深夜2時のコンビニで毎晩チキン南蛮弁当を買っていく無口なスーツの男性に3年間片想いしていたら、実は向こうも「温めますか」の声を聴きに来ていたらしい
「温めますか」
「……お願いします」
それだけだ。
3年間、私と彼の間にあった言葉は、たったそれだけ。
名前も知らない。どこに住んでいるかも知らない。なんの仕事をしているかも、正確には知らない。知っているのは、毎晩2時きっかりにこのコンビニに現れること。必ずチキン南蛮弁当を買うこと。疲れきった目元と、少しだけ緩んだネクタイ。そして弁当を受け取るときの、ぶっきらぼうだけど確かに聞こえる「ありがとう」の声。
それだけを頼りに、私は3年もこの人を好きでいる。
——重い。自分でも引くくらい、重い。
でも、やめられないのだ。
◇
深夜のコンビニは、世界から切り離されたみたいに静かだ。
蛍光灯の白い光。冷蔵ケースの低い唸り。たまに聞こえる自動ドアの開閉音。私——藤野結衣、21歳、大学3年生——は、週5でこの深夜シフトに入っている。
時給は深夜手当込みで1,350円。悪くない。でも、私がこのシフトにしがみついている理由は、お金だけじゃない。
時計を見る。1時58分。
あと2分。
無意識に、前髪を整えていた。制服のエプロンの紐を結び直した。肌荒れを気にして、ファンデーションを厚塗りしてきた自分が恥ずかしい。深夜のコンビニに、誰が見るというのか。
——見る人がいるのだ。一人だけ。
2時ちょうど。
自動ドアが開いた。
心臓が跳ねる。3年経っても、この瞬間だけは慣れない。
「いらっしゃいませ」
声が上ずらないように。平静を装う。これは3年かけて身につけたスキルだ。
彼が入ってくる。スーツ姿。背が高い。181センチくらいだろうか。痩せ型で、肩幅は広いのに頬がこけている。切れ長の目の下には薄い隈。ネクタイは、もう完全に緩んでいる。
今日も遅くまで働いたんだ。そう思うだけで、胸が痛くなる。
彼は真っ直ぐ弁当の棚に向かう。迷いなくチキン南蛮弁当を手に取る。600円、税込み。3年間、一度も例外なく、同じ弁当。
カウンターに弁当が置かれる。
「温めますか」
「……お願いします」
低い声。ぶっきらぼうで、素っ気なくて、でも嫌いじゃない。むしろ好きだ。この声を聴くために、私は週5で深夜シフトに入っている。
レンジに弁当を入れる。回る音。沈黙。この数十秒が、私にとっては世界で一番長くて、一番短い時間だ。
チン、と音が鳴る。
「お待たせしました」
弁当を渡す。指が触れないように——でも、ほんの少しだけ触れてほしいような——そんな矛盾した気持ちで。
彼の手が弁当を受け取る。
「……ありがとう」
言った。今日も言ってくれた。
少しだけ間が空く。その間が好きだ。何か込めようとして、でも上手くいかなくて、結局ぶっきらぼうになる。そんな不器用な「ありがとう」。
自動ドアが開く。彼の背中が夜に消えていく。
私はカウンターに肘をついて、深く息を吐いた。
「……また明日」
届かない声で呟く。届くはずがない。名前も知らないのに。
でも——明日も彼は来る。明後日も、その次も。
だから私は、この恋をやめられない。
◇
「ちょっと待って。え、マジで言ってる?」
翌日、シフトが被った三島彩音が、信じられないという顔で私を見ていた。茶髪がブンブン揺れる。派手なネイルが視界の端でキラキラしている。
「マジ」
「3年間『温めますか』『お願いします』だけ!?」
「……うん」
「名前も知らないの!?」
「知らない」
「連絡先は!?」
「あるわけないでしょ……」
「やっば!!」
三島が両手で顔を覆った。「重っ! でも最高じゃん!」と笑い始める。
「最高じゃないよ……自分でも引いてるもん」
「いやいや、それ純愛でしょ。映画じゃん」
「映画にしては地味すぎない……?」
「深夜のコンビニで3年越しの恋とか、むしろエモの極みだわ」
三島は私の恋バナを娯楽として消費しているが、それでも聞いてくれるだけありがたい。「3年片想いしてる」と告白したとき、「キモ」と言わなかったのは、この子だけだった。
「で、進展は?」
「あるわけないでしょ」
「なんで話しかけないの?」
「だって……店員が客に話しかけるとか、迷惑じゃない?」
「3年も毎晩来てる客に『お元気ですか』くらい言っても迷惑じゃないでしょ」
「……無理」
「結衣、いっつもそう。自分から動かないじゃん」
