310/321
第317話 雨の資料室と一冊の記録帳
七月半ば。
午後から降り始めた雨は、資料室の窓を静かに叩き続けていた。
湿った風が僅かに流れ込み、古い紙の匂いが部屋いっぱいに広がる。
久世恒一は棚の最下段から、一冊の革張りの記録帳を取り出した。
表紙には何も書かれていない。
開けば、年月だけが並んでいる。
誰が書いたのかも分からない古い記録。
夢。
違和感。
町角で立ち止まった理由。
子どもが描いた黒い丸。
どれも世界を救うような出来事ではない。
だが、世界はこうした小さな記録の積み重ねで形を保ってきた。
窓際では柿崎が万年筆を静かに置く。
「今日も届いているわ。」
受付箱には、住民から寄せられた小さな報告が数枚入っていた。
『昨日まであった路地が少し狭く感じた。』
『神社の鈴の音が長く残った。』
『夢で知らない山を歩いた。』
久世は一枚ずつ目を通し、分類していく。
異常ではない。
だからこそ残す。
外では学生たちが笑いながら雨の中を駆け抜けていく。
誰も世界の危うさを知らない。
それでいい。
知る者が記録し、知らない者が日常を生きる。
その静かな役割分担が、今日も世界を支えていた。
(次話へ)




