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深夜2時のコンビニで毎晩チキン南蛮弁当を買っていく無口なスーツの男性に3年間片想いしていたら、実は向こうも「温めますか」の声を聴きに来ていたらしい

作者: uta
掲載日:2026/05/26

「温めますか」

「……お願いします」


それだけだ。


3年間、私と彼の間にあった言葉は、たったそれだけ。


名前も知らない。どこに住んでいるかも知らない。なんの仕事をしているかも、正確には知らない。知っているのは、毎晩2時きっかりにこのコンビニに現れること。必ずチキン南蛮弁当を買うこと。疲れきった目元と、少しだけ緩んだネクタイ。そして弁当を受け取るときの、ぶっきらぼうだけど確かに聞こえる「ありがとう」の声。


それだけを頼りに、私は3年もこの人を好きでいる。


——重い。自分でも引くくらい、重い。


でも、やめられないのだ。



深夜のコンビニは、世界から切り離されたみたいに静かだ。


蛍光灯の白い光。冷蔵ケースの低い唸り。たまに聞こえる自動ドアの開閉音。私——藤野結衣、21歳、大学3年生——は、週5でこの深夜シフトに入っている。


時給は深夜手当込みで1,350円。悪くない。でも、私がこのシフトにしがみついている理由は、お金だけじゃない。


時計を見る。1時58分。


あと2分。


無意識に、前髪を整えていた。制服のエプロンの紐を結び直した。肌荒れを気にして、ファンデーションを厚塗りしてきた自分が恥ずかしい。深夜のコンビニに、誰が見るというのか。


——見る人がいるのだ。一人だけ。


2時ちょうど。


自動ドアが開いた。


心臓が跳ねる。3年経っても、この瞬間だけは慣れない。


「いらっしゃいませ」


声が上ずらないように。平静を装う。これは3年かけて身につけたスキルだ。


彼が入ってくる。スーツ姿。背が高い。181センチくらいだろうか。痩せ型で、肩幅は広いのに頬がこけている。切れ長の目の下には薄い隈。ネクタイは、もう完全に緩んでいる。


今日も遅くまで働いたんだ。そう思うだけで、胸が痛くなる。


彼は真っ直ぐ弁当の棚に向かう。迷いなくチキン南蛮弁当を手に取る。600円、税込み。3年間、一度も例外なく、同じ弁当。


カウンターに弁当が置かれる。


「温めますか」


「……お願いします」


低い声。ぶっきらぼうで、素っ気なくて、でも嫌いじゃない。むしろ好きだ。この声を聴くために、私は週5で深夜シフトに入っている。


レンジに弁当を入れる。回る音。沈黙。この数十秒が、私にとっては世界で一番長くて、一番短い時間だ。


チン、と音が鳴る。


「お待たせしました」


弁当を渡す。指が触れないように——でも、ほんの少しだけ触れてほしいような——そんな矛盾した気持ちで。


彼の手が弁当を受け取る。


「……ありがとう」


言った。今日も言ってくれた。


少しだけ間が空く。その間が好きだ。何か込めようとして、でも上手くいかなくて、結局ぶっきらぼうになる。そんな不器用な「ありがとう」。


自動ドアが開く。彼の背中が夜に消えていく。


私はカウンターに肘をついて、深く息を吐いた。


「……また明日」


届かない声で呟く。届くはずがない。名前も知らないのに。


でも——明日も彼は来る。明後日も、その次も。


だから私は、この恋をやめられない。



「ちょっと待って。え、マジで言ってる?」


翌日、シフトが被った三島彩音が、信じられないという顔で私を見ていた。茶髪がブンブン揺れる。派手なネイルが視界の端でキラキラしている。


「マジ」


「3年間『温めますか』『お願いします』だけ!?」


「……うん」


「名前も知らないの!?」


「知らない」


「連絡先は!?」


「あるわけないでしょ……」


「やっば!!」


三島が両手で顔を覆った。「重っ! でも最高じゃん!」と笑い始める。


「最高じゃないよ……自分でも引いてるもん」


「いやいや、それ純愛でしょ。映画じゃん」


「映画にしては地味すぎない……?」


「深夜のコンビニで3年越しの恋とか、むしろエモの極みだわ」


三島は私の恋バナを娯楽として消費しているが、それでも聞いてくれるだけありがたい。「3年片想いしてる」と告白したとき、「キモ」と言わなかったのは、この子だけだった。


