22.アルトについて
フィリウスに執務室へと呼び出されたリーナは、朝から二人きりで彼と今日からの話をしていた。
リーナはもともとフィリウスの力になれると奮起してこの部屋にやって来た。
そんな時に「妃教育を受けるように」とそのフィリウスから言われて、一度は冷や水を浴びせられた気分になったものの──可能な限りこのフィリウスの執務室で受けてほしいと言われて気を取り戻したところで、ふと気になったことを尋ねてみたのだ。
「アルトは今、どうしているのでしょうか?」
けれど、フィリウスから返ってきたのはまるで子供のように不機嫌さを隠さない表情だった。
フィリウスは聞かれたくなさそうだったけれど、リーナとて気になってしまったのだから仕方がない。
今さらながら、城についてから一度もアルトに会っていないわけで。
この城の中で働けるようにしてくれるとフィリウスは言っていたけれど、今頃どうしているのだろう?
しばらくの後、フィリウスは表情こそ不機嫌そうだったけれど、リーナの質問に答えてくれた。
「彼なら宰相閣下の、陛下直属の執務室で働いているだろう」
「えっアルトがそんないいところで? でも、あの宰相閣下は……」
おとつい。
この王城に到着して、謁見の間で国王陛下と顔を合わせた時に一緒にいた壮年の男性、オクシリオ・ヴィカリー公爵。
現在のレーゲ王国宰相であり、リーナの母の弟──つまり母方の叔父である彼から、リーナは厳しい言葉をかけられたばかりなのだ。
「問題ない。ヴィカリー公は前情報も多少は参考にするが……。最後には自分の目で見極める男だ」
「わたしの前情報……?」
ヴィカリー公爵の名を聞いて、思わずつぶやく。
そこまでフィリウスを前に口にしかけて、リーナは(さすがにこれは自意識過剰すぎるのでは!?)と少し反省する。
けれど幸いなことに表情には出ていなかったのか、フィリウスはそんなリーナの気持ちには気づいていないようなので、少しだけほっとしながら彼の次の言葉を待つ。
落ち着いて、フィリウスの顔を正面から見られるようになると、レンズの向こうの紫水晶の瞳と目が合った。
今度は顔が熱を帯びてしまった気がするけれど、彼に気づかれてしまっただろうか。
「そういえば初対面の時から公爵はリーナ嬢に何か思うところがあったようだな……。近いうちに何かしら対面できる機会を設けよう」
「ありがとうございます」
「妃教育を受けてもらいたいと言ったが、それだけでも彼の君に対する心象は多少よくなるはずだ。そもそもリーナ嬢のことをよく知りもせず、信頼できない出所の噂を信じる彼には罰を──」
「が、頑張ります!」
リーナは笑顔でフィリウスの言葉を遮った。
自分のことを信頼してくれているのは嬉しい。
けれどフィリウスが眼鏡を軽く押し上げて、彼自身の築き上げてきた信用を崩そうとし出したのはちょっといただけない。
「それから、アルトの話だったな。彼の上司になった公爵は平民だからと不当に蔑んだという話も聞かない。リーナ嬢の手が回らない場所でも、彼ならアルトの後ろ盾になれる」
「ですが、ヴィカリー公爵はアルトがアグリア家の使用人だったことをご存知なのでは?」
「もちろん知っているだろう。だが、長年の付き合いから言ってその点は心配する必要もない。むしろ、なぜ優秀な彼が君に関する噂だけは嘘だと見抜けなかったのかは不思議なぐらいだ。──それぐらいに信用していた」
「していた?」
「君のでっち上げられた噂に関する態度以外は、今でも評価している。少なくともアルトを預けておくにはこれ以上にない人材だ」
フィリウスがそこまで言うなら信じていいのかもしれない。
ヴィカリー公爵がリーナのことをどう思っているかはわからないけれど、少なくともアルトに危害が及ぶわけではないのだ。
「ここに来るまでに見た様子からして、彼は相手が貴族だろうと一方的にしてやられるタイプではないと思っていたが、違うか?」
「たしかに、おっしゃる通りですね。でもまるで、彼と長らく一緒にいたわたしよりも殿下の方がアルトに詳しいようでちょっと悔しいです」
リーナの知っているアルトは、ただ一方的にやられるタイプではない。
一見温厚に見えるけれど、彼に何かしたが最後その人はひどい目に遭うという話をリーナが聞いたのはいつの話だったか。
けれど、リーナの知るアルトはとても優しい人なので、たぶんその人たちはアルトに相当ひどいことをしたのだと思う。
リーナはそんなふうによそ事を考えていたからか、フィリウスの表情の変化に気がつけなかった。
「リーナ嬢」
「はい。でん……か?」
「一緒に、とはあの小屋の中で、ということか?」
もしかして、怒っている?
フィリウスは不機嫌そうな声をしているけれど、リーナに言わせればそれは勘違いだ。
「いえ! そのようなことはありません! わたしが部屋に招待しようとしたら、当のアルトから結婚していない男女は同じ部屋の中にいてはいけない、と注意を受けましたし」
「それならよかった。やはり、アルトが公爵から認められるのも時間の問題か」
それと同時にフィリウスが纏っていた不機嫌さが霧散した。
もしかすると一瞬、フィリウスはリーナが思っていたよりも「マシではない」と考えていたのだろうか。
はじめてのことではないけれど、もしそうだとしたらぞっとする。
「──?」
そんな二人しかいない執務室に、廊下から足音が聞こえてくる。
誰だろうかと思ってリーナが振り向くよりも前に、フィリウスの声がその相手の名を教えてくれた。
「おはようカール」
「おはようございます、殿下。それにリーナ妃殿下も」
振り向けば、そこには昨日と何ら変わらない様子のカールがいた。
紺色の髪も瞳も、何なら服装まで昨日と全く同じで、隙ひとつない。
前日の朝のフィリウスも同じだったし、主従揃って朝に強いタイプなのかもしれない。
でも、起きたばかりのフィリウスは──とよそ事を考えそうになって、慌てて頭の中から寝起きのフィリウスの顔を追い出した。
「おはようございます、カール、様? さん?」
「リーナ妃殿下、どうかカールと」
「わかったわ。カール」
後ろの方から何だか不服そうな声が聞こえてきた気がした。
けれど、今リーナの後ろにいるのはフィリウスだけだ。それに彼が挨拶ぐらいで唸り声を上げるような人には思えないのでたぶん幻聴だと思う。
「ところで殿下。ひとつお知らせが」
「何があった?」
「本日妃殿下の教育を担当する講師となってくださる予定だったヴィカリー公爵夫人ですが、本日体調がすぐれないようでして……。妃教育は明日以降から、と」
カールの告げる言葉に、期待と不安が一気にリーナのもとへと押し寄せた。