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見える感情、見えないまま  作者: 颍川
第五章 見えない少女——色褪せていく世界
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第二十四話

---


【五月十日・金曜日・夕方】


金曜日最後の体育の授業で、突然、体力テストが実施された。


石原は、自分のものとは思えないほど重くなった身体を引きずりながら、息を切らし、足元をふらつかせつつ、どうにか生徒会室へとたどり着いた。


そのまま力が抜けたように、手近な椅子へと崩れ落ちる。

もはや口を開く気力すら残っていなかった。


「はぁ……はぁ……」


「おう石原、どこのヤクザに追われてきたんだ?」


春野陽明は手にしていた書類を机に置き、その無様な姿を見て思わず茶化した。


立花は背の高い椅子に腰かけたまま、小さな脚をぶらぶらと揺らし、異なる色の瞳をぱちぱちと瞬かせる。


「先輩、弱すぎじゃないですか〜? ただの体力テストでしょ?」


無邪気ゆえに、遠慮のない一言だった。


「う、うるさい……」


石原はかすれた声で言い返す。


その隣で、緒山がそっと水の入ったコップを差し出し、やわらかな声で補足した。


「美里ちゃん、前は陸上部の特待生だったんだよ〜。すごく速かったんだよ」


春野が興味深そうに口を挟む。


「百メートルはベスト十二秒五、八百も二分三十切り。校内どころか、市内でもトップクラスだぞ」


【立花美里の感情:誇り65>?:;+】


「えぇ――?!」


石原は思わず声を上げ、目の前の小柄な少女をまじまじと見つめた。

どうにも、このロリ体型とその記録が結びつかない。


「ほ、本当かよ……バケモンか?」


「……マジかよ。バケモンじゃねえか」


立花の頬がぷくっと膨れる。


「先輩、それどういう意味なんですか!」


「別に。ただ感心しただけだ」


立花は少し気まずそうに顔をそらし、声を落とした。


「も、もう昔の話です……今はそんなに速く走れないし」


石原はようやく息を整え、何気なく問いかける。


「じゃあ来週の体育祭、何に出るんだ?その記録なら、クラスにかなり貢献できるだろ」


その瞬間、生徒会室の空気がわずかに固まった。


立花の表情が、ぴたりと固まる。


無意識にスカートの裾をぎゅっとつまんだ。


「やですよ! 走ったら汗かくし……可愛い服だって汚れちゃうし!」


【立花美里の感情:緊張30%^&*(】


石原の視界に、彼女の感情タグが激しく揺れているのが映る。


「そうか……それは残念だな」


「じゃあせめてマスコットでもやるか、立花!」


春野の軽口で、場の空気が再び和らぐ。


立花はじろりと彼を睨みつけた。


話題を変えるため――そして、あのカフェで決めた「もっと積極的になる」という自分との約束を果たすために。

石原は一度深く息を吸い、できるだけ自然な調子で切り出した。


「その……立花さん。明後日、中等部のボランティア行くんだろ。少し早めに集合しないか?」


立花は一瞬きょとんとしたが、すぐに小さく頷く。


「う、うん。じゃあ……明後日の朝八時、泉方橋で待ち合わせでいいですか?」


「ああ」


石原は短く答えた。


その傍らで静かに書類を整理していた緒山は、ほんのわずかに指の動きを止める。


窓の外から差し込む夕焼けの光が、彼女の横顔をやわらかく照らしていた。

その表情はいつも通り穏やかで、そこに特別な変化は見て取れなかった


---


【五月十二日・日曜日・朝】


玄関の鏡の前で、

石原は少し居心地の悪そうに、

自分の着ている薄いグレーのカジュアルシャツの裾を軽く引いた。


これはいつものように適当に手に取ったTシャツではない。

昨夜、杏にクローゼットの前に引き止められ、あれこれと散々選び直された末に、ようやく決まった一着だ。


曰く――


「頑張りすぎてる感じはしないのに、ちゃんとして見える“勝負服”だよ!」


「……ちょっと堅くないか」


鏡に向かって小さく呟く。


「ぜんぜん大丈夫! お兄ちゃん、そのくらいがちょうどいいって!」


横からぬっと顔を出した杏が、

腰に手を当てて、

