花
永春紡
彼女は浅桜美花の専属マネージャーで、第一発見者でもある。打合せに遅刻するようなことのなかった浅桜美花が、この日は連絡もせず、遅刻。先方に打ち合わせの日を改めてもらいたい旨を伝え、その日の予定も全てキャンセルした。早急に浅桜の自宅へ向かった彼女。電話を何度もするが、不在。インターフォンを何度鳴らしても応答がないので、渡されていた合鍵でドアを開け、中に入る。何度も名前を呼びながら、リビングに入っていく。いつもの綺麗に整頓された部屋の面影はなく、荒れ果て、壊されていた。怖かった。なんともない顔で浅桜が出てきてくれないかと懇願するほど不安に押しつぶされそうだった。部屋からは何の返答も物音一つさえしない。恐ろしいほどの静寂だった。
ポチャン
一粒の雫が水面に落ちるこの小さな小さな音がやけに大きく聞こえた。風呂場からだった。もしかしたら、そんな考えが頭をよぎる。脱衣所には無造作に脱ぎ捨てられた浅桜の衣服が散乱していた。風呂場のドアは少しだけ開いていた。軽く押しただけでドアは全開になり、赤く染まった風呂場が露わになった。
血に染まったタイル
真っ赤な水でいっぱいになった浴槽
指先から滴る赤い水
真っ赤な液体に肩まで浸った美しい裸体
何の像も写していない虚な瞳
血に染まったカッターナイフ
窓にはひとひらの桜の花弁
どれも鮮明に思い出せるほどに記憶にこびりついている。いつも笑いかけ、無邪気に話しかけてくれていた浅桜がただの屍と化していた。
何が起こっているのか、自分は何を見ているのか、これは現実であるのか、彼女の頭には何も映らなかった。ただ立ち尽くし、浅桜美花という人物の残骸を視界に入れているだけだった。ふと、ゆすってみたら、もしかしたら、目を開けて冗談だと言ってくれるのではないかとただそう思った。だから彼女は浅桜に近づいていった。一歩近づくごとに浅桜の身体にはもう血が通っていないことを感じた。それでも信じたくなかった。浴槽からだらりと垂れた腕を掴んでみる。人のものと思えぬほどに冷たかった。冷たい腕が諦めてくれと訴えかけているようだった。間近で見る浅桜はこの上ないほどに綺麗だと思った。その綺麗な血の気の失った頬に涙の線が見えたような気がした。彼女の頬に涙が伝う。彼女はただ胸の奥で、ひたすらに謝り続けた。
彼女が警察を呼んだのは、浅桜の遺体を発見してから数時間が経っていた。もちろん警察は彼女のことを疑った。彼女にはアリバイがあり、動機と証拠不十分のため、彼女の処遇は見送られた。彼女は何度事情聴取をされても同じことを淡々と話した。繰り返し話すことで、自分に言い聞かせているかのように。顔色を変えずに話す彼女だったが、浅桜の遺体の写真を見せられた時だけ、彼女の表情が強張った。
彼女の話から、浅桜美花は何かに悩んでいることがあったそうだ。不眠症も患っていたようだが、本人は人に頼ることや元気のない様子を他人に見せるようなことのない人物で、心配をしてもいつも大丈夫だとはぐらかされたという。いつかの紅葉柊が言っていたものと一緒だ。ストーカーの話もしていたが、直接の被害はそれほどなく、自宅に押し入られたことなどもなかったという。ただ、撮影現場や打ち合わせ場所で待ち伏せをしており、執拗に追いかけてくるなどの行為があった。共演者や他の芸能人とも交流はあったが、プライベートで深く関わることはない様子だったとのこと。本人の生い立ちから、簡単に人に心を許すことはないと彼女は考えていた。だからこそ彼女もある程度の距離を保ちながら見守ることにしていたと話していた。浅桜美花という人物像が彼女の話で少しずつ見えてきた。恐らく彼女は浅桜の唯一の理解者であったのだと考えられる。最も、彼女はそんなことは思ってもいないようだったが、テレビやS N S、他の関係者のどんな人よりも浅桜についての質問に何の迷いもなく答えている。
「永春紡さん、あなたが亡くなった浅桜美花さんのマネージャーであり、第一発見者です。あたなが鍵を開けて部屋に入った時、部屋の様子はどうでしたか。」
山田が落ち着いた雰囲気で永春に尋ねる。彼女も涙ひとつ見せず、一点を見つめている。ただ、昨夜は泣いたのか眼が少し腫れているようだ。
