第一章 出会い——彼女の感情だけが、読めない
【はじめに】
この作品は、中国語の小説を日本語に翻訳したものです。
原作の雰囲気や登場人物の感情をできるだけ大切にしながら、翻訳しています。
原作はすでに完結している作品ですので、安心して読んでいただけると思います。
翻訳は、週2回ほどのペースで投稿していく予定です。
もし日本語に不自然なところなどがありましたら、コメントで教えていただけるととても助かります。今後の参考にさせていただきます。
最後になりましたが、この作品を手に取ってくださり、本当にありがとうございます。
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【五月六日・月曜日・朝】
「誰か飛び込むつもりよ!」
その悲鳴は鋭いガラスみたいに、泉方橋の朝の静けさを突き破った。
石原は反射的に顔を上げた。
次の瞬間、視界いっぱいに混乱が弾けた――
【恐慌74】【慌張82】【好奇31】……
無数の感情タグが、驚いた羽虫みたいに狂ったように跳ね回り、石原のこめかみをがんがん刺激した。
これが彼の能力――「感情視覚」。
他人の頭上に浮かぶ感情の種類と数値が見える。かつては、自分がずっと求めていた答えそのものだと思っていた。けれど今では、鳴りやまないノイズでしかない。
だが、本当に石原を呆然とさせたのは――橋のたもとに立つ、あの少女だった。
石原と同じ制服を着ていた。
肩にかかる黒髪が朝の光を受けて、かすかに艶めいていた。
その顔には、感情らしいものが何ひとつ浮かんでいなかった。
そして彼女の頭上――本来なら感情タグで埋まっているはずのそこには、ただひと続きの文字化けだけが、ちかちかと点滅していた。
【??:緊張2?害#*$%¥&】
初めてだった。誰かが彼の能力の視界から“消えた”のは、これが初めてだった。
石原が反応するより早く、少女は一度だけ彼を見た。
そして、ほんのわずかに笑った。
その笑みはひどく淡くて、朝霧みたいに頼りなかった。
次の瞬間――彼女の身体が、ふっと後ろへ反った。
「待て!」
石原は鞄を放り投げ、そのまま駆け出した。
どうして頭で考えるより先に足が動いたのか、自分でも分からなかった。
だが、三歩目を踏み出したその瞬間――覚えのない不快感が、いきなり彼を掴んだ。
冷たい指先で心臓を摘ままれるみたいな動悸が走り、眩暈は渦みたいに視界を呑み込み――舌先には、錆びた鉄みたいな味まで滲んできた。
石原は二歩ほどよろめき、目の前が真っ暗になった。
そのまま、橋の路面に激しく叩きつけられるように倒れ込んだ。
――何が起きた?
こんな異様な感覚……初めてだ。
どれほど時間が経ったのか分からない。
ようやく石原は、もがくように起き上がった。
橋の下の水面は、相変わらず静かだった。
誰かがもがいた気配もなければ、助けを呼ぶ声もなかった。
さっきまで悲鳴を上げていた通行人たちも、今では何事もなかったみたいな顔で、足早に通り過ぎていく。
買い物かごを提げたおばさんが石原の横を通りながら、「遅れちゃう」とぶつぶつこぼした。
その頭上に浮かぶタグは、ただ一つ――【焦り】。
そこに【恐慌】の痕跡は、まったく残っていなかった。
石原は橋のたもとで、荒く息をついた。
朝の風が、湿って冷えた背中を吹き抜けた。
そのとき、あまりにも馬鹿げた考えがふと頭に浮かんだ。
――あの少女は、消えた。
皆の記憶ごと、消えてしまった。
石原は自分の手を見下ろした。
その指先は、まだかすかに震えていた。
舌先に残る錆びた鉄みたいな味は、何かを告げる無言の警告みたいに、いつまでも消えなかった。
「いったい……何が起きたんだ?」
電車が駅へ滑り込んでくる轟音が、遠くから近づいてきた。
石原は機械みたいに人の流れに紛れ、そのまま車両へ乗り込んだ。
空いていた窓際の席を見つけて腰を下ろし、虚ろな目で、窓の外を流れていく街並みを見つめた。
舌先に残る錆びた鉄みたいな味は、まだ消えていない。
あの少女の笑みも、川へ落ちていったあの動きも、それに、通行人たちから一瞬で消え去ったあの恐慌も――
すべてが、やけに現実味のある夢のようだった。
けれど、胸の奥に残る動悸だけは、それが夢じゃないと訴えていた。
――これは夢じゃない。
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「おい――石原!」
聞き慣れた声が、不意に石原の意識を引き戻した。
石原ははっと我に返った。
気づけば、いつの間にか隣には春野が座っていて、訝しげな顔で石原を見ていた。
「三回も呼んだぞ。何考えてたんだ?」
春野は手にしたスマホを軽く振ってみせた。
「乗ってからずっとぼーっとしてるし、魂でも抜けたみたいな顔してるぞ」
【春野陽明の感情:疑惑38、心配62】
石原は口を開きかけた。
だが、言葉は喉の奥で止まり、そのまま飲み込んだ。
「……いや、なんでもない。ちょっと寝不足なだけだ」
結局、そう言うしかなかった。
「またまた」
春野は明らかに信じていない様子だったが、それ以上は突っ込まず、代わりにぽんと石原の肩を叩いた。
「その顔色じゃ、知らないやつが見たら幽霊でも見たのかって思うぞ」
幽霊。
その言葉が、石原の胸に小さく引っかかった。
――もしかしたら、本当に見たのかもしれない。
石原の隣に座っているこの背の高い男子生徒は、同じ電車で通学している泉方新高三年の先輩――春野陽明だった。
生徒会長で、校内バスケ部の主力選手でもあり、面倒見もよくて生徒たちからの人気も高かった。
電車は揺れながら進んでいた。
春野はやがて、生徒会の話をし始めた。
「来月の体育祭は早めに準備を始めないとな」――そんな話だった。
石原は半分も聞いていなかった。
ぼんやりとした視線は、車窓のガラスに向いていた。
ガラスには自分の顔が映り、その背後に乗客たちのぼやけた輪郭が重なって見えた。
――すべて、いつも通りだった。
だが、電車が駅に滑り込もうとした、そのとき――
石原はふいに息を止めた。
窓の反射に、背後に立つ女子生徒の姿が映った。
彼女はスマホを見下ろしていた。
黒く長い髪に、見覚えのある制服――
彼女はふと顔を上げ、車窓の方をちらりと見た。
その瞬間、石原は跳び上がりそうになった。
反射的に振り返った。
――だが。
そこにいたのは、ビジネスバッグを提げた中年の男と、話し込んでいる女子生徒が二人だけだった。
「どうしたんだよ、今度は」
春野は石原の反応に驚いたように声を上げた。
「……いや」
石原はゆっくりと前を向き直った。
声はわずかに乾いていた。
「なんでもない。たぶん……ほんとに寝不足なんだと思う」
電車のアナウンスが駅名を告げた。
春野は立ち上がりながら言った。
「ほら、降りるぞ。しゃきっとしろよ、石原」
二人は人の流れに紛れて電車を降りた。
見慣れたホーム。
見慣れた朝の光。
見慣れた通勤通学の人波。
すべてが、いつもと同じだった。
――ただ一つ。
何かが、確実に変わっていた。
それを知っていたのは、石原だけだった。
石原は無意識に唇を舐めた。
舌先に残る、あのかすかな錆びた鉄の味は、まだ消えていなかった。
――あの女子生徒は、いったい誰なんだ?