「だって……私なんかが話しかけても——」
「出た。『私なんか』禁止ね」
三島がびしっと指を突きつける。「その自己評価の低さ、3年も片想い続けてる根性と釣り合ってないから」
返す言葉がない。
時計を見る。1時50分。あと10分。
「あ、来る時間でしょ」三島がにやりと笑う。「じゃ、私はバックヤードに引っ込んでるから。頑張れ」
「何を頑張るの……」
「知らん! 自分で考えな!」
三島が消えて、私は一人になった。
1時58分。
心臓がうるさい。いつものことだ。いつものことなのに、慣れない。
2時ちょうど。
自動ドアが開いた。
◇
その夜、チキン南蛮弁当は——売り切れていた。
「嘘でしょ……」
棚を見た瞬間、血の気が引いた。あるはずの場所に、弁当がない。のり弁、から揚げ弁当、幕の内——どれも違う。彼はチキン南蛮弁当しか買わないのだ。3年間、一度も例外なく。
彼が棚の前に立つ。いつもなら迷いなく手を伸ばすはずの動作が、止まっている。
困っている。どうしようか迷っている。
私は咄嵯に動いていた。
「あの……!」
声が出た。自分でも驚くくらい大きな声が。
彼が振り返る。初めて、真正面から目が合った。
「裏に、まだ一つあります」
嘘だった。
裏にはない。私が自分用に取り置いていた弁当が、ロッカーにある。それを渡そうとしている。なぜそんなことを——考える前に、口が動いていた。
「……本当か」
彼が言った。低い声。でも、いつもより少しだけ柔らかい。
「はい! ちょっと待っててください!」
バックヤードに走る。ロッカーを開ける。弁当を掴む。走って戻る。
「お待たせしました……!」
息が切れている。汗が額を伝う。深夜のコンビニで、何をやっているんだ私は。
彼がカウンターに近づく。弁当を受け取りながら、私を見た。
「……ありがとう」
いつもより、間が長い。いつもより、声が優しい。
「助かった。この弁当がないと、今日が終わらないんだ」
笑った。
彼が——笑った。
目元の険しさが消えて、驚くほど優しい顔になる。3年間で、数えるほどしか見たことがない、その表情。
「……君、いつもいるよね」
心臓が止まった。
「深夜シフト。俺が来る時間、いつも君だ」
知っていた。私のことを、彼も——見ていた?
「えっ、あ、その……はい。週5で入ってて……」
何を言っているんだ。週5で深夜シフトに入っている事実を、なぜ自己申告しているんだ。
「そっか」
彼はそれだけ言って、また少しだけ笑った。
「いつも、ありがとう」
自動ドアが開く。
「また明日」
彼が——言った。いつもは言わない言葉を。
背中が夜に消える。
私はレジの後ろでしゃがみこんだ。
「……また明日、って言った……」
顔が熱い。手が震えている。心臓がうるさすぎて、自分の声が聞こえない。
3年間の片想いで、初めて——会話らしい会話をした。
◇
「俺、真壁っていうんだ」
次の夜、彼は名前を教えてくれた。
「真壁蒼司。広告代理店で働いてる。32歳」
名前。職業。年齢。3年間知らなかった情報が、一気に流れ込んでくる。
「ふ、藤野です。藤野結衣。大学3年生で……21歳です」
「藤野さん」
私の名前を、彼が——真壁さんが呼んだ。
「改めて、よろしく」
それから、真壁さんは少しずつ言葉をくれるようになった。
「今日は会議が長引いて」
「クライアントが無茶言ってきてさ」
「この弁当だけが、一日で唯一のちゃんとした食事なんだ」
毎晩、チキン南蛮弁当を温めている間の、ほんの数十秒。たったそれだけの時間に、彼は一言二言、その日のことを話してくれた。
私はそのすべてを、宝物みたいに集めた。
「真壁さん、ちゃんと食べてますか」
思わず聞いてしまった夜があった。
彼は困ったように笑った。「この弁当だけが頼りだ」と。その横顔が切なくて、私はもっと関わりたいと思った。
◇
ある夜、真壁さんが来なかった。
2時を過ぎても、自動ドアは開かない。
「今日は早く帰れたのかも」と思った。たまにはそういう日もあるだろう。
2日目。来なかった。
3日目。来なかった。
4日目——私は初めて、自分が彼について何も知らないことに気づいた。
住所を知らない。連絡先を知らない。どこの広告代理店かも知らない。「広告代理店勤務の32歳」——それだけの情報で、東京中を探せるわけがない。
「探しに行きなよ」
三島が言った。
「探すって……どこを? 住所も知らないのに」
