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第八章 観察――妹の恋物語?

【前書き】


ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。


第八章は、立花の物語から次の人物の物語へと繋がっていく“橋渡し”のような章になっています。

ここで少しずつ見えてきたものが、第九章・第十章でひとつの形になります。


そして第九章・第十章は、新たな登場人物を中心としたエピソードであり、

原作(中国語版)第一巻の締めくくりにあたる部分でもあります。

物語としても一つの区切りになる章なので、ぜひ最後まで見届けていただけたら嬉しいです。


さて、ここでひとつ、皆さまにお伝えしたいことがあります。


とても心苦しいのですが、しばらく更新をお休みします。


ここ数日、翻訳について改めて見直していく中で、

AIで何度も校正を重ねても、どうしても取りきれない違和感や、

原文の感情の流れ、場面の温度、物語のリズムが十分に再現しきれていない部分があると感じるようになりました。


この作品は、もともと中国語で書いているからこそ、

日本語版でもできるだけその感情の色合いや、物語本来の流れを崩さずに届けたいと思っています。


そのため、まずは翻訳の問題を優先して整理し、今後の形をしっかり整えるために、

少しのあいだ更新を止めて、方法を探す時間をいただきたいと思っています。


あわせて、今後は翻訳前に原文そのものの見直しや調整もこれまで以上に丁寧に進めていく予定です。

各章をより良い形に整えてから、日本語版にしてお届けできればと考えています。


更新は止まりますが、手を止めるわけではありません。

翻訳のこと、原文の修正のこと、日々の作業については、

これからも「活動報告」で時々お伝えしていくつもりです。


最後に、ここまで読んでくださっている皆さまへ。

本当にありがとうございます。


待ってくださる方がいることが、何より大きな励みになっています。

少し時間はかかってしまいますが、そのぶん、今より納得のいく形で続きを届けられるよう頑張ります。


また更新を再開したときに、変わらず読んでいただけたらとても嬉しいです。

---


【六月十日・月曜日・朝】


七時二十分、玄関のほうから軽やかな鼻歌が聞こえてきた。


石原は、飲みかけの味噌汁を置いて顔を上げた。


杏は玄関の鏡の前に立ち、制服の胸元のリボンを丁寧に整えていた。

さらに、つま先立ちになって、わざと残している前髪の一房を鏡越しに整えた。

その仕草には、普段あまり見せないような真剣さがあった。


「行ってきまーす——」


いつもより少し明るい声だった。

杏は振り向いて手を振り、隠しきれないほどの上機嫌さを顔に浮かべていた。


そして何かを思い出したようにしゃがみ込み、鞄のサイドポケットを素早く確かめた。

中身を確認すると、満足げにうなずき、玄関のドアを開けた。


「気をつけて」


石原がそう声をかけた。


ドアが閉まった。

軽快な足音が階段を下りていき、やがて朝の静けさの中に消えていった。


石原は食卓に座ったまま、味噌汁の椀の縁を無意識に指でなぞっていた。

器の温もりが手のひらに伝わる一方で、どこかに引っかかるような違和感が、静かに芽生えていた。


これが初めてではない。


ここ一週間ほど、杏はほぼ毎日登校していた。

しかも家を出る時間が、どこか定まらなくなっていた。

今日のように早い日もあれば、逆にいつもより五分から十分ほど遅れる日もあった。


出かける前の準備も、明らかに長くなっていた。

以前のように、鞄をつかんでそのまま飛び出していくことはなくなっていた。


そして何より気になっていたのは、彼女がスマホを見ているときだった。

何度か、集中と気持ちの高ぶりが入り混じったような表情を浮かべているのを見かけた。

だが石原の視線に気づいた瞬間、その表情はすぐに消え、何事もなかったかのように取り繕われた。——まるで、彼を避けているかのように。


(思春期の女の子によくある変化……か?)


石原は最後の一口を飲み干し、食器を流しに運んだ。

水音が響く中、思考はさらに奥へと沈んでいった。


立花の件が片付いてからというもの、石原はずっと、何かを整理し直す必要があると感じていた。

他人をどう「助けるか」だけではない。自分のこの“感情が見える目”が、いったい何を見ているのか——そのことについても。


立花の変化は、はっきり覚えている。

あのとき、彼女のまわりに浮かんでいた感情は、それまでとはまるで別物のように、静かで澄んだものに変わっていた。


……それに比べて、緒山は違う。


最初は、自分の能力が不安定なのだと思っていた。

あるいは、緒山自身が複雑で、読み取りにくいのだとも。


けれど、立花の前後の変化を見て、考えが少し変わった。


——感情の「読みやすさ」は、その人の内面にある“何か”と関係しているのではないか。


まだ仮説にすぎない。

それでも、立花を見たあとでは、無視できない感触として残っていた。


だとしたら、緒山に見えるあの文字化けは——


そこまで考えて、石原はふと手を止めた。


(……いや)


まだ、決めつけるには早い。

ただ、あの違和感だけは、消えずに残っていた。


そんな少し重たい思考に沈んでいたとき、玄関のほうからかすかな物音がした。


近づいてみると、一枚の紙が落ちていた。

杏の鞄のサイドポケットから滑り落ちたのだろう。

さっきしゃがんで確認していたとき、きちんとしまえていなかったらしい。


石原は腰をかがめ、それを拾い上げた。


妹らしい丸みのある字で、いくつかの短いメモが書かれていた。

走り書きの備忘録のようだった。


「dgp-購入済み|

ny-先輩は苦めが好き? 要試食|

zs-シンプルでさっぱり系|

時間-来週の水曜 放課後

場所-???(未定)」


紙の端には、小さな落書きが添えられていた。

うさぎのようにも、雲のようにも見えた。


石原はそれを見つめ、ゆっくりと眉をひそめた。


dgp? ny? zs?

試食? 時間と場所は未定?


……何かを作る計画のように見えた。

材料を準備し、味を考え、試食まで行う——菓子作りの計画。


なぜ杏が、「来週の水曜日の放課後」に合わせて、こんなものを用意しようとしているのか。

しかも、わざわざ暗号のように書いて隠している。


——そして。


さらに気になったのは、その味のメモだった。——「苦め」。


杏は甘いもののほうが好きだ。

家で買うお菓子も、基本は甘いものばかりだった。


この「苦め」の好みは——誰のためのものだ?