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校門をくぐった瞬間、あの馴染んだ息苦しさが胸の奥までせり上がってきた。
廊下には、連れ立って歩く生徒たちがいた。
笑い声に話し声、それに足音が――いろんな音が入り混じっていた。
だが、それ以上にうるさいものがあった。
視界には、終わりのない感情タグが浮かび続けていた。
【興奮61】【苛立ち34】【不安42】【期待53】……
どれも細い針みたいにこめかみを刺してきた。
逃げ場なんて、どこにもなかった。
石原はうつむいたまま、人混みの中を早足で抜けていった。
耐えようとしなかったわけじゃない。
むしろ、一度は人を信じてみようとしたこともあった。
半年前のことだった。
「石原くん、一緒にご飯どう?」
そう言って、笑顔で話しかけてきた相手がいた。
石原は少し迷ってから、うなずいた。
その日の昼休み、もしかしたら自分にも友達ができるのかもしれない――そんなふうに思った。
だが次の日には、もう噂が広まっていた。
そいつは人だかりの中に立って、笑いながら石原が指さされるのを見ていた。
頭上のタグは――【得意83】。
今の石原にとって、「一人でいること」のほうが、よほど安全だった。
午前中の授業は、ほとんど何ひとつ頭に入ってこなかった。
机に突っ伏し、腕の中に顔を埋めた。
少しでも、あの“ノイズ”を遮ろうとした。
だが、意味はなかった。
目を閉じても、視界の端ではタグが跳ね続けていた。まるで、追い払っても消えない羽虫の群れみたいに。
「……ああ、もう。うっとうしい」
石原はいら立ったまま、身じろぎするように姿勢を変えた。
顔を窓のほうへ向けた。
青い空。白い雲。
陽射しも悪くなかった。
――なのに、やけに目に刺さった。
休み時間になると、教室はさらに騒がしくなった。
笑い声。
追いかけっこ。
スマホを囲んで騒ぐグループ。
その中で、石原だけが動かなかった。
机に突っ伏したまま、石原だけがその場から切り離されたみたいに動かなかった。
そのときだった。
背中を、つん、と軽く突かれた。
「石原くん?」
石原は眉をひそめて顔を上げた。
目の前には、心配そうな顔をした隣の席の甘露寺十花がいた。
【甘露寺十花の感情:心配42、躊躇38、困惑20】
「顔色、あんまり良くないよ……」
彼女は小さな声で言った。
「保健室、行ったほうがいいんじゃない?」
石原は、じっと彼女を見た。
その顔には、はっきりとした善意が浮かんでいた。
――半年前の、あいつと同じだった。
石原は指をぎゅっと握り締めた。
「だから……大丈夫だって言ってるだろ!」
思ったよりずっと大きな声で、しかもかなりきつかった。
――しまった。
そう思ったときには、もう遅かった。
教室が一瞬で静まり返った。
全員の視線が、石原に集まった。
甘露寺はその場で固まっていた。
さっきまでの笑顔は消えて、戸惑いと怯えに変わっていた。
【恐慌34】【好奇57】【嫌悪12】……
無数のタグが花火みたいに弾け、視界を白く染めた。
石原は勢いよく立ち上がった。
椅子が床をこすって、甲高い音を立てた。
何か言おうと口を開いた。
だが言葉は出なかった。喉が詰まったみたいだった。
結局、何も言えなかった。
石原は視線を落とし、そのまま教室を飛び出した。
背後で、教室のドアが閉まった。
――その音は、どこかため息みたいに聞こえた。
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トイレの洗面台に両手をつき、石原は荒い息をついていた。
蛇口から冷たい水が勢いよく流れ続けていた。
石原はそのまま顔を水の中へ埋めた。氷のような冷たさで、こめかみの痛みを押さえ込もうとした。
やがて顔を上げた。
鏡に映ったのは、ひどく青ざめた顔だった。
頬を伝う水滴が、まるで涙みたいに落ちていった。
「……また、やらかした」
その思いが、重い石みたいに胸の奥へ沈んだ。
甘露寺十花の表情が浮かんだ。
あの瞬間に固まってしまった表情と、その目の奥に浮かんでいたはっきりとした恐怖まで、ありありと思い出された。
――彼女は、ただ心配してくれただけだ。
何も悪くなかった。
それなのに石原は、また善意を突き返してしまった。
今朝、家を出る前のことを思い出した。
妹の杏が、弁当を彼のバッグに押し込みながら笑っていた。
「今日はお兄ちゃんの好きな玉子焼き入ってるよ」
背伸びして、ぽんと彼の肩を叩こうとしていた。
「がんばってね、お兄ちゃん。今日も一日!」
――もし杏が、さっきの自分を見ていたら、なんて言うだろう。
半年前のことが、ふとよみがえった。
妹がいじめられ始めたころだった。
杏は家に帰ると部屋に閉じこもり、ずっと泣いていた。
石原はドアの外に立ち、必死にこらえたすすり泣きを聞くことしかできなかった。
何もできないまま、最後に言ったのは一言だけだった。
「……明日、俺が学校に行く」
次の日、石原は校長室に乗り込んだ。
そのあと、いくつものクラスを回って話をした。
教室の前に立ち、関わった生徒の名前を一人ずつ読み上げた。
恥なんてどうでもよかった。
怒鳴られても構わなかった。
ただ、伝えたかった。
――妹は、好き勝手に傷つけていい存在じゃない。
あの頃の自分は、大事な人を守るためなら何だってできると思っていた。
……それが今はどうだ。
たった一言の心配さえ、まともに受け取れなくなっていた。
石原は両手で顔をぱん、と叩いた。
それでもう一度、皮膚が赤くなるまで何度も叩いた。
「……このままじゃダメだ」
もう一度、水で顔を洗った。
深く息を吸った。
蛇口を閉め、トイレのドアを押して外へ出た。
廊下には、相変わらず強い日差しが差し込み、やけに目に痛かった。
通り過ぎた生徒が、好奇心まじりに石原をちらっと見た。
だがすぐに視線を外し、足早に去っていった。
視界には、相変わらず感情タグが浮かび続けていた。
それでもそのときは、苛立つ気力すらなかった。
ただ席に戻って机に顔を伏せ、何事もなかったふりをしたかった。
教室のドアを開けた瞬間、ちょうど昼休みのチャイムが鳴った。
甘露寺は弁当箱を片付けているところだった。
石原が入ってくるのを見ると、手がぴたりと止まった。
そして、反射みたいにほんの少しだけ身を引いた。
その小さな動きが、胸に針みたいに刺さった。
石原は自分の席まで歩いた。
だが座らず、甘露寺の机の横に立った。
そして小さな声で言った。
「……ごめん」
甘露寺は顔を上げた。
驚いたように目を見開いた。
「さっきは……言い方きつかった」
石原は彼女を見なかった。
視線は机の角に落ちていた。
「心配してくれてたの、分かってる」
短い沈黙が流れた。
【甘露寺十花の感情:驚き45、緊張31、安堵24】
「……う、ううん。大丈夫だよ」
まだ少し緊張した声だった。
でも、さっきよりは柔らかかった。
「ほんとに顔色悪かったから……先生、呼んだほうがいいかなって」
怖がっていた。それでも、まだ彼を気にしていた。
石原はようやく彼女を見た。
そして小さく首を振った。
「ありがとう。でも、いい。気をつける」
自分の席に座った。
バッグから弁当を取り出し、ふたを開けた。
中には玉子焼きがきれいに並んでいて、その黄金色が目に入った。
石原は一つつまみ、口に入れた。
甘い味が舌先でふわりと広がった。
胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ軽くなった気がした。
教室のざわめきが、ゆっくり戻ってきた。
笑い声。
話し声。
誰かが横を通り過ぎた。
もう石原のことを気にする者はいなかった。
だが今回は――
視界に浮かぶ感情タグも、
さっきほど目障りには感じなかった。
石原は弁当をゆっくり食べながら、窓の外を見た。
今日はいい天気だった。
校庭では、生徒が走っていた。
ボールを追いかけている連中もいた。
その向こう。
校舎の横にある小さな林が、昼の光の中で静かに佇んでいた。
石原は弁当箱を見下ろした。
それからもう一度、窓の外を見た。
数秒、迷った。
やがて立ち上がった。
弁当をバッグにしまった。
教室のドアを開けた。
そして、その林へ向かって足早に歩き出した。
――そのときの石原はまだ知らなかった。今回の“少し外へ出る”という選択が、やがてすべてを変える相手との出会いにつながることを。
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石原は人混みをうまく避けながら校内を抜けていった。
校舎脇の細い通路を通り、「立入禁止」の札が立っているのも気にせず進んだ。
軽く助走をつけ、そのままひょいっと柵を乗り越えた。
その先は、小さな林だった。
学校の敷地の端にある、ほとんど人が来ない場所だった。
――石原だけが知っている、秘密基地だった。
昼休みだった。
妹が作ってくれた弁当を食べながら、今日も「放課後直帰部」――ただまっすぐ家に帰るだけの時間を思い描いていた。
それだけで、少し気分が軽くなっていた。
……そのときだった。
「えっと、あの――」
突然、背後から声がした。
石原はびくっと肩を跳ねさせ、ほとんど反射で振り向いた。
そこに立っていたのは、一人の女子生徒だった。
にこにこしながら、こちらを見ていた。
身長は一六〇センチくらいだった。
黒いロングヘアが肩のあたりまでかかっていた。
夏服の制服スカート姿で、雑誌から抜け出してきたみたいな雰囲気のある、かなり可愛い子だった。
……だが石原が真っ先に思ったのは、それじゃなかった。
