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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第十八章 綴り損ね――思うままにならなかった終わり
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第九十二話

---


そのとき、店員が三人分の定食を運んできた。


立ちのぼる湯気が、その場の冷えた気まずさをひとまず追い払った。


三人は箸を取り、無言のまま食事を始める。

噛む音と、茶碗や皿がかすかに触れ合う音だけが、静けさの中でやけに目立っていた。


石原正志はほとんどおかずに手をつけず、機械みたいに米ばかり口へ運んでいた。

何度か視線を上げて石原を見るものの、そのたびに言葉を飲み込む。


石原のほうも、食事に身が入っているようには見えなかった。


そのとき、石原正志がもう一度勇気を振りしぼるように、少し身を乗り出した。

声には切実さがにじんでいた。


「久希……俺は今回、本当に埋め合わせたいと思って戻ってきたんだ。

せめて……せめて、たまにでいい。お前たちに会って、元気でいるって分かるだけでもいい。

生活の邪魔はしない。本当に、約束する……」


言葉は真剣で、目には痛々しいほどの哀しさがあった。

感情につられるように、彼の腕がわずかに動いた。


――その瞬間。


ガタンッ!


肘が、テーブルの端に置かれていた透明のファイルケースに当たった。


ファイルケースがそのまま滑り落ちる。

同時に、ほとんど手のついていなかった氷水のグラスが倒れ、透明な水が広がった。


その一部が、こぼれた数枚の紙の上へちょうどかかる。


「す、すまない! 悪い、本当に……!」


石原正志は思わず声を上げ、勢いよく立ち上がった。

顔にはむき出しの動揺と後悔が浮かんでいる。


慌てて拾おうと手を伸ばしたが、余計に散らかしそうで、動きが空回っていた。


石原のほうが早かった。


すぐに身をかがめ、濡れていない書類を先に拾い上げた。

続いて、水を吸ってしまった数枚を持ち上げる。


水はみるみる紙に広がり、インクも少し滲んでいた。


石原は一度目を閉じ、眉をわずかに寄せる。


杏も慌てて紙ナプキンを抜き取り、テーブルを拭き始めた。


「……大丈夫です」


石原は濡れた紙を隣の空いた椅子に置き、ゆっくり体を起こす。

それから、目の前で立ち尽くす父親を見た。


声は平坦だった。

けれど、そのままはっきりと言い足した。


「ただの資料です。……次からは、少し気をつけてください」


丁寧な言い方だった。

なのにその一言は、冷たい物差しみたいに、一瞬で二人の距離を測って、そのまま固めてしまう。


石原正志は、その言葉に打ちのめされたように、力なく椅子へ座り直し、肩が完全に落ちた。

顔色も目に見えて悪い。


「……お、俺が悪い……。不注意だった……」


杏がテーブルを拭く手つきが、そこで少し遅くなった。


父親が一瞬でしおれてしまった様子と、兄の静かすぎる横顔。

その両方を見て、杏の顔から無理に浮かべていた笑みが消えた。

唇を噛みしめすぎて、少し白くなっている。


頭上の感情タグが大きく揺れていた。


【石原杏の感情:期待5、不安31、挫折感68】


さっきまであった【期待】の光は、ほとんど消えていた。


今日のために選んだワンピース。

お兄ちゃんの新しいシャツ。

何度も頭の中で繰り返した最初の言葉。


そんなものが、このたった一度の、どうしようもなく間の悪い失敗で、まとめて崩れていく気がした。


兄の「次からは、少し気をつけてください」は、責める言い方じゃなかった。

なのに、どんな言葉よりもずっとはっきり、杏が開けたかった扉を閉めてしまった。


こんなのは、杏が思っていた形じゃない。

心のどこかで望んでいた流れとも、違っていた。


本当なら、父親の不器用さや失敗が、兄の中に少しくらいのためらいや、ほころびみたいなものを生むんじゃないかと思っていた。


少なくとも、こんなふうに、礼儀正しさだけで距離をぴたりと固める形になるはずではなかった。


