第39話 机の上に積まれた書類の束
「スライム素材であることを明示したうえで王都の医療現場へ入れることには、学術的にも商業的にも大きな意味があります。もし成功すれば、これまで安価な低級素材として見られがちだったスライム核系素材そのものの評価が変わる可能性があります」
「お前、嬉しそうだな」
「興味深いだけです」
「それを嬉しそうと言うんだよ」
ミーナも木札を覗き込み、そこに押された青いスライムの印を見つめながら、少しだけ頬を緩めた。
「でも、店主さん。青ぷよ薬房の名前が王都の治療院に出るんですね」
「出なくていいんだが」
「タイトルみたいでいいじゃないですか。王都で青ぷよ薬房って、少し可愛いです」
「王都で笑われないか」
「効けば笑われませんよ」
世界を変えたいわけではないし、王都で名を上げたいわけでもない。静かに暮らしたいという気持ちは今でも本物で、できることなら俺は今日も明日も、朝は店の棚に並んだ薬瓶の位置を整え、昼は工房で釜を回して回復薬を仕込み、夕方には森へ入ってスライムを狩り、夜は帳簿をつけてから早めに寝る――そんな変わり映えのしない生活を続けていたいと思っている。それでも、目の前に「この薬が王都の治療院へ届けば、治療を受ける患者の助けになるかもしれない」という話を差し出されると、完全に背を向けるのは難しかった。これが商人のやり口だとしたら、なかなかずるい。命とか治療院とか患者とか、そういう言葉を並べられると、断る側が冷たい人間のように見えてくる。もちろん実際には断る権利もある。あるのだが、俺の性格がそれを簡単には許してくれない。
「レオナールさん」
「はい」
「条件は持ち帰って検討する。薬師会と商業組合にも確認するし、設備前渡金の話については、クラウスさんに見せてからじゃないと絶対に受けない」
「賢明な判断です。商業組合主任クラウス殿には、当商会としても正式に条件書をお送りいたします」
「それと、独占契約は今はしない」
「承知しております」
「村内販売と騎士団分は削らない」
「その前提で数量を組みます」
「俺の睡眠も削らない」
レオナールは、その日初めて少しだけ返答に迷った。
「……可能な限り、配慮いたします」
「そこが一番大事なんだがな」
ミーナが肩を震わせるように小さく笑い、「店主さん、それ本気で言ってますよね」と呆れ半分の声を漏らした。アイスも真顔のまま腕を組み、「睡眠不足による集中力低下は調合精度の低下を招きます。回復薬の品質維持という観点から見ても、十分な睡眠時間の確保は重要事項です」と、まるで薬師会の講習会で発表でもするかのような口調で補足する。
「ほら見ろ。専門家のお墨付きだ」
「アイスさんは何でも理屈を付けますから」
「ですが事実です」
二人のやり取りを聞いたレオナールは、「品質管理上の労働条件……」などと小声で呟きながら、手元の書類の余白にさらさらと何かを書き込んだ。
「おい、何を書いた」
「いえ、参考事項です」
「参考にするな。俺の睡眠時間を契約条件みたいに扱うな」
「しかし、安定供給には生産者の健康維持も――」
「そこまで真面目に検討しなくていい」
思わずそう返したものの、もし本当に『過度な増産要求は禁止』などと条件書に書かれるなら、それはそれで助かる気もする。商人相手にそんな条項が通るのかは知らないが。
商談は、正式回答を保留したまま終わった。レオナールは礼儀正しく頭を下げ、王都へ戻る前にレスタルムの商業組合へも寄ると言い残すと、木箱に入った規格瓶の見本をひとつ置いていった。瓶は厚手で口の形がきれいに揃っており、栓の造りもきっちりしているうえ、輸送中に割れにくいよう底が少し厚く作られている。試しに光へかざしてみるとガラスの厚みは均一で、気泡もほとんど見当たらない。栓の締まり具合も確かめてみたが、軽く振った程度では緩む気配すらなかった。王都向けというだけで容器ひとつ取っても品質管理の基準が違うらしい。うちで普段使っている瓶も実用品としては十分だが、こうして並べて比べると細部の仕上げに差があるのが分かる。棚へ置いてみるとその規格瓶だけが妙に堂々として見え、周囲の瓶が少し肩身狭そうに見えた。
