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そしてはた、と気付いた。
「篠崎さん」
「ん?」
「楓って呼びましたよね」
「呼んだな」
「どうして名字じゃなくて名前なんですか?」
「別に楓が猿渡や鈴木って名字ならそっちで呼んでたさ。俺が井戸が嫌いなだけだ」
「井戸が嫌いだから菊井が嫌って、全国の菊井さんに謝ってくださいよ」
篠崎さんは私を無視して車を発車させる。
車は渋滞に遭いながらゆったりしたペースで今泉に入り、細い入り組んだ路地を巧みに抜けて駐車場へと入っていく。
「じゃあ私も篠崎さんじゃないほうがいいですか?」
「いや、そのままがいい」
今泉は飲食店やファッションビルが入った雑居ビルと古い寺院、それに古い大きな屋敷が混在していて独特の雰囲気がある一角だ。
離合もできない上に歩行者も多い裏路地でも、無駄なハンドル捌きなしにすいすい運転できるのはすごい。
「こんなところ運転できるんですね……」
「慣れだよ。離合の暗黙の了解を知ってたらそう難しくはない」
「いやいや……私だったらここまでで車の角全部取れてますよ」
「なぁに言ってんだ」
篠崎さんは笑う。
天神まで車でくることは、香椎育ちの私でも滅多にない。営業車を回す人でもちょっと遠慮する場所だ。篠崎さんは細い道を何度も曲がった末、小さな駐車場の隅に車を停める。
車を降りると彼は、同じ駐車場に生えた老木の片隅に向かう。そこにはよく見なければ気づかないような、百葉箱の三分の一ほどの大きさの小さな社があった。
「楓。ここで二礼二拍手一礼な」
「はい」
言われるままに並んで頭を下げ、手を叩く。するとめまいが起こったようにぐるりと視界が反転する。
「っ!?」
気がつけば、目の前に雑居ビルが出現していた。
「え……え?」
「許可されたあやかししか入れない社屋だ。2階だ」
「え、あ、はい……」
一階には昭和レトロからそのまま持ち出したような、飴色の窓ガラスが嵌められた古風なカフェ。そしてスタスタと上がっていく篠崎さんについていくように登っていくと、2階にはこじんまりとした会社事務所があった。
篠崎さんが鍵を開ける。どこにでもあるような、雑居ビルに入った小綺麗なオフィスだ。机は3、4つほど、観葉植物や空気清浄機、デスクトップPCにプリンター。ファイルボックスが整頓された棚。高い場所には神棚と榊まで置いてある。
「びっくりするほど普通の会社ですね……」
篠崎さんはそれから、私に簡単に会社の説明をしてくれた。
私の仕事は前職と同じ庶務と、移住や就職などの相談をしたいあやかしの窓口担当。いずれはヒアリングして困りごとを把握したり、相手にぴったりのお仕事やお住まいといった解決プランをご提案するお仕事もするという。
会社の中を一通り見学したところで、篠崎さんは私を見た。
金色の双眸に射抜かれ、どきりとする。
「……そろそろ応急処置しとくか」
「はい」
「んじゃ、少し大人しくしていてくれ」
篠崎さんはそう言うと、私の頬へと手を伸ばす。
そして顎を持ち上げると――じっと、私の瞳を見つめた。
綺麗だなあ、そう思った次の瞬間私は口付けられていた。
「え、」
温かくて湿った、唇の感触。
次の瞬間、全身からごっそりと何かが吸い出される感覚がする。
唇は触れているだけだ。それなのに、魂全てが、掃除機に吸われるような、ブラックホールに飲み込まれていくような、そんな――
一瞬意識を失った私は、気がつけば篠崎さんの腕に支えられていた。
「あ………」
あれ、夢見てたの?
そう思った瞬間、篠崎さんが己の唇を舐めとって目を眇める。なんとなく、尻尾や耳がキラキラに輝いている。
「ご馳走さん」
頭が真っ白になる。そして頬が熱くなるのを感じる。足の力が抜けてころんでしまいそうになる私を篠崎さんはさらに捉え、再び顔を近づけてくる。
がぶ、と首筋を甘く噛まれる。
「ヒィッ!?」
首を噛まれただけなのに、全身が痺れる。なんだか、魂が支配された感じがする。私はうわずった声を戻せないまま、息絶え絶えに尋ねる。
「あ、ああ、あの……これは……」
「応急処置するって言っただろ。霊力をある程度吸い上げ、俺の匂いをつけてやったから、しばらくの間は他の奴らには手を出せねえ」
「匂い、って」
「夜みたいに主従契約を結んで、楓の霊力を吸い上げる方法もある。だが俺はあいにく既に飼われてる身なんでな」
しゅる。
篠崎さんがおもむろにネクタイを緩め、襟のボタンを緩める。
「ま、待ってください。刺激が続く、刺激が強い、」
「何考えてんだ」
顔を覆った指の合間から狼狽えた声を出す私に呆れながら、篠崎さんは左胸を私に晒す。そこには淡く紋様が浮かび上がっていた。
「これはかつて、俺が俺の主人と結んだ契約だ。夜と楓みたいな関係だと思ってくれりゃあ、大体合ってる」
「夜さんにも、こういうの刻まれてるんですか?」
「多分な。尻でも見たらついてんじゃねえの?」
「見ませんよ!」
とにかく、と前置きして篠崎さんは続ける。
「簡単に言やぁ……今、楓の霊力を吸い上げることで、1000のだだもれ霊力を10まで落とした。それに加えて俺が印付した。次に霊力が溢れ出すまではしばらく、俺以外の奴は手を出さないだろうさ。手を出しても、俺がわかる」
「なるほど……ですね……?」
ぼぉっと惚けた頭では、理解できたような理解できなかったようなよくわからない。
ええとつまり、夜さんと私は、主従関係。
そして篠崎さんと私は、いわば百舌鳥の早贄状態にされている。
これは俺の餌だとマーキングされている、と。
「じゃあそろそろ帰るか。飯くらいご馳走してやるよ」
妖しい気配を消した篠崎さんはさっさとネクタイを締め直し、オフィスのサッシを閉めてテキパキと帰り支度をする。伸びていた髪も元の長さに戻り、ふわふわの尻尾も元通りだ。
いや。何も元通りなんかじゃない。
私は立ち上がった。
今私は、大きな問題に直面している。
「篠崎さん。説明してください」
「いいぜ、どうした」
「私は今冷静さを欠いています」
「なんだ」
私は叫んだ。
「私、ファーストキスだったんですよ!?」
「はー?」
篠崎さんは一瞬目をぱちくりと瞠ると――なんだそんなことかと言わんばかりに、尻尾をぱた、と揺らして呆れた声を出した。
「これまで男作ってなかったのかよ」
「出来なかったんですよ!!!! ものの見事に!!!!」
「……じゃあ、楓の初めてを奪っちまった代わり」
篠崎さんが近づいてきて、再び私の顎を捉える。
顔を上を向けられ、先程のキスを思い出し、私はびくりと固まった。
「俺もよこしてやるよ。何がいい」
私は3秒考えた。
「…………現金」
「それ以外で。それだと、俺が金でキスを買ったことになっちまうだろ」
「それはなんか嫌ですね」
「だろ?」
「じゃあ、もふもふ」
「は?」
「唇を奪ったんですから、私も篠崎さんに体で払ってもらいます。私が好きなだけ、好きなときに、お耳と尻尾触らせてください。どうでしょうか!?」
「なんだそりゃ……構わないぜ」
「やったー!」
「優しく撫でろよ。繊細なんだから」




