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第49話 新しい工房


挿絵(By みてみん)




改築が終わった最初の朝、俺は工房の入口でしばらく立ち止まった。


目の前にあるのは間違いなく青ぷよ薬房の工房だった。壁の位置も釜の置かれている場所も、大まかな形そのものは以前と大きく変わっていない。それなのに扉を開けた瞬間に流れてくる空気の匂いも、靴底から伝わる感触も、室内で反響する音の響き方までもが以前とは別物で、長年住み慣れた家へ帰ってきたはずなのになぜか新築の建物へ足を踏み入れたような不思議な感覚を覚えた。


北側へ新しく増築された洗浄室からは、朝の冷気を含んだ石材と汲み上げたばかりの井戸水の匂いがゆるやかに流れ込み、以前なら床板のどこかが必ず小さく軋んでいたはずの通路も、水平へ補修された床のおかげで踏み込んでもほとんど音を立てない。工房中央に据えられた釜の周囲には灰色の耐火石が隙間なく敷き詰められ、窓から差し込む朝日を鈍く反射しながら静かな存在感を放っており、壁際へ固定された記録台の上には温度計、砂時計、滴下計、ロット札、確認板が寸分違わぬ位置へ並べられ、それぞれの道具が「ここに置かれる理由」を持っていることが一目で分かる状態になっていた。


以前の工房にも棚はあったし台もあった。物を置く場所そのものは存在していた。だが振り返ってみれば、それは場所というより俺の記憶へ依存した配置だったのだと思う。採取した核はその時たまたま空いていた棚へ置き、薬草は広げやすい台へ並べ、乾いた瓶は手の届く場所へ寄せる。それで俺自身は困らなかったし、十年以上も同じ環境で働いてきたから、どこに何があるかを身体が勝手に覚えていた。問題は、俺以外の人間には分からないことだった。


新しい工房では、その曖昧さが徹底的に排除されている。


洗浄前の素材は赤い縁取りが施された床区画より先へ持ち込めず、洗浄を終えた素材は青札を付けた確認棚を経由してから調合室へ移動する。完成品は白札の受け渡し棚か鍵付き保管庫へ収められ、品質確認待ちや研究用素材は黒札の隔離棚へ分けられる。壁には搬入方向を示す矢印があり、棚には用途ごとの印があり、扉には持ち込み可能な素材が記されている。極端な話、人間が工程を完全に覚えていなくても、床と壁と棚と札のほうが「次はどこへ運ぶべきか」「何をしてはいけないか」を先に教えてくれるような構造になっていた。


改築前の工房が職人の記憶力へ依存した場所だったとすれば、今の工房は記憶ではなく仕組みで動く場所だった。誰かが疲れていても、少し注意力が落ちていても、工程そのものが間違いを起こしにくいよう設計されている。俺がいなくても迷わず動けるようにするための工夫が、壁にも床にも棚にも染み込んでいた。


その光景を見渡しながら、俺はふと改築前の工房で何度も経験した光景を思い出していた。あの頃は棚の前で立ち止まり、「さっきの核どこへ置いたっけ」と首をひねることがあり、薬草を探して別の箱を開け、乾燥済みの瓶と未確認の瓶を並べてしまい、後から慌てて確認し直すことも珍しくなかった。慣れているから回っていたのであって、効率が良かったわけではない。むしろ今になって振り返ると、よくあの状態で大きな事故を起こさなかったものだと思う。


