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第二章 新しい生活――彼女たちが見えない世界

---


また、あの夢だ。


夢の中で――リビングに立っていたのは、十二歳の頃の自分だった。

冷蔵庫には付箋がびっしり貼られていた。

何枚も重なって――まるで、剥がれない傷跡みたいに。


母は俯いたまま、最後の一枚を書いていた。

父はソファに座り、まるで彫像みたいに黙り込んでいた。


そして――母は出て行った。


「……僕のせい、なの?」


その言葉が、耳の奥で何度も響く。

まるで何かが脳の奥に潜り込むみたいに、離れない。


答えを求めて、ただ口にしただけだった。

けれど、その一言は――最後の一片の雪のように、すでに張り詰めていた父の心を、静かに断ち切ってしまった。


父はゆっくりと立ち上がり、彼を一度だけ見た。


その視線を、石原久希はいまでも忘れられずにいる。


怒りでもない。

悲しみでもない。


もっと深い、別の何かだった。


すべてを失ったあとに残る――ただ空っぽで、底の見えない疲労。


そして父もまた、出て行った。


その日から、ひとつの思いが石原久希の胸に残り続けた。


――もし、あの時。

二人の感情をちゃんと読み取れていたなら。


あんな言葉は、口にしなかったんじゃないか。

きっと、違う結末になっていたんじゃないか。


妹だって――自分と一緒に苦しまずに済んだんじゃないか。


その思いは、日ごとに大きくなっていった。


そして、ある朝。

目を覚ました瞬間、世界は――跳ねるような“タグ”で埋め尽くされていた。


彼は、答えを手に入れた。


運命は、どこか皮肉な形で――彼の願いに応えた。


---


石原久希は、弾かれたようにベッドの上で飛び起きた。

荒い息が喉から漏れ、寝間着は冷たい汗でびっしょりだった。


夢の中で見た父の表情が、まだ網膜に焼き付いている。

あの「僕のせい?」という幼い声の残響と重なって、心臓に絡みつくように締めつけてくる。


息が、うまくできない。


ただの夢だ。


それでも、夢の中の無力感と自己嫌悪は、目覚めたあともまるで変わらない。


あれから何年も経ったのに。

「あの時、ちゃんと理解できていれば」「余計なことを言わなければ」――


その後悔は、いまだに胸の奥に深く刺さったままだ。


この忌々しい異能力の正体は――彼がずっと目を逸らしてきた仮説で、過去の自分への残酷な皮肉であり、そして歪んだ代償でもあった。


最も大切な人たちの感情を読み取れなかったせいで、取り返しのつかない過ちを犯した。


だから――

彼の中に残ったのは――

「本当の意味で、感情を読み取りたい」

そんな執念が、心の奥にこびりついた。


そして世界は、それに応えるように“贈り物”を与えた。


――決してオフにできない。

――止まることのない、耳障りな“答え”を


けれど。


彼が本当に読み取りたかった、あの二人の感情だけは――もう二度と戻ってこない。


答えは手に入れた。


だが、もう質問する資格はない。

静かな世界も、もう失っている。


この“才能”がもたらしたのは――

終わることのない騒音と、日々繰り返される自己嫌悪だけだった。


窓の外から、始発電車の警笛が聞こえる。

登校する学生たちの遠い笑い声が聞こえる。


その気配を感じただけで、彼のこめかみがズキズキと痛み始める。


もうすぐ視界に流れ込んでくるはずの色とりどりの感情タグを思い浮かべただけで、頭の奥が軋むように痛む。


石原久希は顔を深く枕に埋めた。

まだ悪夢の汗が残る枕に、くぐもった呻き声を漏らした。


まるで、自分を世界から遮断するかのように。

これから他人の感情で埋め尽くされる世界から、逃げるように。


その息苦しい暗がりの中で、

押し寄せてくるはずの騒音を思い浮かべていた、そのとき。


――ふいに、ある光景が頭に浮かんだ。


昨日、林の中で見た――緒山朋奈の笑顔だった。


少しだけ悪戯っぽくて。

それなのに、陰りなんて一つもない笑顔だった。


そして、あのどこかズレてるような言動。

それなのに、不思議と周りの雑音を遠ざけるような感覚がある。


「先輩、明日も来ますから!」


なぜか――


その言葉を思い出した瞬間、

胸を締めつけていた蔓が、ほんのわずかだけ緩んだ気がした。


自分でも気づかないほど微かな安心が、胸の奥にじわりと広がっていく。


その感覚は、

厚い雲の切れ間から差し込む一筋の光のようだった。


ほんの一瞬。

それでも確かに、胸に残っていた冷たいものを少しだけ和らげてくれる。


顔を枕に埋めたまま、彼はその姿勢を崩さなかった。


乱れていた呼吸が、少しずつ落ち着いていく。

窓の外の喧騒も、どこか遠くへ引いていったように感じた。


疲労と、束の間の静けさが入り混じる。


その二つが混ざり合う中で――


石原久希の意識は、再びゆっくりと闇へ沈んでいった。


---


【五月八日・水曜日・朝】


目を覚ましたときには、すでに朝になっていた。


カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、畳の上に一本の明るい帯を落としている。


石原久希はぼんやりと目を開けた。

昨夜の悪夢の重さは、少しだけ薄れていた。

けれど、疲れはまだ体の奥に重く残っていた。


「お兄ちゃん! お日さま、お尻まで当たってるよー!」


聞き慣れた、元気いっぱいの声だ。

廊下の向こうから近づいてきて――


障子がすっと開いた。


顔を覗かせたのは、妹の石原杏だった。

今日は珍しく、きちんと制服を着ていた。

髪も丁寧に結ばれていて、今日はちゃんと学校へ行くらしい。


目が合った。


目が覚めているのを確認すると、杏はそろりと部屋に入ってきた。

そのまま布団のそばにぺたんと正座して、じっと顔を覗き込んできた。


「……また、怖い夢?」


否定しようとした。


けれど、丸い眼鏡の奥にある大きな瞳には――すでに答えが浮かんでいる。


視界に浮かぶタグ。


【杏の感情:心配70、理解30】


杏はもう、悪夢のあとの様子にも慣れているのだろう。


「……ああ」


短く認めて、体を起こす。


「やっぱり」


杏は小さく息をついた。


それから手を伸ばした。


昔みたいに抱きつくのではなく、

指先でちょん、と額をつついた。


何かを確かめるように。


「早く顔洗ってきて。朝ごはん、できてるよ。今日はお兄ちゃんの好きな玉子焼き!」


【杏の感情:心配50、励まし40、その他10】


明るく振る舞っているつもりなのだろう。

けれど、滲んだ心配までは隠しきれていない。


その顔を見ていると――


夢の中で浮かんだあの考えが、ふっとよみがえった。


――妹まで、自分のせいで苦しまずに済んだんじゃないか。


けれど。


目の前の杏は、もうただ守られるだけの小さな妹じゃない。


心配してくれる。

朝ごはんも作ってくれる。

自分なりのやり方で、支えようとしてくる。


その事実が、胸にずしりと落ちた。


それでも――

ほんの少しだけ、温かかった。


「……わかった」


低く答えて、手を伸ばした。

くしゃっと杏の頭を撫でた。


「あーっ、もう! またぐしゃぐしゃ!」


杏は慌てて髪を押さえた。


「せっかく結んだのにー。あとでお兄ちゃんが直してよね」


「はいはい」


---


石原久希は黙ったまま朝食を食べていた。


玉子焼きは、うまい。

味噌汁も、ちょうどいい温かさだった。


どれも、妹が朝早く起きて用意してくれたものだった。


けれど箸の動きは少し遅かった。

視線はテーブルの端に落ちたままだった。


どこか、現実から浮いているようだった。


テレビでは朝のニュースが流れていた。

アナウンサーの声が、静かなリビングに響いていた。


向かいには、杏が座っていた。

ご飯を箸でつつきながら、時々ちらっとこっちを見ていた。


【杏の感情:心配42、観察35、迷い23】


「お兄ちゃん」


「……ん?」


顔を上げた。


「ううん、なんでもない」

杏は目を伏せ、もう一度ご飯をつついた。


「ただ……呼んだだけ」


少しだけ間が空いた。


それから手を伸ばして、ぽん、と杏の頭を撫でた。


「朝からぼーっとして、どうした?」


「ぼーっとなんてしてないし」

杏は手をひょいと避けた。


「むしろ、お兄ちゃんのほうでしょ」


言い返さなかった。


玉子焼きをもう一切れつまんだ。

やっぱりうまい。


けれど頭の中では、まだあの夢の光景が繰り返されていた。

耳の奥に残ったままの、あの言葉。


――僕のせい?


