第1話 塔の日常と侵入者Ⅰ
高さにしておおよそ8階建ての赤い塔、通称――血の塔――。
それはウィンザー王国城の敷地内の西の外れにある荒廃した赤い塔のこと。塔を構成するのは風化して程よく年季の入ったボロボロの石たち。しかし、その石自体は赤いものではなくごく一般的なねずみ色のような、汚れで黒くなっているような、そんな石だ。
血の塔の由来は、石の表面を覆う赤色の苔。とても珍しい品種の苔ではあるが、近くでみればただの苔だということは明白。しかし、この塔にいる“ある存在”があまりにも恐ろしく、塔に近づく者がいない。だから“血”の正体がただの赤色の苔だと気づく者が現れないのだ。
塔の最上階から、そんな状況を馬鹿だなあ、と独り言ちるセシリア―ト。このウィンザー王国の第一王子だ。
ひと二人が座れるほどの幅と、大の大人二人分の高さの、窓のない窓枠に腰かけながら外に向かって足をぶらぶらと遊ばせていた。ひと風吹けば、そのまま8階分の高さから真っ逆さまに落ちてしまう、などという恐怖心は、生憎セシリア―トは持ち合わせていなかった。
「一昨日から食事が運ばれてこない。……ちっ、運び係の奴、サボったな」
死の呪いを受けると噂されるセシリア―トは、生まれてすぐにこの塔に幽閉された。『死を招く禍』という予言のせいで、嫡男にも関わらず外界との接触を一切禁じられ、死人のように塔で一人孤独に暮らしている。
予言は国の沽券にもかかわる重大かつ大変迷惑な内容。そのため国の政に関わる有力貴族にしか開示されていないが、人の口に戸は立てられないもの。詳しく知らないからこそ、侍女や侍従、兵士たちの間では『少しでも関われば死が降りかかる』という恐怖心だけが独り歩きしていた。
故に、生活に必要最低限の食事や衣類などを運ぶはずの侍従は2、3日おきに自分の仕事をよくサボる。塔の入口付近に籠ごと置いておけばそれで済む話なのに、顔面蒼白になりながら来てはそのまま脱皮の如く逃げ帰るのだから、相当嫌なんだろうなという察しはついていた。
それに、毎回人が変わるので何か賭け事で負けた奴が受ける罰みたいな位置づけではないだろうかともセシリア―トは思っていた。
なんにせよ、十五歳という成長期のセシリア―トにとって1日でも食事を抜くのは辛いものがある。それが3日もないとなればさすがに我慢できない。ただでさえ、普段から栄養が不足しているため、同年代の貴族の男児たちと比べて圧倒的に細く小柄で青白い貧相な子供だろう。もちろん、実際に会ったことはないが、セシリア―トの趣味はもっぱら読書。数えきれないほどの本から様々な知識をつけているため、その辺の大人でも知識量に関しては負けない。
「さてと。そっちから持ってこないなら、こちらから出向きますか」
意気揚々とそう言ったセシリア―トは、以前くすねてきた侍従が着る服に着替え始めた。少し大きいがそればかりは仕方ない。同じ背丈くらいの侍従のものだが、どうも全体的にボリュームが足りないのだ。
侍従よりも肉付きが悪いことにため息をつきながら、生物学上は自分の父親である国王譲りの美しい紫水色の髪に、染色用の植物から作った茶色の液をごしごしともみ込んでいく。
「……よし、これでいいかな」
手鏡に映る肩くらいの長さの髪は、なんとも言えないくすんだ青茶色になっていた。青茶色と呼んではいるけれど、セシリア―ト自身、この色に名称なんてないだろうなと思っている。自分で適当に呼んでいる色の名前だ。それ以外に形容しがたい色をしているのだから仕方がない。
完璧に変装をしたセシリア―トは、結構な運動量になる塔の最上階から地上へと何のためらいもなく駆け降りた。
ギギギと嫌な音を鳴らして、錆びついた開閉がしにくくなっている扉を押し開ける。
すぐ目に飛び込んでくる景色は荒廃した神殿跡。ボロボロに崩れた石づくりの太い柱や屋根のなくなった中がむき出しの石の廃屋。といっても、風化でほとんどが土台しか残っていない。
そして塔を中心としたこの空間を囲うように緑生い茂る林。城の敷地内とは思えないほどの深さの林だ。一歩間違えれば森と呼んでもおかしくないくらいに。
同時に、城の敷地がどれだけ広いのかということも察することができる。もちろん、セシリア―トにとっては察するも何も、毎日塔の上から見渡してわかっていることではあるが。
「お腹を空かせた子猫がお邪魔しますよーっと」
そんなことを呟きながら勝手知ったる風に一番近い建物にある厨房に忍び込んだ。ここはある一定の貴族の子息や子女たちが勉学に励む貴学舎に連なる一角。厨房などという使用人たちが使う場所は建物の中でも端の端にあるため、貴族の子供たちと顔を合わせることなんて皆無。使用人たちの目さえ掻い潜れれば容易に忍び込めるのだ。