工房の中央に立ったまま周囲を見回す。


釜がある。


棚がある。


洗浄室がある。


並んでいる道具も大半は見覚えのあるものばかりだ。


それなのに、不思議なくらい広く感じた。


床面積が劇的に増えたわけではない。


通路が整理され、置き場所が決まり、余計な物が消えただけだ。


けれど人間というものは、物理的な広さよりもどれだけ迷わず動けるかで空間の広さを感じるのかもしれない。


以前の工房は俺のための工房だった。


今の工房は俺だけではなく、ユナも、ハルトも、ミーナも、アイスも働くことを前提に作られている。


その違いが、朝の静かな工房の中で思っていた以上に大きく見えた。


「店主、入口で止まると後ろが詰まります」


背後から落ち着いた声を掛けられ、俺は慌てて脇へ身を寄せながら工房の中へ足を踏み入れた。振り返ると、ハルトは大きな荷箱を抱えているわけではなく、腰の高さに合わせて作られた小型の運搬台車を静かに押しているところだった。その台車は長時間の運搬作業でも右肩へ余計な負担が掛からないよう、ゲン爺が何度も寸法を測り直しながら車輪の幅や軸の位置、取っ手の高さまで細かく調整した特注品で、木材の継ぎ目には補強金具が打たれ、石床の上でも振動を抑えられるよう車輪には薄い革が巻かれている。台車の上には空瓶を詰めた木箱が二つ、納品用の封蝋が入った麻袋、それに昨日商会から届いたばかりの新しい木栓の束が整然と積まれており、どれも荷崩れしないよう革紐で固定されていた。


改築前なら、こうした荷物は俺か村の若い衆が力任せに抱え上げて工房の奥まで運び込み、その場その場で空いている場所へ置いていた。箱を持ち上げて運び、また持ち上げて棚へ移し、必要になれば再び持ち上げる。それが当たり前だった。しかし今は搬入口から瓶確認台までを台車で移動し、確認台の横へ設けられた低い受け台へ箱を滑らせるように移し替え、一本ずつ傷や気泡の有無を確認したあと、用途ごとに分けられた棚へ収納する流れになっている。人の力で持ち上げる工程そのものを減らした結果、作業速度だけでなく負担も大きく軽減されており、特に肩を痛めやすかったハルトにはかなり効果が出ているらしかった。


「悪い。ちょっと見てた」


「昨日も見ていました」


「昨日はまだ道具が全部入ってなかっただろ」


「一昨日も見ていました」


「新しい工房なんだから、三日くらい見てもいいだろ」


半ば冗談めかして返すと、ハルトは呆れたように小さく息を吐き、それからほんのわずかに口元を和らげた。傍から見れば見逃してしまいそうな変化だが、初めて会った頃の彼を知る俺には十分すぎるほど分かりやすかった。


面接の日のハルトは、まるで余計な言葉を一つでも口にしたら損をすると考えているかのようだった。問い掛けには簡潔に答えるものの、自分から話題を広げることはない。仕事の説明を受ければ正確に理解し、任された作業はきっちり終わらせる。それでもどこか一歩引いた距離感を崩さず、常に気を張っている印象があった。


だが工房での日々を重ねるうちに、その硬さは少しずつ薄れていった。ミーナの勢いに巻き込まれて困った顔をしたり、ユナの失敗を黙ってフォローしたり、ゲン爺の昔話に相槌を打ったり。派手に変わったわけではないが、周囲との関わり方に自然な柔らかさが生まれている。真面目で誠実な人柄が皆にも伝わり、本人もここを居場所だと思えるようになったのだろう。


もちろん、本質まで別人になったわけではない。必要以上におしゃべりをするタイプではなく、仕事では決められた手順を丁寧に守る。少しでも気になる点があれば記録を残し、確認できないことを曖昧なまま済ませない。勘や勢いよりも根拠を重視し、数字や実績を積み上げて判断する。


ミーナが店頭から駆け込んできて「急ぎで瓶が欲しい」と言っても慌てて在庫を動かしたりはしない。ユナから洗浄済み本数の報告が遅れても勝手な推測で数字を書き込まず、俺が「たぶん足りると思う」と軽い調子で口にしても、帳簿と在庫札を確認したうえで「たぶんでは発注できません」と平然と言い返してくる。


人を雇う前の俺なら、その融通の利かなさを少し堅苦しいと思ったかもしれない。しかし工房の規模が広がり、扱う材料も商品も増えた今では考えが違う。俺の頭の中には経験から来る感覚がある一方で、面倒になると細かい確認を飛ばしたくなる悪い癖もある。その雑さが工房全体へ広がれば、いつか必ず大きな失敗になるだろう。だからこそ俺の「だいたい大丈夫」を信用せず、数字と記録を優先する人間がいてくれることはありがたかった。少なくとも、青ぷよ薬房がここまで拡大しても大きな混乱を起こさずに済んでいる理由の一つは、間違いなくハルトのそういう堅実さにあった。