ぼんやりとした予感が、招かれざる客のように、心の扉をそっと叩いた。


最近の杏の変化——

身だしなみに気を遣うようになったこと。

スマホを見ているとき、彼の視線を避けるようになったこと。

ふとした瞬間、何かを思い浮かべるように微笑むこと。


——「お兄ちゃん、男子ってどんなお菓子もらうと嬉しいの?」


あのときは、家庭科の課題だと思っていた。

だが今、それらの断片が、この一枚の紙によって、一本の見えない線で繋がった気がした。


——もしかして。

「苦めの味が好きな誰か」のために、特別なお菓子を用意しようとしているのではないか。


そして「先輩」という言葉。

それは、小さな棘のように思考に刺さった。


杏は一年生だ。

つまり相手は二年か三年——年上の男子ということになる。


石原は唾を飲み込んだ。

喉がわずかに乾いた。


中学のころ、クラスにもそういう女子はいた。

急におしゃれに気を遣い始め、「先輩」の話をすると目を輝かせる女子たち。


当時は、そういう話がどこか遠くて、幼くも感じられた。

まさか、自分の妹がその当事者になるかもしれないなど、考えもしなかった。


(いや、まだ決めつけるのは早い。

ただの家庭科の延長かもしれないし、誰かの手伝いかもしれない)


だが——なぜ隠す必要がある?


石原は紙を丁寧に折り、ポケットにしまった。

そして背筋を伸ばし、すっかり明るくなった空を窓越しに見上げた。


朝の澄んだ空気が、どこか重たく感じられた。


もしこの予感が当たっているなら——

相手は誰だ。


胸の奥に生まれた、不安だけが消えずに残った。


紙に書かれていた「来週の水曜日」と、あの未定の「?」は——

小さなカウントダウンのように、彼の心に静かにぶら下がっていた。


---


校門をくぐると、朝のざわめきが一気に押し寄せてきた。


石原は、反射的に呼吸を整えた。

人の多さが生む“ノイズ”に備えるためだった。


だが今日は、予想していたあの鬱陶しさはすぐには襲ってこなかった。

心境の違いかもしれなかった。

意識の大半が内側の疑問に引き寄せられていて、周囲の騒がしさがどこか遠く感じられた。


彼はそのまま校舎へ向かって歩いた。


午前の授業は、どこか上の空のまま過ぎていった。

どうにも集中が続かなかった。


教師の説明も、黒板の内容も、頭の中で何度も再生される映像にかき消されていた。

鏡の前で真剣な表情をしていた杏。あの妙な紙切れのことが、何度も脳裏をよぎった。


休み時間、すれ違った上級生らしき男子を何人か“感情視”で見てみた。

だが、表示されたのはどれも平凡なものばかりだった。


【雑談の気楽さ】、【課題に追われる苛立ち】、【女子へのひそかな関心】……。

特に引っかかるものはなかった。


少しだけ肩の力は抜けた。

だが疑念は消えなかった。


杏に本当に気になる相手がいるなら、その相手は感情を隠すのが上手いのかもしれない。

あるいは、そもそも今見た連中の中にはいない可能性もあった。


(……考えすぎか)


自分でも、少し神経質になりすぎているとは思った。


やがて昼休みのチャイムが鳴った。

石原は教科書をまとめ、生徒会室へ向かった。


あそこなら、いつもの空気の中で、少しは思考も落ち着くはずだった。


---


生徒会室のドアは半開きになっていた。

中から、聞き慣れた声と小さな物音が漏れていた。


石原はドアを押し開けた。


午後の日差しが、部屋の半分をやわらかく照らしていた。

光の中に、細かな埃がふわりと漂っていた。


春野は会長席に座っていたが、見ていた画面はいつもの書類ではなかった。

色とりどりの画像が並ぶページが開かれていた。

文字を入れた木製品や、カスタムアクセサリーのようなものが表示されていた。


ドアの音に、春野はびくりと肩を揺らした。

すぐにタッチパッドを滑らせ、画面を最小化した。

無機質な校務連絡のウィンドウへと切り替えた。


顔を上げ、やや大げさな笑顔を作った。


「お、石原! 来たな。昼だぞ昼!」


「……どうも」


石原は軽くうなずき、さりげなく視線を画面に向けた。


「忙しいのか?」


「そりゃもう! めちゃくちゃ忙しい!」


春野は頭をかきながら、どこか不自然に明るい声で続けた。


「ほら、あの……地域合同の清掃活動あるだろ?

あれの段取り確認しててさ。細かいとこ多くてな!」


清掃活動。

確か学期末の行事だったはずだ。まだ六月だというのに。


それに、段取り確認であのサイトを見る理由もない。


だが石原は何も言わず、「そうか」とだけ返して窓際の席へ向かった。

部屋を見渡した。


花野はいつもの場所に座っていた。

だが目の前にあったのは帳簿ではなく、開かれたノートだった。


何かを書き込み、時折手を止めては顎に指を当てて考えていた。

紙面には簡単な図と、「時間軸」や「物品リスト」といった文字が見えた。


視線に気づいたのか、花野が顔を上げた。

あの感情の薄い目が石原を捉えた。


次の瞬間、ノートは「パタン」と音を立てて閉じられた。


「空間利用の最適化案」


淡々とした声だった。


「現状の配置には非効率な死角がある。改善案は?」


「……特にない」


石原は視線を逸らした。


さらに視線を巡らせた。

部屋の中央、ローテーブルのそばに目を向けると――

緒山と立花が、並んでスマホを覗き込んでいた。


立花が画面を指さし、小声で何かを言った。

緒山は何度かうなずき、時折やわらかく意見を添えていた。


「この色、ちょっと濃すぎない? 先輩……あ、えっと、その人には、もう少し爽やかな感じのほうが合う気がするのだ……」


途中で言葉が詰まり、頬を赤くして言い直した。


「うん、わかるよ。でも、場面とか全体のバランスもあるからね~。少し落ち着いた色のほうが、逆に引き立つこともあるし」


緒山がやさしく笑いながら言った。


その途中で、石原の視線に気づいたのか、彼女は顔を上げた。


「先輩、こんにちは~」


「……どうも」


石原は短く返し、二人の手元のスマホに一瞬だけ視線を落とした。


「何見てるんだ?」


「えっ!? な、なんでもないのだ!」


立花は慌ててスマホを胸元に隠し、顔をさらに赤くした。


「ただの文房具の通販サイトなのだ! 先輩、女子のスマホを覗いちゃダメなのだ!」


疑いはむしろ強まった。

だが石原はそれ以上は追及せず、気まずげにうなずいた。


室内の空気は、どこか妙だった。


全員が普段通りに見えた。

だが、その裏で何かを共有しているような気配があった。


わずかな緊張。

それと、かすかな期待。


石原はコップを手に取り、水を一口飲んだ。

冷たい水が喉を通った。


だが、胸の奥で形を取り始めた違和感は、消えなかった。


(……おかしい。何かが妙だ)


