第48話 工房の未来に向けて
手順書の説明は、当然のように昼休みだけでは終わらなかった。
というより、昼休みで終わると思っていた俺が甘かったのだ。相手はアイスである。薄い手順書を持ってきて「ざっと確認しましょう」と言いながら、実際には辞書みたいな厚さの紙束を机へ置き、さらに「第一版です」と平然と言ってのける女である。
第一版ということは第二版がある。
第二版があるということは、改訂も追記もある。
つまり、この紙束はまだ成長途中ということだ。
なぜだろう。
工房の収益が増える話よりも、手順書のページ数が増える話のほうが、ずっと確実に実現しそうな気がした。
午後の仕込みが始まると、アイスは手順書と実際の作業を一つずつ照らし合わせながら進行を確認し始めた。その様子は手伝いというより、工房全体を使った実地検証や観察実験に近い。ユナは洗浄水の温度を測り、規定範囲に収まっていることを確認してから核を受け取る。ハルトは受け入れ番号を読み上げ、ミーナは調合帳へ採取群、洗浄時刻、担当者名を書き込んでいく。全員が自分の役割を持って動いている光景は新鮮だったが、一番落ち着かなかったのはたぶん俺だった。
というのも、長年の習慣というのは厄介なもので、気が付けば俺はいつものように全部の桶を覗き込み、全部の瓶を持ち上げ、全部の帳簿へ首を突っ込もうとしていたのである。そしてそのたびに、どこからともなく現れたアイスに止められた。
「そこは緑です」
一回目。
「そこも緑です」
二回目。
「そこも担当者が確認済みです」
三回目。
さすがに四回目くらいになると、俺の中で「緑です」という言葉が別の意味に聞こえ始めた。
――邪魔です。
たぶん言っていない。
実際には一度も言っていない。
だが、あの淡々とした声で何度も「緑です」と告げられると、不思議とそう聞こえてくるのである。
被害妄想だろうか。
いや、被害妄想であってほしい。
俺が実際に担当したのは、核の状態確認と膜の最終分離だけだった。以前なら採取素材の受け入れから洗浄、濃度確認、温度管理まで全部自分で見ていたのに、今日はそこまで手を出す必要がない。暇になったわけではないのだが、妙に手持ち無沙汰だった。
粘液の濃度確認では、アイスが例の銀製計量杯を使って測定を行った。一定量の粘液を流し、落下時間を計る。対する俺は、いつも通り木べらから垂れる糸の長さと切れ方を見る。長年の経験で染み付いた確認方法だ。
結果は、ほぼ同じだった。
「規定範囲内です」
アイスが計測結果を見ながら言う。
俺も木べらを軽く振り、頷いた。
「問題ないな」
数値と感覚。
確認方法は違うのに結論は一致していた。
アイスは特に感動する様子もなく、「そうでしょうね」とでも言いたげな顔で頷いただけだったが、俺の中には妙な達成感が生まれていた。
俺のなんとなくは、まだ銀の杯に負けていない。
そんなよく分からない勝利感である。
何に勝ったのかと聞かれると困る。
たぶん測定器だ。
しかし冷静に考えると、測定器を相手に対抗心を燃やしている時点で少し危ない気もする。
職人として健全なのかもしれないし、人間としてはあまり健全ではないのかもしれなかった。
媒体液はユナが手順に従って準備し、水、薬草基礎液、微量塩、用途別の抽出液を順番通りに混ぜ、濁りがないことをアイスが確認した。ハルトは横で番号札と容器を照合し、ミーナは調合帳へ「媒体液異常なし」と記入する。俺はその間、いつもの癖で水桶へ手を伸ばしかけ、何もすることがないと気づいて手を引っ込めた。工房主なのに、作業場で手持ち無沙汰になる。これはなかなか心にくる。客がいない店主より、仕事のない工房主のほうが深刻な顔になるかもしれない。
俺が実際に釜の前へ立った頃には、いつもなら仕込みの前段階として自分一人で走り回りながら片付けていた準備の大半が、すでに終わっていた。
正直に言うと、かなり落ち着かなかった。