北側の洗浄室では、ユナがすでに朝の水を準備していた。粗洗い用の石台と仕上げ洗い用の石台は腕二本ぶん離れており、赤い柄の道具は入口側、青い柄の道具は調合室側へ掛けられている。壁にはその日の水温、洗浄開始時刻、使用した洗浄布の番号を書く薄板があり、ユナは井戸水と汲み置き水を混ぜ、温度計を目の高さまで持ち上げて確認していた。


「九度です。今日はこのまま使えます」


「朝にしては少し温かいな」


「昨日の夜が冷えなかったので、汲み置き分は混ぜていません。仕上げ洗い用は新しい水へ替えました。排水籠も空です」


ユナの報告はいつも短い。しかし短いからといって内容が足りないわけではなく、むしろ必要な情報だけを迷いなく拾い上げて並べている分、俺には非常に分かりやすかった。洗浄済み瓶の本数、濾過布の交換状況、木栓の乾燥棚使用数、洗浄室の水桶交換時刻、予備在庫の残数――どれも一言二言で終わる報告ばかりだが、聞き終わった時には洗浄室の状態が頭の中へそのまま浮かぶ。


最初に面接へ来た時、ユナは共同洗濯場と治療院の清掃くらいしか経験がないと言っていた。薬の製造どころか工房勤務そのものが初めてで、自分に務まるだろうかと何度も不安そうな顔をしていたのを覚えている。しかし今では洗浄室という持ち場を完全に自分の仕事として理解し、何を優先し、何を避けるべきかを誰に言われるまでもなく判断できるようになっていた。


瓶を洗う順番一つ取ってもそうだ。汚れの少ないものから洗うのか、多いものから洗うのか。どの段階で濾過布を交換するのか。木栓を水へ浸す時間が長すぎるとどうなるのか。粗洗いで使った水を仕上げ洗いへ流用してはいけない理由は何なのか。核洗浄前に指輪や金具を外すのはなぜなのか。


アイスが作成した手順書には確かにそれらが細かく記されている。けれどユナを見ていると、単純に文章を暗記しているようには見えなかった。指示されたからやるのではなく、その作業が何を防ぐために存在しているのかを理解したうえで動いている。だから想定外の状況が起きても手順の意味から逆算して判断できるし、細かな異常にも気付けるのだろう。


昨日もそうだった。


夕方の片付けが終わったあと、ユナは仕上げ洗い専用の青布が乾燥棚へ一枚だけ戻っていないことに気付いた。布一枚の話である。以前の俺なら「どこかにあるだろう」で済ませていたかもしれない。しかしユナはそこで終わらせなかった。使用記録を確認し、洗浄室と保管棚を見回り、最後に運搬記録を辿った結果、その布が瓶箱の敷布として使われかけていることを発見したのである。


犯人はハルトだった。


もちろん故意ではない。片付けの最中に畳まれた布を見間違えただけだろう。しかしもしそのまま運用されていたら、洗浄用と運搬用の区別が曖昧になり、いずれ別の問題へ繋がっていたかもしれない。


指摘を受けたハルトは言い訳ひとつせずに謝罪し、その日のうちに原因を考え、今朝には瓶箱用の布へ茶色の縫い糸を入れて識別できるようにしていた。青布は青布、敷布は敷布と分かるようにしたのである。


誰かが失敗する。


それを隠さず報告する。


皆で原因を確認する。


次から起きないよう仕組みを変える。


こうして並べるとごく当たり前の話に聞こえるが、人が増える前の青ぷよ薬房では、実のところそこまで体系立った考え方は根付いていなかった。何しろ昔は俺一人で切り盛りしていたのだ。失敗して困るのも俺なら、後始末をするのも俺。同じ失敗を繰り返さないよう気を付けるのも結局は自分自身だった。だから記録より記憶、仕組みより経験で何とか回っていたのである。


しかし今は俺一人だけが工房を回しているわけではない。働く人が増えればそれぞれが下す判断も増えるし、扱う作業量も情報量も膨らむだろう。誰か一人の勘や根性に頼っていては、いずれどこかで綻びが出る。だからこそ、誰が担当しても同じ基準で動ける仕組みを整える必要があった。


この数か月で俺が痛感したのは、まさにその点だった。工房を大きくするというのは建物や設備を増やすことではなく、皆が迷わず動ける土台を作ることなのだと、何度も思い知らされたのである。


