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田舎のヒキニートおじさん、長寿になったので異世界に行く 〜新天地で同郷の女の子に目をつけられた〜   作者: イシクラゲ
第1章 城壁都市編

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忘却の神と二つ目の名

第1章、これにて完結です。




 テラカルデラの高級宿屋は、湯けむりの中にひっそりと佇んでいた。


 石造りの廊下を湯気がゆるやかに流れ、どこかで湯の沸く音がくぐもって聞こえてくる。

 旅の垢を落とし、温泉に身を沈め、ただそれだけで過ごす時間というのが、こんなにも贅沢なものだとオルハは改めて感じていた。


 湯に浸かっている間は、考えごとすらゆっくりになる。

 急がなくていい、戦わなくていい、何かを探さなくていい。

 そういう時間がきちんと存在すること自体が、今の二人にとっては十分すぎるほど価値のあるものだった。


 ユイも同じだったようで、ここ数日の彼女はどこか表情が柔らかかった。

 旅の緊張が少しずつほぐれていくのが、傍目にもわかるほどだった。


 普段のユイは、落ち着いていて、どこか淡々としている。

 だがそれは気を張っていないという意味ではない。

 むしろ周囲をよく見て、必要なことを考え続けているからこその落ち着きだ。


 そんな彼女の肩から、ここ数日はわずかに力が抜けていた。

 湯上がりに髪を乾かしながら窓の外を眺めているときも、食後にお茶を飲みながら大学ノートをめくっているときも、そこには旅の途中特有の警戒ではなく、滞在者の穏やかな緩みがあった。


 そんなある日の夕刻、オルハは宿の外から戻ってきた。


 外の空気をまとったまま廊下を歩く。靴音は絨毯に吸われ、小さく響くだけだった。

 手には特に何も持っていない。だが、足取りにはいつもの散策帰りとは少し違うものがあった。


 廊下を歩く足音で気づいたのか、部屋の扉の前でユイが顔を出す。


「どこへ行っていたんですか?」


 問いかける声は穏やかだったが、ただの挨拶ではなかった。

 彼女はオルハが意味もなく長く外を歩くタイプではないと知っている。だからこそ、何か見つけたのだろうと察していた。


「少し街を見て回っていました」


 オルハは上着の埃を払いながら部屋に入った。山側から吹いてきた乾いた風の名残が、衣服に少しだけ残っている。


「それで ユイさん、聞いてほしいことがあります」


 その言い方に、ユイの表情がわずかに変わる。

 軽い世間話ではないとわかったのだろう。扉を閉めると、そのまま素直に中へ戻った。


 ユイが椅子に腰を下ろすのを確認してから、オルハは続けた。


「職業選択でお世話になった教会 忘却の神、レテオスの教会が、この街にもあったんです」


 ユイの目がわずかに見開かれた。


「まさか」


 その反応は大げさではなかったが、驚きははっきりしていた。

 旅の途中で、あの神の名を聞くことになるとは思っていなかったのだろう。


「見つけたときは私も驚きました。街の外れの、目立たない場所にひっそりと建っていて……明日にでも、第二職業の選択に行こうと思っています」


 言ってから、オルハはユイの顔を見た。


「ユイさんはどうします?」


 問いかけながら、答えは半分ほど分かっていた。

 それでも、きちんと尋ねる必要があると思った。

 最初にあの教会で職業を選んだときもそうだったが、こういうことは自分で決めるべきことだと、オルハは考えている。


 

レテオス。忘却の定礎の神。


 魂が持つ「自己」を消去することで、惑星のエネルギー循環を安定させる基礎を担う神だ。

 死後の魂から「自己」を消去し、清浄なエネルギーへと還元する。


 その働きは誰にも知られず、人々はそれをただの「忘却」として受け入れている。

 忘却の神レテオスの名は伝わってはいるものの、信者は少なく、教会もわずかしか存在しない。

 そもそも、その存在自体を知らない者の方が圧倒的に多い。


 オルハとユイは、かつてその教会で信者となった。

 他の旅人が見向きもしない小さな祭壇の前で、静かに祈りを捧げ、職業を選んだ。  

 


