第37話 工房というものは
工房というものは、広ければ広いほどいい、という単純な話ではないらしい。
少なくとも、俺はそう思っていた。釜が置けて、棚があって、乾燥させた薬草を吊るせて、採ってきたスライム核を洗う水桶があり、瓶を並べる台があり、火の近くに燃えやすいものを置かなければ、それで十分だと思っていた。実際、今までの青ぷよ薬房はそれで回っていたし、俺一人で朝に素材を採り、昼前に仕込み、午後に瓶詰めをして、夕方に棚へ並べる程度なら、古い雑貨屋を改装した今の店舗でも別に困らなかった。床板はところどころ鳴るし、扉は開けるたびに年寄りの膝みたいな音を立てるし、雨の日には天井の染みが少し濃くなるものの、俺のような細々とした商売人には、それくらいのほうが身の丈に合っているとさえ思っていた。
ところが身の丈というものは、周囲が勝手に測り直してくる。
「結論から言うと、現在の工房は狭すぎます」
朝食代わりの黒パンをかじりながら、アイスが平然とそう言った。
ここ数日、青ぷよ薬房は朝の販売、昼の採取、午後の仕込み、夕方の瓶詰め、夜の記録という、どこかの軍の補給部隊みたいな動きになっている。昨日はスライム採取にアイスが同行し、俺のいつもの作業を見て「討伐ではなく分離です」とやけに重大そうに言い、その後、工房で魔導核製法の工程を測定され、俺の「泡が角ばる」だの「匂いが丸くなる」だのという感覚表現が、彼女の手によって滴下速度、加熱段階、魔力保持率、反応安定域などの小難しい言葉へ変換された。正直、俺の感覚が解体され、札を貼られ、棚へ並べられていくような気分で落ち着かない。
そのうえ、今朝は工房が狭いと言われている。
「狭いって、昨日もちゃんと仕込みできただろ」
「できたことと、安全かつ継続的に運用できることは別です。現状では採取素材、洗浄前素材、洗浄済み素材、調合中素材、完成品、試作品、失敗品、研究提供分、契約納品分が同じ空間に存在しています。これは混入、誤使用、劣化、事故、記録漏れの温床です」
「朝から温床とか言うな。パンがまずくなる」
「事実です」
「お前の事実はだいたい胃に重いんだよ」
アイスは俺の文句を聞き流し、工房の見取り図らしき紙を机に広げた。いつの間に描いたのか、古い店の形、工房の壁、乾燥棚、水桶、釜、素材保管箱、瓶詰め台、裏口、井戸の位置まで、妙に正確に書き込まれている。しかも余白には赤い印で「汚染区画」「準清浄区画」「調合区画」「保管区画」などと書かれている。俺の作業場が、知らない間に戦場の作戦図みたいな顔をしていた。
「汚染区画って何だ」
「洗浄前の素材を扱う場所です。外部から持ち込まれたスライム粘液、薬草、土、苔、虫、雑菌、魔力汚染の可能性があるものを、完成品や洗浄済み素材と同じ台で扱うのは避けるべきです」
「虫まで項目に入れるな。工房が急に不潔に聞こえるだろ」
「清潔と不潔の話ではなく、管理の話です。あなたは感覚で避けていますが、他の人間が入れば事故になります」
「また属人化か」
「はい。属人化です」
最近のアイスは、「属人化」という言葉をまるで万能の武器か何かのように振り回してくる。俺が「いつもこの棚に置いている」と言えば属人化、「見れば分かる」と言えば属人化、「匂いを嗅げば分かる」と言っても属人化扱いになり、挙げ句の果てに「鍋が語る」と説明したときには、真顔で「記録不能です」と返された。こちらとしては、そうした感覚や経験の積み重ねこそが長年工房を回してきた理由なのだが、彼女の目を通すと、それらは熟練の知恵ではなく、いつか必ず誰かが失敗する事故予備軍として分類されてしまうらしい。たぶんこの調子なら、俺が朝に靴を脱ぐ位置まで調査され、「配置が固定されていないため再現性に欠けます」とか、「動線上の障害物になる可能性があります」とか言われるのだろう。いや、むしろあいつなら本当に記録しかねない。
「店主さん、私も、少し広くしたほうがいいと思います」
