【後日談】猫、子狐にノックアウトされる
「……」
「……」
某日、猫村家のリビングでは一人と一匹が対峙していた。
「……」
「……」
片方が一歩前に出れば、もう片方は一歩後ろに下がる。それはしばらく繰り返されており、そしてとうとう後ろに下がっていた方の背中が壁にくっついた。
「おにーちゃん、いい加減慣れなよ」
「ふ、ふざけんな」
そしてその一人と一匹の様子をソファで眺めていた観戦者――猫村瑠衣は膝の上できゅーん、と鳴く一匹の白い狐を撫で回しながら冷静な声で兄に呼びかけた。
そしてその兄――猫村清は壁際に追い詰められながら、目の前に四つの足でちょこんと立つふわふわの白い狐――つまり私にたじろいでいる。
「こんなに可愛いちーちゃんを撫でないなんて信じられない」
「狐っつっても千尋さんなんだぞそんな不埒なことが出来るか!」
「この前は撫でまくってたくせに」
「あれは! ……あの時は正気じゃなかったんだよ!」
あれから猫村君は私から距離を取るようになった。見かけは狐だとしても本当は人間だと分かっている異性を撫で回すのに躊躇いがあるらしい。人間の時はそうでもないが、狐の姿で近付くといつもまるで銃で撃たれたかのようにぐう、と呻いて後ずさるのである。
……ちなみに告白云々の件は返事を迫られ、結局お友達からで、と曖昧に濁した。私が勝手に疑っていただけで彼自身は無実だったし……正直、好かれて悪い気はしない。
それに瑠衣ちゃんもだが、猫村君は狐姿の私と真尋を間違えない。見た目は殆どそっくりで今までお父さんしか見分けられる人はいなかったのではっきり言って嬉しかった。ちなみに見分け方は「なんとなく分かる」とのこと。すっごいなあ。
そして撫でられるのがどうかということだが、別に狐の状態ならいくら撫でられようが乱暴でなければ気にならない。昔から色んな人に撫でられて来たし、その辺の思考は動物に寄っているのでむしろ撫でられて気持ちいいと思うくらいだ。
実際瑠衣ちゃん(呼び方を変えた。私も人間の時は千尋ちゃんと呼ばれている)に撫でられている真尋は実にリラックスしていて、それを見ていると私も撫でて欲しいと思ってしまう。
なら別に瑠衣ちゃんでもいいのだが、恋人同士の邪魔をするのもあれだし……それに、動物の本能か逃げられると逆に追いかけたくなるものである。この前逃げまくっていた私が言うことではないが。
という訳でじりじりと近付き『撫でないの? 撫でていいんだよ』と猫村君をじいーっと見ていると、また銃に撃たれたような声を出した。
「ちーちゃんも撫でて欲しそうだよ。ねえまーくん」
『そうそう』
「……」
狐の真尋が尻尾を振りながらこくんと頷いているのを見て、猫村君が再度こちらに目を向ける。
「触っても……嫌じゃないか」
『どーぞ』
同じようにこくんと頷いて近付くと、恐る恐るといった様子で頭の傍に手が伸びてきた。そのまま大人しく撫でられようと思ったのだが……ここでちょっと私の中に悪戯心が芽生えてしまった。
「!?」
もう少しで頭に触れそうになっていた猫村君の手に、思い切り頭と耳をぐりぐり押しつける。その瞬間、ぴたりと手が硬直しすぐさま「……うあああっ!」と色んな感情をごちゃまぜにしたような声を上げて手が頭から離れた。
「くそ……ふわ……」
「にーちゃん語彙が死んでる」
「お前に言われたくねえよ!」
「私の方がましだもん。……あれ、これって」
『どうした?』
片手でスマホを触っていた瑠衣ちゃんが首を傾げて画面を見せてくる。私も彼女の膝に飛び乗って覗き込んでみると、そこには真っ白な狐が二匹油揚げを食べている姿があった。
あれ、これ私達?