いかにも“自分はプロです”と言わんばかりの表情で言い切った。


「いい? 美里ちゃんと一緒のときは、

ちゃんと彼女の意見も聞くんだよ? あの子、

うちのクラスのファッション担当なんだから!」


「……分かった」


石原は短く返すと、そのまま玄関のドアを開けて外へ出ていった。


足音が徐々に遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなる。


それを確認するように、杏はそっとドアに耳を当てた。


しばらくじっとしていたが、やがて顔を上げると、すぐにスマホを取り出してLINEを開く。


「本部へ。ターゲット、出発したよ!」


送信した瞬間、ほとんど間を置かずに返信が届いた。


「了解! こっちも出る!」


「うん、受信完了〜」


杏は満足げにスマホを閉じると、口元に小さく得意げな笑みを浮かべた。


静かな玄関には、もう誰の気配も残っていなかった。


---


時間は金曜日の午後へとさかのぼる。


石原が立花に「一緒にボランティアに行かないか」と提案したその頃――

何も知らない石原杏は、ソファに寝転がって漫画を読んでいた。


そのとき、スマホが突然けたたましく震える。


気だるげに画面を一瞥した杏は、次の瞬間、勢いよく体を起こした。


「ええええ――っ?!」


信じられない、といった様子で何度も目をこすり、見間違いでないことを確認する。


「あの筋金入りの省エネ体質のお兄ちゃんが……

自分から女の子を誘うなんて!?

しかも相手が、まるで中学生みたいに見える美里ちゃん!?」


すぐさま緒山との個別チャットを開き、指をせわしなく動かす。


「朋奈さん! ほんと!? お兄ちゃんが――」


ほぼ同時に返信が返ってきた。


「うん、ほんとだよ。

先輩が自分から手伝おうとするなんて、とてもいいことだよね」


文の最後には、笑顔の絵文字。


杏は眉をひそめた。


……なんか普通すぎる。朋奈さんらしくない。


普段なら、感嘆符や顔文字がいくつも飛んでくるはずだ。


ここ数日、兄と緒山が毎晩楽しそうにやり取りしていた光景が頭をよぎる。


ふと、ひとつの考えが頭をよぎった。


(もしかして……朋奈さん、ちょっとヤキモチ焼いてる?)


その瞬間、杏の中で“とんでもない名案”が形になる。


くすっと悪戯っぽく笑うと、手早くグループチャットを作成した。


――もちろん、兄と立花は除外して。


「諸君!

極秘任務『鈍感なお兄ちゃんの初(仮)デート観察作戦』、ただいま発動!

参加者大募集〜!」


春野陽明はほぼ一秒で参加した。


「こんな面白そうな話、会長の俺が外れるわけないだろ!

部下の将来の幸せ、ちゃんと見届けてやらないとな!」


一方、緒山の返事は少し遅れて届いた。


「それって……あんまりよくないんじゃないかな? こっそり観察するなんて……」


「もしお兄ちゃんがドジって美里ちゃん泣かせちゃったら、すぐフォローに入れるでしょ?」


杏はいたずらっぽい笑顔のスタンプを添える。


スマホの向こうで、「フォロー」という言葉を見つめた緒山は、しばらく迷った末――結局、その小さな引っかかりに抗えなかった。


「……わかった。でも、邪魔はしないこと、ね」


「やった! 決まりだね!」


ちなみに、花野にも春野が声をかけてみたが、返ってきたのは簡潔な一言だけだった。


「つまらない」


――こうして、日曜の朝。


妹主導、生徒会の主要メンバー(表向き)参加による“極秘観察作戦”が決行されることになった。


電車の駅に、三人が順に集まる。


緒山はアイボリーのワンピースに淡いブルーのカーディガン。

手には小さな編み込みのバッグ、普段より少しだけ手の込んだメイクは――

寝不足をごまかすためかもしれない。


春野はパーカー姿で、首からは携帯用の双眼鏡をぶら下げている。完全に“見物しに来た”顔だ


「装備ガチすぎない?」


杏がツッコむ。


ちなみに彼女自身は、デニムのオーバーオールにキャップという、完全に“探偵少女”スタイルだった。


「備えあれば憂いなし、だろ?」


春野は肩をすくめる。


三人はそれぞれの思惑を胸に、電車に乗り込んだ。

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