ユナがどこか遠慮がちな口調でそう言った。
視線を向けると、ユナは工房の隅にある乾燥棚の前に立ち、十分に水気の抜けた瓶を一つずつ慎重に取り下ろしていた。彼女はすでに村内向け、一般販売向け、高純度回復薬用、それから契約納品分という区分ごとのラベル色を完全に覚えており、瓶の形状や容量を一目見ただけで、どの棚へ並べるべきか迷うことなく判断できるようになっている。最初の頃は棚の前で何度も確認していたのに、今では瓶を手に取る動きそのものに無駄がなく、自然と正しい場所へ収まっていくほどだ。最近では在庫整理の際に俺が見落としていた不足品を先に見つけることさえあり、「この薬草、あと三日分くらいしかありませんよ」と平然と報告されることも増えた。店主としては非常に助かるし、実際そのおかげで仕入れの失敗を避けられたことも一度や二度ではないのだが、その一方で、長年この店を切り盛りしてきたはずの俺より先に気づかれるたび、なんとも言えない居心地の悪さを覚えるのも事実だった。
「ユナまでそう言うのか」
「はい。昨日も、私が瓶を並べている横でアイスさんが失敗品観察用の小瓶を置こうとして、どっちが販売用か一瞬分からなくなりかけましたし、洗浄前の粘液を置く台と瓶詰め台が近いので、忙しい時は少し怖いです」
「失敗品観察用の瓶を販売台へ置いたのは、アイスが悪いんじゃないか」
「置いたのではなく、仮置きです」
「仮置きが事故の親だぞ」
「ですから区画を分けるべきだと言っています」
言い返せない。
工房の改装については、クラウスからも軽く言われていた。正式事業者として外部販売と契約納品を続けるなら、最低限、素材洗浄場所、調合場所、完成品保管場所、危険物または使用禁止品の隔離場所は分けておいたほうがいい、と。あの時は「そのうち考えます」と返した。俺の「そのうち」は、たいてい現実が扉を蹴破るまで来ないのだ。今回も扉が軋む音を立てている。
「具体的に何を直すんだ」
俺がため息まじりに聞くと、アイスは待っていましたと言わんばかりに見取り図の上へ細い指を置いた。こういう時の彼女は少しだけ生き生きしている。人の工房を解体するのがそんなに楽しいのか。
「まず、裏口側に洗浄区画を増築します。採取してきた素材は店内を通さず、裏口から直接入れ、洗浄台で一次処理を行います。水桶ではなく、排水溝付きの石台が必要です。スライム粘液は乾くと滑りますし、魔力を含んだ残液をそのまま土へ流すのは推奨されません」
「排水溝か……」
「次に、洗浄済み素材を一時保管する冷却棚。現在の魔導冷蔵箱では容量不足です。少なくともスライム核用、粘液用、薬草用で分けるべきです」
「箱が三つになるのか」
「最低三つです」
「最低という言葉が嫌いになりそうだ」
「さらに、調合釜の周囲に記録台を固定します。今のように私が板を持って移動しながら記録すると、火や液体に近づきすぎる危険があります」
「それはお前が近づかなければいいだけじゃないか」
「観察対象に近づかなければ記録精度が落ちます」
「近づく理由が強い」
「完成品保管棚は鍵付きにし、販売用、契約用、研究用を物理的に分けます。使用禁止品と失敗品観察用の棚は、できれば別室です」
「別室まで必要か?」
「必要です。失敗品と販売品が同じ空間にある時点で、誤認の可能性が残ります」
「俺の店がどんどん薬師会みたいになっていく」
「薬師会なら、さらに二段階厳しいです」
「やめろ。聞きたくない」
