第295話「鳴る塔の暖炉と積もらない雪」
鳴る塔の最上階から見下ろす景色は、見渡す限りの灰色に染まり、動くものはなかった。
オーディンは暖炉の炎に照らされながら、自らの玉座に深く腰を掛け、微動だにしない。
彼の片目は、空の彼方で静かに渦巻く、正体不明の侵食の気配を捉えていた。
トールは床に腰を下ろし、巨大な槌の頭を太い指先で何度も静かになぞっていた。
言葉による対話は、今の二人には必要なく、寒気だけが部屋の隅を満たしている。
北欧の厳しい気候は、過剰な感情を全て凍りつかせ、ただ存在の事実だけを浮き彫りにする。
「天照の光が、少しだけ東の空を割ったな」
トールが低く響く声で、ただ観測された事実だけをその場に口にした。
「ああ」とオーディンは短く応え、手にした杖の木目を静かに見つめた。
大規模な戦闘による均衡の破壊は、この世界における最大の禁忌であることを二人は知っている。
神々が互いに静かな圧をかけ合い、人類がその下で淡々と日常を消費する。
その奇妙な二重構造こそが、忘却の霧を霧のままに留めておく唯一の障壁だった。
オーディンが杖を床に軽く突くと、鈍い音が塔の石壁に吸収されて消えていった。
境界接触率:4.7%
観測層:第2層 記録単位:高位均衡確認 対象個体:オーディン、トール
備考:東部神話圏の光量変動に伴う、北部境界の概念圧の自動再配置。
記録主体:Archive 状態:稼働中




