深海
汐は、
ちょっぴり寝不足気味の腫れぼったい顔で、
定刻通りスタジオ入りし、いつもの控室で待機していた。
マネージャーや付き人は出払って一人きりだ。
┃撮影前の精神統一タイム┃
ふだんならばそうである。
しかし・・
なにもすることがない。
頭の中は空っぽである。
というのも・・
台本が上がってこないからだ。
きょうは特に遅い。
ジリジリする。
おまけに、
本日の演出家はチーフの伊能さんである。
長丁場を覚悟せねばなるまい。
こういう時は なにを すべきか?!
確固たるセオリーを汐は持たなかった。
未知の経験だったからだ。
朝ドラ以前の撮影では、
脚本は必ず用意されていたし、
その設計図の上に演技を構築していくという、
当たり前だと思っていた常識が覆された格好だ。
プラスして、
なにか・・歯車のかみ合わせが・・よろしくない。
神経が変にピリピリして、
文庫本を開いても
テレビを見ても
タブレットで映画を見ても
スッと頭に入ってこない。
戦闘状態メンタルなので
食事はおろか水分補給の欲求も閉ざされていた。
汐は・・
控室で出されるお弁当を
ほとんど食べたことがない。
基本、ななちゃんの胃袋に収まった。
Lサイズもキツくなってきたと愚痴をこぼしながら、
しっかり平らげる二代目マネージャーであった。
控室にいる時間は
台本を復習うという
プログラミングが強固になされているため、
ブリンカーがはずれてくれない。
ゲート入りする寸前のテンションのまま、
競走馬がレースに入っていけない状態だった。
結構なストレスである。
ドラマは・・
『メタフィクション』の後の回だから、
シリアス展開になるんだろうなァと想像してみる。
緩急の巧みなベテラン脚本家なので、
多分そうなるだろう。
湯浅さんのホンは、
なんといっても引きが上手い。
次回が読みたくて たまらなくなる。
乙骨Pも その手腕を褒めていた。
面白い連載マンガを
読んでいる気分にさせてくれるのだ。
アレに勝る快感は そうはないだろう。
幼いころ『ガラスの仮面』を読んだときは、
余りの面白さに陶然となった。
どんなに待たされて、
(頭に血がのぼっていても)
ひとたび新着の台本を読むと
ストレスのささくれは途端に癒えてしまう・・
湯浅さんのホンには
演者・スタッフを虜させる媚薬が含まれていた。
汐は時間つぶしのために、
ストレッチを始めた。
以前、ゆず季(ユッP)から
「ひと汗かくと緊張は適度に鎮まってくれる」
とアドバイスされたことを思い出したからだ。
ゆず季は筋肉質なのに身体は素晴らしく柔軟だ。
「一年365日ストレッチをしている
閏年の一日のみ休む」と言っていた。
彼女の言だ・・嘘はないだろう。
それにしても、
通年、
休まず努力できるって凄いコト。
/私にはできない/
かなり熱心に追い込みストレッチをした。
ウンウン唸りながら腕立てや腹筋運動も行った。
ひと汗以上かいたら気分がスキっとした。
鏡台 (化粧前) の前に腰かけ、フェイスタオルで汗を拭く。
運動のお陰で顔から腫れぼったさが引いていた。
別に・・
昨晩・・
缶ビールを飲み過ぎたわけではない。
・・夢見がよろしくなく、
浅い眠りに終始したのが原因だ。
その原因の根本については不明である。
特段変わった出来事があったワケでも、
珍味を食したワケでもない。
特定できないのであった。
長丁場 の撮影を乗り切るには、
規則正しい生活を送ることが肝要である。
・・汐の経験則であり、
・・先人もまた似たようなことを言っている。
判で押したような日々に
いよいよ煮詰まってきたら・・
VIP専用カラオケ店(秘密厳守)で絶叫し、
生ビールをあおり、
好物を食べまくる。
まあ、一般的な発散法だ。
このあとが・・
汐は・・
普通とは・・
ちょっと・・異なるのだ。
発散した翌早朝、
シャワーを浴びたのち、
静かにベッドに横たわり、
触感イメージの深海へ潜行してゆき、
自身の心の不随意部の闇で藻掻いてみる。
汐の特質である、
ヴィヴィットなイメージ力を生かした、
シュミレーション・トライアル。
うまくいかないことの方が多いけれど・・
今まで仕事上で表出した課題を、
現実同等の鮮明過ぎるイメージの中で再現し、
その渦中にいる自分自身をリモートして、
克服するためのヒントを探すのである。
稀ではあるけれど、
∴解決ライン∵
が快感を伴って像を結ぶ。
こうなればしめたもの、
現実の困難ハードルを乗り越えられる可能性が高まる。
ふつうの人が無意識下で行っていることを、
汐は意識的に実践する(できてしまう)のだ。
余人にはマネのできない特殊領域といえる。
笹森汐の最高機密 ━ 神秘の1つの柱。
ドン!ドン!
圧の強いノックの音がした。
はて・・誰だろう?
ななちゃんや
スタッフなら
もっと、遠慮がちなノックをする。
ノックの音が性急に繰り返される。
「はい!」と応じて、
化粧前からドアへ移動。
扉を開く。
向こう側に立っていたのは、
チーフのコイシツ(伊能さん)と
マネージャーのななちゃんであった。




