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プロローグ



俺はただ、静かに商売がしたいだけなんだ。


朝はまだ霧の残るうちに起きて、井戸水で顔を洗い、昨日干しておいた作業着に袖を通し、店の裏手にある小さな森へ向かう。そこでぷよぷよ跳ねているスライムを数匹ばかり狩り、持ち帰った素材を丁寧に濾して、煮詰めて、薬草と合わせ、瓶に詰める。昼前に店を開けて、必要な人に必要な分だけ売る。夕方には看板を下ろし、余った薬草を整理して、安酒をちびちびやりながら帳簿をつける。


そういう生活でいい。


いや、そういう生活がいい。


剣を振り回して魔物と命のやり取りをする気もなければ、王都で成り上がって豪商になる気もない。若い頃なら一度くらい「俺も冒険者として名を上げてやる」なんて考えたことはある。男にはそういう時期がある。自分だけは特別で、いつかすごいスキルが覚醒して、周囲を見返して、美人の受付嬢に「さすがです」と微笑まれるような、都合のいい妄想をする時期がな。


俺にもあった。


ちゃんとあった。


それで授かったスキルが、よりにもよって〈スライムキラー〉だった。


名前だけ聞けば、まあ悪くないように思えるかもしれない。キラーという響きには妙な迫力があるし、なにかを専門に倒せるというのは、それはそれで強みに聞こえる。問題は対象がスライムだけという点であり、世の中におけるスライムの立ち位置というのは、初心者冒険者が最初に棒でつつく相手、子どもが小遣い稼ぎに捕まえる相手、村の畑に出たら農家の婆さんが鍬で追い払う相手、つまり魔物界の最下層である。


そんな相手にだけ強くても、人生は別に輝かない。


「ロイド、お前のスキル、スライム相手ならすごいな!」


十五の頃、村の神父にそう言われた。


俺はその時、心の底から思った。


だったら俺の人生、スライム相手にしかすごくないんですね、と。


そこから二十年近く経って、俺はその現実を受け入れた。受け入れるというのは大人になるということで、大人になるというのは、自分に向いていないことをいつまでも追いかけず、向いていることで飯を食う覚悟を決めるということでもある。俺は強い魔物を倒せない。大型の狼にも勝てないし、ゴブリン相手でも三匹以上いたら普通に逃げる。オークなんて見えた瞬間に足が勝手に帰路を選ぶ。


そのかわり、スライムなら狩れる。


ものすごく狩れる。


自分でも少し引くくらい狩れる。


俺が森に入ると、スライムたちは最初こそぷるぷる跳ねているのに、俺が腰のナイフを抜いた瞬間、なぜか全員そろって震え始める。あいつらに知能があるのかは知らない。知らないけれど、たぶん俺を見る目は「天敵」か「災害」か「この世の終わり」のどれかだと思う。俺としてはただ生活のために素材をいただいているだけなので、そんな大げさな反応をされても困る。


「悪いな。今日も四匹だけだ」


そう言ってナイフを振ると、ぷるん、と音がしてスライムは綺麗な核と粘液に分かれる。


普通、スライムを倒すと素材はぐちゃぐちゃになる。核が割れたり、粘液に土が混じったり、魔力が抜けて水っぽくなったりするらしい。らしい、というのは、俺が倒すと毎回やけに綺麗に採れるから、他人の失敗談を聞いて初めて「普通はそうなのか」と知ったからである。


俺の〈スライムキラー〉は、戦闘能力として見れば外れも外れ、酒場の笑い話にされるくらいの無能スキルだった。


ただ、素材採取の面では少し便利だった。


いや、少し便利というか、まあまあ便利というか、生活には困らない程度には便利だった。


この「生活には困らない程度」という言葉が、あとあと俺の人生を大きく狂わせることになるのだが、この時の俺はそんなことを知る由もない。知っていたら、たぶん店なんか開かず、スライム粘液を卸すだけの地味な業者になっていた。看板も出さず、客と会話もせず、朝採って昼納めて夕方寝る、そういう地味で安全な道を選んでいたはずだ。