三島が黙った。
「……待つしかないよ。今は」
一週間が過ぎた。
真壁さんのいない一週間は、永遠みたいに長かった。チキン南蛮弁当は毎日余った。店長が発注を増やしてくれた分が、そのまま廃棄になる。
8日目の夜。2時ちょうど。
自動ドアが、開いた。
「……チキン南蛮、ある?」
声が掠れていた。
振り返った瞬間、息を呑んだ。真壁さんが立っていた。でも、一週間前とは明らかに違う。頬がさらにこけている。目の下の隈が濃い。スーツではなく、シンプルなパーカーとジーンズ。
「真壁さん……!」
「あ、あります! あります!」
棚に走る。一つだけ残っていた。店長が毎日発注してくれていたおかげだ。
「温めますか」
「……お願いします」
レンジに弁当を入れる。手が震えている。聞きたいことが山ほどあった。どこにいたんですか。何があったんですか。大丈夫ですか——。
「入院してた」
彼の方から言った。
「過労でぶっ倒れた。救急車で運ばれて、そのまま一週間」
「そんな……!」
「点滴ばっかりでさ。味なんてしなくて」
真壁さんが、かすかに笑った。笑おうとして、失敗したみたいな顔だった。
「ずっと、この弁当のことばかり考えてた」
チン、とレンジが鳴った。
弁当を取り出す。袋に入れようとした私の手を——彼の指が、掴んだ。
「……っ」
冷たい指。点滴の痕が残る手首が、袖口から見えた。
「藤野さん」
「は、はい」
「君のことも」
「……え?」
「弁当のことと、君のことばかり考えてた」
息が止まった。
「毎晩2時に『温めますか』って聞いてくれる君のこと。一週間、聞けなくて……しんどかった」
彼の目が、真っ直ぐ私を見ていた。疲れきった目。でも、その奥に何かが燃えている。
「俺、君のこと——」
「あの」
私は、彼の言葉を遮った。
なぜかわからない。怖かったのだ。聞いてしまったら、もう戻れない気がして。
「……すみません。あの、その……」
「ごめん。疲れてて、変なこと言った」
真壁さんがゆっくりと手を離した。
「弁当、ありがとう。また……来てもいいか」
「当たり前です」
声が震えた。
「毎日来てください。私、ずっといますから」
自動ドアが開く。彼の背中が消えていく。
私はカウンターに突っ伏した。
「……馬鹿。私の馬鹿……」
なぜ遮った。なぜ聞かなかった。「君のこと」の続きを——なぜ。
◇
「それで、聞かなかったの?」
三島が天を仰いだ。「神様、この子に勇気をください」
「だって……怖くて……」
「何が怖いの!?」
「もし違ったらって……」
「『君のことも考えてた』って言った男が、その後に何を言うと思う!?」
「……わからない」
「『君のことが嫌いだ』って言うと思う!?」
「……思わない」
「じゃあなんで聞かないの!!」
返す言葉がない。
「……私なんかが、って思っちゃうの」
「は?」
「私なんかが好かれるわけないって。32歳のちゃんとした社会人に、21歳のバイト学生が。釣り合うわけないって」
三島が黙った。しばらくして、ため息をついた。
「……結衣。それ、相手が決めることだよ」
「……え?」
「釣り合うとか釣り合わないとか、結衣が決めることじゃない。相手が『好き』って言ったら、それが答えでしょ」
目が熱くなった。
「次来たら、ちゃんと聞きなよ。じゃないと一生後悔するよ」
◇
その夜。2時ちょうど。
真壁さんが来た。いつもより少しだけ、足取りが軽い気がした。
チキン南蛮弁当をカウンターに置いて、彼は動かなかった。
「温めますか」
「……お願いします」
レンジに弁当を入れる。
「藤野さん」
「はい」
「聞いてほしい話がある」
心臓が跳ねた。
「俺がこのコンビニに通い始めたの、3年前なんだ」
「……はい」
「最初は、ただの習慣だった。仕事が終わるのがいつも遅くて。家に帰っても何もない。コンビニで弁当を買って、食べて、寝る。それだけの生活だった」
「……はい」
「チキン南蛮弁当を選んだのは、昔……母親がよく作ってくれたから。なんとなく、懐かしくて」
真壁さんの目が、どこか遠くを見ている。
「でも、途中から……弁当は、言い訳になった」
「言い訳……?」
「本当は——」
真壁さんが、私を見た。真っ直ぐに。
「『温めますか』って聞いてくれる君の声を、聴きに来てた」
息が止まった。
「藤野さんの声、聴くと落ち着くんだ。どんなに疲れてても、その一言で……今日も終わったな、って思える」