「店主さん、朝の確認を始めますよ」


調合室の奥に設置された記録台の方から、ミーナのよく通る声が飛んできた。


以前の青ぷよ薬房には、朝の確認などという習慣はなかった。


開店前に俺が一人で棚を見回り、売れ筋の薬が減っていれば多めに作る。材料箱を覗いて不足している薬草や鉱粉を思い出し、納品予定があればその場で順番を組み替える。紙に書くこともほとんどなく、頭の中だけで一日の流れを決めていた。


雨の日は客足が鈍るから製造を進め、市場が賑わう日は店頭在庫を厚めにする。そんなふうに、その日の空気や経験則を頼りに動いていたのである。


朝の予定板には毎日びっしりと文字が並んでいた。


店頭販売用の補充予定、定期納品先ごとの出荷数、当日の製造品目と目標本数、薬草商から届く材料の入荷時刻、来客や商談の予定、改築後の設備点検項目、洗浄室の使用枠、抽出釜と加熱釜の稼働時間、さらには昼休憩や交代時間まで細かく書き込まれている。


以前なら「空いている人がやる」で済んでいた仕事も、今では担当者と時間を決めておかなければ簡単に予定が衝突する。


例えば洗浄室で瓶を乾燥させている最中に別の工程が割り込めば作業効率は落ちるし、釜の使用時間が重なれば待機時間が発生する。人数が増えた分だけ、事前の擦り合わせが重要になったのだ。


正直に言えば、最初の頃は予定板を見るだけで少し身構えてしまった。


項目がやたら多いのである。


納品管理、設備確認、工程調整。どれも必要なのは分かるが、文字だけ眺めていると頭が固くなりそうだった。


そこで俺は勝手に別の呼び名を付けた。


「朝の作戦会議」である。


今日はどの薬を重点的に作るのか。


どの注文を優先するのか。


誰がどの持ち場を担当するのか。


そう考えると、堅苦しい管理業務というより出発前の打ち合わせに近い。俺としてはその方がずっと覚えやすかった。


一方でアイスは頑なに「始業前工程確認」と呼ぶ。


予定板の前でも、記録書類でも、その名称を一切崩さない。


おそらく管理者としてはそれが正式名称なのだろう。


内容を考えれば確かに間違ってはいないが、どうにも堅苦しいというか…長い。


毎回最後まで言おうとすると途中で面倒になって、「朝のやつ」で済ませたくなるくらいには長かった。


その点、ミーナはまったく気にしていないらしい。


「朝の作戦会議ですよー」


と言った翌日に、


「始業前工程確認を始めます」


と平然と言い出す。


さらにその次の日には、


「朝の確認の時間です!」


などという第三の呼び方まで飛び出した。


本人の中では全部同じ意味なのだろう。


少なくとも名称について真面目に悩んでいるのは、俺とアイスだけらしかった。


記録台の前には、アイス、ミーナ、ハルト、ユナが集まった。ホワイトは従業員ではないため会議へ参加する義務はないものの、朝飯を食べたあと、ミルを肩へ乗せたまま壁際の椅子へ座っていた。話を聞いているのかいないのか分からない顔をしているが、スライム採取地や排水の話になると目だけはこちらへ動く。


「本日の製造は三回です」


ミーナが板を指した。


「第一仕込みは生活用回復薬十八本、一般冒険者向け回復薬十二本。第二仕込みは一般冒険者向け回復薬二十本。第三仕込みは騎士団向け高純度回復薬八本。店頭在庫は生活用が二十一本、一般用が十七本、高純度品が五本、疲労軽減薬が九本、簡易解毒薬が六本、高純度解毒薬が二本です。今日の店頭販売上限は、一般用二十四本、高純度品五本。村内用は別枠で、急ぎがなければ在庫を一週間分より下へ落としません」


「王都向けはまだ作らないんだな」


「正式契約書へ署名するまでは作りません。規格瓶の充填試験だけ、午後の通常品から一本分を使って行います」


アイスが記録板へ目を落としながら答えた。レオナールから持ち込まれた王都向け試験納入の商談については、すでにクラウスと商業組合による契約内容の確認が終わっており、納品義務、違約条件、価格設定、試験期間中の権利関係を含めて大枠に問題はないという返答が届いている。細かな文言の修正案はいくつか出たものの、商売として見れば十分に好条件であり、少なくともこちらが不当に不利になる内容ではないというのがクラウスの見解だった。


