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38 旅立ち

 出張所に戻ると、金城氏から呼ばれた。

「山置出張所からさっき連絡がありました。こっちを引き上げて帰ってくるようにと。お疲れ様でした。」

 大方、また県の仕事をとったので、人手が足りなくなったのだろう。出張の途中で切り上げて戻るというのはよくある話だった。

 すでに午後の便を事務所でとってあったので、俺は急いで部屋を片付けた。大してないと思った荷物だが、スリッパやらこまごましたものをこっちで買っていたので、全部はスーツケースに入らない。

 ケースで買い置きしていたカップ麺のような置いていけるものは置いて、早い昼飯を食ってすぐに空港に向かった。

 スーツケースを預け、パソコンや財布などのこまごました物だけが入ったバッグと金城氏が用意してくれた土産の菓子を持って搭乗したのは離陸十分前だった。

 慌ただしい旅立ちだった。

 この島であったことすべてが夢のような気がした。

 青い空と海の間を飛ぶ飛行機はたちまちのうちに街の中の空港に着陸し、俺が出張所に戻ったのは五時過ぎだった。

 誰もいないかと思ったら所長がいた。

「やあ、焼けたなあ。お疲れさん。」

 所長は俺の顔を見てまずこう言った。

 作業で焼けたわけではない。一昨日から昨日の昼間の行動で焼けたのだ。帽子は一応かぶっていたのだが。

 俺は土産を渡した後言った。

「所長こそ、忙しいみたいですね。で、明日からどこですか。バイパスですか、それとも」

「本社から辞令が来たよ。」

 所長は机の上から一枚の紙を取り上げ読み上げた。

「浅戸耕輔、九月一日付けで東京本社工事部付としてムニール出張所勤務を命ずる。なおその準備研修のため七月十四日付けで東京本社工事部への異動を命ずる。」

「ムニール?」

 ムニールというのはどこだ。外国のようだが。

「モハメドの国だよ。この辞令は、ムニールの王太子直々の要請だとさ。」

 ムニールの王太子、モハメドのことだ。

「ムニールでは土木技術者を養成する必要があるので経験ある人間をよこして欲しいと、王太子から社長に話がいったらしい。しかも、浅戸さんを名指しで。」

 やられた。モハメドは俺が会社の命令なら受け入れると踏んで、社長に話したに違いない。

 なんだか、あいつにはやられっぱなしという感じだ。

「モハメドめ。」

「モハメドがどうかしたのか。」

「モハメドです、その王太子っていうのは。」

 俺はダールのやらかしたことは抜きにして、モハメドが王太子になったことを所長に話した。

 所長はうなずいた。

「そうか。道理で品がよかったはずだな。王子様だったとはな。」

「私に務まると思いますか。」

「いい勉強になると思うんだが。地位が人を作るっていうこともあるし。」

 とりあえず返事を保留して、長く留守にしていたアパートに戻った。部屋の窓を全開にして空気を入れ替えたが、少々かび臭いにおいがした。

 そろそろ引っ越し時かもしれなかった。




 その夜、紅林幸次郎から電話があった。

 上京したらうちに来ないかと。

 俺は紅林氏も一枚かんでいることに気付いた。

 モハメドと飯を食いながら、いろいろと計略を練っていたに違いない。

「海外に行くかもしれないんですが。」

 俺が言うと、紅林氏は初めて聞いたように言った。

「そうか。一人で海外というのは寂しいな。眞帆子も連れて行くといい。パスポートを今から申請すれば間に合うだろう。いや、入籍してから作ったほうが氏名変更の面倒がなくていいか。」

 どうやら紅林氏の頭の中にはすでに日程が組まれているようだった。




 俺は翌日所長に辞令を受け入れることを告げた。

 その日は強い雨で工事のできない現場の作業員が事務所にたむろしていたが、俺の辞令の話を聞き大騒ぎになった。

 石田はムニールは美女が多いらしいとかスマホで検索した記事を見て興奮していた。

 きっとモハメドの奥さんも美人なのだろう。 

 昼飯を食っていると江口が書類を持ってきた。

「遠藤じゃなかった、紅林さんから昨夜電話があった。」

 俺は驚いて梅干しを落としそうになった。今年は出張で梅干しが作れなかったので去年の残りだ。味がすっかりなじんでうまくなっていた。

「おめでとう。」

 余計なことを言わずに江口は書類だけ置いた。

「ありがとう。」

 俺の礼ににこりと笑っただけで江口は二階に戻った。

 その日の午後から俺は急に忙しくなった。

 残務整理ということで、俺が作ったプログラムの使い方を教えたり、書類の片付けをしたり、夜は夜で妹の家に連絡したり。

 兄の住所と新しい姓も妹に伝えた。おふくろに万が一のことがあった時のためだ。

 結婚するかもしれないとも伝えた。ただし紅林家の詳しいことは話さないでおいた。妙な期待を持たれても困る。眞帆子は紅林氏の異母妹だから、それほど多くのものを相続はできないだろう。眞帆子自身も望むまい。お嫁に出してもらえるだけでもありがたいと、電話で言っていたくらいだ。




 ボーナスが出た翌日、俺は東京に向かった。アパートはすでに引き払って、大きな家具や電化製品は処分した。ムニールには持っていけないからだ。

 東京では会社が社宅用に借り上げているアパートに入るが、そこにいるのは一か月ほど、しかも家具がついているということなので、持っていくのは服や本、資料くらいだった。

 羽田から直接本社工事部に行くと、部長自らが出てきた。本社の社員というだけで雲の上の人なのに、部長とは。その貫録に俺は気圧されてしまった。





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