「SNSに上げられてたの。これちーちゃんとまーくんだよね」
「……確かに、そう見えるな」
猫村君が真剣な表情で画面と私達を見比べる。恐らく豆腐屋のおばあちゃんの所で油揚げを貰っていた時だろうが、写真を撮られたことなんて全然気付かなかった。
私と真尋は話をする為に一旦床に降りて元の人間の姿に戻る。ちなみに今更の話だが変身する時に身に着けているものもまとめて消えるので、戻ってもちゃんと服は着ているし全部元通りだ。露出狂にはなっていない。白狐の力様様である。
「……いつ見てもホントに不思議だな」
「ま、そのうち慣れるって。……んで、問題はそれだが」
詳しく読んでみると投稿者はこの辺りの人間ではないらしく、たまたま用事でこの土地に来た時に私達を見つけたらしい。『すっごい真っ白な狐がいたー! 可愛い!』と感想が書かれている下には他の人間からのコメントがあり、大体は同じように可愛い可愛いと連呼されている。
「やっぱまーくんとちーちゃんは皆が可愛いと思うよねー」
「馬鹿か、何を呑気なことを言ってるんだお前。ここ見てみろ」
この部屋の中で緩い表情を浮かべているのは瑠衣ちゃんだけだ。そして私達三人はというと難しい顔で羅列されているコメントのいくつかを見ていた。
『ホッキョクギツネじゃないよね、なんていう種類だろう』『こんなに白い狐ってはじめて見た』『珍しいやつなんじゃない?』『新種かもしれない』
次々と書かれているそれらに、私と真尋は顔を見合わせてため息を吐いた。
「やっぱりこうなるか」
「だよねえ……」
お父さんから昔から常々「お前達は普通の狐には見えないから気をつけろ」と言われ続けて来た。とは言ってもこの辺りの人間なら私達のことは完全に当たり前の光景として捉えてくれているので、危機感が薄れていたのは事実だ。
「何か前に噂を聞きつけて変な動物マニアみたいなやつが来たこともあったよな」
「あー、あったあった。ずっと人間になってたから見つからなくて諦めて帰ったけど」
ともかく、そうやって面倒な人に目を付けられると非常に困る。この画像削除とかできないだろうか。
「そっか。じゃあちょっとこのアカウントの人に削除してもらうように頼んでみるね」
「瑠衣ちゃん頼む」
「他で拡散されてないといいんだがな。……二人とも、狐になる時は気をつけろよ。余所の人間がいる時は特に」
「「はーい」」
猫村君の言葉に、真尋と一緒にぴょこっと右前足を上げて返事をする。……あ、もう人間に戻ってたわ。
しかし何故か、そんな私達を見た猫村兄妹は揃ってまたもや銃に撃たれて悶えていた。今は狐じゃないのにどうしたんだ。
□ □ □ □ □
そんな話をした数日後のことだった。
『……ん?』
休日の昼間、俺と千尋は神社の拝殿の隅で共に狐の姿でひなたぼっこをしていた。体を丸めて温かい日差しにうとうと眠り掛けていると、不意に気持ちの良いまどろみを邪魔するように誰かが俺の体を持ち上げた。
掃除の邪魔だとかで親父が持ち上げたのかと思ったが違う。親父はこんな雑な持ち方じゃない。
「くぅ……!?」
ぼんやりとしたまま目を開けた俺は、見知らぬ怪しい男に体を持ち上げられていることに気付いて滅茶苦茶驚いた。しかも傍にはもう一人別の男がおり、そいつの手には未だにぐっすり眠っている千尋の姿があった。
『っ千尋起きろ!!』
「!」