レオナールが去ったあと、店の中にはしばらく静かな空気が残った。先ほどまで交わされていた商談の熱気だけがわずかに残っているような感覚があり、誰もすぐには次の話題を口にしなかった。
その沈黙を最初に破ったのはミーナだった。
「店主さん、これ、すごい話ですよね」
「すごい話なんだろうな」
「王都の治療院で、青ぷよ薬房のポーションが使われるかもしれないんですよ」
「青ぷよって名前、大丈夫かな」
「そこですか?」
「大事だろ。王都の真面目な治療院の棚に、『青ぷよ』って書いた瓶が並ぶんだぞ。患者が深刻な顔で受付をしている横で、『青ぷよ回復薬はこちらです』とか案内されたら、少し困惑しないか」
「可愛いと思います」
「医療品に可愛さは必要か?」
「覚えやすさは大事です」
それについては反論しづらかった。そういえば昔、村へ来ていた行商人も似たようなことを言っていた気がする。商品名は覚えてもらわなければ意味がなく、良い品でも名前を忘れられたら次につながらないのだと。その時は適当に聞き流していたが、まさか『青ぷよ』などという半分思いつきで付けたような名前が、王都へ向かう可能性を持つことになるとは思ってもいなかった。前にも言ったかもしれないが、もし最初からこうなると分かっていたら、もう少し格式のありそうな名前を考えていたかもしれない。いや、考えたところで結局面倒になって青ぷよになった気もする。正直言って堅苦しい名前は嫌いなんだ。変に身構えてしまうというか、変に肩が凝るのだけは勘弁だからな。肩肘張って作った薬より、肩の力を抜いて「よし、今日はうまくできたな」と思える薬のほうが、俺には性に合っている。店の名前も同じだ。立派さより覚えやすさ。格式より親しみやすさ。少なくとも村の婆さんたちは『青ぷよ』で覚えてくれたし、猟師連中も酔った勢いで店名を間違えたりしない。その時点で、名前としての役目は十分果たしている気がする。
その間にもアイスは置かれた規格瓶を手に取り、窓から差し込む光へ透かすように掲げながら観察を続けていた。
「輸送試験には良い瓶です。口径が統一されているので充填量の誤差も減りますし、栓の密閉性も現在村で流通している瓶より高い。これを採用するのであれば、瓶詰め工程も少し変更する必要があります」
「また工程が増えるのか」
「増えるのではなく改善です」
「改善という言葉も、最近ちょっと怖い」
以前なら改善と言われても、せいぜい作業台の位置を変えるとか棚を一段増やす程度の話だった。しかし最近の改善は規模がおかしい。工房を広げ、設備を増やし、記録方法を整え、品質管理を見直し、さらには王都向けの出荷体制まで考え始めている。改善という言葉の裏に隠れている作業量が、毎回少しずつ重くなっている気がした。
「改装、基礎薬学、王都向け試験納入。順番としては悪くありません。むしろ、今の段階で設備と知識を整えなければ、後で確実に破綻します」
「お前は破綻って言葉を気軽に使うな」
「事実です」
「今日、事実が多い」
俺はそう呟きながら椅子へ深く腰掛け、そのまま天井を見上げた。
視界に入ったのは、開店前からずっと残っている雨漏りの跡だった。長年放置されていたせいで妙な形に広がっており、遠目に見るとどことなくスライムに似ている。店を始めた頃は、儲かったらまずそこを直そうと思っていた。天井の染みを消して、棚を一つ増やして、それで十分なはずだったのである。
それなのに今はどうだ。
天井の染みひとつ直す話だったはずが、裏手の増築計画が持ち上がり、洗浄区画や冷却棚の設置を検討し、調合作業の記録台や鍵付き保管棚の話まで出てきている。そのうえ王都向け専用の規格瓶まで目の前に置かれているのだから、少し前の自分が見たら冗談だと思うだろう。
俺はただスライムを狩って、ポーションを作って、細々と商売をしたかっただけなのである。
そのはずなのに、気付けば店の改装計画を検討し、薬師会の基礎薬学講座を受ける話が進み、さらに王都の治療院向け試験納入の契約書まで眺めている。
「……なあ、ミーナ」
「はい」
「店の改装って、どこまでやれば静かに暮らせるんだろうな」
俺は半ば独り言のようにそう呟いた。工房の拡張、保管棚の増設、洗浄区画の整備、品質管理の見直し――最近は何かを改善しようとするたびに新しい課題が増えていき、気が付けば最初の目的だったはずの『静かに暮らす』という目標がどんどん遠ざかっている気がしていた。