「お兄ちゃん」


「ん?」


「今日……生徒会、行くの?」


箸が一瞬止まった。


生徒会。

そこには――緒山がいる。


「……行く、つもりだ」


そう答えた。


杏は一度だけこっちを見た。

何か言いたげに口を動かした。


けれど結局――


「そっか」


小さくそう言った。


テレビのニュースが次の話題に切り替わった。


『続いてのニュースです。昨日深夜から本日未明にかけて、泉方区を中心に関東の広い範囲で異常な天文現象が観測され――』


顔は上げなかった。


杏はちらっと画面を見て、


「なんか変なの」


と小さくつぶやき、またご飯に戻った。


朝食はあっという間に終わった。

立ち上がり、食器を流しへ運んだ。


「行ってくる」


「うん、気をつけてね」


玄関で靴を履いた。


そのとき――


動きが少し止まった。


――103号室。


あの表札。


なぜ気になるのか、自分でもわからない。

それでも視線は、つい下の階へ向いてしまう。


ドアは閉まっていた。


視線を引き戻した。


そのままドアを開け、朝の光の中へ出た。


背後で。


杏は玄関に立ったまま、閉まったドアを見つめていた。


しばらくそのまま。


やがて、ふっと息をついた。


---


石原久希がアパートを出ると、

朝の日差しが、正面から差し込んできた。


つい、103号室の方を見た。


ドアが少し開いていた。

見慣れた背中が、玄関で靴ひもを結んでいた。


緒山が立ち上がった。

そのまま、視線が合った。


「おはようございます、先輩!」


「……おはよう」


二人で並んで、駅へ向かった。


朝の風がやわらかくて心地よかった。

通りを歩いている人も、まだまばらだった。


隣では緒山がいつもの調子で話していた。

思いついたことを、そのまま口にしていく。


石原は半分聞き流しながら、たまに短く相槌を打った。


「先輩、今日ちょっと機嫌よさそうですよ?」


「……なんでそう思う?」


「だって――」


くるっと前に回り込んできて、

両手を後ろに組んだまま、後ろ歩きでついてきた。


「ほら、眉間にシワ寄ってないじゃないですか?」


石原は一瞬、足を止めた。

反射的に眉間へ手をやった。


緒山は口元を押さえて、くすっと吹き出した。


「……くだらない」


歩く速度を少し上げた。


けれど緒山は小走りで、すぐに追いついてきた。


---


駅のホーム。


遠くから、大きく手を振る人影が見えた。


「おーい、石原! 緒山!」


春野陽明だった。


大股でこっちへ歩いてきた。

いつもの明るい笑顔。


今日は制服の上着を着ていなかった。

シャツの袖を肘までまくっていて、いつもよりラフな雰囲気だった。


「会長? どうしてここに?」


緒山が少し大げさに目を丸くした。


「ちょっと人探しでな」


春野はにやりと笑い、石原を見た。


「生徒会に興味あるやつがいるって聞いてな?」


石原は横目で緒山を見た。


当の本人はスマホを見つめたままだった。

聞こえていないふりをしていた。


「……まだ決めてない」


「それならちょうどいい」


電車がホームに入ってきた。


春野は体をずらし、先に二人を乗せた。


「乗ってる間に話そうぜ」


---


車内はそれほど混んでいなかった。


三人で端の席に座った。

向かいには春野が座った。


緒山は石原の隣に座った。


電車が動き出した。


窓の外の景色が、ゆっくり流れ始めた。


「さて――」


春野が口を開いた。

さっきより少しだけ真面目な声だった。


「うちの生徒会の“特色活動”、どこまで知ってる?」


「名前だけ」


正直に答えた。


「簡単に言うと、校内の“異常事件”の相談窓口みたいなもんだ」


春野は背もたれに寄りかかった。

世間話みたいな軽い口調だった。


けれど、「異常事件」という言葉に、自然と意識が引き寄せられた。


「生徒とか先生が、常識じゃ説明できないことに出くわしたら、匿名で生徒会に報告が来る。それを俺たちが調べる」


「ほとんどはイタズラとか勘違いで、あとは単なる思い込みってオチだな」


そこで、春野は少し声を落とした。


「でもな――」


「だいたい五〜十パーセントは、完全には否定できないケースが残る」


「たとえば、三回連続で“たまたま”翌日の小テストの問題を夢で見たとか」


「体育倉庫の古いマットが、いつの間にか別の場所に移動しているとか。

監視カメラには、“消えた瞬間”と“現れた瞬間”しか残ってない」


石原は黙って聞いていた。


「つまり――」


隣から、緒山の声がした。


「つまり――ああいう中に、先輩みたいな人がいるかもしれないってことです」


声は小さかった。


視線は窓の外へ向けたままだった。

横顔が少しだけ遠く見えた。


「自分の力に、まだ気づいていない人」


「あるいは――能力のせいで、なんとなく周りとズレてきてしまってる人」


石原はその横顔を見た。


「だからさ」


春野が少し身を乗り出した。


「実際に事情を知ってるやつが一人いるだけで、だいぶ違うんだよ。現象を理解するヒントにもなるし」


「逆に、お前にとっても自分の“特異さ”を整理するきっかけになるかもしれない」


しばらく沈黙が続いた。


人と関わることへの不安と――自分の力の答えを知りたい気持ちが、胸の中で静かにせめぎ合っていた。


「ちなみに――」


緒山がぐっと顔を寄せてきた。

声をひそめた。


「生徒会には今、“異能ロリ”もいますよ?」


「どうです、先輩。ちょっと気になってきたんじゃないですか?」


「……その呼び方がまず問題だろ」


「ロリ、かあ」


春野が顎に手を当てた。


妙に深刻そうな顔だった。


「まあロマンは感じるワードではあるな」


「今すぐ風紀委員に通報します」


緒山が肩を震わせて笑っていた。


電車が軽く揺れた。


もうすぐ駅に着く。


石原は窓の外を見た。


ホームには学生たちが何人か立っていて、次の電車を待ちながら友達と話していた。


ごく普通の朝の光景。


でも――


春野の話が本当なら――

あの報告の中には、自分と同じような人がいるかもしれない。


だとしたら。


この世界は、見た目よりずっと複雑なのかもしれない。


「……考えておく」


そう言った。


「よし!」


春野は立ち上がった。、ぽん、と肩を叩いた。


「今日の放課後、生徒会室来いよ。そんなに考える時間いらないだろ?」


「いや、今日行くとは――」


「見学ってことで!」


緒山も立ち上がった。


目がきらきらしていた。


「“忘れられない歓迎会”、用意しておきますね〜」


なんだか嫌な予感がした。


電車が止まり、ドアが開いた。


三人は人の流れに混ざってホームへ降りた。


朝日がまぶしかった。


前を歩くのは春野だった。

その横で、緒山はまだ楽しそうに“歓迎会”の話を続けていた。


石原はそれを聞きながら――


ふと、思った。


案外――

そこまで悩むほどのことでもないのかもしれない。

---


【五月八日・水曜日・午前】


休み時間。


石原久希は机の上の申請書をじっと見つめていた。

真っ白なままの申請書だった。


ペン先は宙に浮いたままで――どうしても紙に下りない。


勢いで「行く」と言ったものの――

あとになって、現実的な問題が次々と思い浮かんできた。


帰りが遅くなるなら杏に伝えないといけない。

今までの生活リズムも崩れることになる。


それ以上に――

これからは、自分から人と関わる場所に入っていくことになる。


向けられる視線や感情の中に、大勢の中へ放り込まれることになる。


それを想像しただけで、胸の奥がじわりと締めつけられる。


「俺は……何してるんだろうな」


小さく息を吐いた。

額をそのまま、冷たい机に押しつけた。


――けれど。


別の考えが、頭から離れなかった。

少しだけ、妙に気になってしまっていた。


「“異能ロリ”……」


緒山朋奈は特別だった。

強い力を持っている。

……しかも、どこか得体が知れないところがある。


なら――


もう一人の能力者は?