「で、進展は?」


「あるわけないでしょ」


「なんで話しかけないの?」


「だって……店員が客に話しかけるとか、迷惑じゃない?」


「3年も毎晩来てる客に『お元気ですか』くらい言っても迷惑じゃないでしょ」


「……無理」


「結衣、いっつもそう。自分から動かないじゃん」


「だって……私なんかが話しかけても——」


「出た。『私なんか』禁止ね」


三島がびしっと指を突きつける。「その自己評価の低さ、3年も片想い続けてる根性と釣り合ってないから」


返す言葉がない。


時計を見る。1時50分。あと10分。


「あ、来る時間でしょ」三島がにやりと笑う。「じゃ、私はバックヤードに引っ込んでるから。頑張れ」


「何を頑張るの……」


「知らん! 自分で考えな!」


三島が消えて、私は一人になった。


1時58分。


心臓がうるさい。いつものことだ。いつものことなのに、慣れない。


2時ちょうど。


自動ドアが開いた。



その夜、チキン南蛮弁当は——売り切れていた。


「嘘でしょ……」


棚を見た瞬間、血の気が引いた。あるはずの場所に、弁当がない。のり弁、から揚げ弁当、幕の内——どれも違う。彼はチキン南蛮弁当しか買わないのだ。3年間、一度も例外なく。


彼が棚の前に立つ。いつもなら迷いなく手を伸ばすはずの動作が、止まっている。


困っている。どうしようか迷っている。


私は咄嵯に動いていた。


「あの……!」


声が出た。自分でも驚くくらい大きな声が。


彼が振り返る。初めて、真正面から目が合った。


「裏に、まだ一つあります」


嘘だった。


裏にはない。私が自分用に取り置いていた弁当が、ロッカーにある。それを渡そうとしている。なぜそんなことを——考える前に、口が動いていた。


「……本当か」


彼が言った。低い声。でも、いつもより少しだけ柔らかい。


「はい! ちょっと待っててください!」


バックヤードに走る。ロッカーを開ける。弁当を掴む。走って戻る。


「お待たせしました……!」


息が切れている。汗が額を伝う。深夜のコンビニで、何をやっているんだ私は。


彼がカウンターに近づく。弁当を受け取りながら、私を見た。


「……ありがとう」


いつもより、間が長い。いつもより、声が優しい。


「助かった。この弁当がないと、今日が終わらないんだ」


笑った。


彼が——笑った。


目元の険しさが消えて、驚くほど優しい顔になる。3年間で、数えるほどしか見たことがない、その表情。


「……君、いつもいるよね」


心臓が止まった。


「深夜シフト。俺が来る時間、いつも君だ」


知っていた。私のことを、彼も——見ていた?


「えっ、あ、その……はい。週5で入ってて……」


何を言っているんだ。週5で深夜シフトに入っている事実を、なぜ自己申告しているんだ。


「そっか」


彼はそれだけ言って、また少しだけ笑った。


「いつも、ありがとう」


自動ドアが開く。


「また明日」


彼が——言った。いつもは言わない言葉を。


背中が夜に消える。


私はレジの後ろでしゃがみこんだ。


「……また明日、って言った……」


顔が熱い。手が震えている。心臓がうるさすぎて、自分の声が聞こえない。


3年間の片想いで、初めて——会話らしい会話をした。



「俺、真壁っていうんだ」


次の夜、彼は名前を教えてくれた。


「真壁蒼司。広告代理店で働いてる。32歳」


名前。職業。年齢。3年間知らなかった情報が、一気に流れ込んでくる。


「ふ、藤野です。藤野結衣。大学3年生で……21歳です」


「藤野さん」


私の名前を、彼が——真壁さんが呼んだ。


「改めて、よろしく」


それから、真壁さんは少しずつ言葉をくれるようになった。


「今日は会議が長引いて」


「クライアントが無茶言ってきてさ」


「この弁当だけが、一日で唯一のちゃんとした食事なんだ」


毎晩、チキン南蛮弁当を温めている間の、ほんの数十秒。たったそれだけの時間に、彼は一言二言、その日のことを話してくれた。


私はそのすべてを、宝物みたいに集めた。


「真壁さん、ちゃんと食べてますか」


思わず聞いてしまった夜があった。


彼は困ったように笑った。「この弁当だけが頼りだ」と。その横顔が切なくて、私はもっと関わりたいと思った。



ある夜、真壁さんが来なかった。


2時を過ぎても、自動ドアは開かない。


「今日は早く帰れたのかも」と思った。たまにはそういう日もあるだろう。


2日目。来なかった。


3日目。来なかった。


4日目——私は初めて、自分が彼について何も知らないことに気づいた。


住所を知らない。連絡先を知らない。どこの広告代理店かも知らない。「広告代理店勤務の32歳」——それだけの情報で、東京中を探せるわけがない。


「探しに行きなよ」


三島が言った。


「探すって……どこを? 住所も知らないのに」


三島が黙った。


「……待つしかないよ。今は」


一週間が過ぎた。


真壁さんのいない一週間は、永遠みたいに長かった。チキン南蛮弁当は毎日余った。店長が発注を増やしてくれた分が、そのまま廃棄になる。


8日目の夜。2時ちょうど。


自動ドアが、開いた。


「……チキン南蛮、ある?」


声が掠れていた。


振り返った瞬間、息を呑んだ。真壁さんが立っていた。でも、一週間前とは明らかに違う。頬がさらにこけている。目の下の隈が濃い。スーツではなく、シンプルなパーカーとジーンズ。


