20.助力して力尽きて
「リーナ嬢、君が来てくれて助かった。……まさか今日一日でここまで進むとはな」
「お役に立てたなら何よりです、殿下」
夕方。いくらか分けてもらった仕事をすべて終えたリーナは、フィリウスの傍らで彼の仕事を見ていた。
まだ城に来たばかりのリーナには、計算以外のところについては何が間違いかもわからない。
確認したところで、残りの部分に不備があるというのは十分ありえる話だ。
結果的にどのくらいフィリウスの役に立ったかもわからないけれど、途中でカールがどんどんと書類を追加で持ってきたから、ちょっとぐらいは恩返しできたのではないだろうか。
けれど、そんなわからないことだらけのリーナにも今日一日でわかったことがある。
「殿下」
「リーナ嬢?」
リーナの言葉にフィリウスが一旦手を止め、顔を上げる。
紫水晶の瞳に見つめられると少し緊張するけれど、リーナにはどうしても伝えたいことができてしまったのだ。
「わたしを、ここで雇ってはいただけませんか?」
「雇う? 雇うも何も、君は私と結婚したのだ。その必要は──」
「今朝のように王妃殿下とお茶会をしているだけでは、わたしが落ち着かないのです」
「ふむ……」
顎に手をあてて考え出すフィリウス。
眼鏡を指で持ち上げていないということは、まだ考えがまとまっていないのだろう。
フィリウスにはどうやらそういった癖があるらしいということを、リーナはこの二週間ほどで知った。
そう。まだ出会ってたった二週間程度なのだ。
けれど、リーナはすでにフィリウスと離れがたくなっていた。
それはたんに今日、この執務室内で一緒に昼食を取った時間が心地よかったせいかもしれないし、それよりも前──出会ってから今までのもっと色々なことが関係しているのかもしれない。
リーナ自身にはどういう理由で今そんな感情を抱くようになったのかは、わからない。
それでも、フィリウスと一緒にいたいという気持ちだけは間違いではないはずだ。
「そうだな……ひとまず、妃教育が始まるまでは君に手伝ってもらおうか。近日中には始まるだろうから、それまでの間ということにはなるが」
「きさき、きょういく……?」
「ああ。私は第二王子で、兄上の予備とはいえ王族だ。王族の妻となった君には、少々負担が大きいと思うが──」
「頑張ります!」
「!?」
そう言ってリーナがガッツポーズを決めると、フィリウスはあっけにとられたようだった。
よくよく考えてみれば、今のポーズはフィリウスの妻としてふさわしくないような気がしてきた。
「白い結婚」とはいえ、まだ結婚式を挙げていないとはいえ……。リーナはフィリウスの元へと嫁いだことに変わりないのだから。
つまり何が言いたいかというと、一応王族になったのにガッツポーズはいかがなものか、ということだ。
「お、お見苦しいものをお見せしました」
「いや、全然見苦しくなどない。むしろ眩しいぐらいだ。私が王になることなどまずないというのに、妃教育に前向きなのだから。普通なら喜んで妃教育を受けると言いだす者など、裏の目的を疑うのだがな」
そう告げるフィリウスの紫水晶の瞳の奥から、熱を帯びた何かを感じた気がするけれど、それが何なのかまではわからなかった。かわりに。
「わたしにも裏の目的があるかもしれませんよ」
「リーナ嬢の裏の目的、か。どんなものか興味がつきないな。それに裏の目的なら、私にもあるかもしれないぞ?」
眼鏡を軽く押し上げるフィリウス。
彼はもしかしてすでに、リーナも知らないリーナの気持ちすら理解しているのかもしれない。それが嬉しいような怖いような。
「フィリウス殿下なら裏の目的があっても平気です」
「そう言ってくれるのは嬉しいが……。私も抑えが効かなくなるかもしれない」
「? だから、殿下なら大丈夫ですって。殿下のお考えがどのようなものかは存じ上げませんが、ご自身を信じることができなくても、わたしは殿下を信じていますから」
「あまり可愛いことを言わないでくれ。本当に抑えが効かなくなってしまいそうだ」
夕日が映ったように赤く顔を染めたフィリウスにそう言われると、リーナまでその熱に当てられたように身体が火照ってくる。
そこに突然、二人の会話を遮るような咳払いが聞こえてきた。
「両殿下、まだ本日分の仕事は終わっておりません。そういうわけですので、お仕事の終わったリーナ妃殿下は先にお部屋にお戻りになられてはいかがでしょう?」
「あの、いえ。ここで大人しく待っていることにします……!」
本当はフィリウスのことを思うなら、手伝えるお仕事が終わったリーナは邪魔にしかならないのだから、早くこの執務室から出て行くべきなのだ。
けれど離れたくない。
ひどく身勝手な自分に「せめて執務机から離れないと」と心の中で言い聞かせて、フィリウスに向き直って腰を折る。