どんな力を持っているのか。


「少しくらい、知れたら――」


「……自分のことも、わかるようになるかも」


その考えが、ほんのわずかな後押しになった。


けれど。


すぐに、もっと厄介な疑念が浮かんだ。


過去の評判や、ぎこちない人付き合い。


そんな自分が入って、本当に迷惑にならないのか。

緒山や春野に、気まずい思いをさせないか。


せっかく居心地の良さそうな場所を、自分のせいでまた変な噂に巻き込むんじゃないか――


「……だめだろ、これ」


両手で顔をこすった。


「……もう言っちまったしな」


「とりあえず……出すだけ出すか」


そのとき。


チャイムが鳴った。


石原久希は自分に言い聞かせるように、さっとペンを走らせ、申請書を一気に書き埋めた。


立ち上がり、職員室へ向かおうとした――


その瞬間。


「石原」


教壇から、教師の声が飛んだ。


「授業中ずっと上の空だったな。あとで職員室に来い」


周囲から、ちらちらと視線が向けられる。


体が一瞬固まり、頭の中で警報が鳴り響いた。


――面倒ごとは避けたい。


反射だった。


「すみません、先生。今ちょっと用事があって……あとでもいいですか」


口に出した瞬間。


言い方がまずかった、と気づいた。


先生の眉がぴくりと動いた。


石原久希は心の中でため息をついた。


――やっぱり。


静かな時間は、もう終わりらしい。


---


石原久希は深く息を吸い、職員室のドアを押した。


三分後。


外に出てきたとき、顔色は入る前よりも悪くなっていた。


さっきの一言が――

「今ちょっと急ぎの用事があって」


あれは完全に言い方を間違えていた――


先生のしかめ面が浮かぶ。

周りから向けられた視線も。


【好奇】

【驚き】

【愉快犯的な嘲笑】


そのタグが、まだ頭から離れない。


「……またやらかした」


廊下の壁にもたれ、目を閉じた。


「先輩?」


聞き覚えのある声がした。


目を開けると、少し先に緒山朋奈が立っていた。

にこにことこちらを見ている。


【緒山の感情:愉悦39】


「先輩、なんか大変そうでしたね〜」


「……まあ、自業自得かな」


「でも申請書、ちゃんと出しました?」


石原は小さくうなずいた。


「それならよかった!」


ぱっと表情が明るくなった。


「じゃあ行きましょう。私たちの拠点へ」


くるっと背を向けて歩き出した。

黒い長髪が、歩くたびにふわりと揺れる。


石原もそのあとを追った。

自然と、隣に並ぶ。


特別棟へ続く渡り廊下を進む。


昼休みになると、生徒の数が一気に増えていた。


笑い声や雑談、足音が――

そして、目に痛いほど派手な感情タグが一度に押し寄せてきた。まるで波のように。


石原のこめかみが、ずきずきと脈打ち始めた。


思わず歩く速度を落とした。

少し距離を取りたくなった。


けれど。


何か気づいたのか、緒山は逆に一歩寄ってきた。


「先輩」


ふいに立ち止まった。


振り向いて、まっすぐこちらを見た。


「……どうした?」


返事はなかった。


そのまま一歩近づいてきて――

ごく自然な動きで、腕を絡めてきた。


石原の体が固まった。

周囲の視線が、一斉にこちらへ向いた。


それがわかった。

タグが大きく揺れていた。


【驚き】

【好奇】

【興味本位】


さっきよりも数が多い。

……しかも、やけに密集していた。


――なのに。


不思議だった。


視線が、さっきみたいに刺さってこなかった。

腕に触れている温度が、やけに現実感を伴っていた。


「な、何して――」


「ほら」


緒山は顔を上げてきた。

目がきらきらしていた。


「今みんな、たぶん思ってますよ?」


「この二人、どういう関係なんだろうって」


「……」


「ぼんやりした怖さって、ちゃんと形にしちゃえば――」


「しかも、ちょっとベタな形にすれば」


くすっと笑った。


「意外と、怖くなくなるんですよ」


ぱちりと瞬きをした。


「少なくとも、“妹大好き先輩”のタグは、今は上書きされてますよ」


石原は口を開いた。

何か言い返そうとして――止まった。


……たしかに。


周囲の視線はまだあった。

でも、さっきみたいに、“変なやつを見る目”ではなかった。


横目で緒山を見た。

前を向いたまま、にこにこしていた。


昼の光の中で、横顔がやけに柔らかく見えた。

髪の先から、ほのかな薬品の匂いがした。


……また、あの匂いだ。


「……お前」


「ん?」


「……いや」


視線を外した。

それ以上は言わなかった。


腕の温もりは、そのままだった。

周囲のタグも、さっきほど騒がしくなかった。


いつの間にか、力が抜けていた。


ただ。


活動室の前に着いたとき、ずっと握っていた拳がいつの間にかほどけていたことに、そこで気づいた。


---


「生徒会」と書かれたプレートが掛かったドア。


その前で、石原久希は一度、深く息を吸った。


この扉の向こう。

これから踏み込む場所。


そして――

もう一人の“同類”。


「……あのさ」


ドアに手をかけた緒山を呼び止めた。


「少し……心の準備とか、したほうがいいのか?」

「その……会うときの注意点とか、あるのか?」


「予習ですか?」


緒山が振り向いた。

目が楽しそうに光っていた。


「先輩、ほんと真面目ですね」


くすっと笑った。


「でも美里ちゃん相手なら、一番いいのは“自然体”ですよ」


「変に構えると、あの子は――」


そこで言葉が途切れた。


突然。


活動室のドアが内側から開いた。


……誰もいない――?