「真壁さん……!」


「あ、あります! あります!」


棚に走る。一つだけ残っていた。店長が毎日発注してくれていたおかげだ。


「温めますか」


「……お願いします」


レンジに弁当を入れる。手が震えている。聞きたいことが山ほどあった。どこにいたんですか。何があったんですか。大丈夫ですか——。


「入院してた」


彼の方から言った。


「過労でぶっ倒れた。救急車で運ばれて、そのまま一週間」


「そんな……!」


「点滴ばっかりでさ。味なんてしなくて」


真壁さんが、かすかに笑った。笑おうとして、失敗したみたいな顔だった。


「ずっと、この弁当のことばかり考えてた」


チン、とレンジが鳴った。


弁当を取り出す。袋に入れようとした私の手を——彼の指が、掴んだ。


「……っ」


冷たい指。点滴の痕が残る手首が、袖口から見えた。


「藤野さん」


「は、はい」


「君のことも」


「……え?」


「弁当のことと、君のことばかり考えてた」


息が止まった。


「毎晩2時に『温めますか』って聞いてくれる君のこと。一週間、聞けなくて……しんどかった」


彼の目が、真っ直ぐ私を見ていた。疲れきった目。でも、その奥に何かが燃えている。


「俺、君のこと——」


「あの」


私は、彼の言葉を遮った。


なぜかわからない。怖かったのだ。聞いてしまったら、もう戻れない気がして。


「……すみません。あの、その……」


「ごめん。疲れてて、変なこと言った」


真壁さんがゆっくりと手を離した。


「弁当、ありがとう。また……来てもいいか」


「当たり前です」


声が震えた。


「毎日来てください。私、ずっといますから」


自動ドアが開く。彼の背中が消えていく。


私はカウンターに突っ伏した。


「……馬鹿。私の馬鹿……」


なぜ遮った。なぜ聞かなかった。「君のこと」の続きを——なぜ。



「それで、聞かなかったの?」


三島が天を仰いだ。「神様、この子に勇気をください」


「だって……怖くて……」


「何が怖いの!?」


「もし違ったらって……」


「『君のことも考えてた』って言った男が、その後に何を言うと思う!?」


「……わからない」


「『君のことが嫌いだ』って言うと思う!?」


「……思わない」


「じゃあなんで聞かないの!!」


返す言葉がない。


「……私なんかが、って思っちゃうの」


「は?」


「私なんかが好かれるわけないって。32歳のちゃんとした社会人に、21歳のバイト学生が。釣り合うわけないって」


三島が黙った。しばらくして、ため息をついた。


「……結衣。それ、相手が決めることだよ」


「……え?」


「釣り合うとか釣り合わないとか、結衣が決めることじゃない。相手が『好き』って言ったら、それが答えでしょ」


目が熱くなった。


「次来たら、ちゃんと聞きなよ。じゃないと一生後悔するよ」



その夜。2時ちょうど。


真壁さんが来た。いつもより少しだけ、足取りが軽い気がした。


チキン南蛮弁当をカウンターに置いて、彼は動かなかった。


「温めますか」


「……お願いします」


レンジに弁当を入れる。


「藤野さん」


「はい」


「聞いてほしい話がある」


心臓が跳ねた。


「俺がこのコンビニに通い始めたの、3年前なんだ」


「……はい」


「最初は、ただの習慣だった。仕事が終わるのがいつも遅くて。家に帰っても何もない。コンビニで弁当を買って、食べて、寝る。それだけの生活だった」


「……はい」


「チキン南蛮弁当を選んだのは、昔……母親がよく作ってくれたから。なんとなく、懐かしくて」


真壁さんの目が、どこか遠くを見ている。


「でも、途中から……弁当は、言い訳になった」


「言い訳……?」


「本当は——」


真壁さんが、私を見た。真っ直ぐに。


「『温めますか』って聞いてくれる君の声を、聴きに来てた」


息が止まった。


「藤野さんの声、聴くと落ち着くんだ。どんなに疲れてても、その一言で……今日も終わったな、って思える」


「真壁さん……」


「3年も毎晩、同じ弁当買いに来てたの、理由があるんだ」


彼が、照れたように目を逸らした。


「俺の一日は……2時にここに来る瞬間から、始まってたんだ」


涙が溢れた。


止められなかった。止めようとしたけど、無理だった。


