■ 第9話 「外側の名前」
撤退は成立した。
完全ではない。
だが、損耗をこれ以上広げないための判断としては妥当だった。
戦域は縮小され、接触は一時的に切り離される。
「……逃げ切ったな」
ポセイドンが息を吐く。
「一時的です」
アテナがすぐに否定する。
「再接触は不可避です」
「分かってる」
ゼウスは短く返す。
「だが、時間は得た」
ハデスが周囲を見る。
「“あれ”は追ってこないな」
「追跡の意思がない?」
「違う」
ハデスは首を振る。
「概念が違う」
沈黙。
その言葉は曖昧だが、間違っていない。
「説明できるか」
ゼウスが問う。
「できない」
即答だった。
「ただし一つ分かる」
全員の視線が集まる。
「あれは“こちらを見ていない”」
ポセイドンが眉をひそめる。
「どういう意味だ」
「敵として認識していない」
アテナが言葉を引き継ぐ。
「もしくは、認識の仕組みが異なる」
ゼウスがゆっくりと息を吐く。
「どちらにせよ」
「交戦対象ではない」
その結論は重い。
「じゃあ何だ」
ポセイドンが苛立つ。
「ただの災害か?」
誰も答えない。
だが、その時だった。
「……違うな」
別の声が割り込む。
低く、だが明確な意思を持った声。
全員が振り返る。
そこにいたのは、北欧の神だった。
ロキ
「お前らも見たか」
ポセイドンが即座に構える。
「なんでここにいる」
「そっちが引いたからだろ」
ロキは肩をすくめる。
「こっちも少し見物したくてな」
ゼウスが前に出る。
「侵攻の責任者が、単独で来るか」
「来るさ」
ロキは笑う。
「だって今、一番面白いところだろ?」
沈黙。
緊張はある。
だが、即座に戦闘にはならない。
「お前も見たはずだ」
ロキが言う。
「あれ、俺らじゃない」
ゼウスは否定しない。
「当然だ」
「だよな」
ロキは楽しそうに笑う。
「でもさ」
わずかに顔が変わる。
「“あっち側”っぽくねえか?」
空気が止まる。
アテナが静かに問う。
「どちらの“あっち”ですか」
ロキは少し考える。
「説明できねえな」
「ただ」
その視線は、戦場の奥を見ていた。
「神話の外だ」
その一言で、場の意味が変わる。
ゼウスがゆっくりと口を開く。
「外など存在しない」
「あるさ」
ロキは即答する。
「少なくとも、今までは関係なかっただけで」
アテナが思考を整理する。
「干渉してきている以上、外部ではなくなっています」
「そういうこと」
ロキは軽く頷く。
「で、どうする?」
挑発ではない。
純粋な興味だった。
「やるのか、それともやめるのか」
ゼウスは答えない。
だが、その目は揺れていない。
「続ける」
短く言う。
「だろうな」
ロキは笑う。
「やめたら意味ねえもんな」
その時だった。
空間の奥で、わずかに揺れが起きる。
小さい。
だが確実な変化。
全員が反応する。
「また来るぞ」
だが、それはこれまでと違った。
影ではない。
“形”がある。
完全ではないが、
輪郭が存在している。
「……今度は見える」
ポセイドンが低く言う。
アテナが解析を開始する。
「信仰反応なし」
「神格反応なし」
「ですが――」
一瞬、止まる。
「名称候補が浮上しています」
ゼウスが視線を向ける。
「言え」
アテナはわずかに迷う。
それでも、言った。
「……既存記録に類似する概念があります」
「名称は――」
間。
「クトゥルフ」
その言葉が落ちた瞬間。
空気が、歪んだ。
意味ではない。
“存在としての違和感”が広がる。
ロキが小さく笑う。
「いいね」
その目は、完全に楽しんでいた。
「やっと“外”が出てきた」
戦争は、もう戻れない。
神話同士の戦いは終わった。
これは。
別の何かとの接触だ。