何か重大な忘れ物をしているような感覚がずっと付きまとっていたのだ。いつもなら最初に水桶を確認し、必要な量の水を汲み、瓶を並べ、粘液を濾し、薬草液を量り、濾過布の状態を確かめ、火掻き棒の位置を直し、ついでに誰かが適当に置いた器具まで元の場所へ戻してからようやく釜へ向かう。それが長年の習慣になっていた。ところが今日は違う。水はすでに準備されている。瓶も規格ごとに並んでいる。粘液は前処理が終わり、薬草液も必要量が量られている。濾過布は乾燥状態まで確認済みで、器具類も所定位置へ整然と並べられていた。
しかも厄介なことに、ただ終わっているだけではない。
受け入れ番号と対応した札まで付けられ、どの素材がどの工程へ進むのか一目で分かる状態になっている。
つまり、文句の付けようがなかった。
だから余計に落ち着かない。
自分がやっていないのに準備が終わっているという状況は本来なら便利なはずなのだが、人間というのは不思議なもので、長年自分で抱え込んできた仕事が突然なくなると、楽になるより先に不安が来るらしい。
「本当に大丈夫なのか?」
という気持ちになる。
どこかで誰かが何かを忘れているのではないか。
見落としがあるのではないか。
確認していない部分があるのではないか。
そんな考えが頭の中をぐるぐる回る。
しかし実際に確認してみると、全部揃っている。
しかも、だいたい俺が準備する時より整理されている。
そこがまた地味に心へ刺さった。
感覚としては、朝起きたら自分の部屋が勝手に掃除されていて、しかも自分が片付けるより綺麗になっていた時に近い。
ありがたい。
ありがたいのは間違いないのだが、なぜか少し負けた気分になる。
「いや、別に部屋じゃないんだがな……」
思わずそんなことを呟く。
ここは工房だ。
俺の私室ではない。
仕事場である。
仕事場なのだから、効率よく整理されている方が正しい。
理屈では分かっている。
分かっているのだが、それでも自分が何年もやってきた作業がいつの間にか他の人間によって問題なく回り始めている光景を見ると、便利さと安心感の隣に、言葉にしづらい妙な敗北感が座っているのだった。
「……本当に、これでいいのか」
「確認してください」
アイスが言った。
俺は媒体液の匂いを嗅ぎ、粘度を見て、核を手に取った。問題はない。むしろ、いつもより揃っている。揃っているのが逆に腹立たしい。俺が一人でばたばた動き回っていた時より、みんなで分担した方が状態が安定しているという事実が、職人としての誇りへそっと膝蹴りを入れてくる。
火を入れ、粘液基材を馴染ませる作業はアイスが行った。俺は横で見ていた。木べらの深さ、動かす幅、速度、釜の縁に沿わせる角度。全体としては丁寧だったが、少し硬い。俺が「もう少し浅く、外から内へ」と言うと、アイスはすぐに手首の角度を変えた。泡の角がすっと消え、丸くなる。
「今ですか」
「まだ。あと少し」
「測定温度は規定内です」
「温度じゃなくて、液の下がまだ重い」
「下が重い」
「木べらを止めたあと、戻りが遅いだろ」
アイスは動きを止め、液面を見た。
「……確かに、中心の収束が遅れています」
「それが揃ったらいい」
数十息のあと、液の戻り方が変わった。
「今だ」
アイスは温度計と砂時計を交互に確認しながら、釜の温度、経過時間、火力調整の時刻を調合帳へ書き込み、その数値を書き終えたあともまるで記録漏れという概念そのものをこの世から根絶したいとでも言うように、もう一度最初から見直していた。
そこから先――核を投入し、開放開始の瞬間を判断する工程だけは、今も俺の仕事だった。
火加減を整え、液面を見つめ、核の変化を待つ。
あの感覚。
説明できないし、説明しようとするとアイスが真顔で手順書へ書き始めるので最近はあまり口にしないが、核の中心が少し遠くなるような、輪郭の奥行きが変わるような、光が一歩だけ後ろへ下がるような感覚である。
俺がその変化を探している間、周囲は静かに動いていた。
ユナは次に使う器具を洗浄台の端へ順番通りに並べ、ハルトは素材番号と瓶番号を対応させる記録札を確認し、ミーナは調合帳へ視線を落としながら、俺の判断やアイスの数値報告をすぐ書き込めるよう筆を構えている。