――今朝、橋の上にいたあの女子だ。
間違いなかった。
ただ、目の前の彼女はまるで別人みたいだった。
あのときの、どこか空っぽな静けさは、もう消えていた。
今は、明るい笑顔で、元気そのものって感じだった。
「今朝、橋で――」
思わず口から出た。
「わっ!」
女子生徒の目がぱっと輝いた。
「私、B組の緒山朋奈です! A組の石原先輩ですよね? 前にお見かけしたことあります!」
そう言いながら、一歩近づいてきた。
石原は反射的に半歩下がった。
【??:緊張31、興#*$%@&】
――またこれだ。
「……能力、効いてないのか?」
石原は小さくつぶやいた。
「……で、何の用?」
緒山は首をかしげた。
少し不思議そうな顔をした。
「先輩、覚えてないんですか……? あはは、今のは忘れてください!」
「同じ学年なのに、なんで先輩?」
「私、飛び級なんです。だから先輩より一歳下なんですよ~」
指を一本立ててみせた。
それから、ふと思い出したようにまた一歩近づいた。
「先輩は私のこと知らないかもしれませんけど、先輩の名前は一年で知らない人いないですよ!」
石原の表情が少し曇った。
――あの件だ。
妹がいじめられていたとき、校長室に乗り込んで、クラスを回り、関わった生徒の名前を全部読み上げた。
そのせいで、いつの間にか変なあだ名まで付いた。
「シスコン先輩」
……正直、思い出したくもない。
石原は話題を変えた。
「今朝、泉方橋にいた?」
緒山はぱちぱちと瞬きをした。
それでも笑顔は崩れなかった。
「やっぱり見てたんですね、先輩」
「どういう意味?」
「つまり先輩も――“選ばれし者”ってことですね!」
急に大げさなポーズを取った。
「伝説によると、泉方新高には七柱の神がいて――かつて壮絶な戦いを繰り広げ――」
「帰る」
石原は立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
緒山は慌てて彼の制服の裾をつかんだ。
「冗談ですって! ちゃんと話します!」
そして、少し身を乗り出した。
「先輩と同じで、私も“異能力者”なんですよ」
石原は足を止め、振り返った。
緒山は人差し指を唇の前に立てた。
「でも、能力の内容は秘密です」
にやっと笑った。
「“切り札を見せるのは自殺行為と同じ”って言うじゃないですか。もしかしたら先輩と敵同士になって、大戦争になるかもしれませんし!」
石原はぼそっと言った。
「……俺と付き合うかもしれないけどな」
言った瞬間、少し後悔した。
「いや、その……よくあるだろ、そういう展開。小説とかでさ」
緒山の顔が一瞬で真っ赤になった。
口元を押さえて、二歩ほど後ろに下がった。
「せ、先輩……それって告白ですか!?」
「……冗談」
「わ、私の返事はもう少し待ってくださいね!」
「聞いてない」
石原は小さくため息をついた。
そのままベンチに座り直した。
気づけば、すっかり彼女のペースに巻き込まれていた。
普段より、ずっと多く喋っていた。
それが妙に落ち着かなかった。
「……疲れるな」
緒山はそのまま隣に腰を下ろした。
遠慮なんてまるでなかった。
「先輩もここでお昼食べてるんですか?」
石原は軽くうなずいた。
弁当箱を片づけ始めた――さっさと離れたほうがいいな。
「本当はもう少し景色でも見てたかったんだけど、可愛い後輩がここで昼食べてるなら、邪魔しないでおくよ」
「えー? 照れてるんですか? それとも女の子ダメなんですか?」
「どっちでもない」
「うわー、冷たい……」
緒山は頬杖をつきながら石原を見た。
「でも先輩、今から人がほとんどいない穴場なんて見つかります?」
石原の手が止まった。
……たしかに。
この学校、どこへ行っても人がいた。
石原は長く息を吐いた。
「……言われてみればな。どこも騒がしすぎる」
「だって先輩みたいな不良って、わりといますからね~」
「不良、ね……好きに言えばいい」
石原がどこか気だるそうなのに対して、緒山は最初からずっと楽しそうにしていた。
こうして隣に座られると、なんとなく落ち着かなかった。
「お前は? この学校、気に入ってるみたいだな」
「はい!」
「学校にいると、安心するんです」
「安心? 俺には分からないけど」
「友達と一緒なら、急に倒れても大丈夫じゃないですか。家で一人でいるより安全ですしね」
石原はわずかに動きを止めた。
「……倒れる?」
「た、たとえ話ですよ!」
緒山は手を振った。
緒山はポケットから小さなノートを取り出した。
それは青い星空の表紙で、角が少しすり減っていた。
ぱらっとページを開いた。
「学校で“やることリスト”を達成していくのって、けっこう楽しいんですよ」
石原の前に差し出した。
「ほら。“特別な場所で、特別な思い出を作る”――これが一つ目です! 今朝、泉方橋で日の出を見たので、もうチェック済みです!」
石原はちらっとだけ目をやった。
ページにはびっしり文字が並んでいた。
ただ、一番下の行だけ目に入った。
インクがにじんでいて、かろうじて「……時間」と読めた。
次の瞬間、緒山はぱたんとノートを閉じた。
そのままポケットにしまった。
「一応言っておくけどさ。俺、お前が思ってるほどいい人じゃない」
「たとえばお前が倒れても、面倒だからそのまま帰るかもしれない」
「それはないですよ」
「……ずいぶん俺のこと分かったように言うんだな」
「俺さ、シスコン先輩って呼ばれてるんだよ。何するか分からない奴だって評判だ」
「妹溺愛って、むしろプラスですよ」
石原は言葉に詰まった。
「先輩は妹を守ろうとしただけですよね」
緒山は石原をまっすぐ見ていた。
「誰が何を言っても、それは間違ってないと思います」
石原は黙ったままだった。
そんな答えが返ってくるとは思っていなかった。
たいていの人は、噂を信じていた。
誰かが広めた話を、そのまま本当だと思っていた。
「それに」
「先輩、私が落ちかけたとき、すぐ助けようとしてくれましたよね?」
石原は口を開きかけて、閉じた。
頭の中に、いくつかの記憶がよぎった。
――人を信じなくなった理由。あの嫌な記憶の断片。
緒山は立ち上がった。
手に持っていた水のボトルを、ぽんと上に放った。
「先輩の噂って、私にはこんな感じです」
「“近づくなー!”って、そんな感じです」
落ちたボトルを、ぱっと拾い上げた。
「でも結局、先輩ってちゃんと拾うタイプですよね」
「わ、私、そんな軽い女じゃないですよ!?」
「誤解がひどいですよ」
緒山は口元を押さえて笑った。
その笑い方を見て、石原はふと思い出した。
ずっと昔のことだった。
自分も、こんなふうに笑っていた気がした。
なぜかは分からなかった。
でも、気づけば石原の口元も少しだけ緩んでいた。
「A組の石原久希だ。……改めて、よろしく。緒山さん」
「また会えて嬉しいです、先輩」
---
二人は、気づけばいろんな話をしていた。
「生徒会の副会長?」
「えっ、知らないんですか!? 私、歴代でも一番人気の副会長なんですよ!」
「それは初耳だな」
異能力の話になると、緒山の目がきらきらし始めた。
「おおー! 先輩、人の感情が見えるんですか? すごい能力ですね!」
「でも緒山さんのは、あんまりちゃんと見えないんだ」
「おおー……」
緒山は本当にノートを取り出した。
ぱらっと開いて、何か書き始めた。
「“先輩いわく、私は特別な人らしい”……っと、メモメモ」
「勝手に盛るな」
だが、彼女の能力のことや今朝の橋の出来事を聞こうとすると、そのたびにうまく話をそらされた。
「せ、先輩……私のこと、全部丸裸にしたいんですか!?」
わざとらしくしょんぼりした顔をした。
石原はそれ以上聞かなかった。
誰にだって、隠したいことはあった。
木の葉の隙間から、日差しが地面にこぼれていた。
光がゆらゆらと揺れていた。
いつの間にか、蝉の声もそれほど気にならなくなっていた。
石原は腕時計をちらっと見た。
針は一時を指していた。
ちょうどそのタイミングで、昼休み終了のチャイムが鳴った。
「そろそろ戻るか」
立ち上がろうとすると、服の裾をちょんと引かれた。
「えっと……あの、もうちょっとだけダメですか?」
「これ以上いたら遅刻する」
「そ、そうなんですけど、その……」
【緒山朋奈の感情:落ち込み21、内#$?¥】
石原は一瞬だけ動きを止めた。
――ああ、そういうことか。
彼女は、気にしているらしかった。
能力のことをはぐらかしたままでいいのか、と考えているらしかった。
石原は小さく息を吐いた。
「能力のことなら、気にしなくていい」
「え?」
「詳しく話さなくても、別に怒らない」
緒山はほっとしたように笑った。
「先輩、読心術でも使えるんですか? 私が考えてたこと、すぐ分かっちゃうなんて……」
「ちょっと恥ずかしいです」
彼女は腕時計を見た。
針はすでに一時二分を過ぎていた。
緒山は勢いよく立ち上がった。
振り向いた拍子に、髪の毛先が石原の鼻先をかすめた。
その瞬間、石原はかすかな匂いを感じた。
シャンプーの匂いでもない。
林の草木の匂いでもない。
――別の何か。
とても薄い匂いだった。
気づくかどうかも分からないくらいの、かすかな薬品みたいな匂いだった。
気のせいかもしれなかった。
「気づいたらこんなに長く話してました!」
緒山は慌てて荷物をまとめた。
「急に慌ただしくなったな」
「時間って大事なんです!」
「そうか」
緒山は数歩走り出した。
数歩進んで、振り返った。
「明日も来ますから!」
「……は?」
彼女は手をぶんぶん振った。
そしてそのまま、振り向かずに走っていった。
石原はその場に立ったまま、彼女の背中を見送った。