「旅の途中では、レテオスの教会は見かけませんでしたね」


 ユイは少し考えるように視線を落としてから、顔を上げた。


「私も行きます」


 迷いはなかった。

 その返答を聞いて、オルハもわずかに肩の力を抜いた。


「よかった」


「ところで」とユイが続ける。「第二職業の条件って、スキル十個以上と、高額の料金だけでしたっけ?」


 オルハは少し唸った。


「そうなんですが……その条件が思ったより厄介で。いろんな人に聞いて回ったんですが、実際に第二職業を習得した人はあまりいないんです。金額が高いというのもありますし、選択職業のスキルを十個以上習得するまでに時間がかかる、というのも大きい。それに、一つの職業を極める方を選ぶ人の方が多いみたいですね」


「なるほど」


「問題はもう一つあって」


 オルハは少し声のトーンを落とした。


「私たちみたいに、もともと持っているスキルが数に入るのかどうか、わからないんです。選択職業のスキルだけで十個なのか、それとも他のスキルを合わせて十個でいいのか」


「試してみて、駄目なら諦めましょう。」

 

「なるほど」


 今度は迷いのない表情だった。


「じゃあ明日、行って確かめましょう」


「そうですね」



 翌朝、二人は連れ立って街の外れへと向かった。


 温泉街の朝は遅い。

 まだ本格的に賑わう前の通りは、どこかのんびりとしていた。

 湯屋の軒先から立ちのぼる蒸気が朝の冷たい空気に混じり、白くたゆたっている。

 石畳はまだ湿り気を残し、日差しも柔らかい。


 教会は、オルハの言った通りひっそりとしていた。

 古びた石造りの外壁に、蔦がところどころ這っている。

 扉は小さく、看板もほとんど目立たない。

 通りを行き交う人々は誰も足を止めない。

 まるでそこに建物があることすら、認識していないように。


 それは不自然なほどの“目立たなさ”だった。

 別に隠されているわけではない。

 だが、人の意識から自然にこぼれ落ちるような位置に、ひっそりとそこにある。


 二人は扉を押し開け、中に入った。


 薄暗い礼拝堂の空気は冷たく、静かだった。

 蝋燭の灯りが数本、祭壇をぼんやりと照らしている。

 祭壇の前には年配の神父がいて、二人の姿を見ると静かに頭を下げた。


 オルハが挨拶をし、第二職業の選択に来た旨を伝える。

 神父は表情を変えることなく、しかし穏やかな声で応えた。


 二人はまず、祭壇の前でレテオスへの祈りを捧げた。

 それから献金と供物を用意した——酒、魔物の肉、そしてモアッサナイトの三カラット。

 祭壇の上に静かに置くと、蝋燭の炎がふっと揺れた気がした。


 気のせいだったのかもしれない。

 だが、そのわずかな揺れが、この場の静けさをより深いものにした。


 神父から職業選択の説明を受け、料金を支払う。それが済むと、神父がユイから奥の部屋へと案内した。


 オルハは礼拝堂の長椅子に腰を下ろして待つ。


 静かだった。外の音も、ここまではほとんど届かない。蝋燭が小さくぱちりと鳴いた。


 視線を上げれば、古びた天井の梁が見える。

 何年も、何十年も、変わらずここにあるのだろう。

 忘れられがちな神の教会にしては、妙に手入れが行き届いている気がした。

 それは信者の多さではなく、残っている者の静かな執念のようなものかもしれない。


 しばらくすると、神父が一人で部屋から出てきた。扉を引き、静かに待ちの姿勢をとる。


 三十分ほどが過ぎた頃、ようやく扉が開いてユイが姿を見せた。


「お待たせしました」


 その声には、選び終えた後の軽さがあった。

 どれにするか迷ってしまいました、とユイは少し照れたように言いながらオルハに近づいた。

 そして、声をひそめて耳元で囁く。


「暗殺者と死霊使いで迷ったんですが——暗殺者にしました」


 オルハは少し目を見張ってから、静かに頷いた。


「なるほど。いいかもしれませんね」


 実際、らしい選択だと思った。

ユイの気配の薄さ、結界や封印を扱う手際、そして何より、スラム街では対人でも容赦なく術を使う。

  “無理に前へ出ないまま主導権を握る”性質。

暗殺者という職は、そのどれにも噛み合っている気がした。


「それと」とユイが付け加える。「賢者は、また売り切れていましたよ」