以前ならこうした確認も準備も記録もほとんど全部を俺一人で抱え込み、正確には全部を自分でやらなければならないと思い込みながら常に気にしていた。釜の状態を見守りながら棚の瓶の残数を確認し、瓶を確認しながら店の在庫状況を頭の中で整理し、在庫を気にしながら来店した客の声へ耳を傾け、客の対応をしながら火加減の変化にも神経を尖らせるという具合で、今振り返ればよく大きな事故もなく続けられていたものだと思う。運が良かったと言えばそれまでだが、おそらく本当は違う。事故が起きる前にアイスが現れたからだろう。あいつは事故や失敗につながりそうな要素を見つけると、本人は真面目なつもりなのにどこか楽しそうな顔で徹底的に潰しにかかる。研究者という生き物は本当に恐ろしい。
やがて液面の光が変わり始めた。核の周囲へ漂っていた薄い光がゆっくりと広がり、閉じていた輪がほどけるように液全体へ馴染み始め、その変化に合わせるように匂いも少しずつ変わっていく。最初にあった尖った刺激が丸く柔らかくなり、言葉にするなら青い匂いへ変わるのだ。アイスは絶対にそんな表現を認めないだろうが、俺に言わせれば青いものは青いのである。誰が何と言おうと青い。俺はその変化を確かに感じ取り、小さく頷いた。
「入った」
その一言が発せられた瞬間、それまで静かに役割をこなしていた工房全体が、まるで合図を待っていた歯車のように一斉に動き始めた。ユナはすぐに砂時計を返して新しい計測を開始し、さらさらと規則正しく落ち始めた砂の流れを確認する。アイスはほとんど反射のような動きで火床へ屈み込み、薪の位置や間隔を細かく調整して熱量を狙った範囲へ収めていく。ミーナは俺の声を聞いた直後にはすでに筆を走らせており、時刻を書き込むと同時に横へ「開放開始確認」と記録を残していた。
こうした光景は、一人で薬を作っていた頃には存在しなかったものだ。あちこちから短い報告が飛び、確認の声が返り、それに対する返答が続く。工房であるはずなのに、どこか小規模な隊商が出発前に作戦を擦り合わせている場面のようでもあり、それぞれが自分の役割を理解したうえで動いていることが自然と伝わってくる。
不思議なことにそれだけ人が動き、声が交わされているにもかかわらず、騒がしいとはまったく感じなかった。むしろ以前より静かですらある。理由は単純で、俺自身が見なければならないものの数が圧倒的に減ったからだ。視線を工房中へ飛ばして状況を追い続ける必要もなければ、薬草抽出液の準備状況を気にする必要もない。後ろに並んだ瓶が十分に乾いているか確認する必要もなく、受け渡し棚の在庫を数える必要もなく、店頭から「店主さんー!」と呼ばれて慌てて飛び出す心配もしなくていい。
誰かがそれぞれの持ち場を見ている。誰かが確認し、誰かが記録し、誰かが次の工程を整えている。だからこそ俺は核と液だけを見ていられる。その事実は、自分で思っていた以上に楽だった。
だが楽である一方で、どこか落ち着かない気持ちもあった。長年背負い続けていた荷物を突然下ろした人間が、実際には何も背負っていないのに背中だけが重く感じられるような、そんな妙な違和感である。肩の力は抜けているはずなのに、身体のどこかがまだ以前の忙しさを探しているような感覚だった。
停止判断を行って火を落としたあとも、その感覚は消えなかった。静置、試料採取、濾過準備といった後工程はアイスたちへ任せ、俺は少し離れた位置へ移動して腕を組みながら、釜の表面がゆっくりと落ち着いていく様子を眺めていた。
妙な気分だった。
誰かに仕事を奪われたとは思わない。むしろ逆で、今まで何もかも抱え込んでいたせいで見えなくなっていた「俺にしかできない部分」が、かえってはっきり浮かび上がってきたような気がする。不要な作業や他人でもできる仕事が整理されていった結果、最後まで残った部分だけが不思議なほど鮮明に見えるのだ。
その日の試作量は通常品八本分だけだった。改築中の工房であり、新しい手順を試しながらの製造でもあるため量は控えめだったが、そのぶん工程ごとの確認は丁寧に行われた。
完成後、魔力保持率、透明度、粘度、匂い、沈殿状態を順番に確認したところ、得られた数値は直近の通常品とほぼ同じ範囲へ収まっていた。むしろ洗浄水温や粘液濃度がきっちり揃った影響なのか、瓶ごとの差は以前より明らかに小さい。一本目と八本目を並べて見比べても違いがほとんど分からず、均一性という点では過去でもかなり良い部類に入る出来だった。