やがて姿は林の向こうに消えた。
――薬品の匂い。
――倒れる、という妙な冗談。
――ノートの一番下に書かれていた、にじんだ「……時間」。
そして――
最後まで、はっきり見えなかったあの感情タグ。
「緒山朋奈……」
石原はその名前を一度つぶやいた。
それから首を振った。
――考えすぎだ。
ただの偶然の出会いだろう。
だがそのときの石原は、まだ知らなかった。
少し抜けていて、よく喋って、
たくさん秘密を抱えていそうなあの女子が――
長い間守ってきた彼の「静かな日常」を、
あっという間に壊してしまうことになると。
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同じころ――103号室。
緒山朋奈はベッドの端に腰掛け、
手首の淡い青色のリストバンドをじっと見つめていた。
それを指で軽く弾いた。
かすかな音が鳴った。
「あと……どれくらいかな」
ぽつりとつぶやいた。
それからベッドに倒れ込み、目を閉じた。
外では、相変わらず日差しが明るかった。
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夜。
家に帰って玄関を開けた瞬間、石原は何度も大きなため息をついた。
それも一度や二度ではない。
その音に、寝室で漫画を読んでいた妹が顔を出した。
パンダのパジャマ姿で、
(好きなキャラのコスプレらしい)
腕いっぱいに、テープで補強された漫画本を抱えていた。
「ため息やめてよ~。今ちょうど泣けるシーンだったのに。お兄ちゃんのせいで台無し」
石原杏。
小さなポニーテールに、家の中でだけかける赤い丸メガネをしていた。
背は低く、整った顔立ちもあって、かなり小柄で可愛らしかった。
けれど、よく知る人間はみんな分かっていた。
そのオタクっぽくて可愛い外見の裏に、同年代よりずっと鋭い頭脳を隠していることを、みんな知っていた。
杏は泉方新高の一年生だった。
かなり重度のオタクで、アニメや漫画にハマると平気で一、二日学校を休んだ。
そのたびに「家族旅行」とか適当な理由をでっちあげた。
とはいえ成績は優秀なので、先生たちもだいたい見て見ぬふりだった。
「じゃあ、もう一回吸い直してやるよ。ほら」
石原は笑いながら、わざと大きく息を吸い込んだ。
こんなふうに肩の力を抜いて笑えるのは、妹の前だけだった。
「それよりさ、弁当ちゃんと食べた?」
「こんな可愛い妹の弁当だぞ? 残したらバチ当たる」
「なにそれ。褒めても何も出ないよ?」
杏はくすっと笑った。
【石原杏の感情:照れ47、喜び23、期待30】
石原は、妹をからかって笑わせるのが好きだった。
そうこうしているうちに、石原は手提げ袋からプリンをいくつか取り出した。
「ほら、頼まれてたやつ」
「ありがと、お兄ちゃん」
杏はぱっと笑顔になって受け取ると、ぴょこぴょこ跳ねながらソファへ戻った。
嬉しそうにする妹を見て、石原も満足げにうなずいた。
「晩ごはん、テーブルにあるよ。自分で温めてね」
「ああ、神様ありがとう。こんな可愛い妹をくれて」
「私はお兄ちゃんの物じゃないから」
「じゃあ、神様ありがとう。俺をこんな出来た妹の兄にしてくれてさ」
「もういいから早く食べて!」
言葉の端々に、照れと嬉しさが混じっていた。
杏が満足そうにプリンを食べるのを見て、石原もつられて笑った。
兄妹の空気は、いつも通り穏やかだった。
食事が終わり、杏は食器を片付けた。
だが部屋には戻らなかった。
ソファに膝を抱えて座り、水を飲んでいる兄を見ていた。
そして、ぽつりと口を開いた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「まだ使ってるの? あの能力」
石原の手が止まった。
「……ああ。どうした?」
「ううん。別に」
杏は膝に顎を乗せた。
「たださ」
「お兄ちゃんって、いつも私が何考えてるか分かるでしょ。ずるいなーって思うんだ」
少し間を置いて続けた。
「でも私は、お兄ちゃんが何考えてるか全然分かんない」
顔を上げ、眼鏡を軽く押し上げた。
「ねえ、お兄ちゃん。お父さんが出ていった日さ」
「お母さんが最後に残したメモ、あれ本当に『お母さんはお兄ちゃんを愛してる』って書いてあったの?」
石原の喉が詰まった。
あの日。
母がメモを書いていた横顔を思い出した。
まるで家事でも片付けるみたいに、静かな顔だった。
けれど、その奥までは読めなかった。
――今みたいに。
妹の目の奥も、ちゃんとは見えなかった。
「……漫画読んでろよ」
結局、石原はそう言うだけだった。
妹の頭を軽く撫でて、答えを避けた。
杏は追及しなかった。
ただ少しだけ彼を見つめて、「……うん」と小さく返事をした。
---
その夜。
石原はベッドに腰掛け、スマホの画面を見つめていた。
春野とのチャット画面だった。
文字を打っては消し、また打っては消すのを繰り返していた。
(なんだよ……この感じ)
「へぇ~。あの人付き合いが苦手なお兄ちゃんが、そんなことで悩むんだ」
「っ!?」
石原の手が跳ねた。
振り向くと、いつの間にか妹が背後から覗き込んでいた。
「い、いつ入ってきた!?」
「普通に歩いてきたよ?」
杏はにやっと笑った。
「お兄ちゃん、別のこと考えててさ。ドア開けっぱなしだった」
石原は深く息を吸い、スマホをベッドに伏せた。
「変なこと考えるな。ただの……対人スキルの練習だ」
「はいはい~」
杏はわざとらしく声を伸ばし、隣に腰を下ろした。
「で、その“林の中のあの子”って、生徒会副会長の緒山朋奈先輩でしょ?」
石原は少し驚いた。
「知ってるのか?」
「知らない人なんていないよ?」
杏は指を折りながら数えた。
「飛び級生。最年少の副会長。しかも可愛い」
「一年生じゃ普通に有名人だよ」
【石原杏の感情:真剣47、様子見32、その他21】
石原は、その“わざとらしさ”に気づいた。
「……何が言いたい?」
杏は首をかしげた。
メガネのレンズが光った。
「別に。たださ」
「緒山先輩って、ちょっと気になる人だなって思って」
「どういう意味だ」
「うーん……」
杏は少し考えた。
「いつも忙しそうなんだよね。時間が全然足りない、みたいな感じ」
「でも不思議と慌ててないし、全部きちんとこなしてる」
少し間を置いて、
「なんていうか……」
「何かに追われてるみたい」
――時間が足りない。
石原は、その言葉をふと思い出した。
林の中で、緒山が言っていた言葉。
「時間って大事なんです!」
そして、あのノートの一番下に、インクがにじんで書かれていた「……時間」。
「でもさ、お兄ちゃん」
杏は少し身を乗り出し、急に軽い調子で言った。
「さっき春野会長にメッセ送ろうとしてたよね? 『可愛い子に話しかけられたらどうすればいい?』みたいなやつ」
石原は固まった。
「ははっ!」
杏は、してやったりといった顔で笑った。
「安心してよ、お兄ちゃん。私は全力で応援するから!」
そこで一度言葉を区切ってから、
「まあ、緒山先輩ってほんと魅力的だけどさ――」
杏は立ち上がり、ドアのところまで歩いた。
振り返って、妙に真面目な顔で言った。
「犯罪だけはダメだからね」
「心配しすぎだ!」
ドアが閉まった。
石原は小さく息を吐き、もう一度スマホを手に取った。
ちょうどその時、春野から返信が届いた。
「とりあえず一回見てみるわ」
じっと見てるスタンプ付きだった。
(……なんだそれ)
石原はスマホを置き、そのままベッドに倒れ込んだ。
天井には、窓の外の街灯の光がぼんやりと映っていた。
(時間が足りない……か)
ふと、思い出した。
あのときの笑顔。
振り向いたとき、ふわりとかすめた薬の匂い。
手首のバンドをじっと見つめていた、その横顔。
――考えすぎだ。
まだ会ったばかりだ。
石原は目を閉じた。
---
【五月七日・火曜日 朝】
石原は、あまりよく眠れなかった。
昨日からずっと頭に残っていたのは、緒山のあの言葉だった。
『明日も来ますから!』
何度も考えた末、結局「偶然だろ」と自分に言い聞かせた。
家を出て、階段を降りた。
一階に着き、角を曲がったところで足が止まった。
103号室。
ドア横の表札には、はっきりとこう書かれていた。
――緒山。
石原はその場で固まった。
あの女子が、自分の家の真下に住んでいる?
そのときだった。
103号室のドアが開いた。
緒山がリュックを背負って出てきた。
「いってきまーす」
部屋の中にそう声をかけてから、振り向いた。
――石原と目が合った。
【緒山朋奈の感情:困惑21#@?$】
二人とも固まった。
「べ、別に怖がらないでください。俺、ストーカーじゃないですから……絶対」
「わ、私もストーカーに狙われるタイプじゃないと思います……たぶん」
微妙な沈黙。
そして、二人同時に吹き出した。
「はははっ、こんな偶然あるんですね!?」
緒山は口元を押さえながら笑った。
「先輩、何階なんですか?」
「302号室」
「えっ、真上じゃないですか!」
「じゃあこれから一緒に登校できますね!」
石原は口を開いた。
本当は「一人の方が楽なんだけど」と言うつもりだった。
けれど、結局飲み込んだ。
「……好きにしろ」
---
二人は並んで駅へ向かった。
朝の光はやわらかく、風も心地よかった。
石原はうつむいたまま早足で歩いた。
緒山は小走りで追いつき、前に回った。
両手を後ろに組み、今度は後ろ向きのまま歩き始めた。
「『これで、登校までずっと落ち着かなくなっちゃいましたね!?』って感じですか、先輩?」
石原の足がぴたりと止まった。
(この子……読心術でもあるのか?)