ミーナはすぐには答えず、少しだけ考えるように視線を落としてから、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「たぶん、静かに暮らすためというより、忙しくなっても壊れないためにやるんだと思います」
その言葉は静かだったが、不思議と胸に残った。
この子は時々、とても大人びたことを言う。
年齢だけで考えればまだ若いはずなのに、時折こちらが返す言葉を失うようなことを自然に口にするのだ。俺は何か言い返そうとして、結局うまい言葉が見つからず、そのまま机の上に置かれていた規格瓶へ手を伸ばした。
厚手に作られた瓶はずっしりとした重みがあり、窓から差し込む光を受けると、透明なガラスがわずかに青みを帯びて見える。
この瓶にうちの回復ポーションを詰め、王都向けのラベルを貼って木箱へ収める。木箱は荷馬車で港町まで運ばれ、船でライン川を下り、さらに別の馬車へ積み替えられて王都外縁の治療院へ届けられる予定だ。そこで怪我人が栓を抜いて薬を飲み、傷が塞がれば治療師は効果を記録し、商人は販売実績をまとめ、薬師たちは成分や製法について頭を悩ませるだろう。やがて評判が広がれば新しい注文や問い合わせがこちらへ届くはずで、想像しただけで面倒事が次々と増えていく未来しか見えない。
やめてほしい。
だがその一方で、瓶の中で静かに揺れる青い液体が、村の工房で作られた薬として遠く離れた誰かの命や生活を支えている光景を思い浮かべると、それはそれで少し悪くない気もしてしまうのだから困った。
「アイス」
「何ですか」
「薬学講座、明日もやるのか」
「当然です。次回は解毒系ポーションにおける毒性分類と吸着反応の基礎について説明します」
「題名を短くしろ」
「毒を消す薬の話です」
「それならまだ聞けるな…」
「正式名称も覚えてもらいます」
「やっぱり聞けないかもしれん」
アイスはわずかに口元を動かした。
たぶん笑ったのだろう。
たぶんである。
表情の変化があまりにも小さすぎて、本人以外には判別が難しい。
ミーナはその横で、すでに仕事へ意識を切り替えていた。王都向け規格瓶を手に取って寸法を測りながら、現在の棚のどこへ仮置きするべきかを考え始めている。おそらく彼女の頭の中では、保管場所の再配置や在庫管理の方法まで組み立てられているのだろう。
俺は机の上へ視線を落とした。そこには工房の増築案をまとめた資料、アイスが作った薬学講座の内容がびっしり刻まれた石板、そして王都の商会から届いた商談条件書が並んでいる。順番に目を通してから、俺は小さくため息を吐いた。
紙が増えている。また紙だ。
改装計画の見積書、品質管理の記録表、取引先との契約書の写し。書類の束は店を始めた頃の倍どころではなく、以前なら見たこともなかった種類の資料まで積み上がっている。
俺の人生は、やはり紙に侵食されているらしい。
スライムを狩って素材を集め、その日の分を稼いで暮らしていた頃は、もっと単純な人生になると思っていた。しかし現実には、薬が売れれば売れるほど管理することが増え、静かに暮らすための努力が新しい仕事を呼び込んでくる。
それでも今机の上にある紙は、昔のように税金の通知や支払い請求書ばかりではない。店をより使いやすくするための設計図であり、薬を安全に届けるための管理記録であり、王都のどこかで困っている誰かへ薬を届けるための契約書でもある。
そう考えると、不思議なことに以前ほど嫌な気分にはならなかった。
ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけだが。
「とりあえず、クラウスさんに見せる書類をまとめるか」
そう口にした瞬間、それまでどこか様子を窺うようにしていたミーナの表情がぱっと明るくなった。正式な返事を出すかどうかはまだ決まっていないが、とりあえず次にやるべきことが定まったことで安心したのだろう。彼女はすぐに近くの机から記録用紙を引き寄せながら、仕事慣れした手つきで羽ペンを整えた。
「はい。私は商談条件と必要確認事項を写しますね。王都側の希望数量と納品日程、それから設備前渡金の条件と独占契約に関する部分も整理しておきます」