杏はうつむき、下唇を強く噛む。


何か言わなきゃ、と思った。

この場を少しでも戻すために。


「お兄ちゃん、気にしないで」とか、「わざとじゃないんだから」とか、あるいは軽く笑って流せるような冗談とか。


でも、言葉は喉の奥で引っかかったまま、どうしても出てこない。


結局、杏はもうきれいになっているはずのテーブルを、さらに強く拭いただけだった。

爪がビニールのテーブルクロスをかすめ、細い音を立てる。


それから顔を上げ、兄のほうを見た。

けれど、すぐにまた目をそらす。


無理に口元を引っ張ってみても、笑顔にはならない。

泣きそうな形になるだけで、結局、何ひとつ言えなかった。


それから先の時間、空気はほとんど凍りついていた。


石原正志はほとんど何も話さず、生気の抜けた置物みたいに座っていた。


石原は残りの料理をさっさと片づけ、資料をまとめる。

杏は味もよく分からないまま箸を動かしていた。


会計のとき、石原正志は意地でも払うというように、ほとんど奪うような勢いで伝票を取った。


店を出ても、陽射しは変わらず明るかい。

それでも、あたたかいとは誰も思えなかった。


「……じゃあ、俺はもう帰る」


石原正志は店先で立ち止まり、乾いた声でそう言った。


「今日は……すまなかった。久希、その……資料も……」


「大丈夫です。気をつけて帰ってください」


石原は軽くうなずいた。


杏は父親を見つめる。

目の縁が赤くなっていた。


「パパ……さよなら」


少しだけ、声が詰まる。


「……ああ。さよなら、杏。久希も」


石原正志は最後に二人を見た。

それから背を向け、どこか逃げるみたいな足取りで人の流れに紛れていった。


背中は、すぐに見えなくなる。


帰り道、杏は異様なくらい黙っていた。


マンションの下まで戻ってきて、ようやく小さく口を開く。

押し殺していた震えが、声ににじんでいた。


「……お兄ちゃん。私たち……何か、間違ってたのかな」


石原は足を止め、妹を見た。


杏はうつむいたまま、とうとう涙をこぼし始める。


少し黙ってから、石原は言った。


「誰も間違ってない」


声は落ち着いていた。


「ただ、こういうのは……一回会って、何か言われたくらいで変わるものじゃない」


石原は父の背中を思い出し、小さく息をついた。


杏は顔を上げる。

涙でぼやけた目のまま兄を見るけれど、言葉は出てこなかった。


兄の言っていることは分かる。

でも、胸の奥でずっと抱いていた熱い願いは、現実の冷たい壁にぶつかって、粉々になっていた。


――こんなのは、杏が思い描いていた“物語”から、あまりにも遠すぎた。


書類が濡れてしまったので、石原は春野に訳を話し、午後の約束を取り消した。

その夜、石原は部屋で、濡れて乾き、文字の滲んだ紙を整理していた。

大事な部分には控えがあったため、被害は大きくなかった。


要らなくなった紙を丸めて、迷いなくゴミ箱へ放る。


夜が更ける。


石原はベッドに横になり、できるだけ昼のことを思い返さないようにしていた。

一方、隣の部屋では、杏がベッドの上で体を丸め、顔を枕に深く埋めていた。


頭の中で何度も繰り返されるのは――


濡れた紙を拾ったときの兄の、わずかな眉の動き。

あの冷たい「次からは、少し気をつけてください」。

父親の目が一瞬で崩れたこと。

落ちてしまった肩の形。


違う……こんなの、違う……


強い失望と、悔しさと、焦り。

それに、自分でも気づいていないような薄い恐れまでが、黒い蔦みたいに体に絡みついて、きりきりと締まっていった。


杏は自分の体を抱きしめる。

爪が腕に食い込みそうになった。


――その思いが、何もかも燃やしてしまいそうなくらい強くなった、その瞬間。


石原は、はっと目を開けた。


カーテンの隙間から差し込んだ朝の光が、床に鋭い筋を落としている。

部屋はすでに明るく、秋の朝らしい、澄んで少しひんやりした空気に満ちていた。


石原は上体を起こした。

頭がまだ少し重い。

ひどく長くて、息の詰まる夢から、無理やり引きはがされたみたいだった。


夢の細かい破片は、すぐに薄れていく。

