第261話「資料室の棚に並ぶ無名のファイル」
午後二時、資料室の最も古い木製の棚の前に、久世恒一は立っていた。
彼の手元には、新しく受理した十枚の「白紙の夢記録」が収められたファイルがあった。
ラベルには何も書かれていない。ただ、青い受理スタンプだけが、鮮明に押されている。
この資料室において、中身のない記録はかつて不備として却下される対象だった。
しかし、現在の世界において、この白紙の集積こそが最も重要な防衛線となっていた。
人間が境界の向こう側と接触し、その衝撃で記憶を削ぎ落とされたという、確かな痕跡。
「何もないという記録が、棚の半分を埋めてしまったわね」
柿崎が手元の万年筆を休めることなく、低い声で言った。
「ええ」と久世は答え、ファイルを棚の隙間へと慎重に差し込んだ。「でも、これが世界の厚みです」
説明を試みるすべての言葉は、世界の輪郭をかえって曖昧にしてしまう。
ただ、喪失の事実だけをそこに残すこと。書き尽くさないことで、その場所を護ること。
資料室の空気は、インクの匂いと古い紙の湿気を含んだまま、静かに凪いでいた。
外の通りを、一台の自転車が静かに通り過ぎていく音が窓ガラスを微かに揺らした。
その平凡な日常の音が、棚の奥の白紙のファイルと、確かに静かに共鳴していた。
観測層:第4層 記録単位:喪失定量化 対象:夢記録(空白群)
備考:内容欠落記録の受理数の累積。存在強度の減退を逆説的に固定。
記録主体:Archive 状態:稼働中