「真壁さん……」
「3年も毎晩、同じ弁当買いに来てたの、理由があるんだ」
彼が、照れたように目を逸らした。
「俺の一日は……2時にここに来る瞬間から、始まってたんだ」
涙が溢れた。
止められなかった。止めようとしたけど、無理だった。
「ふじ……藤野さん?」
「……っ、すみません、あの、違うんです、悲しいんじゃなくて……」
言葉にならない。3年分の想いが、涙になって溢れ出す。
「私も……」
「え?」
「私も、3年前から……真壁さんのこと、見てました」
声が震える。でも、言わなきゃいけない。今、ここで。
「名前も知らなかった。連絡先も知らなかった。でも、毎晩2時が来るのが楽しみで……真壁さんが来ると、心臓がうるさくなって……」
「藤野さん」
「私のこと、気持ち悪いって思うかもしれないけど……3年間、片想いしてたんです。ずっと。ずっと」
チン、とレンジが鳴った。
でも、二人とも動かなかった。
「……俺も」
真壁さんが、静かに言った。
「俺も、君のことが——好きだ」
世界が止まった。
深夜2時。蛍光灯の白い光。無機質なコンビニの店内。
その中で、私たちは初めて——ちゃんと向き合った。
「……名前、改めて交換しない?」
真壁さんが、照れくさそうに笑った。
「俺、真壁蒼司。32歳。広告代理店勤務の、仕事しか能がない男です」
「……藤野結衣。21歳。大学生で、深夜のコンビニでバイトしてる……重い女です」
「重くない」
「いえ、重いです。3年も片想いしてたので」
「俺も3年、通ってた。お互い様だ」
笑った。涙を流しながら、笑った。真壁さんも、笑っていた。
「じゃあ……」
私は深呼吸をした。
「明日から、手作り弁当持ってきてもいいですか」
「……え?」
「毎日コンビニ弁当じゃ、身体に悪いです。私が……作ります」
真壁さんが目を丸くした。
「……チキン南蛮、作れる?」
「……練習します」
「じゃあ」
真壁さんが、私の手を——レジ越しに、そっと握った。
「毎日、食べに来る」
温かかった。点滴の痕が残る手。でも、確かに生きている体温。
「……はい」
涙が止まらない。でも、もう悲しくない。
深夜2時。600円のコンビニ弁当が繋いだ、3年越しの恋が——今、始まる。
◇
それから、一ヶ月が経った。
深夜2時。自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
「……ただいま」
真壁さん——いや、蒼司さんが入ってくる。スーツ姿は相変わらずだけど、前よりも顔色がいい。頬のこけ方も、少しマシになった。
「はい、今日のお弁当」
カウンター越しに、包みを渡す。手作りのチキン南蛮弁当。最初は失敗ばかりだったけど、最近はなんとか形になるようになった。
「……いつもありがとう」
蒼司さんが包みを受け取る。その時、必ず——私の指に触れる。
わざとかどうかは、聞いたことがない。聞くのが、なんだか恥ずかしくて。
「温めますか?」
冗談で聞いてみる。
「……お願いします」
蒼司さんが、ふっと笑った。
「レンジはないけど」
「じゃあ、君の手で温めて」
「……何それ」
「さあ」
照れているのだ、この人は。不器用だから、変な冗談でしか愛情を表現できない。
——でも、それがいい。
「ねえ、蒼司さん」
「ん?」
「私の作るチキン南蛮、コンビニのより美味しい?」
「……愚問」
「どっち!?」
「世界一美味い」
「……それ、お世辞じゃないですか?」
「俺は嘘つかない」
「嘘つきは皆そう言います」
「じゃあ、毎日食べに来ることで証明する」
自動ドアが開いて、蒼司さんが出ていく。
「……また明日」
「また明日」
背中が夜に消えていく。でも、もう怖くない。明日も来る。明後日も。その次も。
「あーあ。ごちそうさまでした」
いつの間にか後ろに立っていた店長が、にやにや笑っている。
「……見てたんですか」
「見てた見てた。いやー、青春だねえ」
「店長……」
「よかったな、藤野」
「……はい」
「チキン南蛮弁当、発注減らしていいか?」
「……お願いします」
笑った。店長も笑った。
深夜のコンビニ。蛍光灯の白い光。3年前と変わらない景色。でも、私の世界は——確かに変わった。
600円のコンビニ弁当が繋いだ縁は、今、手作り弁当に変わって続いている。
これは、世界一ありふれた——でも、私にとっては世界一特別な、恋の話。
——おわり