「『この子、読心術でもあるのか?』って思いましたよね?」
「……その能力、ほんとに読心術なんじゃないかって疑うぞ」
「だって先輩、分かりやすいんですもん!」
緒山はけらけら笑った。
朝日が彼女の顔に差し込んだ。
石原はふと気づいた。
彼女と並んで歩いていても、思ったほど疲れなかった。
――口には出さなかったが。
---
駅前に着くと、見覚えのある姿が目に入った。
杏だった。
壁にもたれながら、退屈そうに立っていた杏は、兄の姿を見た瞬間、ぱっと顔を明るくした。
そして、その隣にいる人物に気づいた途端、さらに目を輝かせた。
「お兄ちゃん! 緒山先輩!」
久希の胸が嫌な予感でざわついた。
「わー! お兄ちゃんが言ってた“偶然会った子”って、朋奈先輩だったんだ!」
杏は駆け寄ると、いきなり緒山の腕にぎゅっとしがみついた。
「先輩先輩! 私、石原杏です! 一年A組! 先輩のこと知ってます!」
「えっ、杏ちゃん?」
緒山の顔がぱっと明るくなった。
「私も聞いたことある! お兄ちゃん、かなりのシスコンなんでしょ?」
「そうそう! 昨日も家でずーっとぼーっとしてて! 絶対先輩のこと考えてたんですよ!」
「おい——」
けれど、二人はもうすっかり話し始めていて、石原が口を挟む隙はなかった。
「先輩、これ見てください! 最近いちばんハマってる漫画なんです!」
「わっ、この絵めっちゃ可愛い! ちょっと見せて!」
「いいですよ! カバンにまだ何冊か入ってます!」
石原はいつの間にか端へ追いやられていた。
さっき会ったばかりのはずなのに、二人はまるでずっと前から仲のいい姉妹みたいに盛り上がっていた。
(まあ……あの二人が気が合うなら、それでいいか)
石原は少し後ろを歩きながら、ぼんやりと緒山の姿を目で追った。
やがて電車がホームに滑り込んできた。
三人で乗り込むと、杏は当然のように緒山の隣へ座った。
そしてまた漫画の話で盛り上がった。
石原は向かいの席に座り、時おりちらりと緒山を見るだけだった。
やがて駅に着くと、杏は手を振ってそのまま一年の校舎のほうへ駆けていった。
石原と緒山は並んで二年の校舎へ向かった。
「杏ちゃん、ほんと可愛いですね」
緒山がそう言った。
「それに、これからは『朋奈さん』って呼ぶって言ってくれて。兄妹って、すごく仲いいんですね」
「……まあ」
「いいなぁ」
ぽつりと、緒山がつぶやいた。
石原は横目で彼女を見た。
朝の光が差し込んで、その表情はよく見えなかった。
「じゃあ私、先に教室行きますね! 先輩、またお昼に!」
緒山は手をひらひら振って、B組の教室へ入っていった。
扉が閉まった。
石原はその場に立ったまま、閉まったばかりのドアを見つめていた。
(あいつ……いや、緒山は……)
石原は小さく首を振った。
それ以上は考えなかった。
---
同じころ、B組の教室前では――
緒山は教室に入り、自分の席に腰を下ろした。
机に突っ伏しながら、そっと自分の胸元に手をやる。
「あと……どのくらいかな」
小さくつぶやくと、それから鞄から教科書を取り出し、ぱらりと開いた。
気づけば、いつもの笑顔に戻っていた。
---
一時間目が終わると、石原は教室を出た。
自販機で飲み物でも買って、少し気分を変えたかった。
一年の廊下を通りかかったとき、ふと視界の端に人影が映った。
小柄な少女だった。
灰白色の長い髪をツインテールにしていて、窓際に一人で立っていた。
制服には明らかに手が加えられていた。
スカートの裾には細かなレースが施され、シャツの襟元にはきらりと光る星型のピンがついていた。
ツインテールは、小さな鈴のついた髪紐で結ばれていた。
周りに人はいなかった。
彼女は廊下に背を向け、うつむいたまま動かなかった。
窓から差し込む光が、彼女の輪郭をふわりと縁取っていた。
なのに、どこか寂しそうに見えた。
石原が視線を外そうとした、そのときだった。
その女子がふいに手を上げ、襟元を軽く指で叩いた。
かすかな光が走ったかと思うと、次の瞬間にはレースの形が変わり、さらに別のデザインへと切り替わっていった。
まるで衣装そのものが変わっていくみたいだった。
それを何度も繰り返していた。
見ている者は誰もいなかった。
石原は思わず足を止めた。
――マジックか?
それとも――
【??の感情:集中57#@*$%】
彼女の感情タグも、どこかおかしかった。
文字が崩れていた。
緒山のときと同じだった。
そのときだった。
女子生徒が、はっとしたように振り向いた。
目が合った。
一瞬、表情が固まった。
ほんのわずかな間だけ――
石原は、彼女の素の表情を見た。
笑顔も、明るさもなかった。
ただ、秘密を見られたときのような焦りだけがあった。
だが次の瞬間には、その表情は消えていた。
ぱっと笑顔になったが、それは少しだけ作りすぎたように見えた。
彼女は小走りで近づいてきた。
「こんにちはっ! 二年A組の石原先輩ですよね? 生徒会の掲示に写真が出ていて、見かけたことあります!」
元気よく頭を下げた。
「私、生徒会書記の立花美里です! お会いできて嬉しいです!」
【??の感情:緊張60@#*$】
「……どうも」
石原は軽くうなずいた。
そのまま通り過ぎようとした。
こういう距離の近さには慣れていなかった。
「先輩、先輩!」
だが立花は追いかけてきた。
そしてポケットから、手品みたいにキャンディを取り出した。
「これどうぞ! 会長が“先輩が一年のフロアに来たら、ちゃんと気にかけてあげてね”って言ってたんです!」
くすっと笑う。
「まあ、先輩の方が先輩なんですけどね~」
石原はキャンディを受け取った。
その笑顔を見た。
そして思い出した。
さっき見た、窓際の後ろ姿。
誰もいない場所で、何度も衣装を切り替えていたあの様子を。
「……ありがとう」
結局、それだけ言った。
そして背を向けた。
数歩歩いてから、石原はふと振り返った。
立花はまだその場に立っていた。
もう笑っていなかった。
視線を落とし、手のひらをじっと見つめていた。
廊下の光の中で、その横顔はどこか頼りなげに見えた。
石原の脳裏に、あのおかしな感情タグと、一人きりで繰り返していた衣装の切り替え、そして見られた瞬間のあの焦りがよぎった。
(……またか)
(また、何か隠してるやつか)
石原は視線を外し、そのまま自販機へ向かった。
(最近、妙なことばっかりだな……)
廊下には、昼休み前のざわめきが広がり始めていた。
立花の姿は、いつの間にか人の流れに紛れていた。
もうどこにいるのか分からなかった。
石原は深く考えず、教室へ戻った。
---
午後の陽射しが窓から斜めに差し込み、机の上に明るい光の帯を落としていた。
石原は机に突っ伏したまま、うとうとと眠っていた。
夢の中は、見慣れた薄暗さだった。
彼はリビングに立っていた。
冷蔵庫には、びっしりと付箋が貼られていた。
彼はそれを一枚ずつ目で追っていった。
「小希、お弁当は冷蔵庫に入ってるよ。ママ、あと数日で帰るから」
「小希、ママはしばらく出かけます。ちゃんと自分のことを大事にしてね」
「小希、ママはしばらく帰れません。生活リズムに気をつけて、妹とパパのこともちゃんと見てあげてね。ママはあなたを愛してる」
最後の一枚は、いちばん丁寧な字で、わざときれいに書いたようだった。
母親がこれを書いていたときの横顔を、彼は覚えていた。
落ち着いた顔で、まるで家事をひとつ片づけるみたいだった。
それから彼は振り向き、ソファのほうを見た。
ソファには父親が座っていた。
「パパ、ママはまだ帰ってないの?」
父親は新聞を置き、こちらへ歩いてきた。
身をかがめて、彼の頭をそっと撫でた。
その手つきはやさしかった。
だが、その手はわずかに震えていた。
「帰ってくるよ、小希」
少年は父の頭上に浮かぶ数字を見上げた。
あの頃の彼には、まだその力が未熟で、その数字の意味も分からなかった。
ただ、父の目だけは覚えていた。
「パパ……あれ、本当にママが残したの?」
父の手が、空中で止まった。
「……僕のせい?」
父は答えなかった。
ただ、ゆっくりと身を起こした。
付箋を一度だけ見て、それから息子へ視線を戻した。
最後にかすかなため息をつき、父はそのまま寝室へ戻っていった。
数日後、父もいなくなった。
---
「おい、石原。授業終わったぞ」
誰かに軽く肩を押された。
石原ははっと目を開けた。
午後の光が少し眩しかった。
教室はほとんど空で、荷物をまとめている生徒が数人いるだけだった。
窓の外から、体育の笛の音が聞こえてきた。
石原は体を起こし、顔をこすった。
夢の残像がまだ頭に残っていて、胸の奥にはあの重たい感覚が残っていた。
腕時計を見た。
昼休みも、もうすぐ終わりだった。
そのとき、ふとあることに気づいた。
弁当のことだった。
石原は鞄を開け、中をのぞいた。
空だった。
朝、急いで家を出たせいで、妹が用意してくれた弁当を持ってくるのを忘れていた。
石原はため息をつき、再び腕の中に顔をうずめた。
腹が減ること自体は、別にどうでもいい。
問題は、これを妹に知られたときだった。
きっとあの「やっぱりね」とでも言いたげな目で見てきて、「バカなお兄ちゃん」とでもぶつぶつ言うに違いなかった。
(……金もない……さすがに何も食わないわけにもいかない)
石原はスマホを取り出し、妹にメッセージを送った。
「弁当忘れた。助けて」
三秒後、返信が来た。
「……お兄ちゃん、本気???」
さらに十秒後。
「階段のとこで待ってて!!!!」
石原はもう一度ため息をつき、席を立った。
そのまま階段口へ向かった。
一分もしないうちに、曲がり角から妹が飛び出してきた。
手にはパンが二袋握られていた。
そのまま石原の胸に放り込んだ。
「バカなお兄ちゃん! 夜になったらちゃんと説教だからね!」
じろっと睨むと、髪をひるがえし、そのまま教室へ走っていった。
石原は腕の中のパンを見下ろした。
まだ、ほんのり温かかった。
---
自分の教室がある階に戻り、窓際を通りかかったそのときだった。
ふと視界の端に中庭が映った。
そこに、見覚えのある姿があった。
ふわりとした黒い長髪の緒山が、中庭のベンチに一人で座っていた。
手には一冊の本を持っていた。
陽射しを浴びるその姿は、静かすぎてどこか現実味がなかった。
――あれは、緒山……?