アイスは結果表へ目を落としたまま静かに頷き、ユナは胸を撫で下ろすようにほっと息を吐き、ハルトは記録帳へ数値を書き込みながら「揃っていますね」と感心したように呟く。そんな中、完成した瓶を一本ずつ丁寧に棚へ並べていたミーナが、どこか嬉しそうな表情で振り返りながら言った。
「なんだか工房っぽくなってきましたね」
その言葉に、俺は少し考えた。
今までも工房だった。
間違いなく工房だった。
ただ、昔の青ぷよ薬房は『俺が頑張る場所』だった気がする。
今の青ぷよ薬房は少し違う。
皆がそれぞれの仕事をして、その結果として薬が出来上がる場所になり始めている。
そう考えると悪くない。
悪くないのだが――。
「成功です」
完成した試作分の記録を確認し終えたアイスが、ほとんど迷いのない声でそう言った。
「一回で決めるな」
俺が返すと、アイスはほんの少しだけ眉を動かした。普通なら気付かない程度の変化だったが、たぶん納得している顔だ。
「正しい指摘です。現時点では成功例が一件確認されたにすぎません。少なくとも十回、素材群、気温、湿度、洗浄条件、粘液粘度を変えて検証し、季節条件まで含めるならさらに長期の記録が必要です」
「お前に正しいって言われると落ち着かないな」
「褒めています」
「分かってる」
アイスは手順書の最後へ、その日の結果を細かく書き込んだ。使用した核の番号、粘液基材の粘度、媒体液の温度、核開放の開始時刻、火を落とした時刻、静置時間、濾過後の透明度、完成品の魔力保持率まで、俺が見ているだけで少し眠くなりそうな項目が整然と並んでいく。
俺は改めて机の上に並べられた完成品の八本を見た。
この八本は、俺一人で作ったものではない。
核を採取し、状態を見極めながら慎重に開放し、暴走しないよう最後に止める――その中核部分を担当したのは確かに俺だ。しかしその前段階で使用する洗浄水の成分や温度を細かく調整し、素材の粗洗いを手際よく進めてくれたのはユナだった。瓶の管理や素材番号の整理を行い、どの素材がどの箱に入り、どの工程を経て完成品になったのかを後からでも追跡できるよう仕組みを整えたのはハルトだ。販売予定表と製造記録を照らし合わせながら、どの商品がどれだけ必要で、誰にどの数量を回すべきかを整理し、無駄な在庫や不足を防いでくれたのはミーナ。そして工程全体の計測と記録を担当し、粘液基材が規定範囲に収まるよう何度も確認しながら最適な状態へ馴染ませていたのはアイスだった。
単純に考えれば、人手が増えたという話なのかもしれない。
だが実際には、一人分の手がそのまま五人分になったわけではない。
ましてや、俺の代わりが四人現れたという話でもない。
それぞれが自分の得意な場所を受け持ち、それぞれの視点で不足を補いながら工程を支えている。その結果として、俺は雑多な作業に追われ続けるのではなく、本当に集中しなければならない中核工程へ時間と意識を戻せるようになった。誰かが俺の仕事を奪ったのではなく、皆が俺の手を必要な場所へ届くよう支えてくれている――そんな感覚だった。
「ロイドさん」
アイスが手順書を閉じながら言った。
「中核工程を完全に代替できる人材がいないことは事実です。現在の需要に対して生産能力が不足していることも事実です。しかし、解決方法は、あなたと同じ人間をもう一人探すことだけではありません」
「俺と同じ人間なんて、いても困るだろ」
「性格の話ではありません」
「分かってる」
「あなたが一日で十の作業をしているなら、そのうち七つを他者へ移し、残る三つへ集中する。それだけでも、中核工程の処理量と安全性は上げられます。さらに、黄色の工程を一つずつ標準化して緑へ変えれば、あなたが直接見るべき範囲はもっと明確になります」
「それでも、俺が倒れた時の手順としてはまだ不十分だ」
「はい」
アイスはそこをごまかさなかった。
「完全には止まらない店へするには、将来的に薬師見習い、調合補助、採取研究、スキル反応研究が必要です。ただし、最初から完全代替を目指すと失敗します。まず、あなたがいなければできない仕事を、本当にあなたがいなければできない範囲まで狭めるべきです」