「私は薬師会へ確認すべき品質項目をまとめます。輸送後の品質維持基準、保存試験の評価方法、試験納入時の記録様式、それと王都側で求められる成分表記についても確認が必要でしょう」
アイスもほとんど間を置かずに動き始めた。先ほどまで規格瓶を眺めていたと思ったら、もう頭の中では必要な確認事項の整理が終わっているらしい。石板を引き寄せる動作にも迷いがなく、すでに次の工程へ進んでいる人間のそれだった。
二人とも仕事が早い。
話を聞きながら考え、考えながら次の作業を決め、決めた瞬間には動き始めている。
俺だけが少し遅れていた。
商談の内容を頭の中で反芻しながら、ようやく椅子から立ち上がる。
別に怠けているわけではない。
ただ、俺の場合は何か大きな話が来ると、一度頭の中で「本当に面倒なことになったな」という感想を整理する時間が必要なのである。
店の外では夕方の風が吹いていた。
入口脇に吊るされた青ぷよ薬房の看板が、木の軋む音を立てながら小さく揺れている。
開店した頃は、あの看板が風で落ちなければ十分だと思っていた。
雨漏りする屋根を直して、棚を少し増やして、回復薬が毎日数本売れれば上出来だと考えていた。
それが今ではどうだろう。
騎士団との納品契約があり、薬師会との関わりが生まれ、店の改装計画が進み、そのうえ王都の治療院向け試験納入の話まで持ち上がっている。
人生というのは、時々どこで道を間違えたのか分からなくなる。
「……無能スキル持ちの店にしては、話が大きすぎるだろ」
誰に聞かせるでもなくそう呟いた。
元々、俺の持つスキルは誰からも期待されていなかった。
役に立たない。
戦闘向きではない。
冒険者として大成することもない。
そういう扱いだったからこそ、俺自身も大きな夢など見なかった。
だからこそ今の状況には、いまだにどこか現実感が薄い。
村の外縁にある小さな薬房で作られた回復薬が王都へ運ばれるかもしれないなど、数年前の俺に話したところで絶対に信じなかっただろう。
すると、机に向かっていたアイスが書類から顔も上げずに口を開いた。
「まだ大きくなる可能性があります」
即座に返ってきたその言葉に、俺は思わず顔をしかめた。
「やめろ」
「事実です」
「その事実を今日はもう聞きたくない」
「ですが現実的な予測です」
「なおさら聞きたくない」
アイスは淡々としていた。
悪気はない。
本当にない。
だから余計に困る。
彼女は人を脅かそうとしているのではなく、純粋に予想される未来を述べているだけなのだ。
それが分かるから反論もしづらい。
「王都で評価が得られれば追加試験の可能性があります。薬師会が関与すれば共同研究も考えられます。流通経路が確立すれば他都市からの問い合わせも発生するでしょう」
「やめろと言っただろ」
「まだ半分も説明していません」
「半分もあるのか」
「あります」
「聞かない」
「そうですか」
会話が成立しているようで成立していない。
だがアイスは特に気にした様子もなく、再び石板へ視線を落として記録を書き始めた。
ミーナはそんなやり取りを聞きながら小さく笑っている。
完全に他人事の顔だった。
「店主さん」
「なんだ」
「たぶんですけど」
「その前置きの時はだいたい嫌な予感がする」
「大丈夫です。たぶん忙しくなります」
「全然大丈夫じゃない」
「でも、前より楽しそうですよ」
俺は反射的に否定しようとして、言葉が止まった。
楽しいかどうかと聞かれれば分からない。
面倒ではある。
間違いなく面倒だ。
書類は増えるし、覚えることも増えるし、静かな生活からは少しずつ遠ざかっている。
それでも以前のように一人で森へ行き、一人で薬を作り、一人で店番をしていた頃と比べれば、今の店の中には人がいて、話し相手がいて、一緒に悩む相手もいる。
そのことについてだけは、悪くないと思っていた。
だから結局、否定の言葉は出てこなかった。
夕方の風が再び看板を揺らし、窓の外で小さく木の葉を鳴らす。
店の中ではミーナが書類を書き写し、アイスが薬師会への確認事項を整理している。
俺は机の上に積まれた書類の束を見下ろしながら、小さく息を吐いた。
事実という言葉は、今日も俺に優しくなかった。