春野。花野。緒山。立花。杏。


全員、どこかいつもと違っていた。

そしてその違いは、同じ方向を向いている気がした。


何かを隠していた。

何かを準備していた。


それは、今朝見つけた杏の“秘密”と、どこかで繋がっているように思えた。


(まさか……)


さらに嫌な想像が浮かんだ。


杏の件は、彼女一人の問題ではないのかもしれない。

生徒会の面々も、それを知っていた。

あるいは関わっている可能性すらあった。


胸の奥が重く沈んだ。


もし、緒山や春野まで含めて自分に隠しているのだとしたら——

それは思っている以上に大掛かりで、もっと正式なことなのではないか。


石原はコップを置き、窓の外に目を向けた。


青々とした木々。

穏やかな昼の光。

何も変わらないはずの日常。


だがその下で、確かに何かが動いていた。


見えない流れが、ゆっくりと、しかし確実に——

自分と、大切な人たちを、同じ場所へと引き寄せていた。


来週の水曜日へ。


——確かめる必要がある。


少なくとも、杏が何を考えているのか。

そして生徒会の面々が、どんな立ち位置にいるのか。


(……機会があれば、緒山さんに聞くか)


彼女なら、気づいているかもしれない。

ここ数日の自分の様子にも。

そして、何かヒントをくれるかもしれない。女子の視点から。


そう考えると、少しだけ気が楽になった。


あの穏やかな笑顔。

不安をやわらげてくれる、あの空気。


今の自分にとって、一番話しやすい相手かもしれなかった。


---


午後の陽射しが校舎の中へ斜めに差し込み、廊下を明暗の帯に切り分けていた。


石原は二年C組の後ろ扉の脇に寄り、壁にもたれていた。

指先で、無意識に制服の袖ボタンをなぞっていた。


放課後のチャイムから、もう二十分。

人の流れは途切れかけ、遠くの部活動のざわめきだけが、かすかに残っていた。


——緒山さんを待っていた。


朝からの引っかかりが、胸の奥で絡まったままだった。

ほどこうとしても、うまくほどけなかった。


こういう話を誰かに振るとしたら——

なぜか最初に浮かんだのが、緒山さんだった。


(杏に直接聞くのは論外……春野は面白がるだけだ……花野は鋭すぎる。立花は……)


石原は小さく首を振った。

立花は、むしろこっちが気を遣う側だった。


消去法で残るのは一人。


緒山さんなら、必要なところだけきちんと拾い上げてくれる。

軽く見えて、外さない。


——それに。


(……頼りすぎか)


胸の奥に、わずかな引っかかりが残った。

だが、それ以上は考えるのをやめた。


足音が近づいてきた。

軽くて、聞き慣れたリズム。


廊下の角から姿を現した緒山は、彼を見るなり、目を細めて笑った。


「や、先輩~。待ってたの? 珍しいね」


小走りで近づいてきた。

揺れる髪が、光を受けてきらめいた。


「もしかしてやっと気づいた? 可愛い後輩と一緒に帰りたいな~って」


いつもの調子の軽口だった。


【緒山朋奈の感情:喜び43@$#】


……まただ。

末尾に、わずかな乱れがあった。


「まあ、そんなところだ。……聞きたいことがある。杏のことだ」


石原は視線を外し、そのまま切り出した。


「杏ちゃん?」


緒山の表情が、すっと変わった。

軽さが引いて、まっすぐな関心が残った。


「どうしたの? 何かあった?」


「いや、そこまでのことじゃない」


言葉を選びながら、朝からの違和感を一つずつ並べていった。


話しているうちに、眉間に力が入っているのに気づかなかった。

声にも、余計な硬さが混じっていた。


「……で、だ。杏は、その……」


一度言葉を切った。

喉の奥で引っかかった。


「……好きなやつでもできたのか。誰かのために、何か用意してるとか」


言い終えて、緒山を見た。

答えを待つように、じっと見た。


緒山は黙って聞いていた。

胸元に垂れた髪を、指先でくるくると弄んでいた。


話が終わると、わずかに目を見開き——

次の瞬間、小さく吹き出した。


「……あは、そっか。先輩、それ気にしてたんだ」


どこか、納得したような笑い方だった。


石原は、少し居心地が悪くなった。


「他に理由があるか? あれだけ変われば、普通そう考えるだろ」


「うーん、理由ならいくらでもあるよ?」


緒山は指を一本立てて、軽く振った。

困った人だな、というような顔で笑った。


「例えば、仲いい子の誕生日とか。サプライズしたいとか。

それに、急にちょっと違う自分を試してみたくなることもあるし」


少し首を傾げた。


「女の子ってね、先輩が思ってるより複雑だったりするけど……逆に、びっくりするくらい単純なこともあるんだよ?」


言い方は軽い。

でも筋は通っていた。


石原の中の仮説が、少し揺れた。


「……でも、“来週の水曜”って具体的すぎる」


まだ引っかかっていた。


「水曜? それなら、図書委員の活動かもだし、友達と新しいお店に行く約束かもしれないよ?」


緒山はさらりと答えた。

迷いはなかった。


「先輩、ちょっと考えすぎてない? そんなとこまで気にするタイプじゃなかったでしょ」


軽く笑いながら言われて、石原は言葉を詰まらせた。


確かに、前なら見過ごしていた。

細かい変化なんて、気にもしなかったはずだ。


(……なんでだ)