慌てて声を上げるとぴん、と耳を立てて千尋の目が開く。二匹とも起きてしまったことに気付いた男達が急いで足下に置いてあった格子状のケージに俺達を入れようとするが、その前に逃げようと俺達も必死に暴れ始めた。
「大人しくしろ!」
『誰がするかー!』
千尋が男の腕を思い切り蹴りつけて宙に飛び出す。そしてくるりと回って着地すると、未だに逃げ出せていない俺を掴んでいる男の足に勢いよく噛み付いた。
ぎゃあ、と濁った悲鳴が響くと同時に俺を拘束していた手が緩み、地面に落ちる。千尋とは違い受け身も取れずに砂利に激突して痛い。
『真尋、早く逃げ――』
「この畜生が!」
「!?」
俺がよろよろと立ち上がったその瞬間、千尋が噛み付いていた足が拝殿の壁にぶつかり、千尋が壁に叩き付けられた。
『千尋!』
『……だから、早く逃げてっていってんじゃん!』
ぐったりとして地面に転がりながらも必死にそう言った千尋に、俺はどうすればいいのか一瞬だけ考えた。千尋を置いていけば俺は助かるかもしれないが、すぐに捕まる可能性もある。逆に千尋を助けようとすれば、高確率で捕まる。どちらにしろ一緒だ。
そこまで考えた俺は、捕まえようとこちらに手を伸ばしてくる男を見上げ……そして、大きく息を吸い込む。
「ギャアアアアアアアンッ!!!」
そして、小さな全身を使って全力の大声で鳴いたのだ。
狐の本気の鳴き声を舐めるな。普段はご近所さんに気を遣っているがかなり煩いんだぞ。
神社の外にまで余裕で届く悲鳴のような鳴き声を至近距離で聞き、男達は「うるせえ!」と耳を押さえてうずくまった。
「真尋、そんなに騒いで何が……は!?」
「やばっ!」
「逃げるぞ!」
そして俺の声が聞こえたらしい親父が血相を変えて神社の奥から現れると、男達はすぐさま立ち上がって逃げ出した。
……ただし、傍で動けなくなっていた千尋の首根っこを掴んでケージに突っ込みながら。
『千尋を離せ!』
「うちの子をどうするつもりだお前達!」
しかし叫んでも男達は振り返ることなく逃げていく。俺を抱き上げた親父と共に全速力で追いかけるものの、鳥居の前に止められていた車に乗り込んだ二人はあっという間にエンジンを掛けてあと一歩の所で逃げられてしまう。
「千尋! ……ああもうどうしたら」
「今の声、どうかしたんですか!」
混乱で頭が回っていない親父がおろおろしていると、不意に背後から声を掛けられた。そして振り返った先には、俺の鳴き声を聞きつけたらしい猫村兄妹が走ってきたのか息を弾ませてそこにいたのだ。
「君達……」
『千尋が浚われたんだよ!!』
「ん? なんて?」
『しまった伝わってねえ! 親父早く通訳しろ!』
「きゅんきゅん!」と狐の姿で吠えても勿論二人には伝わっていない。頭が回っていないのは俺もらしい。しかしここでうっかり人間に戻ってしまえば、ケージに閉じ込められている千尋まで元に戻ってまずいことになる。今まで生きてきて一番この性質を厄介だと思った。
親父にも当然伝わらないが、前足を腕に叩き付けて急かすと親父はすぐにはっとなって口を開いた。
「実は、うちの狐が知らない男に誘拐されて」
「「誘拐!?」」
「今車に乗せられて……そうだ早く追いかけ」
「俺が追いかけます。だから狐谷さんは警察に連絡して下さい」
徐々に冷静さを取り戻した親父が慌てて自宅に向かおうとすると、それを制した猫村がそう言って踵を返して走り出した。ただし、その方向は誘拐犯が走り去った方向とは逆だ。
「猫村君、そっちじゃ」
「大丈夫です、すぐに戻って来ますから」