石原は一瞬止まった。

反射的に、視線を落とした。


そして――

目が合った。


まるで星を閉じ込めたみたいな瞳。

左が金で、右が青――


息をのむほど鮮やかな、異色の瞳。


その美しさに驚く間もなく――

少女の表情が固まった。


「……先・輩」


一音ずつ区切った。


声は澄んでいた。

でも、棘があった。


「今――私のこと、見えてなかったですよね?」

「空気扱い、しましたよね?」


石原は、その視線に込められた非難に、少し面食らった。

慌てて口を開いた。


「ち、違う! そういう意味じゃなくて……!」


言葉を探した。


「その……目に意識が持っていかれてただけで、すごく綺麗で……見とれてただけなんだ」


本心だった。


けれど――

少女の表情は、さらに固まった。


【??の感情:照れ35#@##¥】


「わ、私は……そういう意味じゃ……」


石原は、自分でも何かまずいことを言った気がしてきた。


「いや、だから……目がすごく印象的で、それで――」


「それで、私“全体”は見えてなかったってことですか?」


少女の目が、少し赤くなっていた。


石原は言葉を失った。


「お、俺は……」


説明しようとした。


でも、焦れば焦るほど、頭がこんがらがっていった。


目の前には、涙をこらえながら睨んでくる小柄な女の子。


とにかく何か言って、フォローしないといけない。


そう思って――口を開いた。


「な、泣くなって……その、背が低いのだって別に悪いことじゃないし。

むしろ可愛いし、バランスもいいし、気にする必要なんて――」


そこまで言って、自分が何を言ったのか気づいた。


少女の表情が、ぴたりと止まった。


「き・に・し・て・る・ひ・く・さ、ですか!?」


声が一気に跳ね上がった。


【??の感情:怒り85、羞恥#&「<>】


「最低! バカ! 鈍感! 妹溺愛先輩!」


まるで尻尾を踏まれた猫みたいだった。


勢いよく石原を押しのけた。

そのまま、廊下へ一直線。


鮮やかな色のワンピース。

本来なら目立つはずなのに――

人混みに紛れるのが、やけに早かった。


いくつか角を曲がったところで、もう見えなくなっていた。


石原はその場に立ち尽くした。

まだ頭が追いついていなかった。


「おやおや。いきなり高難度ですね、石原書記」


くすっと笑う声がした。


振り向くと――

春野陽明がドア枠にもたれていた。

どうやら最初から見ていたらしい。


「……俺、やらかしました?」


「見事に地雷を踏み抜きましたね」


春野は親指を立てた。


「しかも二つ同時に。才能ありますね」


石原の顔がどんどん暗くなっていった。


「立花美里。一年A組で、杏ちゃんと同じクラスです」


緒山が歩み寄ってきた。

少し苦笑していた。


「すごく頑張り屋さんの子なんですよ」


「……俺、嫌われた?」


最後の言葉が頭に残っていた。


――妹溺愛先輩。


「嫌いってほどじゃないと思いますよ」


緒山は肩をすくめた。


「ただ先輩、見事に“キーワード”を踏みましたね」


「“見てくれてない”のと、“身長”ですね」


「……身長気にしてるなんて言ってない」


「言いました」


「……」


石原は反論をやめた。


「その……」


立花が走っていった方向を見た。


「追いかけた方がいいんじゃないか?」

「かなり怒ってたぞ」


「それはですね――いつもの流れだと――」


春野が言いかけた、その時。


廊下の奥から――


タタタタッ。


勢いのある足音が響いた。


次の瞬間。


立花美里が戻ってきた。


ドアの前で止まった。


肩で息をしていた。

走ってきたせいで、頬も少し赤かった。


「ひ、ひどいです!」


いきなり叫んだ。


「先輩、本当に追いかけてこないんですか!?」


大声で責めてきた。


けれど。


その声に混ざっていたのは――

怒りよりも、どこか拗ねたような響きだった。


「ほらな」


春野陽明は石原に肩をすくめてみせ、それから立花に向き直った。


「石原、さっき君を探しに行こうとしてたんだよ。心配してたみたいだぞ」


その一言で、立花美里の勢いがふっと弱まった。


唇をきゅっと結び、石原久希の前まで歩いてきた。

指先でスカートの裾をもじもじといじっていた。


「……さっきは、わたしが言いすぎました。ごめんなさい、先輩。

あんな呼び方をするつもりじゃなかったのに……」


「いや、俺も悪かった」


石原は慌てて首を振った。


一生懸命に謝っている様子を見ているうちに、胸の奥の気まずさも、少しずつ薄れていった。


「その……立花さん。俺のこと、嫌じゃないのか? ほら……あの噂とか」


思い切って聞いてみた。


立花美里は顔を上げた。

澄んだ目をしていた。


「嫌い? どうしてですか?」


少し首をかしげた。


「先輩って……」


言葉を探すように、少しだけ間があいた。


「……悪い人には、見えません。

それに、朋奈ちゃんと春野会長が認めている人なら……きっと大丈夫です」


【立花美里の感情:歉意35)*%……】


石原の胸がわずかにざわめいた。


まただ。

あの、不安定な感情ラベル。

緒山朋奈のときと同じ。


信号が乱れているみたいに、ところどころ崩れている。


「聞きましたか、先輩?」


横から緒山朋奈が軽く肘でつついた。

声はやさしかった。


「みんながみんな、昔の噂だけで見るわけじゃないですよ。

小美里にも、少し時間をあげてくださいね。

あの子、ちょっと表現が不器用なだけですから」


「うぅ……やっぱり私のせい……」


立花美里がまた沈みかけた。


「いや、本当に大丈夫だから」


石原は声を落として言った。

できるだけ安心させるように言った。


立花美里は深く息を吸った。


そして突然、ぱっと表情を変えた。

何かを決めたような顔になった。


胸元のリボンへ手を伸ばした。


「悪いことをしたら、ちゃんとお詫びしないと!」


顔を上げ、きっぱり宣言した。


石原の背筋に、嫌な予感が走った。


立花美里は大きく息を吸い込み、胸元のリボンに手をかけた。


「ちょ、ちょっと待って! 立花さん——」


……聞いていなかった。


止める間もなかった。


一つ目のボタンが外れた。

二つ目も。

三つ目も外れた。


石原は慌てて視線を逸らした。


春野と緒山に助けを求めるように視線を向けた。

だが二人とも、面白そうに見ているだけだった。

止める気配はまったくなかった。


そして——


立花美里は服の前をつかみ、勢いよく左右に引いた。


「シュッ」と軽い音がした。


桃色のワンピースが、幻みたいにその場で“消えた”。


次の瞬間。


彼女は、爽やかな青白の半袖シャツと、紺色のプリーツショートパンツ姿で立っていた。


どこか制服っぽいデザインだが、シルエットは少し細身だった。

細部には小さな刺繍が入っていた。


「じゃーん! これが私の『制服アレンジver.』です!」


両手を広げて、くるっと一回転した。

顔は誇らしげだった。


「どうですか! すごいでしょ!」


【立花美里の感情:自慢55、期#@^*$】


ラベルはまだ少しちらついていた。

でも数字ははっきりしていた。


「こ、これは……」


石原は言葉に詰まった。


「見たまんまだよ。“着替え”だ」


横から春野が説明した。


「立花の能力は、瞬間的に服を切り替えること。

本人が「着たい」と思って、はっきりイメージできる服なら、ほぼ何でも着られる」


「なるほど……」


石原はほっと息をついた。


「思ってたのと……ちょっと違ったな……

俺、てっきり……その、いや、なんでもない」


言いかけて止まった。


その瞬間。


立花美里の表情が変わった。


「先輩、今なに考えてました?」


じっと見上げてきた。


「な、何でもない」


「絶対失礼なこと考えてましたよね」


緒山がくすっと笑った。


「違うって——」


「あります! 先輩、顔赤いです!」


立花がぱっと気づいた。


一歩ぐいっと近づいた。

異色の瞳がまん丸に開いた。


石原が後ろへ下がった。

だが、立花は追ってきた。


「さっき絶対、私が服脱ぐと思ったでしょ! 変な想像しましたよね!」


「してないって!」


「うそつき! バカ先輩! 妹溺愛先輩!」


また爆発した。


けれど今回は、走っていかなかった。


その場で腕を組み、石原を睨み上げた。

顔は真っ赤だった。


でも——

さっきみたいな、傷ついた光は瞳の中になかった。


石原はふと気づいた。


――待ってる。


彼女は――待っていた。

何か言われるのを、反応を、

「ちゃんと見てもらえた」あとに返ってくる言葉を。


「その……」

石原は口を開いた。

声が少しかすれていた。


「すごいな」


立花美里がきょとんとした。


「その力……」


石原は続けた。


「すごいと思うよ」


彼女がまばたきをした。

一秒。

もう一秒。


その二秒のあいだ、

立花は何も言わなかった。

動きもしなかった。


ただ石原を見ていた。


――本当に?

――本気でそう思ってるの?