考えかけた。


だが、その前に。


緒山が少しだけ声を落とした。


「それにね、先輩」


さっきよりも柔らかい声だった。


「誰かのために何か準備したり、自分を変えようとしたり……そういうのってさ……必ずしも恋愛とは限らないよ」


ほんの一瞬、視線が遠くへ向いた。


「大事な人のために、何かしてあげたいとか。

自分なりに頑張りたいとか」


ゆっくりと言葉を重ねた。


「そういう気持ちだけでも、十分理由になるんだよ。

思い出に残したいとか、喜んでほしいとか……そういうのって、すごく大事だし」


【緒山朋奈の感情:懐旧31*&%#】


石原は、言葉を失った。


一瞬だけ。

輪郭が、揺らいだ気がした。


まばたきをした。

次に見たときには、何も変わっていなかった。


(……気のせいか)


「先輩?」


緒山がこちらを覗き込んだ。


「どうしたの? ぼーっとしてる」


「いや、なんでもない」


すぐに否定した。

さっきの違和感は、疲れのせいにしておいた。


「……たぶん、考えすぎだな」


息を抜いた。


胸に引っかかっていたものが、少しだけほどけた。


杏はただ、友達のために何かを用意しているだけかもしれない。

そこに勝手に意味を重ねていた自分のほうが、どうかしていたのかもしれない。


「でしょ?」


緒山は嬉しそうに笑った。


「だから、そんなに心配しなくて大丈夫だよ。杏ちゃん、しっかりしてるし」


少し身を乗り出した。


「それより、当日になったら、杏ちゃんに用意したお菓子の味を聞いてみればいいんじゃない?」


軽くウインクした。


張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。


「……それもそうだな」


石原の口元も、わずかに緩んだ。

肩の力が抜けていくのがわかった。


緒山は両手を後ろに回し、少しだけ体を前に傾けた。


「じゃ、帰ろっか?」


「……ああ」


並んで歩き出した。


階段へ向かう途中、夕陽が二人の影を長く引き伸ばした。

影が、ゆっくり重なった。


「そうだ、先輩」


階段を下りながら、緒山が何気なく言った。


「来週の水曜って、何日だっけ? 予定メモるの忘れてて」


「十九日」


間を置かず答えた。


「そっか……十九日か」


小さく繰り返してから、顔を上げた。


「いい日になりそうだね。天気、晴れらしいよ」


声は、いつも通り明るかった。


石原はその隣を歩きながら、少しだけ気が軽くなっていた。

妹のことも、さっきまでほど気にはならなかった。


——そう思っていた。


---


【六月十日・月曜日・夜】


夕食の空気は、朝よりずっと軽かった。


杏はもういつもの調子に戻っていて、学校の出来事を楽しそうに話していた。


「美里ちゃん、ほんとすごいんだよ! 学校でもよく助けてくれて、すっごく頼りになるの~」


目をきらきらさせたあと、ふと思い出したように兄のほうをちらっと見た。


「……もちろん、お兄ちゃんも頼りになるけどね」


石原はそれを聞きながら、胸の奥にあった重さが、ようやく抜けていくのを感じていた。


——やっぱり、考えすぎだったか。


緒山さんの言う通りだった。

目の前にいるのは、いつも通りの明るい妹だった。


食後、杏が食器を片づけているのを見て、ふと思い出した。

——「当日になったら、杏ちゃんに用意したお菓子の味を聞いてみればいいんじゃない?」


ちょうどいい。


石原は軽く咳払いをして、できるだけ自然な調子で声をかけた。


「そういえば杏、最近なんか見てるのか? お菓子とか」


——その瞬間。


テーブルを拭いていた手が、ぴたりと止まった。

顔は上げなかったが、耳の先が一気に赤くなった。


【石原杏の感情:動揺58、後ろめたさ32、その他10】


「えっ……お、お菓子?」


声が、わずかに浮いていた。


「なんで急に……あはは、別に、ちょっと見てただけだよ。レシピサイトに出てきてさ」


……不自然だった。


普通に友達に作るだけなら、ここまで崩れはしない。


「そうか」


胸の奥で、また何かが引っかかった。


石原は、あえて軽く続けた。


「結構こだわってそうだったな。抹茶とか、ビター系か? 誰かに食べさせるのか。立花にでも」


「ち、違う! 美里ちゃんにじゃない!」


ほとんど反射だった。


言ってから、はっとしたように視線を落とした。

必要以上に力を込めて、もう乾いているテーブルを拭き続けた。


「その……えっと、あ! 自分で試したいだけ! そう、新しい味に挑戦っていうか! ほら、まだ料理うまくないし! 失敗しても……いや、違くて……」


言葉が続かなかった。

目も合わなかった。頬はどんどん赤くなった。


——わかりやすい。


石原の中で、一度引いたはずの疑いが、はっきりした形で戻ってきた。


(……やっぱりか)


さっきまでの安心が、静かに崩れた。


この反応——どう見ても、“隠している”。


(……恋愛だろ、これ)


胸の奥が、わずかに苦くなった。


それは心配か、それとも——

うまく言葉にできない、引っかかる感覚だった。


「……そうか」


それ以上は聞かなかった。


声は、少し低くなっていた。


「なら、頑張れ。味見くらいなら、いつでも付き合う」


自分でもわかるくらい、ぎこちなかった。

踏み込みきれない距離が、そのまま滲んでいた。


杏はようやく顔を上げた。

その表情を見て、余計に慌てたようだった。


——完全に誤解されてる。

でも今は、何を言っても逆効果だった。


「わ、わかった!」


布巾を抱えたまま、逃げるようにキッチンへ向かった。


「洗い物やるね!」


すぐに、水の音が響き始めた。

いつもより強くて速かった。


石原はリビングに残り、その音を聞きながら、眉間を揉んだ。


(……緒山さん)


静かに、息を吐いた。


(……違うな)


指先でスマホをいじった。

生徒会のグループは静まり返っていた。


最後のメッセージは、昨日の当番連絡だった。


——なのに。


(何か、ズレてる)


さっきの杏の反応が、頭から離れなかった。


あの慌て方。あの隠し方。


どう考えても、ただ友達のために用意しているだけには見えなかった。


(……緒山さん、気づいてたか)


ふと、そんな考えが浮かんだ。


(気づいてて、言わなかったのか)