あっという間に姿が見えなくなった猫村だったが、瑠衣ちゃんが言うように本当にすぐに戻ってきた。
「お待たせしました!」
エンジンを唸らせて戻ってきた猫村はバイクに乗っていた。こんな状況じゃなければじっくり見たいかっこいいデザインのバイクだが……猫村、いくら家からはバイク使ったって言っても流石に早すぎるぞ。お隣さんレベルの時間だった。
「それじゃあ警察への連絡お願いします!」
「兄さん、お願い」
『ちょっと待て俺も行く!』
「うわっ」
『俺ならどの車か分かる!』
早速出発しようとした猫村に、俺は慌てて親父の腕から飛び降りて猫村の上着のポケットに潜り込んだ。ちょっとぎゅうぎゅうになっているが逆に落ちる心配がなくていいだろう。
「お前」
『千尋が浚われたっていうのに大人しくしてられるか!』
「……分かった。狐谷、しっかり捕まってろ! 必ず千尋さんを助け出す!」
『おう!』
なんとなく伝わったらしい。猫村が大きく頷くと、直後エンジンを大きく唸らせながらバイクが走り出す。その背後で「え、なに、ばれてる!?」と大混乱に陥っている親父は瑠衣ちゃんに任せよう。そういえばこの二人にばらしたって言ってなかったな。
『……って、はええええ!』
「黙ってろ舌噛むぞ!」
走り出したバイクは滅茶苦茶速かった。景色の流れ方がおかしい。狐だからそう見えるかと思いきや頭を上げてちらりと見えたメーターに真顔になった。いや狐だからあんま変わらないけど。田舎で殆ど車が居ないからこそ出来る技だ。
これ先にこいつが警察に捕まるのではないかと思ったが、もういっそ早い所警察が来てくれた方が千尋も助かるかもしれないと黙った。
それはそうと、犯人達はどこへ向かったのか。顔に当たる暴力的な風に目を閉じながら考える。
あいつらはこの辺りの人間じゃない。見たことのない顔だったし、そうだったらとっくに俺達の存在を知っていたはずだ。なら逃げるのは何処か。この地域から大きな道路出るには二通りの道があるが、その方角は東と西で真逆だ。
どちらに向かったのか。間違えたら大幅な時間ロスになる。
……だああもうっ! 狐の姿はリンクしてるし双子なんだから千尋の居場所くらい何か感覚で分かれよ俺!
「……おい狐谷、お前何だそれは」
「くぅ? ……きゅうううん!?」
無茶なことを考えていると、不意に訝しげな猫村の声が聞こえて薄目を開ける。その瞬間、俺は自分の体が不思議な薄い光に包まれているのに気付いて大きな声を上げた。
『なんだこれ!?』
「お前も驚いてるのか……」
『え、マジで何だこれ。……ん? 待て、何か……』
摩訶不思議な光にどうなってんだとパニックに陥り掛けていたが、更に畳み掛けるようにぽわ、と目の前に小さな青白い炎が浮かび上がった。それはふよふよと漂っていたが、すぐに動き出してバイクの左側に行って何かを訴えるように炎を大きくした。
も、もしかしてこれ……狐火か!?
「きゅんきゅん!!」
「だから何だ!?」
「きゅううううん!!」
多分千尋はこっちだ!
俺は狐火が指し示す方向に必死に短い左手を伸ばし、強風に苦しみながら何とか猫村に千尋の居場所を伝えようとした。
□ □ □ □ □
「ったく、酷い目に遭った」
「お前大丈夫か? 狐に噛まれたって狂犬病とかなるんじゃね? なんだっけほら……エノキコックスとか」
「うわ、後で病院行かねえと」
エキノコックスだよ! そもそも私達にはそんなものありませんけどね!