 オルハは思わず笑みをこぼした。


「ははっ、そうでしたか」


 肩の力が抜けるような笑い方だった。


「では、行ってきます」


 神父とともに部屋へ入る。扉が閉まると、また静けさが礼拝堂に戻った。


 ユイは長椅子に腰を下ろして待った。蝋燭を眺め、天井の古い木組みを眺め、それからまた蝋燭に視線を戻す。


 ほどなくして、神父が部屋から出てきた。


 そして五分ほどで、扉が開いた。


「お待たせしました」


 オルハが出てきた。その顔には、どこか晴れ晴れとした色がある。


 二人で神父に礼を述べ、教会を後にした。


 表に出ると、朝の空気が冷たく清々しかった。石畳の向こうで、街はのんびりとした朝の時間を過ごしている。


「ユイさん」とオルハが歩きながら言った。「私は鑑定師にしました」


 ユイの顔がぱっと明るくなった。


「おお、いいですね。それなら私のこの装備も、鑑定してほしいです」


 その言い方があまりにも素直で、オルハは少しだけ苦笑した。


「それはまだ……今は簡単なものしか鑑定できないですね」


 肩をすくめる。


「熟練度を上げていけば、もっと複雑なものも見られるようになると思いますが」


「なるほど。じゃあ、その時はお願いします」


「ええ、もちろん」


 二人は並んで石畳を歩きながら、高級宿屋への道を辿った。湯気の立ち上る街並みの中を、肩を並べてゆっくりと。


 街全体がやわらかな熱に包まれている。

 その中を歩いていると、急ぐ気持ちそのものが薄れていくようだった。


 それから三日後。


 テラカルデラの湯けむりを背に、二人はグランバサルト行きの馬車に乗り込んだ。


 馬車に揺られるのも、もう以前ほど新鮮ではない。

 慣れたとは言い難いが、少なくとも最初の頃のように体のあちこちが悲鳴を上げることはなくなっていた。


 街を出ると、道はじきに山へと向かい始めた。

 樹々の密度が増し、石畳が山道に変わり、馬車は揺れながらも着実に高度を上げていく。

 空気がひんやりと澄んで、肺の奥まで届くような清々しさがあった。


 馬車の中、オルハはしきりに周囲のものに目を向けていた。

 道端の石、積み荷の木箱、馬車の金具——手当たり次第に鑑定を試み、熟練度を少しずつ積み上げていく。

 ユイはそれを横目で眺めながら、窓の外の山の景色を静かに楽しんでいた。


 何かを見つけるたびに、オルハの視線がわずかに止まる。

 それから、ほんの短い沈黙。

 鑑定の成否が表情に出るほどではないが、集中しているのは分かる。


 ユイは何も口を挟まなかった。

 こういうときのオルハは、放っておくのが一番だと知っているからだ。


 七日が過ぎた。


 山道を登りきった先、馬車の窓から前方を見やると グラム山脈の中腹に、街が見えた。


 グランバサルト。


 山肌に抱かれるようにして建つその街は、石造りの城壁を持ち、城門の前には旅人や商人の長い列ができていた。

 馬車は列の末尾で止まり、二人は荷物を持って外に降り立った。


 山の空気は冷たく、薄く、しかし澄んでいた。


 頬に触れる風は鋭い。だが、不快ではない。

 高い場所特有の透明さがあった。


 列に並び、通行税を支払い、城門をくぐる。


 石の門が二人の背後で静かに過ぎ去った瞬間、オルハはふと足を止めた。

 視線の先には、知らない街の知らない石畳が続いている。


 見上げれば、見慣れない空。

 耳に入るのは、これまでいたどの街とも違う喧騒。

 鍛冶場のような金属音が、遠くから途切れず聞こえてくる。


 ユイも立ち止まり、同じように前を見た。


 新しい街。

 新しい空気。

 そして、次の目的。


 その全部が、まだ何色にも染まっていない。


 そして 二人の物語は、ここから始まる。




第1章「城壁都市編」は、これにて完結となります。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


次章の投稿時期はまだ未定ですが、続きができ次第更新いたします。

また再開した際にお付き合いいただければ幸いです

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