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田舎のヒキニートおじさん、長寿になったので異世界に行く 〜新天地で同郷の女の子に目をつけられた〜   作者: イシクラゲ
第1章 城壁都市編

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もう一つの世界




 ドワーフの街グランバサルトへの道のりは、馬車で行くことになった。


 理由は単純だ。オルハが「一度は体験してみるべきだ」と言い張ったからである。


「馬車って……あの、揺れるやつですよね」


 ユイが宿の前に停まった馬車を見上げながら、露骨に顔をしかめた。

 木製の車輪が石畳の上でがたついており、乗る前から体が軋みそうな印象を与えてくる。揺れるたびに鳴るその軋みが、まるで「覚悟して乗れ」とでも言っているようだった。


 御者台に座った老人は三人目の乗客を待つようにぼんやりと煙草をくわえ、空を眺めていた。風に流れる煙が、ゆっくりと溶けていく。


「乗ったことがないなら尚更だ。経験は財産になる」


 オルハはそう言いながら、荷物を荷台に積み始めた。背中は迷いなく動いていて、議論の余地はないという空気をそのまま体現していた。


 ユイは小さく「財産……」と繰り返して唇を尖らせた。

 だが、オルハの様子を見てそれ以上何も言わず、観念したように荷物を持ち上げる。軽く息を吐きながら馬車へと乗り込んだ。


 旅はゆっくりとしたものだった。


 日が暮れると村の宿屋に入り、夜明けとともに出発する。

 繰り返される同じリズム。単調でありながら、確実に距離だけは進んでいく時間。


 馬車の揺れは確かに酷かった。

 最初の日の夜、ユイは「腰が……」と呻きながら宿のベッドに倒れ込んだ。体の芯にまで響くような振動に、完全にやられていた。


 だが三日目には、それなりに慣れてきたらしく、揺れに合わせて体を小さく動かすようになっていた。無意識に衝撃を逃がすような動き。人は意外と適応するものだと、オルハは横目でそれを見ていた。


 五日目の午後、水の匂いが風に混じりはじめた。


 ヴェネルナ——水の街と呼ばれるその場所は、近づくにつれて空気の質が変わった。湿り気を帯びた風が頬をなで、遠くに銀色の水面がちらりと見えたとき、ユイが窓から身を乗り出した。