誘拐犯の言葉に心の中で突っ込みながら、私は車の後部座席の足下に置かれたケージの中でどうしたものかと必死に考えていた。
格子状のケージは鉄製で、噛んだり曲げようとするがびくともしない。うろうろと狭いケージ内を探ってみても勿論何もなく、脱出するには鍵の掛かった入り口から出るしかない。
「けど、一匹しか捕まえられなかったのは惜しかったな」
「捕まるよりましだ。それにこんだけ真っ白な狐なら高値を付ける収集家はいくらでもいるさ」
冗談じゃない! 売られてたまるか!
早く逃げなければこのまま狐として売られてしまう。最悪ケージから出た後に人間に戻ったってそれを知られたらもっとやばい研究所とかに売り飛ばされる可能性もある。格子の向こうに見える窓の景色がどんどん流れていくのを見て、私は焦りながらがりがりと格子を噛んだ。
何か良い方法はないか。あーもう、白狐なんだし何か不思議パワー的なもので何とかできないのか。
「きゅーん……」
天国のお母さん、うちの神様助けて下さいー。
神頼みすら始めたその時、不意に目の前でぼわ、と何かが小さく光った。
『……は?』
目の前でほのかに光るのは小さな青白い炎。なんだこれ、と思っているとその炎はじりじりと鍵の部分を燃やし始め、そして私がぼけっとその様子を見ている間にあっという間に鍵を溶かしていってしまう。
え、この炎やばくない? 金属を簡単に溶かすって相当温度高いんじゃ……。
この炎が車に燃え移ったらまずいとはらはらしていたのだが、何故かその炎は鍵を燃やし尽くすとすぐに小さくなって消えてしまった。
『……』
よく分かんないけど、とにかく脱出だ! 神様ありがとう!
私は目の前の不思議な現象について考えるのを放棄し、ともかく逃げることだけに集中することにした。
鍵がなくなってあっさり開かれたケージの入り口からそろりと音を立てずに外に出ると、私は座席の上に飛び乗って窓を開けるボタンを前足でぐい、と押した。
流石にこれはウィーンと音が鳴ってしまい、助手席に座っていた男がこちらに気付いて「は!?」と大きな声を上げてしまう。
「狐が脱走してる!」
「はあ!? 早く捕まえろ!」
慌ててシートベルトを外して私を捕まえようとするが、運転席側の窓辺にいる私にすぐに手は届かない。そうしているうちに窓が全部開き、私は上に飛び乗って外に出ようとした。
……しかし車が止まる気配はなく、このスピードで飛び降りることに躊躇してしまう。道路に叩き付けられて無事でいられるだろうか。もしかしたら他の車に轢かれるかもしれない。
「早くしろ!」
「分かってる!」
と、二の足を踏んでいるうちに助手席の男が後部座席に身を乗り出して私に手を伸ばす。
『……ええい! どうにでもなれ!』
今にも捕まりそうになった私は、大きく鳴き声を上げながら車の外に向かって跳躍した。狐の身体能力を信じるしかない!