「ふじ……藤野さん?」


「……っ、すみません、あの、違うんです、悲しいんじゃなくて……」


言葉にならない。3年分の想いが、涙になって溢れ出す。


「私も……」


「え?」


「私も、3年前から……真壁さんのこと、見てました」


声が震える。でも、言わなきゃいけない。今、ここで。


「名前も知らなかった。連絡先も知らなかった。でも、毎晩2時が来るのが楽しみで……真壁さんが来ると、心臓がうるさくなって……」


「藤野さん」


「私のこと、気持ち悪いって思うかもしれないけど……3年間、片想いしてたんです。ずっと。ずっと」


チン、とレンジが鳴った。


でも、二人とも動かなかった。


「……俺も」


真壁さんが、静かに言った。


「俺も、君のことが——好きだ」


世界が止まった。


深夜2時。蛍光灯の白い光。無機質なコンビニの店内。


その中で、私たちは初めて——ちゃんと向き合った。


「……名前、改めて交換しない?」


真壁さんが、照れくさそうに笑った。


「俺、真壁蒼司。32歳。広告代理店勤務の、仕事しか能がない男です」


「……藤野結衣。21歳。大学生で、深夜のコンビニでバイトしてる……重い女です」


「重くない」


「いえ、重いです。3年も片想いしてたので」


「俺も3年、通ってた。お互い様だ」


笑った。涙を流しながら、笑った。真壁さんも、笑っていた。


「じゃあ……」


私は深呼吸をした。


「明日から、手作り弁当持ってきてもいいですか」


「……え?」


「毎日コンビニ弁当じゃ、身体に悪いです。私が……作ります」


真壁さんが目を丸くした。


「……チキン南蛮、作れる?」


「……練習します」


「じゃあ」


真壁さんが、私の手を——レジ越しに、そっと握った。


「毎日、食べに来る」


温かかった。点滴の痕が残る手。でも、確かに生きている体温。


「……はい」


涙が止まらない。でも、もう悲しくない。


深夜2時。600円のコンビニ弁当が繋いだ、3年越しの恋が——今、始まる。



それから、一ヶ月が経った。


深夜2時。自動ドアが開く。


「いらっしゃいませ」


「……ただいま」


真壁さん——いや、蒼司さんが入ってくる。スーツ姿は相変わらずだけど、前よりも顔色がいい。頬のこけ方も、少しマシになった。


「はい、今日のお弁当」


カウンター越しに、包みを渡す。手作りのチキン南蛮弁当。最初は失敗ばかりだったけど、最近はなんとか形になるようになった。


「……いつもありがとう」


蒼司さんが包みを受け取る。その時、必ず——私の指に触れる。


わざとかどうかは、聞いたことがない。聞くのが、なんだか恥ずかしくて。


「温めますか?」


冗談で聞いてみる。


「……お願いします」


蒼司さんが、ふっと笑った。


「レンジはないけど」


「じゃあ、君の手で温めて」


「……何それ」


「さあ」


照れているのだ、この人は。不器用だから、変な冗談でしか愛情を表現できない。


——でも、それがいい。


「ねえ、蒼司さん」


「ん?」


「私の作るチキン南蛮、コンビニのより美味しい?」


「……愚問」


「どっち!?」


「世界一美味い」


「……それ、お世辞じゃないですか?」


「俺は嘘つかない」


「嘘つきは皆そう言います」


「じゃあ、毎日食べに来ることで証明する」


自動ドアが開いて、蒼司さんが出ていく。


「……また明日」


「また明日」


背中が夜に消えていく。でも、もう怖くない。明日も来る。明後日も。その次も。


「あーあ。ごちそうさまでした」


いつの間にか後ろに立っていた店長が、にやにや笑っている。


「……見てたんですか」


「見てた見てた。いやー、青春だねえ」


「店長……」


「よかったな、藤野」


「……はい」


「チキン南蛮弁当、発注減らしていいか?」


「……お願いします」


笑った。店長も笑った。


深夜のコンビニ。蛍光灯の白い光。3年前と変わらない景色。でも、私の世界は——確かに変わった。


600円のコンビニ弁当が繋いだ縁は、今、手作り弁当に変わって続いている。


これは、世界一ありふれた——でも、私にとっては世界一特別な、恋の話。


——おわり

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