「あれが湖ですか」


「そうだ。街の中心にある。かなり大きい」


 街に入ると、その規模にユイは目を丸くした。通りは広く、人の流れも絶えない。水路があちこちに走り、反射した光が建物の壁に揺れている。


 馬車が停車場に着くころには、旅の疲れがじわりと背中に染み出してきていた。


 初めての場所への旅というのは、慣れた道を歩くのとはわけが違う。

 常に気を張っている。

 景色も、人も、言葉の節々も、すべてが新しい刺激として頭に降り注いでくる。

 それが知らず知らずのうちに体を削っていく。


「ここで少し休もう」


 オルハが言い、ユイは素直にうなずいた。


 二人はヴェネルナで五日ほど滞在することにした。


 その間は、それぞれ自由に過ごした。


 ユイは湖の畔のベンチに座って、大学ノートを膝に開いていた。

 もはやこれは彼女の体の一部のようなものだ。


 この世界の言葉はずいぶん話せるようになっている。日常会話程度なら不自由しない。

 それでも彼女はノートを手放さなかった。

 書き留めることが、彼女にとっての安心の形なのだろう。


 湖は大きかった。対岸が霞むほどに広く、水面に空の色が映っていた。


 ユイはその景色を何度かノートに文章で書き写した。スケッチではなく、言葉で。それが彼女の癖だった。


 五日が過ぎると、二人は再び馬車に乗り込んだ。


 アイアンリッドに到着したのは、そこから数えて十日後のことだった。


 ダンジョンの街。


 そう呼ばれるこの場所は、ヴェネルナとは明らかに空気が違った。

 通りを歩く人々の多くが武装している。剣、弓、鎧。

 どこを見ても「戦うこと」を前提とした人間ばかりだった。


 宿の看板にはダンジョン向け装備の広告。

 遠くからは、金属を打ち鍛える音が断続的に響いていた。


「初心者向けの低階層ダンジョンがある街らしい」


 オルハが地図を見ながら言う。


「つまり、私たちも入れる、ということですよね」


「入ってみる価値はある」


 ユイはしばらく武装した人々を見渡した。

 そしてノートを胸に抱きしめる。


「……いきましょう」


 翌日、二人はギルドへ向かった。


 朝の街はまだ完全には目覚めきっておらず、それでもすでに働き始めている人々の気配がそこかしこに漂っていた。

 石畳の上にはうっすらと夜の湿り気が残り、靴底にわずかな冷たさが伝わってくる。


 無言のまま並んで歩く二人の間には、昨日までの空気とは違う、どこか引き締まった感覚があった。

 これから踏み込もうとしている場所が、ただの狩場ではないと理解しているからだ。


 石造りの建物は重厚で、扉を開けると受付カウンターの奥に張り紙や掲示板がずらりと並んでいた。

 この場所が日常と非日常の境目であることを自然と感じさせる。


 受付には複数の職員がおり、慣れた手つきで冒険者たちの依頼を処理している。

 一つひとつの動作に迷いがなく、流れるように人が捌かれていく様子は、長年の積み重ねを感じさせた。


 二人がダンジョン入場の意思を伝えると、「では簡単な講習を受けていただきます」と案内された。


 案内された部屋は、小さな講堂のような造りだった。長机が並び、すでに数人の冒険者が席についている。

 それぞれが静かに前を向いているが、その表情にはわずかな緊張や期待が混じっていた。


 前方には壇があり、一人の男が立っていた。年のころは四十を超えたあたりか。

 無駄な肉のない体に、いくつもの古傷が見えた。現役を退いた冒険者か、あるいはそれに近い人物だろうとオルハは直感した。


 その直感は、男の立ち姿だけで十分に裏付けられていた。

 戦場を知っている者の、無駄のない静けさだった。


 ユイはノートを開き、ペンを持った。

 紙の上にすでにいくつかの文字が並んでいる。彼女は講習が始まる前から、書く準備を整えていた。


 男が口を開いた瞬間、その声には説明とも警告ともつかない重みがあった。


「剣の振り方は教えない。魔法の詠唱も教えない」


 男は壇上から参加者をゆっくりと見渡した。

 その視線は一人ひとりを確かめるように動き、軽く受け流すことを許さない圧があった。


「ここで教えるのは、ひとつだけだ。ダンジョンと外の世界は、根本的に異なる法則で動いている。そのことを、まず頭に刻め」


 ユイの手が動いた。文字が走る。

 ペン先が紙を擦る音が、静かな部屋の中でやけに大きく感じられる。


「長年ダンジョンを研究してきた学者たちが、一つの結論に至った。ダンジョンとは、単なる洞窟じゃない。魔物の巣でもない。意志を持たないまま、意志のように振る舞う——巨大な生命体に等しい構造物だ」


 誰かが小さく息を呑むのが聞こえた。

 その音は小さかったが、場の空気をわずかに揺らすには十分だった。


 “生命体”という言葉が、頭の中に重く残る。


「まず、魔物の出自を知れ」


 男は言葉を区切るように一拍置いた。


「外の大地を歩く魔物と、ダンジョンに潜む魔物は、見た目が似ていても全く別の存在だ。外の魔物は育った命だ。親から生まれ、食い、育ち、子を残す。だがダンジョンの魔物は違う。ダンジョンそのものが生み出した概念だ」


 オルハは腕を組んだまま、静かに耳を傾けていた。

 言葉の意味だけでなく、その前提にある世界の構造を頭の中で組み立てていく。


「外の魔物を根絶やしにしたいなら、繁殖の連鎖を断ち切ればいい。だがダンジョンの魔物は、ダンジョンが存在する限り何度でも湧き出る。それがダンジョン攻略を困難にさせる根本的な理由のひとつだ」


 男の目が一段と鋭くなった。


「同じ名前に騙されるな。外のゴブリンとダンジョンのゴブリンは別物だ。外のゴブリンは生き残るために動く。逃げるし、降伏もする。だがダンジョンのゴブリンは違う。より本能的で、より攻撃的だ。逃走も降伏も、そもそも概念として持っていないことが多い。見た目で油断するな。それが死に直結する」


 ユイのペンが一瞬止まった。

 言葉の重さを噛みしめるように、ほんのわずかな間を置く。


 それから再び動き出した。


「次に、魔石について話す」


 男は木製の台の上に、小さな薄緑色の結晶を置いた。掌に収まるほどの大きさだが、それがどこか内側から光を帯びているように見えた。


 光は強くない。だが、確かにそこに“ある”。


「これが魔石だ。ダンジョンが魔力を凝縮して魔物を生成する際に、核として形成される結晶体だ。魔物の体内に宿り、その存在を維持する——言うなれば、心臓のようなものだ」