なのに俺は、店を開いてしまった。


辺境の村、エルムホルン。


王都から馬車で十日、街道から外れてさらに半日、森と丘に囲まれた、旅人が道に迷った時くらいしか寄らない小さな村だ。人口は百人ちょっと。自慢できるものといえば、湧き水が冷たいこと、薬草がよく育つこと、そしてスライムがよく湧くこと。最後の一つに関しては村人からすれば迷惑な特徴なのだが、俺にとっては商売の種である。


村の入り口近くに、古い木造の空き家があった。昔は雑貨屋だったらしい。屋根は少し歪んでいて、床板はところどころ軋み、扉は開けるたびに「ぎぃ」と年寄りの膝みたいな音を立てる。それでも井戸は近いし、裏には作業小屋を建てる余地があるし、森までは歩いてすぐだし、俺のような男が小さく暮らすには十分すぎる物件だった。


俺はそこを買った。


安かった。


信じられないくらい安かった。


村長は「本当にここでいいのか」と何度も聞いてきた。俺は「ここがいいんです」と答えた。村長は気の毒そうな顔をした。たぶん、都落ちしたおっさんが人生の最後に掴んだ夢を、せめて邪魔しないでやろうと思ったのだろう。違う。俺はまだ最後ではない。たぶん。少なくとも腰はまだ生きている。


店の名前は〈青ぷよ薬房〉にした。


我ながらひどい名前だと思う。


ひどいと思うなら変えろという話なのだが、看板を作ってくれた村の大工が「ロイドさんらしくていいじゃねえか」と笑ったので、そのままにした。青ぷよ。スライムのことだ。ひねりはない。覚えやすさだけはある。商売において覚えやすさは大事だと、昔どこかの行商人が言っていた気がする。


初日の売り上げは、銅貨三枚だった。


買ってくれたのは、隣の畑の婆さんである。


「腰が痛いから、なんか効くやつくれ」


「腰痛は薬師に診てもらったほうがいいですよ」


「王都の薬師は高い」


「うちは回復ポーション屋です」


「似たようなもんだろ」


「似てるようで、わりと違います」


そんなやり取りの末、俺は薄めに作った疲労回復ポーションを一本渡した。婆さんはその場で飲み、「あら、腰が軽い」と言って、翌日から畑を倍の広さまで耕し始めた。


おかしいなとは思った。


思ったけれど、婆さんが元気ならいいか、と流した。


二人目の客は、村の猟師だった。猪に足をやられたと言って店に来たので、傷用のポーションを渡した。翌朝には山へ入っていた。


おかしいなとは思った。


思ったけれど、猟師なんて頑丈な連中だからな、と流した。


三人目の客は、通りすがりの冒険者だった。若い男で、まだ革鎧も新しく、剣もやけに綺麗だった。たぶん駆け出しだ。森で転んで腕を擦りむいたらしく、「安いのでいいです」と言った。俺は一番安い小瓶を渡した。男は飲んで、数秒後に自分の腕を二度見した。


「え、傷、消えたんですけど」


「回復ポーションだからな」


「いや、安いやつですよね?」


「安いやつだな」


「安いやつでこれ?」


「まあ、スライム素材だから原価が安いんだよ」


「スライム素材でこれ?」


「そうだな」


「……店主さん、これ、いくらですか?」


「銅貨五枚」


「五枚?」


「高いか?」


「安すぎません?」


「スライムだからな」


その冒険者は、なぜか真剣な顔で残りの在庫を全部買っていった。全部と言っても、その日は十本しか置いていなかったから、大した量ではない。俺は「若いのに備えがいいな」と感心した。冒険者というのは命を賭ける仕事だから、回復薬を多めに持っておくのはいい心がけだ。俺が若い頃にそういう慎重さを持っていたら、ゴブリン三匹に追い回されて泥沼に落ちるようなこともなかっただろう。