それでも、粘つくような妙な感覚だけが残った。


無意識に、枕元のスマホへ手を伸ばした。


画面が点く。


ロック画面には、日付と時刻がはっきり表示されていた。


9月21日(土) 午前7:32


――土曜日。


石原の動きが、ぴたりと止まった。


表示された日付を、たっぷり五秒間、ただじっと見つめた。


やがて親指を滑らせ、ロックを外した。

そのままカレンダーを開いた。


……間違いない。


9月21日。土曜日。


記憶の中で、今日はこの日付のはずだと思っていた日と――完全に一致していた。


なのに、どうしてだ。


胸の奥を突き破りそうなくらい強い、この既視感はどこから来るのか。


(……違う)

(ただの既視感じゃない)


(まるで……本当に起きたことみたいだ)


父親が謝るとき、口元がかすかに引きつっていたこと。

倒れたグラスの軌道。

水を吸った紙の端から、じわじわ色が濃くなっていったこと。

杏がうつむいたとき、きつくなっていた顎の線。


それに――自分が口にした「……次からは、少し気をつけてください」という言葉。

あの冷たさが、まだ舌の先に残っている気さえした。


どれもが、ついさっきのことみたいに鮮明だ。

下手な現実の記憶より、よほどはっきりしていた。


石原は目を閉じ、眉間を強く押さえた。


……ただの記憶の混乱か?

プレッシャーのせいで、頭がおかしくなっているだけなのか。


石原は布団をはねのけて立ち上がった。

足の裏に、床のひんやりした感触が伝わる。


顔を洗い、着替えた。

クローゼットを開け、いつも着ている濃い色のプルオーバーに手を伸ばしかけて――止まった。


視線が、その隣に掛かっていたシャツへ移った。


きれいにアイロンのかかった、淡いグレーのシャツ。


杏が昨日、半ば無理やり押しつけてきたやつだ。


……昨日?


いや、違う。


会うのは、今日のはずだ。


そこで記憶が引っかかった。

フィルムが絡まって、像が二重に重なる。


ひとつは、昨日、杏に引っぱられて服を買いに行った記憶。


もうひとつは――

もっと曖昧なのに、妙に現実味だけがある。


もう父親と会ってしまった、という感覚。


今日、なのか?


……いや、違う。時系列が噛み合わない。


石原は頭を振って、その嫌な混乱を追い払おうとした。

結局、シャツには手を伸ばさず、クローゼットを閉じる。


部屋を出ると、杏はもうキッチンで朝食を作っていた。

部屋着のまま、髪もゆるく結んだだけ。

物音に気づいて振り返ると、いつもと変わらない笑顔を見せた。


「おはよう、お兄ちゃん! 目玉焼き、もうすぐできるよ!」


声は明るかった。

目にも、何の曇りもない。


頭上の感情タグも安定していた。


【石原杏の感情:平静42、期待33、安心25】


「……おはよう」


石原は短く返し、テーブルの前に座る。


それでも、視線は無意識に杏の背中を追ってしまった。


……普通に見える。


何もかもが、ただの土曜の朝だ。

まるで今日が、本当に最初から新しい一日であるみたいに。


けれど、頭の中にこびりついた“もうひとつの記憶”と、胸の奥で広がり続ける疑いだけは、静かに、けれど確かに警鐘を鳴らしていた。


(……何かがおかしい)


石原はスマホを手に取った。

画面はまだカレンダーのままだ。


9月21日、土曜日。

正午。「和亭」ファミリーレストラン。


窓の外の陽射しは眩しいくらい明るい。

まるで、また新しい土曜日が始まったみたいに。


石原はゆっくり息を吸った。


今ある事実を無理やりつなげていくと、どうしてもひとつの結論に行き着いた。


異能力。


馬鹿げている。

けれど、それ以外では説明できなかった。


(……誰だ)


ふと、杏のほうを見た。


【石原杏の感情:期待34、興奮26、平静40】


石原はすぐに視線を外し、眉のあたりを指で揉んだ。

混乱した記憶が残した眩暈を、少しでも追い払いたかった。


(まさか……)


(父さん、なのか……?)

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