アイスの話を聞きながら、俺は一応、頭の中で改装費用の計算を始めてみたのだが、途中で馬鹿らしくなってやめた。石台を新しくするだけでも金がかかるし、排水溝の整備となれば工事が必要だろう。増築なんて言葉が出た時点で嫌な予感しかしないし、冷却棚や鍵付き棚、固定記録台、さらには作業を分けるための別室まで加わると、もはや計算ではなく銀貨や金貨が次々と俺の財布から飛び去っていく幻覚を見る作業になってくる。売上そのものは確かに伸びている。価格改定も行ったし、騎士団との契約による安定収入もある。生活用と外部販売用で商品を分けた結果、利益率も以前より改善しているはずだ。帳簿の数字だけを見れば、工房へ投資する余裕がまったくないわけではない。むしろ今までの状況を考えれば、そろそろ手を入れるべき時期なのだろうということも理解している。理解はしているのだが、それでも店を直すためにまとまった金額を支払うという行為には、冒険者だった頃に身の丈に合わない高級宿の前へ立った時と同じ種類の震えがあった。泊まれば快適になることは分かっている。安全も買える。飯も美味い。だが値札を見た瞬間に「野宿でも死にはしないな」と考え始める、あの感覚である。
「ゲン爺に相談するか……」
思わずそう呟くと、ミーナは間を置かずに頷いた。
「村の大工さんなら、お店のこともよく分かっていますし、まずは見積もりだけでもお願いできると思います」
「見積もりという紙は怖いぞ。数字が書いてある」
「帳簿にも数字はありますよ」
「帳簿の数字はもう諦めた。あれは毎日見るから心が慣れている。だが見積もりの数字は違う。あいつらはこれから俺を殴るために並んでいる数字だ」
「店主さん、数字に対する想像力が独特ですね」
ミーナは呆れ半分、苦笑半分といった顔でそう言ったが、数字というものは本当に信用ならない。紙の上にいる間はおとなしく整列しているくせに、支払い日が近づいた途端に牙を剥き、こちらの財布へ襲いかかってくる生き物だ。俺は税金という名の魔物との長い戦いで、その性質を嫌というほど学んでいる。改装費もきっと同じ系統の生物なのだろう。しかも厄介なことに、苦労して倒したところで経験値も入らず、素材も落とさず、称賛もされない。倒した後に残るのは、少し広くなった工房と軽くなった財布だけである。そのあたりまで含めて税金に非常によく似ていた。
工房改装の話がひと区切りつき、俺がこれ以上数字のことを考えないよう意識的に思考を逸らしかけたところで、アイスが手元の書類束からさらに別の紙を取り出した。
「そして、改装と並行して、あなたには基礎薬学を再度学んでもらいます」
「なんで今、そうなる」
「工房の安全性を上げても、店主の知識が不足していれば運用で破綻します」
「言い方」
「基礎知識の不足は危険です。あなたは実技が異常に高い一方で、用語、理論、法律、分類、危険薬品管理の知識が偏っています」
「全部一度に言うな。俺の心の棚が崩れるだろうが」
「棚を整えるための講座です」
講座。
…なんともまあ嫌な響きだった。
講座という言葉には、なぜか分厚い本と眠気と理解不能な専門用語がセットで付いてくる気がする。俺は昔から本格的な勉強というものが苦手だった。文字がびっしり詰まった本を開けば最初の一ページは気合で読むし、二ページ目までは何とか内容を追える。だが三ページ目に入る頃にはまぶたが重くなり始め、気づけば同じ行を三回読んでいる。それでもまだ本ならましな方で、誰かに難しい話を延々と聞かされる状況になるとさらに危険だった。最初の専門用語は頑張って覚える。二つ目も何とか耐える。三つ目までは「なるほど」と頷ける。しかし四つ目が出てきたあたりで頭の中に小さなスライムが現れ始め、ぷるぷる揺れながら思考の隅に座り込み、五つ目の専門用語が出た頃にはそのスライムが完全に横になって寝始める。そして六つ目が出る頃には、たぶん俺の脳みそも一緒に寝ている。薬師学院へ進まなかった理由はいくつもあるが、その中には間違いなく「勉強との相性が絶望的だった」という事情も含まれていた。
「必要なのは分かるが、ほどほどにしてくれよ。俺は店もあるし、仕込みもあるし、採取にも行くんだからな」
できるだけ先に予防線を張っておこうと思いながら言うと、アイスはまるで当然のことを告げるような顔で答えた。
「一日一刻程度から始めます」
「一刻もやるのか」
思わず聞き返した俺に対し、アイスは少しも揺らがない。
「むしろ少なすぎるくらいです」
「俺にとっては冬山登山なんだが」