本当に俺しかできない範囲まで仕事を絞り込み、それ以外を仕組みとして切り分けていく――アイスのその言葉は、ただの経営論や作業効率の話ではなく、妙に重みを持って胸の奥へ沈んでいった。
今までの俺は、店を守るということは、できる限りすべてを自分の手で抱え込むことだと思っていた。採取も洗浄も調合も瓶詰めも陳列も、自分でやれば工程の流れを完全に把握できるし、誰かに説明する手間もない。失敗が起きたとしても原因を追いやすく、責任の所在も曖昧にならない。少なくとも、自分の判断で起きた失敗なら、自分で受け止めて修正できるという安心感があった。
けれど人を雇い、一緒に働くようになってから、その考え方は少しずつ形を変え始めていた。
全部を自分で抱えるということは、裏を返せばすべての工程が俺一人に依存しているということでもある。
俺が瓶を洗っている間は、次の調合を待つ釜が静かに時間を失う。
俺が店頭で客の対応をしている間は、開放のタイミングを見極めるべき核が冷え、最適な状態から遠ざかっていく。
俺が帳簿や在庫表と向き合っている間は、素材の採取にも研究にも出られない。
そして俺が疲れれば判断は鈍り、俺が体調を崩せば工程全体が滞り、最悪の場合は店そのものが止まる。
以前の俺は、それを責任感だと思っていた。
だが今になって考えると、それは責任を背負っていたというより、責任を一か所に集中させていただけだったのかもしれない。
本当に責任を果たすというのは、何でも自分でやることではなく、自分以外の人間でも安全に進められる仕組みを整えることなのではないか。人を雇った以上、その人たちに任せられる仕事を切り分け、危険の少ない形へ整理し、覚えやすく標準化し、働いた成果を正しく評価しながら継続して成長できる環境を作る必要がある。誰かが安心して働ける工房でなければ、人は育たないし、店も長く続かない。
もし俺が何も教えず、何も任せず、ただ横で瓶を洗わせたり荷物を運ばせたりするだけなら、従業員の数だけは増えても、工房そのものはいつまで経っても大きくならない。人が増えたように見えても、実際には俺の補助が増えただけで、店の力はほとんど変わらないままだ。
工房を育てるというのは、設備を増やすことでも売上を伸ばすことでもなく、俺以外の誰かが少しずつできることを増やしていくことなのだろう。
そう考えると、アイスの言葉は思っていた以上に核心を突いていた。俺しかできない仕事を増やすのではなく、本当に俺しかできない部分だけを残す。そのために周囲へ渡せるものを増やしていく。
それは自分の仕事を減らす話ではなく、店を強くするための話だった。
「この手順書、ハルトとユナも読むのか」
「担当部分は読んでもらいます。全体像も理解してもらうべきですが、薬学用語は補助説明をつけます」
「俺にも補助説明をつけろ」
「すでにつけています」
「どこに」
アイスは巻末の薄い冊子を取り出した。
表紙には〈ロイド氏向け簡易説明〉と書かれていた。
「俺だけ別冊なのか」
「必要でした」
「中を見せろ」
最初の項目には、〈基材受容性――先に受け皿を作ること〉と書かれている。次には、〈魔力保持率――薬の中へ魔力を無理なく残せている割合〉。〈段階加熱――一気に煮ず、核がほどける順番へ火を合わせること〉。〈静置――薬を休ませ、内部の流れを整えること〉。
分かりやすい。
非常に分かりやすい。
少し腹が立つくらい、俺向けだった。
「最初から全部これで書けばいいだろ」
「正式手順書には、第三者が同じ意味で理解できる用語が必要です」
「こっちのほうが誰でも分かるぞ」
「簡単な言葉だけでは、細部を区別できません」
「また構造の美しさがどうとか言うのか」
「今回は、再現性です」
「似たようなもんだな」
ミーナが横から冊子を覗き、笑った。
「でも、店主さん用があるなら安心ですね」
「何が安心なんだ」
「途中で寝ないと思います」
「俺を何だと思ってる」
「難しい本を三ページで閉じる人です」
否定できなかった。
工事の音が、また裏手から響いた。
新しい乾燥室の柱が立ち、受け渡し棚の内側へ金具がつき、冷却保管室の石壁も少しずつ積まれている。工房は、図面に描かれた線へ近づいていた。
