水の竜
「ラザネルは一緒に食事をしても楽しくないのだ」
目の前のご馳走に、つい恐る恐る手を伸ばすリョウに水の竜がポツリと呟く。
「そう、なの?」
伸ばした手が一瞬止まり、リョウの視線は隣に座る少女に釘付けになる。
戸惑いを気取られないように伸ばした手を引っ込めたい気持ちを抑えて、その先にある焼きたてらしいパンを手に取り、手元でちぎりながらちょっと考える。
純血種は空腹を感じるわけではない、はず。
だから食事の習慣というものは無いのではないだろうか。あるとしたら嗜好品として程度のもの。
……ああ、だから「楽しくない」という不平が出るのかしら。
でも、そうね。そう言われれば。
ラザネルという男の顔を思い出す。
グウィンがあれだけ親しげに話しかけても全く表情が動かなかった男。
……あれはさすがに一緒に食事をしても楽しくなさそう。
「ラザネルは私に付き合って食事をしてくれるのだ。でも、母さまのようには、笑わない」
「……え?」
あれ? 何だろう? 何かが引っ掛かる。今、「ラザネルは付き合いで食事をする」と言った? じゃあ、水の竜は?
「水の竜はお腹が減るの?」
まじまじと隣の少女の顔を見つめながら訊いてしまう。
すると水の竜はふと顔をあげて、リョウに笑いかける。
「いや。私も純血だから腹は減らない。……でも母さまは腹は減らなくても食事というものが好きでいつも一緒にしていたのだ」
「お母様……」
水の竜の口から出てきた言葉を理解しようとリョウは頭をフル回転させる。
グウィンの話によれば、水の部族は頭を継ぐ段階でその者の家族の繋がりを断たせて宮殿に入れさせるとのことだった。
つまり育ててくれた親から離れてここで暮らすようになるということなのだろう。
育った家族という環境、家族の習慣という環境、そういうもの全てを捨ててここに来たということなんだろうか。
それは、こんな子供には寂しい経験なのかもしれない。
「母さまの氏族は、ここではあまり受けがよくないのだ」
そう言うと水の竜は再び視線を落とす。
彼女の為に用意されたと思われる小さめのフォークが小さな手の中で、親指と人差し指に挟まれてくるくるとつまらなそうに回る。
「先代を継ぐのは、ずっと伯父上の家族の者だと皆は思っていた。そもそも伯父上の家族が先代の正当な直系だ。我が家でももちろんそう思っていたのだ。……それに母さまの氏族は我が一族では嫌われているから私に頭を継ぐ者の印が現れたときは皆驚いたらしい」
「どうして嫌われていたの?」
リョウはつい聞き返す。
言いにくいことを言わせてしまうだろうか。
「母さまの氏族は唯一、水の竜が孤立することに反対していたからだ。水の竜の名を継ぐからといって家族から引き離すというのは良くないと、先代にもその前の代の水の竜にも進言していたらしい。母さまを見ていれば分かる。あの人は家族というものが好きなのだ。だから食事をしたり一緒にベッドで寝られるようにと子守歌というのを歌ってくれたりもした」
……ああ、なるほど。
この子の母親はとても大事に子育てをしたということなのだろう。
そして、それに反して水の部族は、本質的なところはどうかわからないが、少なくとも、頭を継ぐ者に関してはそういう愛情や習慣を持たないのかもしれない。
それはやはり寂しいことなのだろう。
この子より前の代では、それはうまく乗り越えられてきたのだろうか。
「ラザネルは……伯父上の子なのだ」
「……え?」
伯父上……って、頭を継ぐはずだった直系の家族?
「でも、ラザネルは頭を継ぐことには興味がないと言った。母さまの子である私を守ると約束してくれたのだ。だから私が寂しくないようにと一緒に食事もしてくれるのだが……」
水の竜が一度言葉を切ってため息をつく。
「ラザネルは……笑わないのだ」
あー……。
なんだか、その一族の中を渦巻くいろんな思惑については詳しいことは分からないけど。
なんとなく分かるのは。
「そうね。食事っていうのは楽しまなくちゃダメよね。……ラザネルって食事はともかく普段から笑わないんじゃないの?」
「そう! そうなのだ! あいつは全く笑わない! あいつだけじゃない、この宮殿にいる者は皆笑わないのだ。それに男ばかりだ。全くもってつまらん!」
ぷっ。
思わずリョウが吹き出す。
「なぜ笑う! 火の竜もつまらないと思わないのか!」
「思うわよ。そんなのつまらないわよね。じゃあ、折角だから私たちは楽しく食事しましょう」
きっとこの子は楽しかった家族の雰囲気を懐かしみ、寂しく思っているのだ。
それを埋め合わせようにも、ここにはそういう習慣が無い。だから周りもそれを本当の意味で理解できない。そんなところかもしれない。
そして、宮殿で働く者といえば近衛兵や宰相のように政に関わる者や護衛のために働く者である以上、男ばかり。世話係のような者がいるとしてもこの感じだと親密な関係ではないのだろう。それは母親の血筋のせいかもしれない。
だから母親から受けていたような愛情を求めてしまう少女の心を癒してくれるものはなかったということなのか。
もしかしたら、だから。
女である自分に対して最初から執着していたのかもしれない。
そんなことに思い当たる。
テーブルの上のちょっと遠くにある美味しそうな焼き菓子を取ってあげるとこぼれそうな笑顔を見せてくれる水の竜を見つめながらリョウはちょっと複雑な思いを抱く。
私がその代わりになってあげるなんて、中途半端な親切心はかえって残酷だろう。
でも、何かしてあげられないだろうか。
なんとなく、そういうコツを知っているような気がするのだ。
ザイラが言っていた言葉が思い出される。「リョウはきっと今までたくさん苦労してきたんでしょう……ここに来たばっかりの頃は笑っていてもなんだか冷めた目をしていたのよ」
自分では笑っているつもりだったけど。はたから見たらそう見えることがあるのだ。つまり、逆にいうと。笑っていないように見えても本人は笑っているつもりでいることもある、ということ。
そして、はたから見て不自然な表情の背後には何か理由があったりする。
心がちゃんとほぐれていれば、今目の前で満面の笑みを作った水の竜のように自然でこの上なく上等な笑顔があふれ出るものなのだ。
そして、そういう笑顔は本人を一番美しく見せるし見る人を幸せにする。そんな気がする。水の竜を見て思わず抱き締めたくなるのは、表情が素直で可愛らしいからだ。顔立ちが整っているというだけの理由ではここまで気持ちが揺さぶられたりはしないだろう。
そして。
ここの者は皆笑わない、と水の竜は言うけど、自分たちをここまで案内してくれた近衛の若者たちはリョウが図らずも誉めちぎった結果、照れていた。水の部族というものが全体として感情に乏しいとは思えない。
恐らくは、どこかで何か気持ちのすれ違いが起こっているだけなのではないだろうか。
折角こんなに美しいところに住んでいるのだから、この子にも生きることを楽しんでほしい、なんて。
目の前でお菓子を頬張って笑顔を見せてくれる水の竜に温かい微笑みを返しながらリョウはそんなことを考えてしまう。