胸の奥が、少し重くなった。


個別のトーク画面を開いた。

指が止まった。


——結局、何も打たずに閉じた。


(……やめておくか)


追いすぎるのも、妙だった。


ソファに体を預けた。

目を閉じた。


(……少し、休むか)


---


その後の数日間。

生徒会室には、どこか引っかかるような空気が残り続けた。


そして金曜日の昼。


昼休み、石原がドアを開けた瞬間——

甘くて、ほんのりビターなカカオの香りが流れ込んできた。


「ちょうどいいところに来たな、石原!」


春野が、小さなカップケーキを掲げて手を振った。


「立花の手作りだ。今日は試食会!」


部屋の中央のテーブルは片付けられ、いくつかの箱が並んでいた。

中には、形の違うチョコレート菓子がきれいに詰められていた。


立花は制服姿のまま、そのそばに立っていた。

少しだけ緊張した顔で、様子をうかがっていた。


花野はすでにブラウニーを一つ手に取り、小さく口に運んでいた。

表情はいつも通り、ほとんど動かなかった。


そして——


緒山は、スマホを構えていた。

角度を変えながら、真剣な顔で撮影していた。

まるで記録でも取っているかのようだった。


「立花さん、それ……君が作ったのか?」


石原は少し意外だった。

家庭科が得意なのは知っていたが、ここまでのものは見たことがない。


「は、はい!」


立花は強くうなずいた。

だが視線は合わなかった。


「その……友達と一緒に考えたレシピで。

“ちょっとビター寄り”の大人っぽい味にしたいって言ってて……でも苦すぎるのはダメだから、バランス見たくて」


言いながら、ちらっと緒山のほうを見た。


【立花美里の感情:期待60、緊張40】


——ビター寄り。


胸の奥で、小さく引っかかった。


朝のメモが、よぎった。


(……杏とか)


「……一個もらう」


石原は手近なマドレーヌを取った。

一口。


チョコのコクが広がる。

甘さは控えめ。苦味が立っている。

だが、きつくない。後味は軽い。


「どうですか?」


立花が一歩近づいてきた。

視線がまっすぐ向けられた。


「……うまい」


正直に答えた。


「苦味はあるけど、きつくない。ちゃんとまとまってる」


一拍置いた。


「……で、その“友達”って、杏か?」


「えっ——」


反応が速すぎた。


「ち、違……いや、その……!」


口元を押さえた。

明らかに動揺していた。


——ほぼ確定だ。


胸の中で、何かが固まった。


「先輩、そのへんで~」


緒山が横から入ってきた。

いつもの笑顔だった。


「女の子同士でお菓子作るの、そんな珍しくないでしょ?」


軽く言いながら、自分も一つつまんだ。

一口食べて、目を細めた。


「うん、いい感じ~。これ、ちゃんと“気持ち”入ってる味だね」


そして、ふっと笑った。


「……愛、って感じ?」


手で口元を押さえながら、少し大げさに言った。


スマホを軽く振った。

画面には、さっきの写真とメモが映っていた。


「——愛?」


石原と立花の声が、同時に重なった。


石原には、納得に近い感覚と、嫌な予感があった。

立花は、完全にパニックだった。


「ち、違う違う違う! そういうのじゃなくて!

友達としての、その……気持ちっていうか! 思いやり! うん、そう、思いやりだから!」


言葉が絡まった。

その場で小さく足を踏んだ。


また緒山を見た。


緒山は、口元を緩めたまま、楽しそうに眺めていた。

ほんの少しだけ、悪戯っぽい目をしていた。


(……わざとか)


石原は、そう思った。


「ごめんごめん、言い方がちょっとね~」


緒山は軽く舌を出して、言い直した。


「“気持ちがこもってる”って意味だよ。

だってさ、相手の好みに合わせてここまで考えてるんでしょ? それだけで十分すごいよね」


そのまま視線を向けてきた。


「ね、先輩?」


——逃げ場を塞がれた。


石原は、立花を見た。

顔を真っ赤にして、今にも沈みそうだった。


緒山は、笑っていた。


(……もういい)


だいたい、見えた。


言葉に出す必要はなかった。


「……味はいい」


それだけ言った。


「それ以外は——」


少しだけ間を置いた。


「……自分たちでわかってればいい」


それ以上は踏み込まなかった。


立花にとっては、許されたようにも聞こえただろう。

石原自身にとっては——


(……深入りしない)


ただ、それだけだった。


「よし、試食会終了ー!」


春野が手を叩いた。


「これなら、絶対喜ばれるだろ。な?」


軽く場を流すように続けた。


「しかし、もう来週の水曜か。早いな」


壁のカレンダーを見上げた。


「そういえば~」


緒山が箱を片付けながら、何気なく言った。


「先輩、来週の水曜さ。放課後、ちょっと残れる?

生徒会のことで、軽く確認したいことあるかも」


口調は軽い。

いつも通りの雑談の延長みたいだった。


石原は少しだけ考えて、うなずいた。


「……わかった」


試食会は終わり、それぞれが動き出した。


石原も教室へ戻る途中、息を吐いた。


甘さの残る口の中とは裏腹に、気分は軽くならなかった。


(……考えすぎか)


頭を振った。


それでも、引っかかりは消えなかった。


---


【六月十四日・金曜日・夜】


夕食の湯気が、二人のあいだにかすかに立ちのぼっていた。


石原はご飯を噛みしめていたが、味はほとんどしなかった。

視線はどうしても、向かいにいる杏のほうへ引き寄せられてしまう。


杏はいつもより少し早いペースで食べていた。

口元に少しだけたれがついているのにも気づかないまま、心はどこか別のところへ飛んでいるようだった。

ときおり、箸で茶碗のご飯を軽くつついてはかすかな音を立て、そのたびにはっと我に返ったように、慌てて二、三口かきこんでいた。


「……杏」


とうとう、石原は堪えきれずに口を開いた。

静かな食卓では、その声が少しだけ浮いた。


「ん? どうしたの?」


顔を上げた杏の目は、きらきらと明るかった。

そこには、最近ますます見慣れてきた、秘密にそっと灯をともされたような輝きが宿っていた。


「最近……」


言葉を選びながら、箸で玉子焼きをつまんだまま、なかなか口へ運べなかった。


「学校で、何か特別なことはなかったか。……それか、新しく知り合った面白いやつとか」


遠回しに聞いた。

それでも、胸の奥は場違いなくらいにわずかに締めつけられた。


「え?」


杏はぱちりと瞬きをしてから、ぱっと花が咲くように笑った。


「楽しいことならいっぱいあるよ! たとえばね、今日は美里ちゃんが超〜おいしいお菓子のレシピを教えてくれたし、手芸部の先輩も新しい縫い方を教えてくれたし、それに——」