「椅子に座って話を聞くだけです」
「その“だけ”が人を殺すこともある」
「死にません」
「眠気では死ぬかもしれん」
「寝たら起こします」
「優しさは?」
「必要なら水をかけます」
「それは起こすじゃなくて攻撃だ」
「覚醒補助です」
「言い換えても濡れる事実は変わらんぞ」
俺が頭を抱えると、横で話を聞いていたミーナが堪えきれないようにくすくすと笑い声を漏らした。その間にも彼女は手際よく作業台の上を片づけていき、空いた瓶を棚へ戻し、薬草束を脇へ寄せ、散らばっていた道具をまとめていく。そして俺が気づいた時には、工房の隅に妙な空間が出来上がっていた。古い木椅子が一脚。簡素な低机が一つ。アイスが普段使っている記録板。そして白い粉で文字を書けるようにした黒板代わりの薄い石板まで置かれている。どう見ても講義用の席だった。どう考えても逃げ道がない。ついこの前まで薬を作って売るだけの小さな工房だったはずなのに、いつの間にか教育施設らしき機能まで追加されている。俺の知らないところで何かの進化条件でも満たしたのだろうか。青ぷよ薬房はどこへ向かっているのか。
「では、第一回。魔力干渉性液相製剤における基材受容性と生体負荷の基礎について」
「待て」
俺は即座に手を上げた。
「題名からもう分からん」
「ポーションが体へ効く仕組みです」
「最初からそう言え」
「正式には、魔力干渉性液相製剤です」
「正式名称を愛しすぎるな。客に言ったら誰も買わなくなるぞ」
「客向けではありません。あなた向けです」
「俺向けなら、なおさら優しくしろ」
アイスは少し不満そうに眉を寄せた。どうやら彼女の中では、正しい言葉で説明することが優しさであり、相手が理解できる言葉へ変換することは、正確性を削る行為らしい。これは教える側として、かなり問題がある。知識は本物なのに、渡し方が投石に近いのだからな。
「ポーションは、飲んだ液体そのものが傷口へ走っていくわけではありません」
「それくらいは分かる」
「液体に保持された魔力構造が、人体の魔力循環へ干渉し、自己修復機構を補助します。回復系の場合、主に血流、組織再生、痛覚抑制、炎症調整の四要素に影響します」
「急に四つに増えた」
「傷が塞がるという現象は単一ではありません。血を止める、組織を繋ぐ、腐敗を防ぐ、痛みによる身体反応を抑える、これらが同時に起きています」
「それなら分かる」
「つまりあなたの高純度回復薬は、単なる再生促進ではなく、魔力循環の安定を介した多層的修復補助を行っている可能性があります」
「また分からなくなった」
「……血を止めて、肉を戻して、体がびっくりしすぎないようにしている、ということです」
「最初からそれでいい」
アイスは明らかに不本意そうだった。
口では「なるほど、理解しました」と一応の同意を示しているのだが、その声音には微妙な硬さが残っており、何より眉の動きや視線の揺れ方、わずかに引き結ばれた口元のせいで、本心ではまったく納得していないことがありありと伝わってくる。おそらく彼女の頭の中では、「理解はできますが、その説明では定義が曖昧です」「再現性を担保するための情報が不足しています」「その表現では第三者が誤解する可能性があります」といった反論が列を作って順番待ちをしているのだろう。ただ、さすがに最近は俺の性格も理解してきたのか、それらを一つ一つ口に出して議論を始めると長引くことを学習したらしく、今回は無理やり飲み込んだようだった。その様子は、熟練の職人が何年もかけて仕上げた道具について説明している最中に、横から誰かが「まあ、だいたいそんな感じのやつだろ」と雑にまとめたのを聞かされた時の反応によく似ていた。否定したい。訂正もしたい。しかし話が長くなるので我慢している。そんな顔である。
「次に、魔力保持率です」
