第265話「久世が駅のホームで見つめる掠れ」
資料室からの帰り道、久世恒一はいつもの駅のホームに立っていた。
夕方のラッシュ時で、周囲には疲れ切った顔のサラリーマンや学生たちが溢れている。
どこにでもある、退屈で、平和な日常の光景。しかし、久世の目にはその風景のあちこちに、奇妙な掠れが見えていた。
自動券売機の横にある案内板の文字が、一瞬だけ、何語でもないただの線の集まりに見えた。
久世が目を凝らすと、それは再び普通の日本語に戻った。
目の錯覚ではない。柿崎がノートに引いていた気配の線が、この場所でも確実に揺らいでいる。
久世はポケットから小さな手帳を取り出し、その時刻と場所、周囲の様子を素直に書き留めた。
彼は英雄ではないし、神の力を振るってその掠れを直すことはできない。
だが、こうして文字にして残すことで、この駅が確かに存在していたという事実を固定することはできる。
隣に立つ男が、大きくあくびをした。その男は、自分が立つホームの床が、どれほど危うい均衡の上にあるかを全く知らない。
人々が何も知らずに日常を消費し、自分がそれを横から記録する。この役割の分担がある限り、世界はまだ大崩壊を迎えることはない。
電車の進入を告げる機械的なアナウンスが、夜の空気の中に平坦に響き渡っていた。
観測層:第4層 記録単位:生活圏観測 対象:駅ホーム(久世)
備考:一般生活圏における微小な忘却現象の発生と、それを補足する記録行動。
記録主体:Archive 状態:稼働中