明るい声で、楽しそうに並べていく。

——その途中で、ほんの一瞬だけ言葉が途切れた。視線が、わずかに泳いだ。


【石原杏の感情:喜び65、警戒25、高揚10】


……警戒。


胸の奥に、かすかに刺さる。


「……あ、でも別に大したことじゃないよ!」


念を押すように、杏はぶんぶんと首を振った。


「ほんと、ただの普通の学校生活だよ! お兄ちゃん、もう子ども扱いしないでよ。私だって高校生なんだから!」


少し拗ねて、それでいてどこか甘えるような声だった。

いつもなら、ここで笑って終わっていたはずなのに。


(……高校生、か)


その言葉だけが、妙に残った。


「……そうか」


石原は視線を落とし、冷めてしまった玉子焼きを口に運んだ。

口の中に広がったのは、ぼんやりとした塩気だけだった。


「……何かあったら、いつでも俺に言え。手伝えることがあるなら手を貸すし、話したいことがあるなら、いつでも聞く」


何度も口にしてきた言葉だった。

以前なら、妹はすぐに飛びついてきて、悩みも不満も一息に吐き出してくれた。


——けれど、今は違う。


その言葉は、どこにも届かないまま、ただ残るだけだった。


「うん、わかってる! お兄ちゃんがいちばんだよ!」


返事は早く、妙に明るかった。

笑顔も変わらない。


けれど、その視線はほんの一瞬だけ揺れて、彼の目をそっと避けた。


【石原杏の感情:感謝20、後ろめたさ15、緊張65】


残っていたご飯を急いでかきこんだ。


「ごちそうさま! 今日はちょっと課題が多くてさ、先に部屋戻るね!」


弾むように立ち上がる。

茶碗と箸がかすかに触れ、小さな音を立てた。


そのまま、するりとキッチンへ消えていく。

ほどなく水の音がして、すぐに止んだ。

続いて、部屋のドアがかちりと閉まる音がした。


食卓は、唐突なほど静かになった。


石原は、一人きりになった食卓の前に座ったままだった。

ゆっくりと箸を置き、背もたれに身体を預ける。

小さく、ひとつため息がこぼれた。


(……離れていく)


はっきりと、そう思った。


見えている。

けれど、もう手は届かない。


前と同じ距離じゃない。


それでいい。そうあるべきなのだろう。


それでも、胸の奥に残るものがあった。

空いたような、引っかかるような、苦い感覚。


(……誰なんだ)


顔も知らない相手へと、思考が向いた。


大丈夫なのか。

ちゃんと信頼できる相手なのか。

杏を泣かせたりしないか。


考えても答えは出ない。

それでも、どうしても落ち着かなかった。


「……」


石原は目を閉じた。


兄として、考えすぎるな。

近づきすぎるな。


そのまま、最後のため息を胸の奥へ押し戻した。


食卓のあたたかな灯りが、静かに彼ひとりの影だけを照らしていた。


数日後に来る、あの“大事な日”。

それはもう、楽しみに待つようなものではなかった。


ただ——

目を逸らしたくなるような何かに、変わっていた。


---


【六月十九日・水曜日】


気がつけば、いつの間にか六月十九日になっていた。

朝から、どこか空気が違っていた。


杏は一緒に家を出なかった。学校に用事があるから早く行く――そう言い残しただけだった。

生徒会のグループチャットも、妙なほど静かだった。

いつもならうるさいくらいに発言する春野も、緒山も、その日に限っては何ひとつ書き込まなかった。


(……やっぱり、今日か)


ここ数日ずっと胸の奥に引っかかっていた、あの微かな失落感が、じわじわと重さを増していった。

その感覚が頂点に達したのは、放課後だった。

――正確に言えば、その少し前からだ。


授業にはまったく集中できなかった。

途中で席を立ち、トイレに行くと適当な理由をつけて教室を出た。

戻ってきてからも気持ちは晴れないままで、授業の内容はほとんど頭に入らなかった。


石原はのろのろと鞄をまとめ、そのまま帰るつもりだった。

だが――


(……放課後、生徒会室に来てって、緒山さんが言ってたな)


そんな緒山さんの言葉を思い出した。

気づけば、足はそちらへ向いていた。


(……杏のことか。生徒会として、何か話があるんだろうか)


それ以外には思いつかなかった。

そう思うと、気分はいっそう沈んだ。


廊下には誰もいなかった。

夕焼けが、石原の影を長く引き延ばしていた。


石原が生徒会室のドアに手をかけた、その瞬間――ドアは内側から勢いよく開いた。


「お、お兄ちゃん!?」


目の前には、目を丸くした杏が立っていた。

その手には、まだ撒く前だった紙吹雪が握られていた。

その目は、驚きでまんまるになっていた。


「なんでこんな早……」


最後まで言い切るより先に、杏は反射的に身体をずらして中を隠そうとした。

――けれど、もう遅かった。


石原の視線は、そのまま杏の肩越しに奥へ抜けていった。


春野が背伸びして最後の飾りを掛けている。

立花は慌てた手つきで「18」のろうそくを差し込み、花野は黙々とテーブルクロスを整えていた。

その中央で――緒山がそっと箱を置いた。


「誕生日おめでとう」と書かれた箱。


――その瞬間、すべてが繋がった。


準備。水曜日。苦めの菓子。妙な空気。


(……誕生日だ)