そして、机の上には別の図面ができていた。
建物ではない。
ポーションができるまでの図面。
どこから素材が入り、どこで洗い、どこで測り、どこで俺が判断し、どこから他の人へ渡せるのか。その流れが、赤と黄と緑の印で描かれている。
俺は完成した八本のうち一本を光へかざした。
淡い青色の液体は濁りなく、瓶の中でゆっくり揺れた。いつもの薬だ。俺が一人で作っていた頃と、そこまで大きく変わらない。
けれどその一本ができるまでの形は、もう同じではなかった。
「王都の三十本も、この手順で作れると思うか」
俺が聞くと、アイスは少し考えた。
「現時点では、一般冒険者向け回復薬二十本は対応可能です。高純度回復薬十本は、手順書へ高純度品専用の確認項目を追加する必要があります。特に核膜状態、開放開始点、静置後の魔力保持確認を厳しくします」
「騎士団分と重なっても?」
「生産日を分け、同日に複数契約分を作らなければ可能です。ミーナさんの予定表へ、予備日を二日入れるべきです」
「新薬の試作は?」
「王都向け製造と同じ日に行いません。魔力循環安定薬は、通常製造へ影響しない少量試作とし、第二釜の使用準備が整ってから始めます」
「俺のスキル研究は?」
「工事と王都向け製造の間へ無理に入れません。セレーナ先生へ日程調整を依頼します。研究を受けると決めたからといって、すべてを同時に始める必要はありません」
「意外と慎重だな」
「当然です。研究対象を疲労させて測定値を崩すのは非効率です」
「やっぱり俺の健康より測定値か」
「両方です」
少しは配慮が増えたらしい。
俺は釜、手順書、改築中の壁を順番に見た。
青ぷよ薬房の未来など、大げさなことを考えるつもりはなかった。王都へ何百本も送る店になるとか、薬師会の教本へ製法が載るとか、スライム素材の市場を変えるとか、そういう話は俺には大きすぎる。今もできれば朝に釜へ火を入れ、夕方には仕事を終え、飯を食って寝たい。
それでも、ハルトとユナを雇った。
ミーナは店を支えている。
アイスは膨大な紙を積み上げ、俺の手癖を手順へ変えようとしている。
ホワイトは、まだ客人としてここにいる。
彼らが明日もここで暮らし、働き、安心して飯を食えるようにするには、俺が「大それた話だから嫌だ」と言って立ち止まり続けるわけにもいかない。
売れているうちに、売れ続けても壊れない形を作る。
注文があるうちに、無理な注文を断れる基準を作る。
俺にしかできない仕事を守るために、俺でなくてもできる仕事を渡していく。
それが、今の俺にできる責任なのかもしれない。
「アイス」
「何ですか」
「この手順書、続けよう」
「当然です」
「まだ何も言ってないだろ」
「続けない理由がありません」
「そういうところだぞ」
俺は別冊の簡易説明を持ち上げた。
「正式版と、これの両方だ。難しい言葉だけじゃ、俺以外にも途中で分からなくなるやつが出る。薬師が読む部分と、現場で手を動かす人間が読む部分を分けたほうがいい」
アイスは一度、正式手順書と簡易冊子を見比べた。
「二層構造にする、ということですか」
「難しいほうに細かい理由を書く。簡単なほうには、何をして、何が起きたら止めるかを書く。それならユナもハルトも、自分の仕事の意味が分かるだろ」
「……良い提案です」
「意外って言うなよ」
「言っていません」
「顔に出てる」
アイスは少しだけ視線を逸らした。
ミーナが笑い、ユナは手順書の洗浄章をもう一度開き、ハルトは受け入れ番号の札をどう作るか考え始めていた。
俺は釜の前へ戻った。
午後の二回目の仕込みがある。
今度は、粘液基材の準備をユナとアイスへ任せる。俺は核と、開く時と、止める時を見る。
完全な代わりはいない。
今すぐ作る必要もない。
まずは、俺の手が本当に必要な場所を知る。
それ以外を、少しずつ渡す。
工房の未来というものは、遠くに大きな建物を思い描くことではなく、今日の一本を誰がどう作ったか、明日も同じように作れるかを考えるところから始まるのかもしれなかった。
「店主さん、火を入れますよ」
ユナが言った。
「ああ。頼む」
自分以外の人間が釜へ火を入れるのを、俺は初めて少しだけ安心して見ていた。