設備前渡金についても結論は出ている。


本来であれば、王都側から提示された前渡金を利用すれば改築費や設備費の一部を先に賄うことができる。しかしクラウスは帳簿を広げながら、その金が実質的には未来の売上を前借りしているのと同じであることを丁寧に説明した。たとえ利子が付かなくとも、将来受け取るはずの納品代金を先に使えば、その分だけ後々の資金繰りは窮屈になる。さらに現在の青ぷよ薬房は騎士団納品と店頭販売の収益が安定しており、改築費を一括で支払ったとしても運転資金が危険な水準まで落ち込むわけではない。加えて王都試験納入分の前金も別途入る予定である以上、無理に前渡金へ頼る理由は薄いという判断だった。


結果として、俺たちは第一段階と第二段階の改築費用については自己資金で賄うことを決めた。


もっとも、だからといって全てを一気に進めるわけではない。


当初の計画には研究室の拡張と専用梱包室の新設を含む第三段階も存在していたが、こちらは保留になっている。アイスとしては今すぐ着工したいらしく、設計図を見るたびに視線が妙に長く留まっている。しかしクラウスからは「利益が安定してから」、ゲン爺からは「建物は逃げない」と揃って釘を刺されており、本人も表向きは納得した顔をしていた。


表向きは。


「第一仕込みの受け入れ核は、昨日採取された北小川第二群です。合計二十六個。高純度候補四、通常品使用可能二十、確認待ち二となります」


ハルトが受け入れ帳を確認しながら淡々と報告する。


改築後に導入された受け入れ管理では、採取された核はその場で使われるのではなく、洗浄、確認、分類を経て用途ごとの管理区分へ振り分けられるようになっていた。高純度候補は王都試験品や騎士団向け上位品へ、通常品は店頭販売向けへ、異常が見られるものは確認待ちとして別管理される。


「確認待ちは?」


俺が尋ねると、ユナが手元の確認札へ視線を落としながら答えた。


「一つは膜の端が白く硬くなっています。洗浄前から確認されていました。もう一つは洗浄後も表面温度の戻りが遅く、標準記録との差が続いています。どちらも黒札を付けて隔離し、確認用小皿へ移しました」


報告を聞いた俺は、そのまま洗浄室の確認台へ向かった。


朝の光が差し込む確認台の上には、黒札の付いた小皿が二枚並べられており、その中央に問題の核が置かれている。


最初の一つは見た目にも分かりやすかった。


核を包む半透明の膜の縁がわずかに白濁し、通常より硬く締まっている。指先で軽く押してみると弾力は残っているが、反応速度が鈍い。これは水温の低い場所で長期間活動せずにいた個体によく見られる状態に近かった。生存力そのものに問題はないが、抽出工程で膜が均一に開かず、成分の放出量にばらつきが出ることがある。


使えないわけではない。


ただし品質を揃える目的なら避けた方が無難だった。


続いて二つ目を手に取る。


こちらは外見だけならほとんど異常が見当たらない。色も透明度も標準範囲内で、膜の状態にも乱れはない。だが掌へ乗せたまま指先を近づけると、中心部から返ってくる微細な反応が妙に弱かった。


脈動と呼ぶにはあまりにもかすかで、知らない者なら気づきもしない程度の変化だ。だが毎日のように核へ触れ、状態を見極めてきた俺には、そのわずかな鈍さがはっきりと伝わってくる。