「はい。最初はインターフォンを押したんです。でも応答がないようでしたので、渡されていた合鍵で中に入りました。美花さんが会議や打ち合わせに遅れるようなことはこれまでなかったので、少し胸騒ぎがしました。急いで中に入ったら、物が散乱していました。」
永春紡が一息つく。再度大きく息を吸い込んで、息を吐きながら続きを話し始める。
「彼女はどちらかというと綺麗好きな方なんです。整理整頓をしっかりとするタイプの方です。だけどその日はすごく散らかっていて、とても不安になりました。彼女の名前を呼びながら彼女を探しました。どの部屋にもいなくて、最後は風呂場でした。震と静まり返った部屋はとてもきみが悪くて、彼女に何があったのかと…怖くなりました。」
少し荒くなった呼吸を落ち着かせるように唾を飲む音が微かにした。感情を押し殺すように小さく息を吐く。
「その時に水音がして、風呂場を見に行ったんです。怖かったのですが、扉を開けて確認しなきゃと思いました。浴室の扉を開けたら、そこに彼女がいました。浴槽に浸かっていました。手が浴槽から出ていて、血が、…」
声を荒げる様子も泣き崩れる様子もなく、ただ淡々を話を続ける彼女だったが、少し声を曇らせ、一瞬眉間に皺がよった。
「…血が滴っていました。浴槽も真っ赤に染まっていて、一瞬何がどうなっているのかわからなくなりました。ど、…どうしても目の前のことが信じられなくて、彼女の腕を触ってみました。本当はまだ温かいんじゃないかと期待して…でもとっても冷たくて、氷のようでした。目の前が真っ暗になって、何も考えられなくなって…どうして…と思って…訳がわかりませんでした。どれほど経っていたのかわかりませんが、その場から動けなくなって、浴室で彼女を見つめながら呆然としていました。一時して我に返って、急いで警察に電話をしました。」
一気に話きると彼女はまた一点を見つめながらこう付け加えた。
「すみません。部屋の様子でしたね。いつもは整理整頓されているんですけど、あの日はとても散らかっていました。」
それだけ言うと黙り込んでしまった。
「はい、わ、わかりました。ありがとうございます。」
山田が度肝を抜かれたようなか弱い声で答えている。質問を重ねるつもりだったが、一気に話されて遮る間を逃してしまったのだろう。
「浅桜さんの生い立ちや性格などお尋ねしたいのですが、よろしいですか。」
山田が続ける。山田は聴取の時は丁寧に話す。
「はい、彼女の過去についてはあまりわからないというのが本当のところです。彼女がプライベートについて話すことはありませんでしたから。ただ前担当をしていたマネージャーがスカウトして彼女をこの世界で成功させたと聞いています。事務所を抜けたのもそのマネージャーが亡くなったのがきっかけでした。」
「その以前担当のマネージャーについて他に知っていることなどありますか。」
山田が質問を重ねる。彼女は少し困った表情を見せたが、何か思い出したように声を上げた。
「あ、名前は確か、楪咲良さん。まだ10代で、一般人だった浅桜さんを芸能人として確立させた人でした。私はその土台の元で彼女を独立させたってだけですね、はい。」
「独立したきっかけとかはあったのですか。」
山田がさらに前のめりになって訊く。
「そうですね、大きなきっかけはストーカーが事務所まで来るようになったり、手紙が大量に届くようになったからですかね。浅桜さんが自分のだからと持って帰ったり捨てたりしていて、特に事務所自体に支障をきたすほどではなかったんですが、彼女も気を使ったのかなと思います。その手紙、おそらくなんですが、浅桜さんのお母様とかだったんじゃないかと思います。確証はないですけど…」
「手紙を読んだりなどしたことは?」
「よく見てはないですね。浅桜さんがいつも誰よりも先に捨てていたというか、見せないようにしていたので…でも一度だけ彼女がその手紙を開けて読んでいる時があって、少し見てしまったんです。浅桜さんの家で打ち合わせをする事になってお邪魔したんです。机の上に手紙が広げておいてあって、自分を母親だと名乗ってお金が欲しいと言った内容だった思います。彼女多分見られたくなくて、私が少し目を離した隙に無くなっていました。」