そんなふうに確かめるみたいに見つめていた。


やがて、すっと視線を落とした。


「……ふん」


小さな声で。

怒っている様子ではない。

どこか照れくさくて、少し拗ねたような響きだった。


横で春野がわざとらしく咳払いした。


「なあ立花。忘れてないか?」


「……何をですか?」


「石原、いま“すごい”って褒めたよな」


春野が肩をすくめる。


「普通はさ、“ありがとう”って言うところじゃない?」


立花美里の顔がまた赤くなった。


口を開いて、閉じる。


それから――


「……ありがとうございます、先輩」


蚊の鳴くような声だった。


石原は小さくうなずいた。


「どういたしまして」


立花美里が顔を上げた。

ちらっと石原を見る。

すぐに視線をそらした。


その一瞬の視線に――

石原には、まだうまく読み取れない感情だった。


【立花美里の感情:#@$%&】


ラベルはまた乱れていた。


---


春野陽明は石原久希を連れて、生徒会室の中を簡単に案内した。

書類棚の位置やプリンターの使い方、そして書記の仕事――会議記録の整理や行事準備の手伝いが主な役目らしい。


「だいたいこんなところかな」


春野は軽く手を叩いた。


「そんな難しくないよ。慣れりゃすぐできる」


石原は小さく頷き、部屋の中を見回した。


窓際には古い机がいくつか寄せられ、その上にテーブルクロスをかけて会議用の机にしてあった。


壁際には書類棚と本棚。隅には小さなコーヒーメーカーまで置いてあった。


窓辺には多肉植物の鉢がいくつか並び、差し込む陽光が部屋をやわらかく照らしていた。


整然としているわけではない。

けれどどこか温かく、人の気配が残る、居心地のいい散らかり方だった。


「いい感じだな」


石原がぽつりと言った。


「だろ?」

春野が笑った。


「ここ、みんなで結構手をかけて——」


「会長」


隣から緒山が口を挟んだ。


「誰かの紹介、忘れてません?」


「あ」


春野は額を叩いた。


「そうだ、危うく忘れるところだった。

会計は三年B組の花野真汐。聞いたことあるだろ? “学内アイドル”の」


その名前を口にしたとき、春野の声に少し複雑な響きが混じった。

どこか誇らしげで、それでいて――少しだけ畏れているようにも聞こえた。


「今日はレッスンがあって来られないんだ」

春野は続けた。


「ついでに言うと、入試の頃からずっと学年トップをキープしてる天才でもある。

先週の校内人気投票でも、一人で六十三パーセント取った」


石原はわずかに目を見開いた。


「……そんなに?」


「うん。来週ステージがあるから、そのためのレッスンだよ」


春野は肩をすくめた。


「生徒会の仕事なんて、あの人にとっては“おまけ問題”みたいなもんだろうけど」


「……なんか、怖がってるように聞こえるけど」


石原が言った。


春野は一秒ほど沈黙した。


「……俺は何も言ってない」


その横で立花が「ぷっ」と吹き出した。


「真汐先輩、すっごいんですよ!」


椅子から身を乗り出しながら言った。


「この前、会長がレポート書き忘れた時なんて、先輩に三秒じーっと見られただけで——会長、自分から八百字の反省文書きに行ったんです!」


「おい——」


「ほんとですよ! 私、ちゃんと見てました!」


石原は春野を見た。

春野は視線をそらし、コーヒーメーカーをいじるふりをした。


石原は、少し気になり始めていた。


立花があれだけ楽しそうに語って、春野がどこか“恐れている”ような人物。

いったいどんな人なんだろう。


「真汐の話ね」


緒山が頬杖をつきながら言った。

声には、どこか楽しげな響きが混じっていた。


「ステージの上では、キラキラしたアイドル。

でも裏に戻った途端、完全に無表情の仕事モード。

ライブが終わって楽屋に戻った瞬間、表情の切り替えが衣装チェンジより早いんですよ」


そう言って、石原のほうを見た。


「先輩が会えば分かりますよ――面白い人です」


「面白い」、か。


無表情の仕事モード、なんて言われると、石原にはどうにも想像がつかない。

だが、いずれ会うことになるはずだ。


春野がコーヒーを淹れに立った。

部屋は静かになり、コーヒーメーカーのかすかな動作音だけが響いていた。


緒山は窓際でスマホを見ていた。

立花は椅子に寝そべるようにして、ファッション雑誌をめくっていた。


石原は自分の席に座り、その光景をぼんやり眺めていた。


そのとき、ふと気づいた。


――視界に浮かぶ感情タグが、まだそこにあった。


相変わらず揺れながら、点滅もしている。

だが、不思議なことに、いつものような煩わしさがない。


まるで耳元を飛び回る羽虫みたいな、あの煩わしさがない。


ただ、そこにあるだけだった。

背景に溶け込むような、静かな光みたいに。


なぜかは分からない。

慣れてきたのか。

それとも、この部屋の空気のせいなのか。


ただ一つ確かなのは――

こんな感覚は、ずいぶん久しぶりだということだった。


「そういえばさ、石原」


コーヒーを持って戻ってきた春野が声をかけた。

石原の思考はそこで途切れた。


「自分の能力に、“代償”があるって考えたこと、あるか?」


「代償?」


石原は眉をひそめた。


「うん。異能力ってさ、たぶんどれも何かしらの代価があると思うんだ」


春野は気楽な口調で言った。


「ただ、気づいてる人と、まだ気づいてない人がいるだけ。

たとえば石原――毎日あんなに感情に囲まれてたら、けっこうきついだろ?」


石原は少し黙った。


「……まあ、疲れるな」


「それが代償ってこと」


春野は言った。


「ただ君の場合は、一回きりじゃなくて、ずっと払い続けてるだけって話だ」


それ以上、春野はこの話を続けなかった。

コーヒーカップを持ったまま自分の席に戻り、午後の会議で使う資料を整理し始めた。


活動室はまた静かになった。


本をめくるかすかな音。

紙がぱらりとめくれる、軽い音。

そして窓の外から、遠く聞こえてくる部活動の掛け声。


石原は席に座り、焦点の合わない目で机を見ていた


視界には、まだ感情タグが揺れていた。


立花の【集中】がときどき瞬き、

緒山の【平穏】は薄い霧のように漂い、

春野の【真剣】は静かに安定していた。


だが、それらはもう――

いつものような羽虫の群れには見えなかった。


ただ、そこにあるだけだった。

まるで背景に灯る、静かな光のように。


理由は分からない。

慣れたのか。

それとも、この場所の空気のせいなのか。


ただ一つ言えるのは――

こんな感覚は、久しく味わっていなかった。


「――先輩?」


突然、耳元で声が弾けた。


石原ははっと我に返った。


気がつくと、立花美里の顔がすぐ目の前にあった。

異色の瞳が星みたいにきらきらと輝き、面白そうにこちらを覗き込んでいた。


「またぼーっとしてる!」


面白いものを見つけたみたいに、どこか得意げな声だった。


石原は少し身を引いた。


「……何してるんだ」


「別にー。先輩がぼーっとしてる顔、なんか面白くて見てただけ」


そう言って満足そうに笑うと、彼女は自分の席に戻り、またファッション雑誌をめくり始めた。


石原はその背中を見た。

それから、窓際で静かにスマホを見ていた緒山に視線を移し、

書類を整理している春野へと目を向けた。


そして視線を落とした。


ほんの少しだけ、口元が緩んだ。


とても小さく。


誰にも気づかれないほどに。


---


夕陽が傾き始めた頃。

活動室のドアが、静かに開いた。


ノックはなかった。


石原久希は反射的に顔を上げた。

視界に入ったのは、音もなく、気配すら置き去りにして入ってきた影だった。


腰まで届く黒のストレートヘア。

制服はきっちり整えられ、皺ひとつない。

――まるで最初からそうあるべき姿みたいに。


整った顔立ち。

けれど、表情はない。


底の見えない水面のような瞳。

その瞳だけが、静かに部屋を見渡していた。


入ってきても、すぐには口を開かなかった。

ただ立ったまま、視線が順番に一人ひとりをなぞっていった。


春野。

緒山。

立花。


そして最後に――石原。


そこで、ぴたりと止まった。


ほんの一秒。


なのに、その一秒で石原は妙な感覚に襲われた。


見透かされた――

そう思った。


……別に、何もしていないはずなのに。


「真汐ちゃん!」


沈黙を破ったのは立花美里だった。


まるでスイッチが切り替わったみたいに、

椅子からぴょんと立ち上がった。

背筋までぴんと伸びた。


石原はわずかに目を見開いた。


さっきまで椅子にだらけて雑誌を読み、ニヤニヤしながら“ぼーっとしてる先輩”をからかっていたあの立花が――


今はまるで、先生の前に立たされた小学生みたいに大人しい。


花野真汐は軽く頷いた。

それから視線を春野へ向けた。


「報告書、机の上に置いてあります」


声は淡々としていた。

感情の起伏はない。ただ事実を述べるだけの調子。


春野が頷いた。


「お疲れ。レッスンは順調?」


「ええ」


短く答えた。


そして、視線がまた石原へ戻った。


「新しい人?」


「ああ」


春野が立ち上がった。


「石原久希。二年A組。今日から入った書記だ」


花野真汐は、もう一度だけ石原を見た。


一秒。


「花野真汐。三年B組。会計」


それだけ言うと、彼女は自分の席へ向かった。


立花の横を通り過ぎた。


そのとき、ふっと足が止まった。


そして――


手を伸ばした。


自然な動きで、立花の頭の上へと手を伸ばした。


立花の肩がびくりと震えた。


石原はわずかに眉を寄せた。


花野真汐は何も言わなかった。

ただ手のひらを頭に置いたまま――


撫で始めた。


す、と。

ゆっくりと撫でていく。


一定のリズムで。

一度、もう一度、また一度。


まるで精密機器の調整みたいに、正確だった。


けれど立花は――避けない。


俯いたまま立っていた。

張っていた肩が、少しずつ緩んでいく。


数秒後。


彼女の頭が、その手に、無意識に擦り寄っていく。


【立花美里の感情:緊張28、‘#’ -$】


タグが点滅した。


石原は、その文字を見つめた。


……“享受”、か?


