夏の目の前に突如大きな穴が開いた。
アスランが立ち尽くす花夏の元に急いで駆け寄ると、まだ髪を結んでいなかった花夏は長い髪をたなびかせながら暗闇で出来た穴を凝視していた。その大きな瞳が語っていた。
この闇を知っている、と。
ずっと恐れていたその時が来た事をアスランは悟った。花夏を奪われる時を。だから必死に花夏を抱き締め闇から遠ざけようとした。だが花夏は動かない。じっとただその闇を見つめていた。その闇に惹かれる何かがあるのか、そう思えてしまう程。アスランが嫉妬してしまう程。
だが、違った。
それまでずっと闇を見つめていた花夏が身体を捻ってアスランを見上げた。その黒く濡れる大きな瞳からは暖かそうな涙がとめどなく流れていた。顎を伝って落ちた涙が、闇の中に吸い込まれていく。こんな状況なのに、アスランはそれを見て綺麗だと思ってしまった。花夏の一部は何でも輝いて見えた。全てが愛おしかった。
「アスラン、一緒に来ちゃ駄目」
涙をぽろぽろと流しながら花夏が言った。涙で濡れるその顔は、別離を覚悟した人間のものだった。かつて全てを捨てたアスランには見覚えのある表情だった。
「駄目だ、何言ってるんだカナツ!」
アスランが花夏を更にきつく抱き寄せ闇から花夏を引き離そうとするが、花夏を吸い込む力はどんどんその勢いを増していく。闇に、ズルズルと引き寄せられていく。
「アスランは死なせたくない」
花夏が悲しそうに微笑んだ。その顔すらああ美しいな、と思う自分に、今はそれどころじゃないと怒鳴りつけてやりたくなった。どうすればいい。どうすれば花夏を引き留められるだろうか?
「何で俺が死ぬんだよ! 意味分かんねえ! カナツが行くっていうなら俺も一緒に行くから!」
「シュウさんの声が聞こえた」
アスランには何も聞こえなかった。本当だろうか。
「こいつって誰だろう? でもその人はアスランを殺すつもりだって言ってた。私、前一度だけシュウさんの心の声を聞いた事があるんだ」
花夏の髪が闇に向かって勢いよくたなびいていた。なのに何で花夏はこんなに落ち着いていられるんだろう? どうしてそんな静かな顔をしているんだろう?
「本当の心からの声だったんだと思う。だから私の中に溜まったヤナの力が反応したのかな」
「カナツ、今はそんな事はいいからもっと下がって!」
アスランは足に力を入れて花夏を引っ張るが、闇がどんどん近付いてくる。いや、アスラン達が引き寄せられているのだった。
「アスランは死んじゃ駄目。約束して」
一緒に行く事を許してくれたのだろうか? とにかくアスランは死ぬ気は全くない。この先花夏と一緒にいる未来しか想像していなかったから。
必死で頷く。
「約束する! するから一緒に」
「行かない」
花夏が目を細めて笑った瞬間。
花夏の唇が一瞬だがアスランの唇に触れ、直後胸に衝撃が走り、アスランは後ろにひっくり返った。
「うわっ!」
後ろにあったベッドの角に背中を思いきりぶつけた。一瞬息が止まる程の衝撃だった。
「いってえ……カナツ! 何で蹴……!」
花夏がいる筈の場所を見上げると、そこには元の部屋があった。
闇もない。そして花夏もいなかった。
アスランは呆然とする。
「嘘だろ……? カナツ! カナツ!」
叫ぶが当然返事はない。
「カナツ……」
行ってしまった。アスランを残し、アスランの光が行ってしまった。アスランは座り込んだまましばし呆然としていたが、やがて立ち上がった。
ベッドの上には、結んであげようと思っていた赤いリボン。アスランはそれを手に取ると、マントを羽織り荷物を背負った。
アスランには花夏の気配が分かる。温かい光となってアスランを導いてくれる。それに今回の行き先はもう分かっていた。
ダルタニアだ。
「すぐ追いつく」
ぼそりと呟くと、アスランは再び花夏を追い求める旅に出発した。
コンコン、とアレンの自室をノックする音が響いた。
花夏の横に座ってくだらない事をひたすら喋っていたユエンが立ち上がり、扉に歩いて行った。
「はいはい、どちら様ですか」
返事を待たずに扉を開けた。あれでは聞いた意味がない。
「俺だ。一応確認してから開けたらどうだ」
ぬっと大きな男が部屋に入って来た。花夏は膝を抱えたままその男を観察した。黒髪、青い目。顔は端正で、何となくアレンに似ている。花夏がアスランの元からこちらに引っ張って来られた時に居た男だ。アレンの従兄弟で今は王の代理として玉座に座っている男。
花夏はこの男の声に聞き覚えがあった。そう、花夏をこちらの世界に連れて来た時に聞いた「みつけた」と言った声だった。ペラペラとあれこれユエンが喋る中にはこの男についての情報も含まれていた。ダルタニア王国王宮魔術師。花夏が信用出来る訳がない。
「セシル様、ユエンはいつもこうです。魔法攻撃が効きませんからね、どうもいまいち警戒心が足りてません」
セシルの後ろからシュウの声がした。花夏がはっと顔を上げた。
「カナツちゃん、遅くなってごめんね」
セシルの背中から、少し疲れた様子で懐かしいあの穏やかな顔が花夏に笑いかけた。
花夏の張りつめていた心が一気に緩んだ。
「シュウさん……!」