「あ……」


最初に声を上げたのは杏だった。

杏は悔しそうに足を踏み鳴らした。

けれど、その顔にはこらえきれない笑みが広がっていた。


「もう! バカお兄ちゃん! なんで今来るの!? 全部台無しじゃん!」


ぶつぶつ文句を言いながらも、杏は身体を横にずらして道を開けた。

その目には、もう隠さなくていいのだという安堵がにじんでいた。


それに気づいて、生徒会室の中のみんなもいっせいに振り返った。

春野も振り返り、彩りテープを掛ける途中の妙な姿勢のまま、にやりと笑った。


「見られたか。計画通り……ってわけにはいかなかったな」


立花は顔を真っ赤にしていた。

その手には、まだろうそくが握られたままだった。


「せ、先輩……! お、お誕生日、おめでとうございます……!」


その声は、言うそばからどんどん小さくなっていった。


花野は一度だけ小さくうなずいた。


「予定より早く見つかったけど、問題ない。入って」


そして、緒山も振り返った。

その顔には一瞬だけ驚きが走った。

けれど、それはすぐにやわらかな笑みに変わった。

琥珀色の瞳には、静かでやわらかな光が滲んでいた。


「先輩、いらっしゃい」


その声は、いつものように軽やかだった。


「“スターライト計画”はちょっとしたトラブルがあったけど――肝心なところは変わらないよ。十八歳、おめでとう」


胸の奥へ、何かあたたかいものが一気に流れ込んできた。

ここ数日胸に溜まっていた重たさも、疑いも、いっぺんに崩れていった。

言葉が出なかった。


「……お前ら」


そこでようやく、口が動いた。


「……ほんと、なんていうか」


それ以上は、どうしても続かなかった。

結局、笑うしかなかった。


照れくささと安堵が、うまく言葉にならないまま胸の中で混ざり合っていた。

石原はそのまま、抗うこともできず、その温かさの流れに身を任せた。


ろうそくを立てて、願いごとをして、みんなのカウントが始まった。

そして石原は、みんなの数える声に合わせて火を吹き消した。

次の瞬間、拍手が弾け、室内の空気は一気に明るくなった。


「でさー」


杏は両手を腰に当てて、石原の前に立った。

その顔には、にやにやした笑みが浮かんでいた。


「お兄ちゃん、この数日ずっとさ。『杏が恋してる』とか、『あのお菓子は誰に渡すんだ』とか、『水曜に何があるんだ』とか、頭の中で勝手に推理劇場くり広げてたでしょ?」


――図星だった。

言葉が出なかった。

耳まで熱くなっていた。


「やっぱり!」


立花は思わず吹き出して、そのまま楽しそうに笑いだした。


「先輩、そのときの顔ほんとすごかったです! なんか事件でも追ってるみたいに真剣で、絶対頭の中ですっごい内心劇場やってましたよね!」


春野が肩を組んできた。笑いをこらえきれていない顔のままで。


「石原、お前の頭ん中のドラマ、相当濃かっただろ。で、その想像上の“男主役”、俺よりイケメンだったか?」


「……お前ら、もういい」


石原は額を押さえた。

恥ずかしさはあった。だが――


(……まあ、いいか)


胸の奥に溜まっていたものが、すっと抜けていくような心地だった。


そのあと、みんなでケーキを取り分けた。

その途中で、春野がふと立花のほうを見た。


「立花、その服いいな。似合ってる」


それは、石原が以前選んだ淡い青のワンピースだった。


「え、あ……ありがとうございます。これ、先輩にもらったやつで……」


立花はそっと裾へ目を落とし、少し頬を染めながら、感謝するように石原のほうを見た。


「へえー、お兄ちゃんが? そんなセンスあったんだ、意外すぎ」


杏は興味津々で覗き込んだ。


「美里ちゃん、それさ、“あれ”で出したやつじゃないよね? 今日こそ正直に言ってよ、ちゃんと本物?」


それは軽い冗談のつもりだった。だが――


立花の動きが止まった。

視線が、するりとスカートへ落ちた。

その裾を指先でつまみ、布の感触を確かめるように撫でた。


「……朝、クローゼットから出して、そのまま着てきたの」


立花はそう小さくつぶやいた。

それから、ゆっくりと顔を上げた。

その目には、少し不思議そうな、ぼんやりとした戸惑いが浮かんでいた。


「出す……? 最近、そういうふうに“服を出そう”って、考えてなかったかも」


その声は、そこでふっと落ちた。

そしてその沈黙のあとに、何かへ気づいたような色が、ゆっくりと彼女の表情に広がっていった。


石原が静かに問いかけた。


「……もう、“あれ”は感じないのか。瞬間的に着替える、あの力は」


立花は目を閉じた。

体の内側にある見えない何かを探すように。

――けれど、そこにはもう何もなかった。


やがて、立花は目を開けた。

もう一度、指先でワンピースの布をつまんだ。

そして、ゆっくりとうなずいた。


「うん。もう、ない。使ってないんじゃなくて……使えないの」


立花は一拍置いてから、


「……あの“スイッチ”みたいなものが、ほんとうになくなっちゃったんだと思う」


その声は、驚くほどはっきりしていた。


立花は自分の手を見つめた。

それから、ふっと笑った。

その笑みには、少しだけ寂しさも、わずかな戸惑いも混じっていた。けれど、それ以上に強かったのは、肩の力が抜けたような穏やかな軽さだった。


「……そっか。もう、いなくなったんだ」


そう言って、立花は顔を上げた。

まっすぐ石原を見た。

その表情には、やわらかくて、まっすぐな笑みが浮かんでいた。


「それでいい」


石原は静かにコップを持ち上げた。


「おめでとう、立花さん。……今日、それを着てきてくれて、ありがとう」


「おめでとう!」


みんなの声が重なった。


それは、ただの喪失なんかじゃなかった。

欠け落ちたものではなく、ちゃんと癒えて、役目を終えたものだった。


立花は照れたように目を伏せた。


「なんだか……私まで誕生日みたいですね」


和やかな空気の中で、石原はふと緒山へ目を向けた。

緒山は静かに立花を見ていた。

その表情には、どこか安堵したような色が浮かんでいた。


そのとき、不意に――


「でもさ~、さっきの話に戻るけど」


杏が急に声色を変えた。

くるくるとよく動く目が、いたずらっぽく緒山へ向いた。


「いちばんの“立役者”って、やっぱりあの人じゃない?」


緒山はケーキをひと口食べたところで、顔を上げた。


「ん?」


「朋奈さんだよ!」


杏はその腕にぎゅっと抱きつき、わざとらしくみんなに聞こえる声で言い立てた。


「“愛の味だね~”なんて言って、お兄ちゃんを変に勘違いさせたの誰? ずっと意味ありげに笑ってたの誰? 全部知ってたくせに、一緒になって悩ませて、しかもそれっぽい説明までしてたの誰?」