例えるなら、普段は一定の間隔で返ってくる反応が、一拍遅れて届くような感覚だった。


ユナが報告していた「洗浄後の温度回復の遅れ」も、おそらく同じ異常の表れだろう。表面上は健康そうに見えても、内部で何らかの変化が起きている可能性がある。


もちろん、このまま通常品へ混ぜて加工したとしても、薬そのものは問題なく作れるはずだ。実際、製品検査を通れば誰も気づかないかもしれない。


だが、原因不明の個体をわざわざ量産工程へ流す理由もない。


俺は核を慎重に小皿へ戻し、頭の中で処理方針を整理した。


白膜の個体は低品質区分として別保管し、必要があれば後日検証用に回す。


一方、この反応の鈍い個体は通常生産から外し、アイスが継続している保管試験の検体へ組み込むのが妥当だろう。


未知の変化を見つければ、あいつは目を輝かせて記録を取り始めるに違いない。


少なくとも、原因を突き止めるまで放っておくよりは、よほど有意義な使い道だった。


「白い方は生活用へ単独で使う。反応が遅い方は研究確認。ハルト、番号を分けてくれ」


「承知しました。第二群二十六番を生活用試験、二十七番を研究確認へ変更します」


「二十七個あるのか?」


「二十六個です。確認札の一枚が粘液容器用です」


「ああ、そういうことか」


「札番号と個数は同じではありません」


「分かってる。今、思い出した」


ハルトが何も言わず帳簿へ書いた。こういう時、口に出して指摘しないのが優しさなのか、記録へ残して次回から間違えないようにする方が厳しいのか、最近少し分からない。


第一仕込みの準備が工房側で本格的に動き始める頃になると、店頭ではミーナが開店作業へ移っていた。以前なら開店準備といっても扉を開けて棚を整える程度だったが、今の青ぷよ薬房では扱う商品も客層も増えたため、朝の準備だけでも確認する項目がかなり多い。


店の入口脇へ設置された案内板には、その日に販売する薬の種類、販売価格、購入上限数、販売条件、相談が必要な薬品区分まで細かく書き込まれていた。生活用回復薬は村内登録者向けに一本八十R、一般冒険者向け回復薬は百八十R、高純度回復薬は四百R、疲労軽減薬は三百二十R。簡易解毒薬は症状確認後に販売し、高純度解毒薬については原則として薬師または治療所からの照会が必要となる。


特に価格設定については大きく変わった。


高純度回復薬は品質帯の中央値へ固定され、特別な試作品や研究用調整品、契約納品向け製品を店頭販売へ混ぜないという方針が徹底されている。


この方針は、正直に言えば俺自身が積極的に望んだものではなかった。


むしろ最後の最後まで、「そこまで厳密に決めなくてもいいのではないか」と考えていたくらいだ。


というのも、昔の俺は完成した薬瓶を窓際へ持っていき、朝日やランプの光に透かしながら色味や透明度を確かめ、瓶を軽く傾けて粘度の具合を見る。そして、その日の出来栄えに応じて値段を決めていたのである。


たとえば澄んだ青色が綺麗に出ていて効能も高そうなら、


「今日はかなり良い出来だな。銀貨三枚半でいこう」


逆に薬液がやや薄く、規格内ではあるものの最高品質とは言い難い場合は、


「今回は少し控えめだから銀貨二枚と銅貨五十枚だな」


そんな具合に、その場の判断で価格を上下させていた。


俺としては品質に見合った値段を付けているつもりだったし、良い物は高く、そうでない物は安く売るのだから、むしろ誠実な商売だと考えていたのである。


だが、その考え方には問題があると周囲から次々に指摘された。


まずクラウスが帳簿を広げ、同じ商品名なのに販売価格が頻繁に変わると売上管理や在庫分析が難しくなると説明した。


続いてミーナは客の立場から意見を述べた。常連ならまだしも、初めて来た客や久しぶりに訪れた客にとっては、毎回値段が違うだけで不信感につながるという。


さらにアイスは品質管理の観点から反論した。品質差を理由に価格を変えるなら、その差を誰でも分かる形で数値化しなければ基準として成立しない、と。


帳簿、接客、品質管理。


三方向から順番にではなく、ほぼ同時に駄目出しを受けたのである。


客の視点で考えれば確かにその通りだった。


同じ「高純度回復薬」という名前で売られているのに、昨日は銀貨四枚、今日は銀貨三枚、来週はまた値上がりしている――そんな店があったとして、安心して買えるだろうか。


店側が「今日は品質が良いから高いんです」「今回は少し薄いので安いんです」と説明したところで、その品質差を客自身が確認できるわけではない。


特に薬は食料品以上に体へ直接影響する商品だ。


効き目は本当に同じなのか。


高い日は適正価格なのか。


安い日は品質に問題がないのか。


そうした疑問や不安を抱かせる時点で、商売としては決して良い状態ではないのだという。


言われてみればその通りだった。


俺は薬を作る側の感覚で考えていたが、買う側は毎回品質検査などできないのである。


結局、今は品質帯ごとに規格を決め、その範囲内なら価格は固定する方式へ変わった。


商売というのは難しい。


作る側が分かっていることと、買う側が安心できることは必ずしも同じではないらしい。


ミーナは案内板の最終確認を終えると、続いて釣銭箱を開いた。


箱の内部は細かく仕切られており、鉄リア、銅リア、銀リアが額面ごとに分けられている。彼女は前日の売上控えと朝の残高帳を見比べながら、一枚ずつ硬貨を確認し、数が合っているかを確かめていく。