石原は一瞬、足を止めた。
反射的に壁の時計を見る。
授業開始まで、あと一分だった。
もう一度、中庭を見た。
緒山はまだ同じ姿勢のままだった。
まったく動く気配がなかった。
(おいおい……)
石原は、そのままいつ動くのか確かめるように見つめていた。
十秒。
二十秒。
三十秒。
それでも、彼女は動かなかった。
まるで、誰かに一時停止されたみたいだった。
そのとき、橋の上での出来事がふいに頭をよぎった。
彼女が消えた瞬間のことと、何事もなかったように歩き去った人々のことを。
そのとき、ある考えがふっと頭に浮かんだ。
――もし、
その考えがまとまりかけた次の瞬間、緒山の姿が消えた。
立ち上がったわけでもなく、振り向いて立ち去ったわけでもなかった。
ついさっきまでそこにいたのに、次の瞬間にはベンチが空になっていた。
その間の動きが、まったくなかった。
石原の呼吸が一瞬止まった。
すぐに、あの感覚が押し寄せた。
強いめまいがして、胸をつかまれるような動悸が走った。
視界がゆらゆらと揺れ、耳の奥で低い唸りが響いた。
舌の奥に、あの鉄の味が広がった。
石原は窓枠に手をつき、荒く息を吐いた。
やがて、視界の揺れが収まった。
石原は反射的に顔を上げ、B組の入口のほうを見た。
そこには、見慣れた姿があった。
緒山が、何事もないように教室へ入っていくところだった。
そして、ふと立ち止まり――
こちらをちらりと振り返った。
まるで、そこに石原がいると知っているみたいに。
石原は壁に背を預けた。
力が抜け、そのままずるずると床に座り込んだ。
腕の中のパンは、握りつぶされて形が崩れていた。
(まただ)
橋の上での出来事。
さっきの“消え方”。
それから、いまだに読み取れない彼女の感情タグ。
(あいつ……何なんだよ)
チャイムが鳴った。
石原は壁に手をつき、ゆっくり立ち上がった。
そのまま教室へ戻った。
B組の前を通るとき、思わず中をのぞいた。
緒山は席に座り、教科書を開いていた。
その表情は落ち着いていて、まるで何事もなかったかのようだった。
石原は自分の席に戻った。
潰れたパンを机に置いた。
ふと、窓の外を見た。
中庭のベンチは空だった。
そこには、さっきと同じ陽射しだけがあった。
まるで、全部幻でも見ていたみたいだった。
隣の席の甘露寺十花が、ちらっとこちらを見た。
「さっきトイレ長かったね。もう少しで遅刻だったよ。先生、ちょっと怒りかけてたよ」
石原はきょとんとした顔をした。
何も答えなかった。
ただ窓の外を見ていた。
頭の中には、さっきの光景が焼きついていた。
――さっきまでいたのに、次の瞬間には空だった。
誰も気づいていなかった。
誰も覚えていなかった。
橋のときと、同じだった。
石原はゆっくり視線を落とした。
舌の奥に残る鉄の味は、まだ消えていなかった。
---
【五月七日・火曜日・午前】
石原は木陰のベンチに座り、潰れたパンを黙々とかじっていた。
隣にいた緒山は、その様子を見てくすっと笑った。
「先輩って、ダイエット中なんですか?」
「……まあ、そんなところだ」
そう言ったあと、緒山は自分の服をつまみ、ちらっと体を見下ろした。
「私も少し痩せたほうがいいのかな」
小さくため息をつく。
石原は曖昧に笑ったが、どこか上の空だった。
「本当は、お弁当忘れただけじゃないんですか?」
緒山はぱちぱちと瞬きをしながら、どこかからかうように石原を見た。
石原は小さく息をついた。否定はしなかった。
けれど頭の中は、まだ午前中の出来事でいっぱいだった。
(……いっそ、直接聞くか)
石原は深く息を吸い、午前中のことへ話を戻そうとした。
そのときだった。
緒山が急に声をひそめ、わくわくした顔で横を指さした。
「先輩、見てください! あの小鳥、ヒナに餌をあげてます!」
【緒山朋奈の感情:喜び24?*$¥@】
石原は、指さされた方を見た。
木の枝の上で、小さな鳥が巣のヒナに餌をあげていた。
石原の言葉は、喉の奥で止まった。
もう一度、意識を集中させた。
あの文字化けの奥を、なんとか読み取ろうとした。
【緒山朋奈の感情:喜び34?$:¥¥】
(……やっぱり無理か)
その瞬間、ふわっと軽いめまいがして、胸が一瞬だけ強く脈打った。
午前中とまったく同じ感覚だった。
石原は額を押さえた。
(またか……)
だがその不快感はすぐに消え、数秒もすれば何もなかったようになった。
石原はひとまず追及をやめた。
「この林、けっこういい場所ですね」
「ここに住むのも悪くないかもですね……あ、でもそんなことしたらお父さんとお母さんが心配しちゃうか。せいぜいキャンプくらいですね」
「小鳥だって、あんまり邪魔されたくないかもしれないし。他の動物もそうだろ。遠くから見てるくらいがちょうどいい」
なぜだか、その言葉を口にしたあと、石原はふと自分のことを重ねていた。
それを聞いた緒山は、ぱっと目を輝かせた。
「先輩、なんか大人っぽい! 今の言い方、ちょっとカッコよかったです!」
「……別に、そんなでもない」
そのときだった。
緒山の視線が石原の手元のパンにじっと向いた。
石原は急に落ち着かなくなった。
「……一口、食べます?」
「いえいえ、ただ、こういうときって普通は友達にご飯を分けてもらう展開じゃないかなって思って」
緒山は首を振った。
「普通こういうときって、友達にご飯分けてもらう展開じゃないですか?」
「どこの漫画だよ、それ。現実でやられたら普通に鬱陶しいだろ」
「えっ、そうなんですか?!」
緒山が目を丸くした。
「なんでそんなに驚くんだ……」
そう言うと、緒山は自分の弁当箱を石原の前に差し出した。
「先輩が言ってくれたら、いくらでも分けますよ?」
石原は弁当を見た。
綺麗に詰められた、手の込んだいかにも美味しそうな弁当だった。
それから緒山の顔を見る。まっすぐな目だった。
石原はごくりと唾を飲み、自分の頬をぱしっと叩くと、次の瞬間にはパンを一気に口へ押し込んだ。
もぐもぐと飲み込み、「……食べ終わりました」と言った。
「そっか」
緒山は小さく笑った。
そしてそのまま弁当を食べ始めた。
石原は隣に座ったまま、弁当をちらちらと横目で見ていた。何でもない顔をしていたが、どこか落ち着かなかった。
(普通、知らない男に弁当分けようとする女子なんているか……?
おかしいの、俺の方か?)
しばらく沈黙が続いた。
やがて、緒山がふいに石原の方を見た。
「さっきのこと、先輩も見てましたよね?」
石原は、向こうからその話を持ち出されるとは思っていなかった。
「……ああ」
「あー……その顔見る限り、しっかり見られてたみたいですね」
「そういう言い方するなよ……。緒山さん の異能力が気になっただけだ」
緒山は少し黙った。
それから、静かに言った。
「……先輩になら、隠さなくてもいいかな」
「え?」
緒山は弁当を脇に置いた。
小さく息を吸う。
何かを決めたような表情だった。
夏の陽射しが葉の隙間からこぼれ、木漏れ日が揺れていた。
蝉の声が遠くで響いていた。
緒山は立ち上がり、石原に手を差し出した。
【緒山朋奈の感情:緊張43#¥&*@#】
「先輩」
石原はぽかんと緒山を見た。
次の瞬間、緒山は石原の手首をぎゅっと掴んだ。
次の瞬間、世界がしんと静まり返った。
蝉の声が消え、風も止んだ。
木の葉が空中で静止していた。
二人の目の前をひらひら舞っていた花びらも、空中でぴたりと止まっていた。
緒山はぱっと手を離した。
そして、そのまま楽しそうに走り出した。
足元のアリをしゃがんで覗き込み、そのままひょいひょいと木に登って鳥の巣を覗いた。
顔には、隠しようのない興奮が浮かんでいた。
「どうですか、すごいでしょう! これが私の異能力――時間停止です!」
石原はその場に立ったまま、周囲を見回した。
半信半疑のまま、ふと目の前の花びらを指先でつまみ、そっと手を離した。すると、花びらは空中に浮いたままだった。
……本当に止まっていた。
だが、心の奥にかすかな違和感が残った。
(もし本当に世界が止まっているなら……)
(俺たち、どこにいるんだ?)