 ユイは目を細めて結晶を見た。

 ただの石ではないことは、見ただけで分かる。


 机の前のほうに座っていた別の冒険者が手を挙げた。


「倒したら消えないんですか」


「消えない。魔物の肉体は霧散する。だが魔石だけが残る。それを回収するのが、ダンジョンに潜る者の基本中の基本だ」


 男は結晶を手に取り、光にかざした。


 わずかな光が角度によって変わり、内部の揺らぎが強調される。


「魔石は極めて高密度な魔力の結晶だ。魔道具や武器、防具への魔力供給源になる。魔術師が魔力を補充・増幅するための素材にもなる。照明や動力源としても使われる。そしてその品質は、深層へ行くほど上がる。大きく、純度の高い石が得られる」


 誰かが「つまり金になる」と呟いた。男は否定しなかった。


「外の魔物にはこれがない。皮、牙、骨 そういった生物由来の素材は取れる。だが石は出ない。魔石はダンジョン産の魔物にしか存在しない。だからこそ、ダンジョン攻略は武勲だけでなく、経済的な意義を持つ。外の魔物を狩るのとは比較にならないほどの報酬が得られる。それが冒険者たちを、命の危険を冒してまでダンジョンへと引き寄せる理由のひとつだ」


 オルハの視線が、机の上の魔石へ向いた。小さな光の結晶。あれが戦うことの対価だとすれば 彼は静かにそれを飲み込んだ。


「次は植物の話だ」


 男がそう言うと、数人が首を傾げた。ユイもペンを持ったまま、少し目を上げた。


「日光も降らず、風も吹かず、雨も注がない。そんなダンジョンの奥深くに、なぜ植物が育つのか。長らく学者たちを悩ませた謎だ。答えは単純だった。ダンジョンが生み出しているからだ」


 男はそこで言葉を切り、部屋を見渡した。


「ダンジョンは魔物だけじゃない。植物も、菌類も、鉱石さえも生成する。光合成も、堆積も、地熱も関係ない。魔力そのものを養分として、この世界の常識では育たない植物が育つ」


 ユイが「……すごい」と小さく呟いた。独り言のつもりだったのだろうが、周囲のいくつかの視線が彼女に向いた。彼女は少し赤くなり、ペンを走らせた。


「これらはダンジョンの外では再現も栽培もできない。ダンジョンの魔力環境なくして育つことはない。採取して持ち出せば、徐々に魔力が抜けて劣化していく。だから鮮度が重要だ。そのため採取専門の職種 採集者という仕事が成立するほど、需要が高い」


「最後に」


 男は腕を組み、一度だけ深く息を吸った。


「なぜダンジョンが存在するのか。それは、今も誰にもわかっていない」


 部屋がわずかに静まった。


「世界の余剰魔力を処理するための器官だという学派がある。別の次元から浸食してきた異物だという学派もある。神が試練として造り給うた聖域だと唱える者もいる。どれが正しいかは、今もわからない。真実は霧の中だ」


 男は壇の端まで歩き、そこで振り返った。


「だが、確かなことがひとつある。ダンジョンは冒険者に資源を与え、魔物を差し向け、世界の歴史を動かし続けてきた。その存在なくして、今の文明は全く異なる形をしていたはずだ」


 それからゆっくりと、男の視線が部屋全体を流れた。


「深淵へと歩みを進める全ての者に言う。あなたが足を踏み入れるのは、ただの洞窟じゃない。それは 呼吸し、生み出し、待ち構える。もう一つの世界だ」


 講習が終わった後、二人はギルドの外に出た。


 午後の光が石畳に落ちている。街の喧騒が遠くから聞こえた。ユイはノートを閉じながら、空を見上げた。


「思ってたとおり、定番と同じ場所なんですね。ダンジョンって」


 少し間を置いて、どこか本気とも冗談ともつかない顔で続ける。


「でもフロアーボスがいないのですね。残念です」


 オルハは少し前を向いたまま答えた。


「そうですね。でも、ただの地下の穴じゃない。慎重にいきましょう」


 言葉に迷いはなかったが、声は静かだった。


「別の世界、って言い方、なんか……妙に納得しました」


 ユイはノートを胸に抱いた。その言葉の重さを、自分なりに整理しているようだった。


 オルハは何も言わずに歩き出した。


 ユイがその後に続く。


 ダンジョンの入口は、この街のどこかにある。


 まだ見えてはいない。

 だが確実に、そこに存在している。


 そして二人は その世界へ向かうことになる。





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