こんな扱いをされて、そう感じるのか。


ふと、妹の杏を思い出した。

昔、いじめられて帰ってきたときのことを。


部屋に閉じこもって、誰にも会おうとしなかったあの背中。


胸の奥で、何かが弾けた。


「――やめろ」


気づけば、声が出ていた。


思っていたよりも、ずっと強い声で。


花野真汐の手は止まらなかった。

こちらを見る気配すらない。


立花の頭の上で、手のひらがゆっくり動いていた。

とん、とん、とん。

一定のリズム。


石原は立ち上がった。

そのまま駆け寄り、手首を掴んだ。


「何してるんだ」


「新しい書記、か」


ようやく花野真汐が口を開いた。


声は相変わらず平坦。

まるで報告書でも読み上げているような調子だった。

視線はまだ立花の頭の上に向いたままだった。


「あなたの認識では――これは、何に見える?」


不意の問い。

石原は言葉に詰まった。


口を開いた。

「いじめている」と言いかけて――止まった。


「結論を出す前に――」


静かに言った。


空いている方の手が伸びた。

立花美里の顎をそっと持ち上げた。


くい、と顔をこちらへ向けさせた。


「少なくとも“当事者”の顔くらい見たら?」


視界に入った顔。


頬はうっすら赤く染まり、

目はとろんと細められていた。


口元は緩みきっていて――

かすかに、甘い吐息まで漏れていた。


どう見ても。


完全に“気持ちよさそうな顔”。


立花美里は苦しんでなどいない。

むしろ、撫でられて機嫌の良くなった猫みたいに、

体の力が抜けきっていた。


今にも、その手に頬を擦りつけそうなほどだった。


【立花美里の感情:愉悦85……*&)&】


タグが点滅した。


石原はその文字を見た。


……愉悦?

こんな状況で?