セシリア―トは厨房内にあるパンやら野菜やらを袋に詰めていく。ついでに少なくなってきた調味料や、貴族の子供たち用の茶菓子だと思われる菓子たちにもちょいちょいと手を付けていく。
泥棒顔負けの速さで、一国の王子らしからぬ行為をしていくが、塔で一人幽閉暮らしのセシリア―トに常識と遠慮なんてものが備わっているわけがない。
七歳の時に毒を盛られセシリア―トの代わりに死んだ乳母のエマから世の中の様々なことを教えられてはいたが、人の中で自身で感じ取って成長していくのと、聞いて知識として蓄えているだけでは話が違う。常識を身に着けさせるという点においては、乳母の努力は虚しく散っていた。代わりに誰にも負けない逞しさは備わった。
そろそろいいかな、と出口に向かおうとしたその時。扉の向こうから話声が聞こえてきた。段々と厨房に向かってくる。
「うわ」
顔をしかめたセシリア―トは仕方なく、たくさんある棚の1つに身を隠した。それと同時に厨房内に二人の侍従と思わしき使用人が入ってきた。
「なあ、本当に大丈夫なのか? 仮にも相手はエバンスの王子なんだろ。かびたパンなんか出して……」
「大丈夫だって。留学中の他国の王子だとしても、実際は休戦のための人質らしい。それに、アンガス様の命令に俺たちが逆らえるわけないだろ。この国の宰相の一人息子だぞ」
「はあ、確かに。そもそも俺たちに拒否権なんてないか」
「ああ。ほら、『血の塔』に行くより何倍もマシじゃないか」
「そりゃそうだ。あそこに行くぐらいなら、かびたパンの1つや2つ、どうってことないな」
二人はため息をつきながら、手早くかびたパンを持ってそそくさと厨房を出て行った。しばらくしてセシリア―トはそっと棚から出る。
「塔の上でも地上でも、王子っていうのは苦労する生き物なのかな」
エバンスの王子とやらに同情心までは抱かないが、お互い苦労するなぁ、とほんの僅かな仲間意識みたいな思いを感じながらセシリア―トもさっさと厨房から撤収した。長居は禁物だ。
塔に戻ったセシリア―トは食事の用意の前に、気持ちの悪い髪の毛をどうにかしようと、まずはざばっとお風呂に入った。林の中で道草をくっていたおかげですでに陽は傾いており、昼食が夕食になってしまった。体を清めるために林の中で採ってきたいくつかのハーブを束にして湯に浮かせてある。爽やかで柔らかい香りを胸いっぱいに、手早く入浴を済ませた。
意外と潔癖なため、いつもなら風呂の時間は楽しむセシリア―トだが、今日はそんなに悠長なことを言っていられない。お腹が空腹で悲鳴をあげているから。
初夏の夕方は程よく生温い風が抜けていく。陽が完全に沈んだとしてもそこまで寒さに凍えることもない。だからセシリア―トは髪の毛を乾かすのもそこそこに、料理へと取り掛かかった。
パンの上にチーズをのせて、適当に火で炙る。野菜は適当な大きさに切って塩と胡椒をふって炒める。今日は香辛料として乾燥させていたスパイシーな香りのハーブも少し加えてみた。
以上。これで、料理は終わりだ。
出来上がったのは、チーズがとろりと溶けた焼いたパンに、香草の野菜炒め。
机に置かれた料理を眺めながらセシリア―トは考えていた。以前、乳母であったエマに『お願いですから料理はしないでください』と言われたことがある。その理由は今のところわかっていない。よくできているのに解せないな、と思いつつぱくぱくと野菜を口へ運んだ。
そしていつも通り寝る前の読書をしながら、固いながらも何枚もの布を敷き詰めた寝台で寛ぐ。牢獄のような暮らしを想像している者たちがほとんどだろうが、セシリア―トの生活はそこまでひどいものではない。
自給自足(食べ物は畑で作物を、ではなく厨房からちょろまかしているだけ)が成立しているし、幼い頃から一人でも生活できるようにとエマに鍛えられており、エマがいなくなったあとも生活が乱れることはなかった。それに、セシリア―トが早熟だったことも幸いしていたりする。
「眠い……けど、これは……読み、た……ぃ」
うつらうつらする意識の中、手に持った本の感触さえよくわからなくなった。ぱたりと閉じられた本もセシリア―トの寝息だけが響く塔の一室にただ、あるだけ。
この日はいつもよりもだいぶ早く寝る体勢になって読書に集中し、そのまま寝入ってしまったためセシリア―トは気づかなかった。
塔の外から、塔の主人に向かって叫んでいる誰かの声に。