問いつめられるたびに、緒山の笑みは深くなっていった。

やがて、緒山はあっさりと肩をすくめた。


「ばれちゃったか~。でも、先輩にちょっとくらい勘違いしてもらったほうが、あとで驚きも大きくなるでしょ?」


そう言って、石原のほうを見た。


「それにさ、先輩があたふたしてるの、ちょっと面白かったし~」


「……緒山さん」


思わずため息がこぼれた。

だが、不思議と責める気にはなれなかった。

あれがあったからこそ、今がある。


「でもさ~」


杏が今度はぐいっと顔を寄せた。

ひそひそ声のつもりらしいのに、しっかり全員に聞こえていた。


「朋奈さん、そんなに頑張ってたのって、本当にサプライズのためだけ? それともさ……悩んでる先輩と、ちょっとゆっくり話したかったとか?」


そのひと言で、一瞬だけ空気が止まった。

緒山の耳の先が、目に見えてほんのり赤くなった。


「ちょっと、杏ちゃん……」


そう言って、緒山は杏の手の甲を軽くぺしっと叩いた。


「それ、私にまでやるの?」


口ではそう言いながらも、笑みは崩れなかった。

そこに、ほんの少しだけ照れが混じっていた。

緒山は否定しなかった。

そのまま、何事もなかったみたいに話題を戻した。


「はいはい、主役優先~。先輩、ケーキおかわりいる?」


その声音は、あくまでさりげなかった。

止まっていた空気も、そこでようやく元に戻った。


石原はそのやり取りを黙って見ていた。

――さっきまで胸に引っかかっていた違和感が、ここで別の意味を帯びはじめた。


やけに距離が近かったこと。

言いかけてやめたこと。

含みを持たせた言い方。


思い当たる節が、ひとつに繋がった。


(……そういうことか)


胸のあたりが、少しだけ熱くなった。


「お兄ちゃん、ぼーっとしてないで!」


杏の声で、意識が引き戻された。

差し出されたケーキ皿を受け取った。


ケーキは、甘かった。

しかも、さっき食べたときよりずっと。


生徒会室は笑い声で満ちていた。

石原は、そのあたたかな空気の中に身を置いたまま、しばらく何も考えなかった。


――十八歳の始まりは、思っていたよりも、ずっと明るかった。


そのときだった。

廊下の奥で、人影が一瞬だけ足を止めた。

けれど、それはすぐに視界の外へ消えた。

もちろん、石原はそれに気づかなかった。


その一方で――


誰も見ていない隙に、緒山はそっと窓際まで下がっていた。

ポケットからスマホを取り出し、さっきの光景をそっと写真に収めた。

それから、リストアプリを開いた。


「誕生日サプライズ、成功」


その項目に、そっとチェックを入れた。


その瞬間、少しだけ口元が上がった。

けれど、その笑みはすぐに消えた。

スマホの光が、緒山の横顔を静かに照らしていた。

まだチェックの入っていない項目が、いくつか残っていた。


窓の外は、もう夕暮れだった。

まだ終わっていないものだけが、静かに残っていた。


---


誕生日会の余韻は、すぐには消えなかった。

それは数日かけて、ようやく静まっていった。


石原の日常も、どこかやわらかく変わっていた。

杏はもう、妙な隠し事をしていなかった。

生徒会も、いつもの空気に戻っていた。


石原は放課後の廊下を歩いていた。

足取りは軽かった。

以前は気になっていたざわめきも、その日は少し違って聞こえた。


(……落ち着いた、か)


そんな感覚があった。

だが――静まったぶんだけ、今度は別のものが浮かび上がってきた。

意識しなくても、勝手に拾ってしまった。

そういう“癖”みたいなものは、まだ消えていなかった。


そして、その日の夕方だった。

違和感は、あまりにも突然だった。


当番のせいで、少し遅くなっていた。

校舎には、もうほとんど人がいなかった。

夕焼けが、廊下を赤く染めていた。


石原が曲がり角に差しかかったときだった。

前から、見覚えのない男子生徒が歩いてきた。

たぶん、同学年くらいだろう。

俯いたまま、石原の横をすれ違っていった。


――その一瞬だった。

視界の端に、何かが引っかかった。


(……あのときの違和感)


【欠損した混乱ラベル】


それは、はっきり見えた。

普通の感情ラベルじゃない。

あの感覚だった。


(……似てる)


緒山に見えていた、あの読み取れない異常なものと、よく似ていた。

いや――むしろ、あれよりもっと荒れて見えた。


心臓が大きく跳ねた。

思わず足が止まった。

反射的に振り返った。


そこにはもう誰もいなかった。

その姿は、もう消えていた。

指先がすっと冷えた。


(……今のは)


その瞬間、思考がつながった。

緒山。立花。二人のまわりにあった、あの読み取れなかったもの。

立花から消えた力。

そして、今見たあれ。


(……同じなのか?)


さっきまでの穏やかさが、少しずつ剥がれ落ちていった。

冷たいものが、じわりと内側に残った。


夕暮れは、さらに濃くなっていた。

ひとり立ち尽くす影が、どこかぼやけて見えた。


石原は、ゆっくり息を吸った。

そのまま、ゆっくりと歩き出した。


足取りは、見た目には変わらなかった。

ただ、視線だけが少し上を向いていた。


教室。木々。帰っていく生徒たち。

そのひとつひとつを、静かに目で追っていった。

広く、けれど薄く。何も見落とさないように。


石原は、濃くなる夕暮れの中を歩いた。

その胸の奥では――わずかな光だけが、消えずに残っていた。

【あとがき】


読了ありがとうございます!


次回、第九章「星を繋ぐ者――彼女の願いと、彼の光へ」。


新たな人物の視点から、これまで見えていなかった物語の一端が描かれます。

第八章で積み重なってきた違和感や伏線が、少しずつ繋がり始める章でもあります。


もしこの作品を気に入っていただけたら、


ブックマークや⭐評価で応援していただけると嬉しいです。


それでは、次回もお楽しみに!

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