改築前の俺なら間違いなく面倒がっていた作業だった。


実際、昔は売上袋へまとめて放り込み、夜に数が合えば問題なしという運用だったのである。


しかし取引額が増え、人も増えた今ではそうはいかない。


帳簿と現金が一致していることを毎朝確認するのは、もはや工房と同じくらい重要な仕事になっていた。


店頭奥に設置された受け渡し棚にも、その日の販売分だけが並べられていく。


ここも改築後に大きく変わった場所の一つだった。


工房側と店側を繋ぐ受け渡し棚は壁を貫く形で設置されており、薬品の移動は必ずこの棚を経由する。工房側で完成した商品をハルトが棚へ入れ、扉を閉め、掛け金が確実に噛み合ったことを確認したあとで初めて、ミーナが店側の扉を開けて受け取る仕組みになっていた。


受け渡し棚には安全機構が組み込まれており、工房側と店側の扉は必ずどちらか一方しか開かないようになっている。


たとえば工房側の扉が開いている間は、内部の掛け金が自動で作動し、店側の扉はびくともしない。逆に店側を開けている最中は工房側が固定されるため、両側が同時に開放されることは構造上あり得なかった。


見た目は木製の棚にしか見えないが、この仕組みのおかげで得られる恩恵は意外と大きい。


店頭には朝から多くの客が出入りする。靴底についた土埃や外套に付着した花粉、雨の日なら湿気を含んだ空気まで持ち込まれるが、それらが調合作業中の工房へ直接流れ込むことを防げる。


さらに、工房内では高純度薬や試験調合中の薬液を扱うこともあるため、作業台の様子や未完成品を不用意に客へ見せずに済むという利点もあった。


衛生管理と品質管理、そして情報管理まで兼ね備えた設備として考えれば、実によくできた仕組みである。


もっとも、その便利な仕組みを完成当日に理解できていなかった人物が一人だけいた。


言うまでもなく俺だ。


改築が終わった初日、ゲン爺や職人達から説明を受けていたのだが、俺は途中で「なるほどなるほど」と適当に頷きながら聞き流してしまった。


そして完成した棚を見て真っ先に試した。


工房側の扉を引く。


開かない。


「あれ?」


首を傾げながら今度は店側へ回る。


引く。


やはり開かない。


「おかしいな」


そこでやめておけばよかったのだが、その時の俺は妙な方向へ発想を飛ばした。


片方では駄目なら、両方を同時に動かせば開くのではないか。


そんな謎理論を真顔で採用してしまったのである。


結果は当然ながら大失敗だった。


中途半端な状態で掛け金が噛み込み、内部機構が完全に固まった。


工房側を引いても動かない。


店側を押しても反応しない。


力を込めてもびくともしない。


新品だった受け渡し棚は、完成初日にしてただの巨大な箱へと変貌したのである。


しばらく格闘した末、異変に気付いたゲン爺が様子を見に来た。


事情を説明すると、ゲン爺は固まった棚と俺の顔を交互に見比べ、それから深々とため息を吐いた。


「説明を最後まで聞かんからそうなる」


呆れ半分、諦め半分といった声だった。


その後、職人達まで呼ぶ騒ぎになり、俺は皆の前でしっかり説教を受ける羽目になった。


あの日の失敗談は表向きには誰も蒸し返さない。


誰も口にはしないのだ。


だが、ハルトが受け渡し棚へ商品を入れて扉を閉める時、なぜか毎回こちらをちらりと見る。


ミーナも掛け金が「カチリ」と噛み合う音を聞くたび、口元を押さえて微妙に肩を震わせている。


つまり、忘れられていない。


誰も話題にはしないだけで、しっかり記憶され続けているらしかった。


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