「彼女……」


声が途中で止まった。


花野真汐がようやく視線を上げた。


怒りもない。

嘲笑もない。


ただ静かな――すでに観測済み、とでも言いたげな目。


掴まれていた手首を、軽く振った。

石原の手はあっさり外れた。


「立花の場合」


淡々と説明した。


「後頸部から頭頂にかけての領域――通称“鎮静スイッチ”」


撫でる動作は変わらず、正確なリズムのままだった。


「適切な刺激を与えると、情緒が急速に安定する。

条件次第で、軽度の催眠に近い従順状態へ移行する」


一拍。


「本人が任意で開示している生理特性。

信頼対象にのみ許可されている」


「つまりね」


横から緒山が補足した。

ほっとしたような声だった。


「美里ちゃんって、頭撫でられると超〜〜大人しくなるんですよ」


少し笑った。


「さっき先輩が真汐ちゃんの手をつかんだの、実は美里ちゃんの“お楽しみタイム”止めちゃった感じですね」


一気に血が上って、何も考えられなくなった。


さっき自分は何を考えていた。

何をしていた。


「す、すみません……花野さん、俺……」


花野真汐は答えなかった。


視線を戻し、淡々と“仕事”を続けるだけだった。


ただ。

ほんの一瞬。


口元がわずかに動いた気がした。


……錯覚かもしれない。


「その……」


石原は気まずそうに口を開いた。


「……あと、どれくらい続くんですか」


「過去データでは、最適な鎮静効果に必要な平均時間は三分四十五秒」


即答。


「現在、残り約一分」


「……データあるんですか」


「ある」


さらり。


「立花は貴重な観測サンプルだから」


今日の天気でも話すみたいな口調だ。


そのとき。


花野の手の下で、立花がふにゃっと声を漏らした。


「も、もう……だめ……真汐ちゃん……」


とろんとした声だった。


「わ、わたし……こわれちゃう……」


花野真汐はすぐ手を離した。


素直に引き上げ、そのままハンカチを取り出して指先を丁寧に拭いた。


まるで精密作業を終えた技術者。


立花はふらっと頭を揺らした。

まだ頬は赤い。


石原をちらっと見た。

すぐ視線を逸らした。


「……先輩、バカ」


小さく呟いた。


石原は何も言えなかった。


花野真汐はすでに席に戻っていた。

本を開き、一ページめくった。


そして。

ふと顔を上げた。


石原久希を見た。

まだ少し赤いその顔に、視線が止まった。


一瞬。


「考えなしの衝動は、控えた方がいい」


声は静か。

けれど言葉ははっきりしていた。


「誤解が、毎回解けるとは限らない」


石原は何も言い返せなかった。

ただ、黙って聞くしかなかった。


そこまで言って、ようやく立花美里の頭から視線を外した。

そのまま、ふっと活動室の中へ向けた。


「そもそもの原因は、会長の企画ミス」


春野の肩がびくっと跳ねた。


「えっ……ミス?」


「ええ。歓迎イベントの脚本、書いたのは会長」


「いや、その……」


「権力者の圧力。周囲の黙認。新人の保護本能を刺激する展開――設定自体は悪くない」


淡々と続けた。


「ただし実行段階で、三つの誤差が発生」


春野の顔が、じわじわ固まっていく。


「第一。私の役割が単調すぎる。キャラクターに層がない」


一拍。


「第二。石原先輩の反応強度の予測不足」


そして、少しだけ視線を上げ、春野を見た。


「第三――」


ほんのわずか、間。


「放課後の貴重な時間を消費したわりに、成功率は不明。得られる主な利益は“合法的に立花美里を長く撫でられる”こと」


静かな声。


「費用対効果。再評価が必要」


春野の口がぱくぱく動く。


「以上を踏まえ」


視線を石原へ戻した。


「今回の歓迎企画。失敗判定」


さらり。


「反省レポート八百字。明日放課後まで」


「……八百字?!」


返事はない。

沈黙。


春野の笑顔が、ゆっくり崩れていく。

そして――絶望。


「花野さん、その……八百字はちょっと……」


ちらりと助けを求めた。


しかし。


まぶたすら動く気配なし。


春野は深い溜息を吐いた。

そのまま机に突っ伏した。


完全に“戦闘不能”状態。


石原はその光景を眺めた。


机に沈む会長。

撫でられながら気持ちよさそうに声を漏らす立花。

横で必死に笑いをこらえている緒山。


……なんだ、この生徒会。


とんでもない場所に入った気がする。


緒山がそっと袖を引き、石原を席へ連れていった。


二人で机に向かい、書類を広げた。


——仕事してます、みたいな顔。


でも。


視線だけは、どうしても入口側へ向いた。


花野真汐は相変わらず威厳たっぷりで、容赦の欠片もない。

春野陽明は机の上で完全に“屍”。


そんな光景。


ふと、視線が向いた。

花野真汐の目が、まっすぐ石原を見た。


波のない瞳。


「とはいえ、石原書記」


不意に言った。


「さっき私の手首を掴んだとき」


わずかに首を傾けた。


「誤認という前提を除けば――あの行動力」


小さな間。


「噂どおり」


石原は一瞬、言葉を失った。


“噂”。


その単語に良い記憶はない。


恋妹。

変人。

孤立気味。


だいたいそんな類い。


花野真汐はその表情を見て、淡々と補足した。


「もっと以前の話」


「妹を守るために衝突した――あの噂の方」


少し間を置いた。


「途中で何度も歪曲されているけど」


視線はまっすぐ。


「行動力という核心要素。今日は確認できた」


静かに言った。


「だから信じた」


そのとき。


ほんのわずか。


口元が上がった気がした。


……たぶん。

光の加減。


そう思うほど小さい変化。


「礼は不要」


石原が言葉を探すより早く、次の言葉が落ちる。


「これからよろしく」


事務的。

まるで手続き完了の宣言。


【花野真汐の感情:満足24、安堵76】


表情は相変わらず動かない。


けれど。


浮かぶタグははっきりしていた。


これは社交辞令じゃない。

本気だ。


その瞬間、理解した。


この生徒会、受け入れ方がそれぞれ違う。


春野の強引な勧誘。

緒山の距離の近さと温かさ。

立花のまっすぐで不器用な接近。


そして――


花野真汐。


観察とデータの奥にある、ちゃんとした“承認”だった。


「……こちらこそ」


石原は小さく頷いた。


「よろしく」


その言葉が落ちたとき。


活動室の空気が、ふっと緩んだ。


さっきまで残っていた、どこか張りつめたもの。


それが、ようやく――


完全に、ほどけた気がした。


---


小さな騒ぎが収まったあと。


春野陽明はなんとか立ち直っていた――

もっとも、頭の上には「八百字反省レポート」という黒雲がまだ居座っている。


トレーを持って歩いてきた。

上には淹れたてのコーヒーが数杯。香りがふわりと広がった。


「ほら、ご褒美」


カップが机に触れて、小さな音がした。

それが合図みたいだった。


立花美里が雑誌の陰からひょいと顔を出し、緒山はスマホを置き、花野真汐でさえちらりと目を上げた。


「わあ! 会長ブレンド!」


立花の目がぱっと輝いた。


「可愛い子のためなら、いくらでも」


春野がわざとらしくお辞儀した。


「むっ! また子ども扱い!」


頬を膨らませながらも、しっかりカップは受け取った。


立花のカップは小さめ。

表面にはウサギのキャラクター。

今日のやたら整った服装と、妙にミスマッチだった。


花野真汐も一杯受け取った。


ひと口だけ。

二秒。


「……悪くない」


「最高評価ってことで受け取っとくよ」


春野が苦笑した。


立花の後ろを回り、次の一杯を石原の前に置いた。


そして緒山――

手が少し止まった。


緒山の前にはすでに保温ボトル。

麦茶の香りがほのかに立っている。


「あ、私は大丈夫」


カップを軽く振った。


「夜、眠れなくなっちゃうから」


石原はそのボトルをちらりと見やった。


ごく普通。

色も形も、どこにでもあるタイプ。


「先輩?」


緒山が首をかしげた。

目元がふわりと弧を描く。


「またぼーっとしてるんですか?」


「……いや」


視線を外し、コーヒーをひと口飲んだ。


少し苦い。

でも悪くない。


活動室が、少し静かになった。


コーヒーの香り。

窓から差し込む夕陽。

部屋全体が、やわらかな橙色に染まっていた。


立花はカップを両手で包み、ちびちび飲みながら――ちらりと石原を見た。


気づかれて、慌ててカップに顔を埋める。


数秒、沈黙。

また、ちらり。


——またバレる。


三回目で、さすがに声をかけられた。


「……俺の顔、何かついてる?」


「げほっ、ごほっ!」


立花は派手にむせた。

口を押さえて咳き込んだ。

顔は真っ赤だった。


「な、ないです! だ、誰が先輩なんか見て——!」


【立花美里の感情:慌乱72#@¥%】


タグが、また崩れる。


石原は少し固まった。


……何かまずいこと言ったか?


「美里ちゃんはね〜」


横から、緒山。

声を伸ばしてくる。

目は三日月。


「先輩と話したいのに、ちょっと照れてるんですよ〜」


「ち、違います!」


声が一オクターブ上がる。

それ以上は言えず、またカップへ顔を沈めた。


耳だけが真っ赤だ。


石原は、その赤い耳を見た。


……どう反応すればいいんだ。


「統計上」


ぽつり。


部屋の隅から声がした。


花野真汐。

本をめくる手は止まらない。


「コーヒーでむせる確率と、発話頻度には相関がある」


ページをめくる。


「立花。今日は通常より発言量が二十七パーセント増加」


「花野先輩、なんでも記録しないでください!」


「サンプルには沈黙の権利がある」


淡々。


「ただし発言はすべてデータとして保存される」


立花が口を開く。

閉じる。


顔にそう書いてあった。


——反論できない。


春野が横で吹き出した。


石原はその光景を眺めた。


会長は笑っていた。

立花は真っ赤になっている。

緒山は楽しそうに眺めていた。

花野は静かにページをめくっていた。


その中心で、石原の口元がほんの少しだけ緩む。


今度は——

はっきり、自分でもわかるほどに。


思わず、みんなの感情タグに目を向ける。


【愉悦71】【放松64】【平静82】【好#@¥%】……


数字は静かに揺れていた。

もう、棘みたいには感じない。


むしろ——呼吸みたいに自然だ。


視線を落とす。

コーヒーをひと口、含む。


少し苦い。

でも、悪くない。


コーヒーの香りと夕陽のぬくもりが、活動室にゆっくりと満ちていく。

椅子に腰かける者もいれば、机に寄りかかる者もいる。

みんな思い思いにカップを手にして、どうでもいい雑談を交わす。


ときどき笑い声が弾ける。


温かいカップを両手で包みながら、その光景を眺める。


胸の奥が、じんわり満ちていく。


コーヒーよりも、ずっとはっきりしている。


——人って、


こんなふうにも関われるんだな。


その気づきが、静かに胸の奥へ沈んでいく。

コーヒーの温度と、部屋に満ちた笑い声と一緒に沈んでいく。


ずっとあった疑いが、少しずつ薄れていく。


ふと顔を上げる。

視線を部屋の中に巡らせる。


最後に止まったのは——緒山朋奈。


麦茶を小さくすすっていた。

こちらの視線に気づいたらしい。


顔を上げた。

目が合った。


首をわずかに傾けた。

そして——


カップの水面みたいに、やわらかな笑みを浮かべた。


昼間よく見せる、あの軽い調子じゃない。

からかうような色もない。


ただ、静かで——

まっすぐな安堵があった。


夕陽が窓から差し込み、瞳の奥で小さくきらめく。


「先輩、思ったよりここに馴染んでますね」


声は控えめだった。

でも、はっきり届く。

周りの雑談の中でも、不思議なくらいはっきりと。


その言葉は、やさしい確認みたいに聞こえた。

今日一日の変化を、ちゃんと見ていたと言うみたいに。


——ほら。

外に出てみても、そんなに悪くないでしょう?


そんな意味まで含んでいる気がした。


胸の奥が、きゅっと締まる。


温かいのに、

少しだけ痛い。


口を開いた。


結局出たのは、ぎこちない一言だけ。


「……うん。ありがとう」


——誘ってくれて。

——あきらめずにいてくれて。

——ここを、安心できる場所にしてくれて。


本当はそう言いたかった。


でも、それは言わないでおいた。


緒山は笑みを深めた。

何も言わなかった。


再びカップを持ち上げた。


それだけ。


けれど、その無言の理解が、部屋の空気に静かに広がっていった。


忙しくて、騒がしくて、少し混乱して。

それでも、やけに満ち足りた一日だった。


その一日は、静かに幕を閉じた。


---


夕陽が沈みかけるころだった。

放課後の校内は、少しずつ静かになっていった。


花野真汐はそのままレッスンへ向かい、

残った生徒会メンバーは一緒に校門を出た。


「えっ、私だけこっちなの!?」


分かれ道の前で、立花美里が悲鳴を上げた。


「気をつけて帰ってね、美里ちゃん」


緒山が手を振った。


「じゃあな」

「またな」


石原と春野も声をかけた。


「わかってるってば!」


頬を膨らませながらも、すぐに笑顔になる。

そのまま元気よく走っていった。


スカートが軽やかに弧を描いた。


残った三人は並んで駅へ向かった。


少し歩いたところで、春野が横目を向けた。


「初日どうだった?」


にやりと笑った。


「俺たちみたいな変人集団に、引かなかったか?」


石原は少し考えた。


「……平気だ」


一拍、間を置いて。


「思ってたより、ずっと良かった」


「“ずっと良かった”だけ?」


すぐ横から顔を寄せてくる。


緒山。


わざとらしく肩を落とした。


「私たち、けっこう頑張ったんですよ?

“ここ楽しいよ〜、いいとこだよ〜、入ろ〜”って空気を全力で出してたのに……」


わざとらしく、うるっとした目で見てくる。


「それで“ずっと良かった”だけなんですか?

会長、これダメっぽいですよ……」


「おいおい、巻き込むな」


春野が苦笑した。

でも目は楽しそうだった。


二人の掛け合いを見て——


石原は、とうとう観念した。


「……最高だったよ」


ぽつり。


だが、次の瞬間——


「これでいいんだろうが!」


ほとんど叫んでいた。


「夢みたいだった!