なるほど、と相槌を打つ山田が詳しく知りたい旨を伝えながら椅子に深く座り直す。
「彼女に何か困っているならお手伝いをさせてと言ったのですが、その事については何も話してくれませんでした。私も深くは掘り下げず、彼女が話したくなったら話してくれることを願って、何も言いませんでした。だから、彼女のことについてほとんど何も知らないんです。私が彼女にとってもっと頼れるマネージャーであったら、こんなことにはならなかったんじゃないかと…」
机を挟んで向かいに座る永春は言い終えると、俺と山田の間に空いた少しの隙間の一点を見つめて口をつぐんだ。彼女にとって浅桜美花の死は相当な衝撃だったのだろう。思考を停止しているような、魂のなくなった抜け殻のようだ。
「あなたが浅桜さんのマネージャーになった経緯を伺っても?」
ずっと見ているだけだった俺が声を上げたことに少し驚いた素振りを見せながら、こちらに目を向ける永春。
「あ、はい。私は元々違う方のマネージャーをさせていただいていたんですが、引退をされて、ちょうど同じ時期に浅桜さんのマネージャーが亡くなったとのことで、私に変わったような感じです。彼女との相性も良く、長年担当されていたので、最初は私で務まるのかと焦りましたが、独立の時には引き抜いていただけました。たまたま私だったというだけで、特に理由があって彼女の担当になったわけではないんです。」
うなづきながらも少し意外だと感じた。浅桜が選んだか永春が立候補したのかを聞きたかったと思う自分がいた。
「浅桜美花さんが亡くなる前、何か身の回りや彼女自身に不審な点や変わった店はありませんでしたか。」
気まずくなった気持ちを隠すように質問を変えてみる。
「特に変わった様子もなく…」
一番近くにいたであろう永春でさえ知らない彼女の私生活や性格がなんとも不思議だった。
「浅桜さんは、ずっと不眠症でした。前の担当の方が亡くなられてから変わったのだと思います。すごく慕っていて、あの方が亡くなられてから大きく笑うことがなくなったというか、どこか心ここに在らずというか。そんな感じでした。担当でなかった時は関わる機会があまりなかったのですが、それでも彼女の笑い声はどこからかしていました。明るい方だったので。でも私が担当になってからは微笑みというか声を上げて笑うことも少なくなったというかどこか違う雰囲気になっていたと感じます。」
以前のマネージャーの死が大きなきっかけなのか。やはり自殺か。それにしてもあの荒れた部屋は一体なんだったんだよ。心の中で自問自答する。現場と証言が噛み合っていない感じがどうも気に食わない。
永春が警察署から出ていくのを見送りながら、山田がこちらをチラチラと見ている。
「また何か考えてるんすか?」
まあなと鼻で笑って受け流しながら、さっき書き殴った手帳に目をやるふりをする。あいつが来た。
「水瀬係長、どうでした?」
なんで突っかかってくるんだよ。と鬱陶しさを隠せない俺に容赦無く海が話しかけてくる。
「あ、副署長、お疲れ様です。今ちょうど聴取終えたところでした。」
山田が敬礼をしっかりしながら笑顔で迎える。
「相変わらず冷たいね、何も変わらないな。」
山田の方には軽く会釈するだけで俺に食ってかかる。
「勝手に言ってろ。お前が変わったんだろ。」
目も合わせないまま署に戻る俺に二人がついてくる形になる。鬱陶しいな。正直何を怒っていたのか、もう思い出せないが、それでもこの歯にかみが癇に障る。意地を張っているのは俺の方なのかもしれないな。
「人は変わるぞ、水瀬。お前は変わらない、そこがいいところでもあるんだろうな。」
何をぼやいているんだ、こいつは。片手で流しながらそそくさとデスクに戻る。山田が海を追い越して俺の後を駆け足でついてくるのがわかった。
「失礼します。」
と一言いってこちらにくる。
「先輩、実際のところ、何があったんすか?」
「そんなもの忘れたよ。」
えっと驚いた顔をこちらに向ける山田を無視して事務処理を始める。山田は俺の答えにえーっと何度も繰り返しながら、不思議っすよ先輩と声を漏らす。自分でもわからない。なんだったんだろうな。