それ以上この話題を掘り下げる気はないと判断したのか、アイスはすぐに話を切り替え、手元の石板へ白墨を走らせた。さらさらと迷いのない動きで丸い瓶の輪郭を描き、その内部へ液体を表現するつもりなのか、何本かの波線を書き込んでいく。さらに瓶の周囲には簡単な矢印や補助線まで加えられ、どうやらこれから視覚的に説明するつもりらしい。
俺は何となくその絵を覗き込み、そこで少し意外な気分になった。
絵心は、意外にも普通だった。
「魔力保持率とは、素材由来の魔力が媒体液内でどれだけ安定して残っているかを示す指標です。保持率が低いと薬効が弱く、保持率が高すぎて制御されていないと身体負荷が増えます」
「強ければいいわけじゃないのか」
「違います。強すぎる回復薬は、体に命令を押しつけるようなものです。傷を早く塞いでも、内側の魔力循環が追いつかなければ、発熱、痛み、倦怠、最悪の場合は組織異常を起こします」
「怖い話をさらっとするな」
「必要な知識です」
「俺のポーションは大丈夫なのか」
「現時点では、あなたのポーションは不思議なほど身体負荷が低いです。スライム核由来の魔力が穏やかで、粘液成分が衝撃を緩衝している可能性があります」
「そこはスライムのいいところなんだな」
「おそらく。従来はスライム素材が低級とされていたため、こうした緩衝性は十分研究されていませんでした。普通の採取方法では核が壊れ、粘液も劣化するので、潜在性能が出る前に素材価値が落ちます」
「つまり、スライムは悪くなかったと」
「採取する側が悪かった可能性があります」
「世間の初心者冒険者たちに刺さる話だな」
少しだけ、スライムに同情した。
最弱、雑魚、低級素材、初心者用。ずっとそう呼ばれてきた連中が、実は採り方が悪いせいで性能を出せていなかったのだとすれば、なかなか不憫な話である。もちろん、だからといって明日からスライムを敬うつもりはない。俺にとっては生活の柱であり、相手にとっては天敵らしいので、関係は今後もあまり平和ではないだろう。
「次に基材受容性」
「また難しいのが来た」
「媒体液が魔力を受け入れる性質です。あなたの調合では、スライム粘液を先に媒体液へ馴染ませていますね」
「ああ。先に核を開くと濁るからな」
「その工程は理論的にはかなり重要です。粘液成分が媒体液に網目状の魔力導線を作り、そこへ核由来の魔力を通すことで、急激な魔力衝突を避けている可能性があります」
「網目状の魔力導線」
「はい」
「もっと分かる言い方は?」
アイスは少し考えた。
「先に受け皿を作ってから、そこへ中身を流している、ということです」
「分かる」
「……屈辱的なくらい簡単ですね」
「教えるってそういうことだぞ」
「簡単にすると、構造の美しさが失われます」
「美しさより理解だ」
「両立すべきです」
「お前の講座は、まずそこから学んだほうがいい」
アイスはむっとした顔をした。頬こそ膨らませていないが、あと一歩で膨らむだろうという絶妙な表情である。こちらは別にからかっているわけではなく、本気でそう思っているのだ。実際、彼女の知識量は驚くほど多いし、説明も理屈としては非常に分かりやすい。現に俺はこれまで何となく身の回りの仕事を身体で覚え、当たり前のように繰り返していた作業の意味を、彼女の話を通して少しずつ理解し始めていた。なぜ薬液へ粘液を先に馴染ませるのか。なぜ核を無理に開かないのか。なぜ途中で火を弱めるのか。なぜ疲労軽減薬と回復薬では止める重さを変えるのか。それらは全部、俺にとっては「そうした方が上手くいくから」という感覚の積み重ねでしかなかった。冒険者時代から失敗と成功を繰り返し、気づけば手が勝手に動くようになっていただけで、その理由を聞かれても「まあ、そういうもんだ」で済ませてきたのである。
ところがアイスの説明を通すと、それらの手癖にきちんとした理由が与えられる。ぼんやりとしか見えていなかった輪郭が線になり、線が繋がり、何となくやっていた作業が理屈として整理されていく。言ってしまえば自分でも読めない字で書かれた昔のメモを、隣で翻訳してもらっているような感覚だった。