それから三日後、店の前に見知らぬ冒険者が五人並んだ。


俺は扉を開けたまま固まった。


「……ええと、何か?」


「ここが青ぷよ薬房か?」


「そうだが」


「ポーションを売ってくれ」


「何本だ?」


「あるだけ」


「うちはそんな大量販売してない」


「頼む。命がかかってる」


重い。


朝一番から話が重い。


聞けば、最初に買っていった若い冒険者が、森の奥で魔狼に襲われた仲間を助けたらしい。普通なら街の治療院まで運ぶ前に出血で危なかったところを、俺のポーションを使ったら傷が塞がり、意識まで戻ったとかなんとか。


いや、盛るな。


銅貨五枚だぞ。


俺がそう言うと、冒険者たちは全員そろって首を横に振った。


「店主、あれは銅貨五枚の性能じゃない」


「じゃあ銅貨六枚にするか」


「そういう話じゃない」


値上げ交渉ではなかったらしい。


そこから少しずつ客が増えた。村人だけだった客層に、冒険者が混じり、商人が混じり、どこで聞きつけたのか隣町の薬師までやってきた。薬師は俺のポーションを光に透かし、匂いを嗅ぎ、少し舐め、無言で震えた。


「どうした、腹でも壊したか?」


「これは……精製純度が異常です」


「ちゃんと濾してるからな」


「濾すとかいう次元ではありません」


「鍋も毎日洗ってる」


「衛生管理の話でもありません」


「じゃあ何の話だ」


「私にも分かりません」


分からないのに震えるな。


こっちが怖い。


俺の作り方は別に難しくない。採ってきたスライム粘液を水で洗い、核から魔力を抽出し、薬草と一緒に温度を見ながら煮る。泡を取り、布で濾し、魔力が落ち着くまで寝かせる。最後に瓶へ詰めて、栓をして、棚へ並べる。ちゃんとやれば誰でもできるはずだ。少なくとも俺はそう思っていた。


薬師は「誰でもできません」と言った。


俺は「慣れればできます」と言った。


薬師は「慣れの問題ではありません」と言った。


俺は「じゃあ器用さですかね」と言った。


薬師は泣きそうな顔で帰っていった。


俺、何か悪いこと言ったか?


そんなこんなで、俺の静かな商売は少しずつ静かではなくなっていった。朝に並べたポーションは昼前に消える。昼に追加で作ると夕方には消える。仕込みを増やせば増やすほど客も増える。世の中には「需要と供給」というものがあるらしいけれど、俺の店の場合、供給を増やすと需要がその倍の速度で増えるので、どこかで計算式が壊れている。


俺は商売人だ。


商売人である以上、売れること自体はありがたい。銅貨が銀貨になり、銀貨が金貨になれば、屋根を直せるし、いい酒も買えるし、冬用の薪も余裕を持って用意できる。貧乏よりはずっといい。誰だって腹が減れば現実的になる。夢よりパン、名誉より寝床、格好つけた理想より暖かいスープだ。


それでも限度がある。


「ロイドさん、今日も開店前から並んでますよ」


店の手伝いをしてくれている村娘のミーナが、窓の隙間から外を覗きながら言った。ミーナは村長の姪で、計算が早く、愛想もいい。俺一人では客の応対が回らなくなり、村長に相談したところ、「あの子ならしっかりしている」と紹介された。しっかりしすぎていて、最近は俺より店の状況を把握している。