【緒山朋奈の感情:&(#¥……&)】
石原は眉をひそめた。
(やっぱり、緒山が能力を使うとこうなるのか……)
石原は緒山へ視線を向けた。
「じゃあ、昨日の朝とか今日の午前のも……緒山の能力だったのか?」
「そうですよ」
緒山はにこっと笑った。
「どう使ったかは、ご想像にお任せで〜」
「……だいたい想像はついた」
石原は何とも言えない顔をした。
(飛び込んだ瞬間に能力で岸に戻るとか……
授業直前まで外にいて、そのまま能力で教室に戻るとか……)
(変な人だな、この人)
緒山はうなずいた。
「これで先輩の疑問、解決ですね〜」
そう言うと、緒山は駆け戻ってきて、また石原の手首を掴んだ。
「じゃ、戻りましょう!」
ぱん、と手を叩いた。
その瞬間、蝉の声が一気に戻った。
風が吹き、葉がざわっと揺れた。
止まっていた世界が、また動き出した。
石原の視界が、ふっと暗くなった。
膝が地面にぶつかり、鈍い音が響いた。
石原は手をつき、荒く息を吐いた。
心臓が胸を激しく打ち、今にも飛び出しそうだった。
口の中には鉄の味が広がり、視界の端には見慣れた感情タグがふっと浮かび上がった。
「先輩! 先輩、大丈夫ですか?!」
頭の上から、緒山の声が降ってきた。
石原が顔を上げると、緒山が目の前にしゃがみこんでいた。
心配そうな顔だった。
「……低血糖」
石原はかすれた声で言った。
「昼、あんま食ってない」
緒山が一瞬固まった。
それから、ほっと息を吐いた。
目が少し赤くなっていた。
「びっくりしました……私、てっきり……」
手を伸ばして、石原を支えようとした。
石原は軽く身を引き、自分で立ち上がった。
足はまだ少し頼りなかった。
石原は緒山に視線を向けた。
彼女の顔には、まださっきの不安が残っていた。
だが口元には、もういつもの笑顔が戻っていた。
「大丈夫そうでよかった……」
けれど、その手はまだかすかに震えていた。
石原は視線を外した。
「もう平気だ」
「戻ろう」
「……はい!」
緒山が立ち上がり、隣に並んだ。
木漏れ日が地面に揺れ、風が葉を鳴らしていた。
すべて、いつも通りの昼休みだった。
それでも石原の体の奥には、まだ違和感が残っていた。
石原は歩く速度を少し落とし、緒山の半歩後ろを歩いた。
後ろから見ると、彼女の歩き方は軽かった。
髪が歩くたびに揺れていた。
さっき、止まった世界を走り回っていたときと同じ背中だった。
(さっきの……)
橋の上での出来事。今朝、教室の窓から見たあの“瞬間移動”。
そしてさっきの、体の力を抜かれるようなめまい――
全部、同じタイミングだった。
――彼女が能力を使った直後だ。
石原は胸に手を当てた。
心拍はもう落ち着いていた。
けれど、胸の奥に残る、何かに掴まれていたような感覚は消えなかった。
(もしかして……)
ぼんやりとした仮説が浮かんだ。
もし、この体調の異変が彼女の能力と関係しているとしたら?
もし彼女が“止める”たびに、自分も何か説明のつかないものに巻き込まれているとしたら――
石原は口を開きかけた。
「先輩?」
緒山が振り返り、視線が合った。
首を少し傾け、いつもの笑顔を向けてきた。
「どうしました?」
石原はその顔を見つめた。
さっき止まった世界の中で、彼女はこの顔で走り回っていた。
アリを覗き込んで、木に登って、鳥の巣を見て、「どう? すごいでしょ!」と笑っていた。
あんな無防備な顔を見たのは、初めてだった。
もし今ここで言ったら――
――お前が能力を使うたびに、俺は体調が悪くなる。
そのとき、彼女はどんな顔をするんだろう。
彼女が本気で落ち込む顔を見たことがない。
……でも。
なぜか、見たくないと思った。
「……いや」
石原は視線を外した。
「なんでもない」
それから少し歩調を速めた。
「急げ。遅れるぞ」
「えーっ! 先輩が遅刻気にするなんて!」
緒山が笑いながら、小走りで追いついてきた。
いつも通り、にぎやかな声だった。
石原は何も言わなかった。
ただ、舌の奥に残る鉄の味を、そっと舌先で押さえた。
誰にも気づかれないように。
---
放課後だった。
石原が校門を出たところで、見覚えのある姿が手を振っているのが見えた。
「先輩ーー!」
緒山が小走りで駆け寄ってきた。
髪がふわふわと揺れていた。
【緒山朋奈の感情:緊張34@#*$】
「何の用?」
「歩きながら話そう!」
彼女は自然に石原の隣へ並んだ。石原は何も言わなかったが、追い払うこともなかった。
しばらく歩いたあと、緒山が口を開いた。
「あの……昼のことなんだけど」
「内緒だよな?」
緒山は少し驚いたあと、笑った。
「やっぱり読心術か!」
「顔に書いてある」
「ふふっ」
彼女は歩くペースを落とし、少し声を落とした。
「実は……このこと、先輩にしか話してないんだよ」
石原は返事をしなかった。二人は並んで駅へ向かい、しばらく沈黙が続いた。
石原は、昼の静止した世界で見た、あの無防備な背中を思い出した。
(なんで……そんなに俺を信じるんだ?)
その考えがまた浮かんだ。
昼から今まで、それは何度も考えたことだった。
まだ知り合って二日しか経っていない相手が、自分にそんな大事な秘密を教えてくれた。
能力を使って、別の世界に連れて行って、「一人だけ教えてる」って笑って言った。
理解できなかった。
こんなふうにされたことは、今まで一度もなかった。
「先輩?」
緒山の声が彼を引き戻した。彼女は首をかしげ、夕日の中で目を輝かせていた。
「また難しいこと考えてるの?」
石原は一瞬驚いたあと、「……どうして分かるんだ?」と聞いた。
「だって、先輩の眉が――」
彼女は指を伸ばして、彼の眉間をちょんと指した。
「ここがぎゅってなってるときは、考えごとをしてるんだよね」
石原は無意識に手で触れた。そして、自分がからかわれていることに気づいた。
緒山は手で口を押さえて、くすくす笑った。
「先輩って、ほんと分かりやすい!」
石原はため息をつき、手を下ろした。
だが、なぜか彼女にこんなふうにからかわれると、胸の中の重さが少し軽くなった気がした。
「そういえば先輩、」
緒山が突然振り返り、目をさらに輝かせた。
「私、計画があるんです!」
「……計画?」
「青春取り戻し大作戦!」
石原は一瞬、呆気に取られた。
「それ、何だよ……」
「先輩に、もう一回ちゃんと学校生活を楽しんでもらうための計画です!」
緒山は指を折って数え始めた。
「第一ステップ、部活に参加すること――」
「え?」
「先輩、今、どんな部活に入ってるの?」
「……帰宅部。」
「それ、まだ参加してないってことだよね! 第二ステップ、学校の大きな行事に参加! 来月体育祭があるけど、先輩、申し込んだ?」
「……してない」
「第三ステップ――」
彼女はわざと声を伸ばしながら、少し近づいた。
「友達を作る!」
石原は後ろに下がった。
「今、ちょうどお前と話してるだろ」
「それはダメ! 私は勝手についてきただけだから、先輩が自分から友達作ったことにはならないの!」
石原はその理屈に言葉を詰まらせた。
「それでね、」
緒山はポケットからスマホを取り出し、画面を開いて石原に見せた。
「第一歩として、生徒会に入ってみるのはどう?」
画面には、春野からのメッセージが並んでいた。
最上部には春野のアイコンがあり、その下にいくつかのメッセージが並んでいた。
「緒山、書記が進学の都合で辞めたから、早く次を捕まえてくれ! できれば二年がいい。学校にも慣れてるし、何より使いやすいだろ」
石原は少し顔を上げ、彼女を見つめた。
「これは……」
「会長からの直接の指示よ!」
緒山は胸を張りながら、得意げに言った。
「私、緒山朋奈。泉方新高の生徒会副会長として――先輩がその気なら、正式に生徒会書記に任命できます!」
「それ、会長のセリフだろ」
石原はしばらく黙り込んだ。
生徒会。毎日、人と関わらなきゃいけない場所。
終わりのない感情タグと、嫌でも向き合うことになる場所だ……
断るべきだ。
……本当なら。
でも、緒山の輝く瞳を見つめると、昼間の静かな世界で見た、あの無防備な背中を思い出した。
「……考えておくよ」
「やった!」
緒山は拳を握りしめ、嬉しそうに言った。
「第一歩、成功だね!」
電車が駅に到着し、二人はカードを使って車内に入った。窓際の席に座ると、外の景色が流れ始めた。
しばらくの沈黙のあと、緒山が再び口を開いた。
「さっきの『大作戦』、本気だからね」
「分かってる」
「だから、先輩、ちゃんと考えてくださいね!」
「……分かった、分かった」
緒山はにっこりと笑い、頬杖をついて窓の外を見ていた。
電車が揺れながら進んでいく中、外の街灯が次々と通り過ぎていった。
石原は目を逸らし、窓の外をじっと見た。
(生徒会か……)
春野の言葉が浮かんできた――
「ここは、きっとお前にとって、今までとは違う場所になるかもしれない」
違う場所。
あのときは、そこまで深く考えもしなかった。
電車が次の駅に到着し、二人は順番に車両を降りた。ホームには少し冷たい風が吹いていて、緒山は腕を抱えながら小走りで歩き出した。
石原はその後ろに続き、街灯に伸びた彼女の影を見つめていた。
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電車がもうすぐ駅に着くころ、耳障りな声が割り込んできた。
「よぉ、誰かと思ったら」
石原は反射的に顔を向けた。
コンビニの前から、三人の女子が出てきた。
全員、他校の制服を着ていた。その中に、見覚えのある顔があった。
あの時、妹をいじめていた連中だと、石原はすぐに気付いた。
石原は思わず指をぎゅっと握りしめた。
「おっ、シスコン先輩じゃん。今日は趣味変えたの?」
先頭の女子が笑いながら言い、緒山に視線を向けた。
「こんな可愛い彼女、金で買ったんじゃないの?」
別の女子が続けた。
「この前さ、お前の妹ボコったとき、この子いたっけ?」
石原の息が一瞬止まった。