問題があるとすれば、その輪郭を描く筆が異様に硬いところなのだが。
「では、確認問題です」
アイスはどこか勝ち誇ったような顔で言った。
「聞いてないぞ」
「聞いていなくても行います。高純度回復薬において、魔力保持率が高いにもかかわらず身体負荷が低くなる要因として考えられるものを三つ挙げてください」
「三つ?」
「はい」
「スライム粘液が柔らかい」
「表現は雑ですが、緩衝性として一点」
「核を壊していない」
「魔力構造維持ですね。二点」
「……俺が丁寧に作っている」
「広すぎます。減点」
「ひどい」
「具体性がありません」
「じゃあ、無理に魔力を引き抜かないで、核がほどける温度で待つ」
アイスはペンを止めた。
「正解です」
「おお」
「意外です」
「褒め方」
「理解していないと思っていました」
「お前は本当に教師に向いてないな」
基礎薬学講座第一回において、俺は確認問題をひとつ正解した。問題数で言えばたった一問、戦果として報告すれば控えめにもほどがある数字だが、それでも四十手前まで「なんとなく効くから作る」という極めて職人的な精神で薬を扱ってきた男が、理論に基づく設問へ正答を叩き込んだのである。これはもはや快挙と言っていい。少なくとも俺の中では祝賀会を開いても許される規模の成果だった。もちろん周囲の反応は冷静で、アイスは「そうですか」と頷いただけだったし、ミーナも「良かったですね」と微笑んだ程度だったが、俺としては薬師人生における新たな歴史の一ページが刻まれた気分だった。
しかし講座は残酷にもそこで終わらなかった。
アイスは俺のささやかな達成感など意に介さず、次から次へと新しい知識を積み上げてくる。解毒系ポーションにおける毒素吸着と魔力毒への対処は別物であること。疲労軽減薬は単なる眠気覚ましではなく、筋肉組織と魔力循環の回復を補助するための薬であること。精神系ポーションには依存性の問題が存在するため、青ぷよ薬房では当面扱わないほうが安全であること。身体強化系ポーションは一見すると需要が高そうに見えるが、実際には事故報告や規制案件が山ほどあり、知識不足の薬師が軽い気持ちで手を出すと薬師会から大変ありがたい説教を頂戴することになること。
ひとつひとつの話自体は面白い。むしろかなり面白いとさえ思う。冒険者だった頃には知らなかった裏側の仕組みが次々と明らかになり、「なるほど、だからあの薬は高かったのか」とか、「だからあの時の依頼主は妙に警戒していたのか」とか、納得することも多い。だが問題は、内容が面白いことと頭が処理できることは別問題だという点だった。
途中から俺の脳内は完全に薬液の煮詰めすぎ状態になった。最初はさらさらだった思考が徐々に粘度を増し、やがて鍋底に張り付き始め、最後のほうになると木べらでかき混ぜても動かない謎の半固体へ進化していた気がする。アイスが何か重要な説明をしているのは分かるのだが、理解が全く追いつかない。言葉は耳から入ってくるのに、頭の中では途中から「魔力循環」「代謝補助」「精神安定」「毒素結合」あたりの単語が一列に並んで行進を始め、そのまま整然とどこかへ消えていった。
結果として講座の終盤、俺の頭に残ったのは、アイスにしては珍しく非常に分かりやすい一文だけだった。
「薬学とは、人の体と魔力に余計なことをしないための学問でもあります」
「余計なことをしないための学問か」
俺がつぶやくと、アイスは少しだけ頷いた。
「薬は効果を出すものですが、同時に害を出さないよう制御するものです。効けばよい、強ければよい、珍しければよい、という考え方は危険です」
「それは分かる気がする。俺も、効きすぎるやつは売るのが怖いしな」
「その感覚は正しいです。あなたは知識が足りない一方で、危険を避ける職人的な勘はあります」
「褒めてるのか?」
「半分は」
「残り半分は」
「知識不足への指摘です」
「混ぜるな。味が悪い」
そこで、店の表から扉を叩く音がした。