「何人くらいだ」


「二十人くらいですね」


「祭りか?」


「ポーション目当てです」


「祭りより厄介だな」


「ちなみに先頭の方、昨日の夜からいたみたいです」


「宿に泊まれよ」


「店の前で待っていたほうが安心すると言ってました」


「うちは人気菓子店じゃないんだぞ」


俺は頭をかいた。髪に薬草の匂いが染みついている。最近、風呂に入っても取れない。店主というより薬草の精霊みたいになってきた。


「今日は何本出せます?」


「通常回復が五十、疲労回復が三十、解毒が十、あとは試作品が少し」


「試作品って、あの青く光るやつですか?」


「ああ、スライム核の魔力を少し強めに残してみた」


「説明が不穏ですね」


「ただの滋養強壮だ」


「前にもそう言って、飲んだ猟師さんが三日寝ずに山を歩き回りましたよね」


「あれは本人の体力がおかしい」


「本人、人生で一番元気だったって言ってました」


「よかったじゃないか」


「奥さんに怒られてましたよ。家に帰ってこないって」


それは俺のせいじゃない。


たぶん。


開店の札を出すと、客たちの顔が一斉にこちらを向いた。やめろ。そんな飢えた狼みたいな目で見るな。こっちはスライム素材の薬を売っているだけのおっさんだ。伝説の聖水を配る聖者ではない。


「押さないでください、順番にお願いします」


ミーナが明るい声で客をさばき始める。俺は棚の裏で瓶を並べながら、客の会話を聞くともなく聞いていた。


「ここのポーション、一本で毒沼抜けられるって聞いたぞ」


「俺の知り合いは腕の骨折が一晩で治ったって言ってた」


「疲労回復のやつはやばいぞ、飲むと徹夜明けでも朝の鳥みたいに目が冴える」


「王都の高級薬房の品より効くって本当か?」


「本当らしい。しかも安い」


「安いのが一番怖いな」


怖がるなら買うな。


いや、買ってくれるのはありがたいんだが。


客というものは不思議だ。効果が弱ければ文句を言う。効果が強ければ怖いと言う。値段が高ければ高いと言い、安ければ安すぎて不安だと言う。商売人はいつだってその間で胃を痛める。俺の場合、胃薬も自分で作れるのがせめてもの救いである。


昼前には、ほとんど売り切れた。


予想通りだった。


予想通りなのに疲れる。


俺が椅子に腰を下ろして水を飲んでいると、店の扉が静かに開いた。入ってきたのは、これまでの冒険者や村人とは明らかに雰囲気の違う男だった。よく磨かれた鎧、整った姿勢、剣の柄に刻まれた紋章。旅人にしては清潔すぎるし、商人にしては腰が据わりすぎている。騎士だ。しかもただの下っ端ではない。


俺は心の中で、面倒ごとの足音を聞いた。


「こちらが、青ぷよ薬房で間違いないか」


「間違いないが、ポーションならほぼ売り切れだ」


「承知している。本日は購入ではなく、確認に来た」


確認。


嫌な言葉だ。


役人や騎士が使う確認という言葉には、たいてい面倒な続きがある。税の確認、営業許可の確認、危険物の確認、身元の確認。確認という名の縄でこちらの首を測りに来る場合もある。俺は別にやましい商売をしているつもりはない。つもりはないけれど、こういう時、人はなぜか少しだけ背筋が伸びる。