あの記憶が一気に蘇ってきた――靴箱に詰め込まれたゴミ、引き出しに入れられた脅迫状、妹の泣き顔。そして最後に言われた言葉――
「また出しゃばったらな、次は誰になるか分かんねぇぞ」
無意識に、石原は一歩横に動き、緒山を守ろうとした。
だが、そのとき、緒山の視線が自分の顔に向けられているのを感じた。
「行こう」
石原はそう言った。
歩き出そうとした瞬間、緒山は突然一歩前に出て、彼の前に立った。
「私、先輩の彼女だけど」
彼女は小さな声で言ったが、その言葉には確かな力がこもっていた。
「文句ある?」
三人は一瞬黙り込んだ。
次の瞬間、耳障りな笑い声が上がった。
「お嬢ちゃんさ、そいつ、ヤバいやつだよ?」
石原は緒山の手首を掴んだ。
「行こう」
緒山は何も言わず、彼に引かれるままその場を離れた。
通りを抜け、泉方橋まで来たところで、ようやく彼の手をそっと振りほどいた。
石原は歩みを止め、振り向かなかった。
橋の下を流れる川が夕陽に照らされて光っていた。
石原は欄干に手をついて、荒く息を吐いた。
さっきの言葉がまだ耳の中で響いていた。
「この人、有問題だよ」
(分かってる)
(ずっと前から)
「……先輩」
緒山の声が横から聞こえてきた。石原は動かなかった。
彼女はそれ以上、言葉を続けなかった。
次の瞬間、すぐそばでかすかな物音がした。石原ははっとして振り返った――
緒山がすでに欄干に登っていた。
「何してるんだ!?」
彼女は振り向いて、笑顔を見せた。
「心の中に溜まってるものがあるならさ――ここで吐き出してみたら?」
そして、彼女は手を離し、そのまま後ろへ身を倒した。
「緒山――!」
石原が駆け寄った時には、もう間に合わなかった。
どぼん、と水音が響き、水しぶきが高く跳ね上がった。
彼はほとんど反射的に石の斜面を駆け下り、靴を脱ぐ暇もなく川に飛び込んだ。
川の水は膝を越え、腰まで達していた。
彼は緒山の腕を掴み、必死で水から引き上げた。
「お前、頭おかしいのかよ!」
彼の声は震えていた。
「泳げもしないのに、なんで川に飛び込むんだ!」
緒山は水浸しになった体を引っ張られても、まだ笑っていた。
「大丈夫だよ、ちゃんと泳げるし……こういうの、何回かやったことあるから」
「何回もやったことある?!」
石原は彼女を岸に引き上げ、肩を掴んで全身をざっと確かめた。
傷はない、溺れてもいない。
ただ、顔色が少し悪く、唇がわずかに震えていた。
彼はほっと息をついたが、怒りが込み上げてきた。
「お前、頭おかしいのか? もしものことがあったらどうするんだよ? もし俺が間に合わなかったら、もし――」
「先輩」
緒山が彼の言葉を遮った。
彼女は顔を上げ、彼を見つめた。
夕陽が彼女の濡れた顔を照らし、その目には輝きがあった。
「さっき、私のことだけ心配してたんじゃない?」
石原は言葉を失った。
「さっきのあいつらの言葉、今はもう思い出せないでしょ?」
彼女は軽く、確かめるように言った。
石原は口を開けたが、言葉が出なかった。
――思い出した。
さっきの数十秒、頭の中にはひとつのことしかなかった。
彼女が飛び込んだこと。助けなきゃいけない、それだけだった。
あの嘲笑も、あの記憶も、「この人、有問題だよ」って言葉も――
全部、水に流されて消えていった。
ただ目の前には、びしょ濡れで、それでもバカみたいに笑っている彼女だけが残っていた。
「……お前、頭おかしいのか?」
彼はもう一度そう言ったが、今度は声がずっと小さくなっていて、どこか呆れたような響きが混じっていた。
「かもしれないね」
緒山は笑いながら答えた。
そして彼女は、突然背伸びして――
額を彼の額に軽く押し当てた。
石原は固まった。
彼女の額は少し冷たく、湿った髪が彼の顔に触れた。
「わ、びしょびしょだ――」
彼女は一歩後ろに下がり、満面の笑みで言った。
「だって、小杏ちゃんがくれた小説でさ、男の子がこうやって好きな子が熱あるか確かめるんだって! 先輩、私のことちゃんと気にかけてくれてる?」
【緒山朋奈の感情:喜び37+@$¥%&】
石原は彼女の笑顔を見て、胸の中でずっと縮こまっていた何かが、ほんの少しだけ解けたような気がした。
彼はふと、昔「気にかけてる」と言って近づいてきた人たちのことを思い出した。
そういう人たちは、笑いながら近づいてきて、すぐに噂話に変わっていった。
でも、彼女は――
ほんの数日しか経っていない自分のために、川に飛び込んでまで、少しでも楽にさせようとしてくれた。
(こいつ、本当に頭おかしいのか……?)
「……送ってく」
石原は顔を逸らしながら言ったが、足は動かなかった。
彼の指が、わずかに動いた。
五月なのに、彼はTシャツ一枚しか着ていなかった。
彼女に貸せる上着もなかった。
言いたいことはあったが、結局言葉が喉に詰まってしまった。
緒山は首を傾げて彼を見た。
それから自分の濡れたスカートに目を落とし、もう一度彼の硬直した横顔を見た。
「先輩」
彼女は突然、笑いを含んだ声で言った。
「もしかして、私に服貸そうとして――でも一枚しかないって気づいた?」
石原の肩が少しだけ固まった。
「ふふっ」
緒山は口を押さえて笑った。
「先輩、可愛い!」
「……早く行こう」
「じゃあ――」
彼女は声を少し引き延ばして、楽しそうに目を細めた。
「服、交換しよっか?」
石原の顔が一瞬で赤くなった。
「お前、濡れたままだと風邪引くぞ!」
彼はやっと声を絞り出したが、いつもより明らかに声が高くなっていて、彼女を見ることもできなかった。
緒山は声を上げて笑った。
「分かった、分かった、冗談だよ」
彼女は濡れた髪をまとめながら一歩前に進み、振り返って言った。
「早く行こ。風邪ひいたらダメだよ――そういうのは先輩が言うセリフでしょ?」
石原はその場に立ち、彼女の小走りの後ろ姿を見つめた。
月光が彼女を照らし、濡れたスカートが揺れていた。
ふと、自分の心配がまるで彼女に見透かされているように感じた。
内側まで、全部。
彼は急いで追いかけ、彼女の隣を歩いたが、ずっと黙っていた。
月明かりが泉方橋に差し込み、川の水が静かに流れていた。
103号室の前に着いた時、緒山は足を止め、振り返った。
「先輩、送ってくれてありがとう」
石原は軽くうなずいた。
「明日ね」
「うん」
彼女はドアを開け、また顔を出して言った。
「そういえば、先輩――さっきのは告白じゃないからね!」
そう言って、ドアを閉めた。
石原はその場に立ち、ドアを見つめた。
彼は静かに息をついた。
彼は、頭のおかしい女の子を知ってしまった。
川に飛び込んで、たった三日しか会っていない自分を少しでも楽にさせようとした女の子を。
彼は覚えていた。
濡れたスカートも、首を傾げて自分を見た顔も、「服、交換しよっか」と言ったときのあの目の輝きも。
彼は階段を上り始めた。
舌先に残っていたほんの少しの鉄の味が、いつの間にか消えていた。
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石原はベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見つめていた。
今日は、本当にいろいろあった。
橋の上。森の中。電車の中。それから、川辺――
目を閉じると、あの、全身びしょ濡れのまま笑っていた女の子が浮かんできた。
彼女は彼のために川に飛び込んだ。
濡れたスカートのまま彼の隣を歩き、首をかしげて、まるで心を見透かすみたいに――その姿が、頭から離れなかった。
それから彼は、もう一つの疑問を思い出した。
どうして彼女が能力を使うたびに、彼だけが体調を崩すんだ?
あの日、橋の上で、誰も何も覚えていなかった。
今日の昼も、周りには誰も時間が止まったことに気づいていなかった。
覚えているのは、彼だけだった。
反応するのも、彼だけだった。
ただ彼だけが覚えていて、ただ彼だけが反応していた。
「どうして……俺なんだ?」
月明かりがカーテンの隙間からこぼれ、床にやわらかく落ちていた。
彼は寝返りを打ち、ぼんやりと考えた。
あの女の子、いったい誰なんだろう。
どうして橋の上にいたんだ?
どうして森の中にいたんだ?
どうして俺の家の下に住んでるんだ?
こんな偶然が重なって、まだ偶然で済むのか?
答えはわからなかった。
でも、なんとなく感じていた。
今日から、何かが少しずつ変わり始めている気がした。
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同じ時間、103号室。
緒山はベッドの端に座り、膝の上に置いた古びたノートを見つめていた。
指先でそっと撫でる。その仕草は、まるで大切な宝物に触れるみたいだった。
「あと……どれくらいかな」
彼女は呟き、それから横になって目を閉じた。
窓の外では、月明かりが静かに流れていた。
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石原はまだ知らなかった。
少し間の抜けたようにも見えるその笑顔の裏に、たくさんの秘密が隠れていることを。
そして彼と彼女を結ぶ、「偶然」と呼ばれる一本の糸が、見えない誰かの手によって、少しずつ引き寄せられ、締められていることを。
そして、「どうして俺なんだ?」というその答えを、彼はすぐに知ることになる。
【あとがき】
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
次回、第二章「新しい生活――彼女たちが見えない世界」では、
学生会の仲間たちが登場します。特に、あの「換装」の少女・立花美里にもぜひ注目してみてください。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークや感想をいただけると、本当に励みになります。
それでは、また次章でお会いしましょう!