……いや、夢で思い描くより、ずっといい場所だった!」


言った瞬間、ひどく恥ずかしくなった。


顔をそむけた。


沈黙が落ちる。

ほんの一秒。


そして——


春野と緒山が同時に笑い出した。


からかいじゃない。

嬉しそうな笑いだった。


「石原がそんなこと言うとはな」


春野が肩を軽く叩いた。


「今日は大成功だ」


横で緒山が目を細めた。

夕陽に照らされた笑顔だった。


「先輩って……やっぱり可愛いですね」


そんなやり取りをしているうちに、駅に着いた。

春野陽明は反対方向の路線へ向かうようだ。


「じゃあ、また明日な。二人とも」


軽く手を振り、

そのまま人混みに紛れていった。


気づけば、ホームに残ったのは石原久希と緒山朋奈だけだった。

夕方の風がひんやりと頬を撫でた。

さっきまでの喧騒も、どこか遠くへ退いていく気がした。


「先輩」


緒山が静かに呼んだ。


「ん?」


振り向くと、まっすぐ視線を向けてきた。

いつもの軽い笑いも、からかう気配もない。


残っていたのは——

ただ、あたたかな真剣さだけだった。


「……生徒会へ、ようこそ」


短い言葉だった。

飾りもない。

けれど——


その一言が、やけに重く感じた。


ここにいていいという実感と、

来てくれたことへの嬉しさと、

それから——これから一緒にやっていくという気持ち。


夕陽の赤金色が、窓越しに差し込んだ。

淡い茶色の髪と、真剣な横顔を柔らかく照らした。


その光景を見ていると、ふと思う。


もう、感情タグなんてなくてもいい。


今この瞬間の気持ちくらい——

ちゃんとわかるんだ。


胸いっぱいに広がる、まっすぐな嬉しさがあった。


それが、こんなにもはっきり伝わってくる。


……息を忘れそうになるほどだった。


「……ありがとう」


出てきた言葉は、たったそれだけ。

少し不器用な響きだった。


けれど、その意味は自分でもわかっている。


遠くから電車の走行音が近づいてきた。

レールが震え、風が揺れた。


ふと顔を見合わせて、

自然と笑い合った。


そのまま並んで、帰りの電車に乗り込んだ。


---


夕食の時間だった。


石原久希はどこか落ち着かなかった。


箸は動いていた。

けれど、頭の中は別の場所にあった。


今日のことが、頭の中で何度も再生されていた。


活動室に漂っていたコーヒーの香り。

春野の苦笑。

頬をぷくっと膨らませて、すぐ機嫌を直す立花美里。


花野真汐の、淡々とした的確な一言。


そして——


夕陽のホームで見た、緒山朋奈の笑顔。


もうタグなんてなくてもわかる。

あの瞬間の気持ちが、はっきりとわかる。


「お兄ちゃーん! お兄ちゃん!」


遠くから声が飛んできた。

だんだん近づいてくる。


「ん?」


ようやく我に返った。


「どうした?」


「さっきから何回呼んでると思ってるの!」


石原杏が頬を膨らませた。

箸で茶碗の縁をちょんちょん叩いた。


「帰ってきてからずっとぼーっとしてるし、

ご飯食べてる間も上の空だし……」


じっと見上げてくる。


「生徒会で、何かあった?」


相変わらず鋭い。


石原は軽く咳払いした。


「別に。いろいろ教えてもらってただけだ」


「ふーん?」


杏がわざとらしく声を伸ばした。


「でもさー。聞いたよ?」


にやっと笑った。


「お兄ちゃん、朋奈さんと一緒だったんでしょ?

しかも、一日ずーっと」


情報が早すぎる。


ごまかすのは無理そうだ。


石原は観念した。


「……ああ」


箸を置いた。


「誘ってくれたのは緒山さんだ。

今日も、いろいろ案内してもらった」


「へえ——」


石原杏が意味ありげにうなずいた。

ふっと身を乗り出して、声をひそめた。


まるで大事な秘密でも打ち明けるみたいな顔で。


「ねえ、お兄ちゃん。

……朋奈さんのLINE、欲しい?」


ほとんど反射だった。


「……欲しい」


言った瞬間だった。


妹の顔が、ぱっと明るくなった。

「やっぱり!」と「捕まえた!」が混ざったような、満面の笑み。


「やっぱりね!」


杏がばん、とテーブルを叩いた。

もちろん、皿や茶碗はちゃんと避けていた。


「今日のお兄ちゃん変だったもん!

仕事覚えてただけ〜とか言ってたけど、

絶対朋奈さんのこと考えてたでしょ!顔も赤かったし!」


「杏!」


耳の奥が熱くなった。

久希は慌てて言い返した。


「違う。俺はただ……その……

連絡先くらいは必要だろ」


「誰のこと考えてたら、妹が呼んでも聞こえなくなるの?

それにさ、花野先輩も美里ちゃんも“同僚”だよね?」


にっこり。


「どうしてその人たちのLINEは欲しがらないの?」


……完璧な論理だった。


反論できない。


久希は肩を落とし、箸を置いた。

目の前の小悪魔みたいな妹を見た。


「ふん!」


杏は腕を組み、近くのクッションを抱き上げて立ち上がった。

そして、わざと大きな声で言った。


「図書委員の私だって、お兄ちゃん何回も誘ったのに!

一回も来てくれなかったのに!」


ぷくっと頬を膨らませた。


「なのに朋奈さんに誘われたらすぐ行くんだもん!

もう知らない!お兄ちゃんなんて大嫌い!ばか!」


そのままクッションを抱えて、


ばたばたと走っていって——


自分の部屋へと向かった。


バタン。


ドアが閉まった。

……鍵は、かかっていなかった。


久希はそのドアを見て、思わず額を押さえた。

ふっと笑いが漏れた。


ゆっくりドアへ近づき、軽くノックした。


「おい、杏」


中から、わざと怒った声が返ってきた。


「なに!ばかお兄ちゃんは話しかけないで!」


久希はドアにもたれた。


声を少しだけ柔らかくした。


「……理由があるんだよ。

生徒会ってさ、ちょっと変わってて」


部屋の中が、しんと静かになった。


数秒の沈黙。


それから、声が小さくなった。


さっきまでの怒りも、どこかへ消えていた。

残っていたのは、少しだけ不器用な心配だった。


「……朋奈さん、いい人なのは知ってるし」


ぽつり。


「お兄ちゃんが信じてるなら……

私は別に反対しないけど」


早口だった。

ちょっと照れているみたいに。


「それに……」


少し間を置いて。


「お兄ちゃんの世界が、少し広がるなら、

いろんな人と関われるならさ……その方がいいし」


胸の奥が、ふっと温かくなった。


久希が何か言おうとした、そのとき——


ドアの隙間から——


すっ。


一枚の紙が滑り出てきた。


拾って、開いた。


きれいな字で、いくつかの名前とLINE IDが並んでいた。


一番上には——


「緒山朋奈」


その下には、


「立花美里」

「花野真汐」


そして一番下には——


丸みのある可愛らしい字で、小さな追記があった。

横には怒った顔の落書きも添えられていた。


『P.S.

お兄ちゃんは大——ば——か!

(`へ´)ノ』


久希は思わず笑った。


部屋の中で杏が——

「ばかばか」と文句を言いながら、

真面目に連絡先を書いて、

最後にこの一言を書き足す姿が——


そんな様子が、なんとなく目に浮かんだ。


胸が、じんわり温かくなった。


「ありがとな、杏」


ドア越しに、静かに言った。


中から、かすかな声が返ってきた。


「……ふん」


それきりだった。

あとは、物を片づけるかさかさした音だけが聞こえてきた。


久希は紙を握ったままリビングへ戻った。


窓の外は、もう夜。

けれど部屋の灯りはやわらかく、暖かかった。


スマホを取り出した。


紙の一番上には——


「緒山朋奈」


そのIDを見つめた。


少しだけ迷った。


……けれど。


指が、ゆっくり動いた。


検索して——


そして——友だち追加した。


「……なんか、始まったな」


ふっと、そんな思いが浮かんだ。

---


杏は廊下に立ったまま、閉じたドアを見つめていた。


しばらく、そのまま立ち尽くしていた。


それから、ふっと小さく息をついた。

くるりと踵を返して、自分の部屋へ戻った。


デスクライトをつけた。

机の引き出しを開け、茶色の紙のファイルを取り出した。


そっと開いた。


中には書類の束が入っていた。

見出しには——「尋ね人」「失踪者調査進捗」といった文字が並んでいた。


一番上にあったのは、古い写真だった。

それは、両親の写真だった。


杏はそれを、じっと見つめた。


しばらくの間、ただ見つめていた。


写真の中の二人は、笑っていた。

杏は、笑っていなかった。


やがて、静かにファイルを閉じた。

引き出しへ戻した。


デスクライトを消した。


部屋が暗くなった。


その暗闇の中で――


小さく、ため息が漏れた。

【あとがき】


読了ありがとうございます!


次回、第三章 【告白――僕が見た、彼女の本当の気持ち】では、

ついに二人が向き合うことになります。

あのカフェでの出来事——そして、緒山の口から語られる“過去”とは?


もしこの作品を気に入っていただけたら、

ブックマークや⭐評価で応援していただけると嬉しいです。


それでは、次回もお楽しみに!

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