「何を確認するんだ」


騎士の男は懐から一本の空き瓶を取り出した。


見覚えがある。


俺の店の瓶だ。


「このポーションを作ったのは、あなたか」


「たぶんそうだな」


「たぶん?」


「瓶はうちのだし、栓の締め方も俺っぽい」


「……あなたは、自分の作った品を把握していないのか」


「毎日作ってるからな。一本一本に名前をつけて送り出してるわけじゃない」


ミーナが横で小さく吹き出した。騎士は笑わなかった。真面目な男らしい。真面目な男は嫌いではない。こちらの冗談が通じない可能性が高いところだけ少し困る。


「我々は王都騎士団第三中隊の者だ。先日、魔獣討伐任務において、このポーションを使用した」


「それはどうも。役に立ったならよかった」


「役に立った、という表現では足りない」


騎士は空き瓶を机の上に置き、やけに深刻な声で続けた。


「重傷者三名が戦線復帰し、毒を受けた斥候が後遺症なく回復し、魔力枯渇を起こしていた治癒術師が一晩で通常業務に戻った。報告書にはそう記されている」


「へえ」


「へえ、ではない」


「俺にどう反応しろと」


「驚いてほしい」


「使ったそっちが一番驚いてるなら、それで足りるだろ」


騎士は眉間を押さえた。最近、うちに来る専門職の人間はだいたい眉間を押さえる。薬師も押さえた。商人も押さえた。冒険者ギルドの受付も押さえた。俺のポーションには、回復効果のほかに眉間を刺激する何かが含まれているのかもしれない。


「店主ロイド殿」


「殿はいらん。おっさんでいい」


「では、ロイド殿」


「聞いてたか?」


「これは正式な依頼になる可能性がある。王都騎士団として、あなたのポーションを定期的に購入したい」


店内が静かになった。


正確には、すでに在庫がなくて帰りかけていた客たちが、扉の近くで一斉に耳をそばだてたせいで、妙な圧が生まれた。ミーナも俺を見ている。騎士も俺を見ている。俺は空き瓶を見ている。


やめろ。


そんな流れにするな。


俺は辺境で細々と店をやりたいだけの、スライム狩り専門おっさんだ。王都騎士団なんて単語が店の中に入ってきた時点で、空気が重い。うちの床板は古いんだぞ。そんな国家規模の期待を乗せたら抜ける。


「定期購入って、どれくらいだ」


「まずは月に五百本ほど」


「帰れ」


「まだ条件を提示していない」


「条件以前の問題だ。五百本って何だ。川の水でも瓶詰めする気か」


「あなたなら可能ではないかと聞いている」


「誰からだ」


「冒険者ギルド、薬師会、王都の商人組合、その他複数の関係者から」


「関係者が多すぎる」


俺の知らないところで、俺の生産能力が勝手に会議にかけられているらしい。やめてほしい。俺は俺の知らない会議で期待値を上げられるのが一番苦手だ。学生時代、村の祭りで「ロイドなら丸太を運べる」と勝手に決められ、腰をやった記憶がよみがえる。人はなぜ、自分で持たない荷物ほど気軽に他人へ載せるのか。


「悪いが、うちは小さい店だ。俺一人と手伝い一人で回している。月五百本なんて無理だ」


「設備投資はこちらで支援できる」


「設備が増えたら仕事も増える」


「人員も派遣できる」


「人が増えたら説明が増える」


「報酬は相場の数倍を用意する」


「金が増えたら税と面倒も増える」


騎士が黙った。


ミーナが小声で「店主さん、商売人としてどうなんですか、それ」と言った。


分かっている。


商売人としてはたぶん間違っている。


儲け話を前にして、税と面倒を心配する商売人なんて夢がない。夢がないからこそ、俺は生き残ってきたとも言える。夢だけで突っ走った若者たちが、どれほどギルドの医務室に運ばれてきたか、俺はよく知っている。スライムしか倒せない俺は、逃げ足と現実感だけは育った。


騎士は深く息を吐き、今度は少し声を落とした。


「ロイド殿、これはあなたにとっても悪い話ではないはずだ。あなたのポーションは、多くの命を救える」


ずるい言い方をする。


金では動かなくても、命と言われると断りづらい。


俺は別に聖人ではない。困っている人を見れば助けることもあるけれど、自分の暮らしを犠牲にしてまで世界を救いたいわけではない。世界というのは広すぎる。俺の両手で抱えるには重すぎる。せいぜい村と店と、目の前の客くらいが限界だ。


