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「きめ細やかな対応をしてもらえるようになったとか、書類処理が早くなったとか。結構その辺でマイナス評価が多かった会社だったんだ。評判を立て直した裏には、あんたの努力があるよ。確実にな」
篠崎さんが、私を引き抜くまでに調べてくれていたのだ。
私という人間が、ちゃんとどうやって生きてきたのか。
「セクハラ受けても辛く当たられても、三年間無遅刻無欠勤で頑張ってきた。地道に、仕事を覚えてさ。日々の業務は、ちゃんと努力で裏打ちされた気配りがあった。……実際、今夜は夜をよく見ていた。そもそも社長に好かれていたのは、あやかし案件だ。運が悪かっただけ。……他の会社なら、あんたなら十分楽しく働けていただろうさ」
ウインカーを出して車が車線変更する。
香椎浜インターチェンジに、滑らかに車が吸い込まれていく。
「自分の長所は素直に自覚しな。大丈夫、あんたは立派だよ」
インターチェンジを降りる直前、篠崎さんは私を見て笑った。
心のかたくなになっていたところが、ぽろぽろとほどけていくのを感じた。
言いながら篠崎さんは、とても静かな目をして微笑んだ。
「俺の所にこないか。菊井さんの能力が欲しい。それに菊井さんの『普通』を守ってやると思うから」
「俺もいるぞ」
そのとき、しゅるりと腕に黒い尻尾が絡まってくる。
驚いて振り返ると、後部座席に座った成人男性姿の夜さんと目があった。
彼は真新しい黒いスーツを着ていた。誠実そうな感じの人に見える。
「夜もあんたのこと心配してたよ。あんたに何かあれば、主を失ってまた野良猫だからな」
こくこくと頷く夜さん。
夜さんはすっかり顔色も耳の毛並みもつややかで、別猫のように落ち着いた様子だ。
あやかしは主を必要とする存在と、主がいたほうが霊力が安定する存在と、土地を主として生きられる存在、その他いくつかのタイプが存在するらしい。人間も人それぞれ自分にあった暮らしが違う。そういう感じなのだろう。
夜さんはもちろん、主がいる方が落ち着くタイプだ。
「夜さんも篠崎さんのところで働くんですね。てっきり占い師を続けるのかと」
「うむ。占いは詳しくないしな」
「詳しくない!?」
「霊力を奪うためだけにやっていたことだから仕方ない。今では反省してる。ところで」
言いながら、夜さんは私の腕に尻尾を絡めてくる。
どういった仕組みなのか、ネクタイを締めたのどの奥からごろごろと音が聞こえてきた。
「撫でて欲しい。楓殿の手、気持ちいいから」
目を細めた夜さんは私に頭を差し出してくる。人間の、しかも美男子の姿でだ。
「えええ……」
「あとちょっと舐めさせてほしい」
「!?」
「楓殿は、美味しいから……ちょっとだけ」
上目遣いに見上げてくる、その瞳が妖しく輝いている。私はぞくりとした
篠崎さんが契約を結ばないと危ないといった意味がわかった。気がする。
「な? 猫に理性なんざあるわけねえだろ」
「あはは……」
夜さんはそのまま猫の姿になり、私の膝に乗ってきた。まあ猫の姿ならいいやと、膝でごろごろとあやす。
こうして、仲良さそうにしている夜さんと篠崎さんの関係を見ていると、あやかし皆がこんな風に、素直に過ごせる世界を作りたいと思う。『此方』では普通として扱われない存在が、普通に過ごせるお手伝いをしたい。
踏切が開き、車の流れが動き始める。
ビルの合間から、ぎらりと輝く夕日が目を焼いた。
「篠崎さん。今後とも、何卒よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく、菊井さん」
◇◇◇
それから私は社会人になって初めて寝込んだ。
家族から随分と心配されたものだ。実家暮らしじゃなかったら大変だった。
有休はたっぷりあったので、遠慮無く寝込んで一週間。
まどろんでいると、母が部屋に入ってきた。
「大丈夫? 楓」
私は起き上がり、ありがたく昼食をお盆ごと受け取った。
「いただきます」
はふはふと食べる私をみながら、母が不意に言葉を漏らす。
「辞めてくれてよかった。楓、あちこちに連れ回されていて不安だったもの」
「お母さんも、そう思ってくれていたの?」
「そりゃあ当然よ。けれど楓が一度決めたことだから、すぐに親が口出しするものではないでしょう? 頼ってくれたら力になりましょうねって、お父さんとも話していたのよ」
湯気と母の優しさで、胸がじんと熱くなる。
「……ありがとう。私、お母さんとお父さんの娘に産まれて幸せだよ」
「感傷的なこといってくれちゃって。ありがとう」
母が小さな子どもにするように、頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。
家族のためにも早く元気になって、そして新しい仕事で頑張る姿を見せなきゃ。
気持ちを告げてほっとしたのか、母が興味津々の顔で矢継ぎ早に質問してくる。
「で、新しい会社はどんなところ? もう変な社長さんのいる所じゃないでしょうね?」
「大丈夫大丈夫。社長の篠崎さんって方、すごく良い人だから」
色々訊ねたそうな母には笑ってごまかす。
嘘をつくのが下手だから、あれこれ突っつかれると普通じゃないことをペラペラと漏らしてしまいそうだ。
「お粥ありがとう。もう少し横になるよ」
「ええ。何も考えずにゆっくりしなさい」
母が部屋を出たところで、私はベッドの布団をめくって覗き込む。
「夜さん、顔出していいよ」
中では黒い饅頭のようになった夜さんが丸くなって眠っている。出てこないからどうやら熟睡しているらしい。
夜さんはなんだかんだで時々窓から私の部屋に入ってきては、一緒に寝たり膝に乗ったりして霊力を充電しにくる。そして去っていく。
美男子に変身できる猫を部屋に入れて良いものなのかなと最初は気にしなくもなかったけれど、疲労と高熱で何も考えられない間に、結局受け入れてしまった。
寝込んでいる私を心配してくれているのかもしれない。
丸くなった夜さんの毛並みを撫でながら、私は一人微笑んだ。
◇◇◇
有給を使い果たしてたっぷり休んだあと、私は篠崎さんの経営する『福岡あやかし転職サービス』のいち社員として働くことになった。
本格的な入社日の前の金曜日、私は篠崎さんと天神で待ち合わせした。
先に一度会社を案内すると言われたのだ。
迎えの車に乗り込むと、篠崎さんは私にとある調査報告のプリントを手渡した。
「これは……?」
「菊井さんの実家近辺の調査書だ。だだ漏れ霊力の原因について調べていたんだが、やはりわからなかった」
篠崎さんは私へ目を向け、そして独り言のように呟く。
「今日は入社前に、とりあえずの応急処置をさせて貰う」
「応急処置できるんですか?」
「このままじゃいつあやかしに食い殺されても知らねえぞ」
「ヒッ」
車はそのまま渡辺通りが貫く天神地区市街地を抜けていく。
日曜日の天神は通行量が多く、信号のたびに車は停車する。呑気なとおりゃんせのメロディが流れると、一斉に多くの人々がスクランブル交差点を歩いていく。
「なんだかすごく久しぶりな気がします。天神に来るの」
「帰りに飯でも食ってくか? 楓が嫌じゃないなら」
「やったー!」
私は篠崎さんを見やる。
元々背が高い人なので、いくら足が長くても、日本車の座席だと長い狐耳が天井にくっついてペタリと曲がっていた。可愛い。