体が浮遊感を覚え、どんどん道路が目の前に迫ってくる。すぐに訪れるであろう痛みを覚悟して体を丸めて目を閉じると――その瞬間、私の体を受け止めたのは固く冷たいコンクリートではなく、何やら温かいものだった。
「……きゅ?」
『千尋!』
「千尋さん! 無事か!」
全く痛くないことを不思議に思って目を開けると、そこは猫村君の腕の中だった。バイクに乗りながら私を片手でキャッチしたらしい彼は、すぐに速度を落とすとバイクを止めてほっとしたように大きく安堵のため息を吐いた。
更に彼の上着のポケットには真尋が入っており、同じくため息を吐いてポケットから飛び出し、腕を伝って私の元へとやって来た。
『千尋、怪我は』
『助けてくれたから大丈夫』
『よかった……』
真尋が顔を寄せてすり寄って来るのに合わせて私も真尋の首元にすりすりと顔を寄せる。……なんか、すごく安心する。
そしてそんな様子を見ていた猫村君がぐう、と呻いて口元を隠しているのが視界の端に見えた。
「そいつを寄越せ!」
『あ』
と、そんな風に一件落着の空気を醸し出しているとすぐさっきの車が戻って来て誘拐犯達が出てくる。もう失敗したんだから逃げればいいのに、と思っていると運転していた方の男がその手にナイフを握り、恫喝しながらそれを猫村君に向けたのだ。
「きゅぅ……!」
「あぁ!?」
思わずびく、と怯えて尻尾を立てていると、すぐ傍からナイフよりも鋭くドスの利いた声が耳に入ってきた。
猫村君は私達を腕から下ろすと、指をばきばき鳴らしながらどしどしと音を立てて誘拐犯の方へと足を踏み出した。
「寄越せだって……? くそが。てめえら、俺の女に手を出した落とし前、きっちり付けさせてもらおうか」
「は? お前何言って――」
その直後、猫村君の右足がナイフを持つ腕を蹴り飛ばした。ナイフは運転手の男の手から離れ宙を舞い、それが道路に落ちる前に更に男の顎にアッパーが決まる。
「ひ……」
「逃がすか」
呆気なく崩れ落ちた相方を見て恐れを成した助手席の男が一歩後ずさるものの、猫村君は即座に彼の胸ぐらを掴むとヘルメットを被った頭で思い切り頭突きした。
呻き声と共に倒れ込む男を、猫村君はまるで虫けらでも見るような目で見下ろす。
「はっ、雑魚が」
『……強いっていうか、怖っ』
『そういえば瑠衣ちゃんが、あいつ昔ガキ大将だったとか言ってたな』
『ガキ大将っていうか不良……いや番長っぽいよね……?』
まさしく瞬殺だった。あまりに一方的過ぎて猫村君が過剰防衛で捕まらないか心配だ。
『というか見た目狐に俺の女発言やばいな』
『……どちらにしても、まだ猫村君の女じゃないんだけど』
『でもちょっとドキッとした癖に』
『何故分かる』
『お前のことぐらい分かるに決まってるだろ』
確かにあのタイミングで助けに来てくれて受け止めてくれたのは正直ドキッとしたけども。照れを誤魔化すように丸まっていると真尋がぽんぽんと落ち着かせるように前足で背中を叩いた。うちの兄さんが優しい。
そんなことをしていると、サイレンを鳴らしてすぐに警察が到着した。パトカーから出て来た見慣れた顔のお巡りさんはすぐに犯人達を拘束すると、猫村君に事情を聞き始める。
「すみません、ナイフを向けられたので無我夢中で……」
優等生顔に戻った猫村君がさらりとそう言う。安定の猫かぶりだ。
ひとまず簡単に話を終え、いつまでも道端で話す訳にもいかないので駐在所へと向かうことになった。他の人がいる為人間に戻るタイミングを逃した私は、バイクの元へ戻ってきた猫村君の足下へ駆け寄るとちょいちょいと前足で彼の足をつついた。
私に気付いた猫村君は足を止めてしゃがむと、一瞬躊躇った後に頭を撫でてくれる。
「……無事でよかった」
酷くほっとしたような、凶悪な不良でもなく取り繕った優等生でもない優しい表情だ。
「……」
それを見上げた途端、私は色々と堪らなくなって思わず猫村君の肩へとよじ登った。
「うわっ」
『助けてくれてありがとう』
驚いた猫村君の肩でバランスを取って、私はきゅーんと鳴きながら彼の頬に鼻をふに、とくっつけた。
「……」
「きゅう?」
猫村君が石になったように固まって何も喋らなくなった。大丈夫かと彼の顔を肩に乗ったまま覗き込んでいると、やがて「いっそ殺せ」とぽつりと呟いた後、猫村君はぐらりと体を傾けて背中から道路に倒れ込んでしまった。
『ね、猫村君!?』
突然倒れた彼に驚いて『大丈夫!?』と前足で頬を叩いていると、『追い打ちを掛けるな!』と真尋に怒られた。