シュウを捕らえた視界が滲んだかと思うと、頬を温かいものが流れていった。泣いてしまった。シュウ以外信用出来る人間がいないのに、この部屋で泣いてしまっている。花夏は自分が負けた気になってしまった。
「……本当に、ごめん」
困ったようなシュウのその声色すら懐かしかった。シュウは花夏が座るソファーの横に座り、花夏の頭を手で引き寄せて自分の胸に引き寄せた。頬を花夏の頭の上に乗せて、また言った。
「ごめんね」
シュウも言いたい事は色々あるのだろう。ヤナの代わりにここに来る事になってしまった経緯の詳細は、ユエンがこれまたペラペラと話してくれた。シュウを脅した張本人が同じ部屋で倒れて寝ているというのに遠慮の全くないその態度に、花夏ですらヒヤヒヤしてしまった。だがあのお喋りなユエンのお陰で花夏の中で欠けていた情報はほぼ埋まっていた。
アレンの目的も。花夏を娶ろうと企んでいる事も。
だから咄嗟にシュウの言葉を信じてアスランを蹴ってまで自分から引き離した事は間違っていない、そう思えた。それだけはよかったと思う。絶対にアスランだけは生きていて欲しかったから。
「カルセウス殿。ここは俺とユエンとで見ておくから、一度彼女を休ませてあげたらどうだ? 奥の部屋が空いているから使うといい」
「セシル様、大丈夫ですか?」
シュウの低い声が触れた部分から響いてきた。これもまた、懐かしかった。触れる度に焦ってしまった過去の自分。それも今は只々安心出来るものになっていた。
セシルが笑いながら返答する。
「ユエンには魔法攻撃は効かない。アレンは俺には逆らえない。もし彼女の吸い取る力が多少弱まっても少し位は問題ないだろう」
「いえ、そうではなく、セシル様も大分お疲れかと」
立場的にはセシルの方が上なのだろうが、それ以上にシュウの言葉にはこのセシルという男に対する信頼のようなものが感じられた。花夏をアレンの命令するままこちらに連れて来たダルタニアの魔術師を、だ。更にシュウの事もダルタニアに連れて来たというのに、何故そこまで信用するのか。
「さっきのイリヤの言葉を聞いただろう? 俺は血反吐を吐こうが動き続けていられる程度は体力があるんだ」
「はは、そう言ってましたね」
シュウが軽く笑った。気を抜いた笑いだった。やはり、シュウはこの男を信用しているようだった。
「そのイリヤはどこに行ったんです?」
ユエンの声が不貞腐れたものとなっていた。一緒に来るものとでも思っていたのだろうか。考えてみればこの軽薄な男も何だかんだいってずっとこの部屋に拘束されているのだ、もしかしたらそろそろ飽きてきているのかもしれなかった。
「研究するって執務室に直行したよ。何かやりたい事があるらしい」
「本当自由ですね、あいつだけ」
「諦めろ。ずっとあんな感じだ」
「はは、でしょうね」
ふたりは軽口をたたき合いながらアレンのベッドの脇に移動した。
ユエンが声をかけてきた。
「宰相、宰相の大事なそのお嬢さんは食事はきっちり取りました。ただ殆ど寝てません。お風呂も入ってないので、湯舟に浸からせて少し寝させてあげた方がいいですよ。奥に風呂も付いてましたよ。流石王の自室って感じですね」
「分かった。ありがとう。そうしたら服を用意してもらえるかな?」
「分かりました」
シュウが花夏から離れて立ち上がると、花夏に手を差し伸べてきた。
「立ち上がれる? とにかく一回きちんと寝ないと持たないから休もう」
涙がようやく止まった花夏がシュウを見上げると、優しい水色の瞳が花夏を心配そうに見ていた。いけない、また泣きそうになる。
「大丈夫、です」
泣かないよう気合いを入れてシュウの手を取って立ち上がった。アレンの自室の奥の部屋へとシュウに連れられて向かう。背を向けるアレンから流れ出る赤い力をこの身に感じながら。
奥の部屋にはベッドが用意されていた。そういえば、ユエンが誰かに運ばせていた記憶がある。多分花夏用に用意していた物なのだろう。まだ誰も横になっていない証拠に布団は綺麗に整えられていた。
シュウは花夏をベッドに座らせた。
「お風呂沸かしてくるから。待ってて」
これもまた懐かしいお茶目な表情を見せて、シュウが風呂場と思われる場所に消えていった。
シュウは風呂場をキョロキョロと見回した。王の自室と言えど作りはどこもあまり変わらないようだった。大きいが浅めの湯舟に水を漕いで注いでいく。勢いが弱まるとまた漕ぐを繰り返す。
シュウは自分の手を見つめた。花夏の肩を抱いた手。それが今、小刻みに震えていた。
喜びで震えた。
もう片方の手で震える手を押さえる。ああ、会えた。ようやく触れられた。この震えが伝わってしまっていなかっただろうか。それ程の想いを花夏に対し抱えてしまっている事が花夏に分かってしまうと、彼女はきっと自分を避けてしまう。それだけは嫌だった。
セシルとユエンに感謝せねばならない。この先どう転ぼうとも花夏はシュウの物にはならなくとも、せめて今だけは花夏と居させてあげようという気持ちは伝わった。
他者から憐れまれようが構わなかった。
今この時間をシュウの記憶に刻む為だけに、シュウは花夏をただひたすら堪能する事にしたのだった。
次回は月曜日(2020/11/9)更新予定です。