リーナが姿勢をもとに戻した瞬間、椅子に座っていたフィリウスが急に立ち上がったかと思えば。
彼は突然リーナの頬にひんやりとした手を当てた。
そのまま、体温を測るように額へと手を動かすと、息を呑む。
「大丈夫か? 顔が赤いぞ。熱もある」
「本当に大丈夫ですので! 少し落ち着くまでもう一度ソファで休ませていただいても?」
「そうか。そこまで言うならそうするといい」
「あ、ありがとうございます!」
リーナはすっと腰を折ると、その場で回れ右をしてカウチソファへと戻った。
けれど、フィリウスから離れても熱は引いてくれない。
優しいフィリウスには、今のリーナは体調を崩しているように見えるらしい。
そんなリーナが彼の近くにいては、彼が集中できないこともわかる。
けれど頭ではそうわかっていても、それでもフィリウスと一緒にいたい気持ちはやっぱりどうにもならなくて。
ひどく自分勝手なその思いを、リーナは諦めきれなかった。
♢♢♢
再びリーナが目を覚ましたのは、日がすっかり沈んでしまった後だった。
どうやらカウチソファに身体を預けて、すっかり眠ってしまっていたらしい。
ふと執務机の方を見れば、まだ夜空を背中にしてサインを書き入れているフィリウスの姿があった。
彼もまたリーナがもぞもぞと動いたことに気づいたのか、顔を上げる。
「おはよう。起きたか」
「殿下、今はこんばんはと挨拶するべきではありませんか?」
「それもそうだな」
何が面白いのか、急にクツクツと笑い出すフィリウス。
正しいことを言ったはずなのに、ものすごくいたたまれない心地がする。
その思いから目を逸らすためにリーナは辺りを見回した。けれど、室内には先ほどまでいたはずのカールがどこにもいない。
どうやら今この室内は、リーナとフィリウスの二人きりのようだ。リーナが眠っている間にカールはどこかに行ってしまったのだろう。
けれど、扉はしっかりと開いていた。もしかしたらリーナが昨日「白い結婚」でなくなるかもしれない、と言ったことをフィリウスは覚えていてくれたのだろうか。
それかカールがリーナたちの事情を知っていて、開けて行ってくれた可能性も考えられなくはない。
けれどどちらにしても、申し訳ない気分になってしまう。
「カールさんはどちらに?」
「カールにはヒルミス嬢に言づけをしに行ってもらった。君の体調がよくないようだから、夕食は今日も君の部屋に用意するように、と」
「わたしのために……。ありがとうございます」
リーナは立ち上がって感謝のお辞儀をしようとしたものの、フィリウスに制止される。
そこに廊下から誰かの足音が響いてきたかと思えば、カールが戻ってきた。
「ただいま戻りました。……妃殿下も、お目覚めのようで」
「わたしのために……。ご迷惑をおかけしました」
「ご迷惑だなんてとんでもございません。殿下の無理難題に比べたら、少々体調を崩した妃殿下のために動くことなど、造作もないことですので」
二人がそんな会話をしている間に仕事が一区切りついたのか、フィリウスが立ち上がる。
「今日の分は終わりだ。カールも上がれ。私はリーナ嬢を部屋まで送っていく」
「かしこまりました」
カールはフィリウスの言葉を聞くと、すぐに扉を開けたまま下がっていった。
再びフィリウスと二人きりになってしまった。やがて彼はリーナのもとまでやって来ると手を差し出した。
フィリウスの顔と手を交互に見たリーナは困惑してしまう。まだ熱が引いていない気がするのだ。
今手を繋いでしまえば、またフィリウスを心配させてしまうのではないだろうか。
「エスコートならなくても大丈夫ですよ? この部屋まで殿下のエスコートなしで来られましたし」
「だが、君が心配だ。放っておけない」
「今は少しだけ放っておいてほしいのです。昨日と違って今回は朝まで寝込みませんでしたし。でん──」
そう言ってフィリウスの方を見れば、彼は感情がすべて落ちてしまったかのような顔をしていた。
その様子に、自分が何か失言をしてしまったらしいことに思い至る。
「申し訳ございません! わたしのせいで」
「……! 謝る必要はない。これは私が身勝手なだけだから気にするな。だがそれならば、せめて……部屋の前まで君の隣を歩かせてはくれないか?」
そう告げるフィリウスは、リーナが今までに見たどんな彼よりも弱々しく見えた。
けれど彼の提案は、奇しくも先ほど自分の我儘を押し通したリーナが一番期待していたもので。
自分ばかり気を遣われているようで、落ち着かない。
けれど、心の弱いリーナは、そんな自分にとって都合のいい、彼からのお願いという体を取ったそれを断ることなどできなかった。
「はい。ありがとう、ございます」
フィリウスが破顔する。
けれど、彼の表情にリーナは心の中で鈍い痛みを感じていた。