それでも、自分の作ったポーションで誰かが助かるなら、それを完全に迷惑とは言い切れない。


まったく、商売というのは面倒だ。


「……月五百は無理だ」


俺がそう言うと、騎士の目が少しだけ鋭くなった。


「では、何本なら」


「月五十」


「少なすぎる」


「うちにしては多い」


「百」


「六十」


「二百」


「増やすな」


「百五十」


「七十」


「百二十」


「七十五」


「百」


「八十」


「九十」


「八十五」


「……分かった。まずは八十五本で仮契約を」


「今の交渉、俺が負けた感じするな」


「こちらとしては大敗だ」


「じゃあ痛み分けだな」


ミーナが横で帳簿を取り出していた。手際がいい。恐ろしいほどいい。たぶん俺がぼんやりしている間に、彼女はもう騎士団向けの納品表を頭の中で作っている。若いのに立派だ。立派すぎて、店主である俺の逃げ道を塞ぎに来ている気もする。


「店主さん、王都騎士団と取引するなら、看板を少し直したほうがいいですよ」


「青ぷよのままでいいだろ」


「せめて字を読みやすくしましょう」


「読みにくいほうが客が減るんじゃないか」


「増えますよ。噂で」


「噂って怖いな」


騎士は仮契約の書類を置いて帰った。正式な使者は後日来るらしい。後日来るという言葉も嫌だ。面倒ごとが今日だけで終わらず、未来に予約された感じがする。俺は書類を眺め、空になった棚を眺め、店の外に残っている客の列を眺めた。


空はよく晴れていた。


森のほうでは、今日もスライムがぷるぷる跳ねているのだろう。


俺はただ、そのスライムを狩って、ポーションを作って、静かに暮らしたかっただけなんだ。


それなのに、いつの間にか冒険者が並び、薬師が震え、商人が値段を聞き、騎士団が契約書を持ち込み、ミーナが帳簿を増やし、俺の仕事量だけが順調に育っている。


「ロイドさん」


ミーナがにこにこしながら言った。


「明日から仕込み、倍ですね」


俺はゆっくりと天井を見上げた。


この古い店の天井には、開店前からあった染みが一つある。雨漏りの跡だ。形がスライムに似ているので、いつか直そうと思いながら放置していた。今見ると、その染みまで俺を笑っているように見える。


「……俺はさ」


「はい」


「ただ、細々とポーションを売る商売人でいたいだけなんだよ」


「はい」


「王都とか、騎士団とか、そういう大きい話は向いてないんだよ」


「はい」


「分かってくれるか」


「分かります」


ミーナはとても優しい笑顔でうなずいた。


「それはそれとして、売れるものは作りましょう」


この子、商売人に向きすぎている。


俺は深いため息をつき、作業場へ向かった。釜を洗い、薬草を刻み、瓶を並べ、スライム核を選別する。慣れた作業だ。面倒ではある。疲れもする。けれど、手を動かしている間だけは、騎士団だの王都だの余計なものを考えずに済む。


釜の中で、淡い青色の液体が静かに揺れる。


いい色だ。


純度も悪くない。


香りも穏やかで、魔力の巡りも安定している。


まあ、いつも通りだな。


俺はそう思いながら、できあがったポーションを瓶へ注いだ。


この一本が、やがて王都の冒険者を騒がせ、騎士団の補給計画を狂わせ、薬師会の重鎮たちを夜通し議論させ、ついには王女殿下の耳にまで届くことになる。


もちろん、この時の俺は何も知らない。


知っていたら、瓶の栓をもう少し緩く締めていたかもしれない。


いや、商品に手を抜くのは商売人として駄目だな。


だから結局、俺はいつも通り、しっかり栓を締めた。


そして翌朝。


店の前には、昨日の倍の客が並んでいた。


俺は扉の内側からその光景を眺め、しばらく無言で立ち尽くしたあと、誰に聞かせるでもなくつぶやいた。


「……スライムしか狩れないって、無能スキルじゃなかったのかよ」


返事はない。


店の棚では、青いポーションたちが朝日を受けて、やけに綺麗に輝いていた。


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