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11.罠

 ――科学は“予測”と深く関わっている。

 法則を理解し、その法則を当て嵌めて展開すれば、結果が予測できる。これが科学の根幹でもあるからだ。この事が最も分かり易いのは、天文学かもしれない。国が暦を作成する為に重要だったこの学問は、科学が確立する以前から国家の支援を受けていた、数少ない学問でもあった。

 日本のように水に恵まれた土地では暦の重要性は比較的低いのだが、農業を営む事を考えるのなら、雨の降る時期などを読む為に暦の重要性が高いのが普通だ。それもあって、天文学が発展したと考えるべきだろう。そして、もちろんそこからは“天気予報”の重要性が連想される。天気が確実に予想できるのなら、農業にとってどれだけ有益であるか分からない。

 しかし、近年になり、長期間での“天気予報”は実質、不可能である事が分かってしまった。つまり、予測不可能である事を、科学は予測してしまったのである。

 より正確に言うのなら、ある範囲に絞ると“予測不可能性”が現れるという事だ。例えば、明日の天気は比較的予想し易い。しかし、それが一週間になると予測は難しくなり、一ヶ月ともなれば更に困難だ。ところが、期間を大きな規模で判定すれば、梅雨の時期に雨が多くなるだろう事は簡単に予測できるし、春より夏の方が気温が高くなるだろう事も簡単に予測できる。が、更に取る規模を大きくすると、また予測は難しくなる。今年と来年とで、どちらの降雨量が多いかの予測は難しい。

 この予測不可能性は、カオス理論の中の“初期値敏感性”が原因で現れる。これは、一見取るに足らないと思われるような非常に極わずかな差異が、時を経るに従って増幅されて、やがては無視できない大きな差となってしまう事をいう。

 例えば、仮に歴史を繰り返せるとして、朝外に出る時に、右から足を踏み出したか、左から踏み出したか、そんなくだらない違いが大きな差となってしまうかもしれないのだ。天気でいうのであれば、起きた火事が小規模であったかどうか、そんなわずかな差が結果に大きな影響を与えてしまう。

 測定技術の限界から、そんなわずかな情報までを集める事は実質不可能だ。だから、長期間の天気予報は不可能なのだ(ここに、更に量子力学の“不確定性定理”が加われば、未来は決定されていない事が導けるとも言われている。もちろん、反論もあるらしいのだが)。

 因みに、天文学でも、取る規模を一億年程にすると、この予測不可能性が現れるのだそうだ。

 時折、“大ヒット商品の法則”といったようなタイトルの書籍を見つける事があるが、だから同じ理由で信用しない方が良い。何が売れるかどうかにも一定の法則など存在しないからだ。これも、カオスの予測不可能性の一つなのだ。もちろん、宣伝を多く行えばヒットに繋がり易いのは当たり前に分かるが、これは確実な方法ではない。そして、まったく宣伝を行っていない作品、しかも場合によっては高いクオリティを持っているとは言い難い作品が、大ヒットする時もある。

 注目される事で話題になり、その話題が更なる注目を呼ぶといった“正のフィードバック”が、その社会現象に関係している事だけは確かだが、それをコントロールする事などできないと考えた方が良いだろう。

 因みに、世界で最も有名な絵画と言われている“モナ・リザ”は、盗難事件で注目を集めるまでは、数ある名作の内の一つに過ぎなかった。文学作品でも、死後に評価されるケースは多い。やはり人気と質にあるのは、漠然とした相関関係に過ぎないと捉えるべきだろう。

 予測不可能性に関わる話は、カオスだけではない。限定された情報からのみ判断しなければいけない限定合理性も予測不可能性に関係している。だからこそ、ゲーム理論のような思考方法が考え出され、予測不可能下での最適な行動を選択する手段が模索される訳だが、これにはリスク評価が関係して来る事は言うまでもない。

 

 ……村上アキには多少、過大にリスクを恐れすぎるところがある。だから、計画が予期せぬ、ちょっとしたハプニングで台無しになり、その結果として誰かの命が失われるような事態に陥る可能性があるのなら、それを避けようと考えるだろう。

 仮に情報戦で有利に立っていようが。

 しかし、もし仮に“偶然”をある程度、コントロールできるのなら、それもまた違って来るのかもしれない。

 仮に逃げても、それが一時的な回避に過ぎず、状況が悪化する場合なら特にそうだ。やってみるしかない。そう判断するかもしれない。

 

 早朝。まだ学校には、ほとんど誰も顔を見せていない。運動部の生徒達が、校庭などで朝練をしている姿が見えるくらいだ。

 長谷川沙世は少しばかり気温に対して、油断をしていた。ここ最近、長期の天気予報が見事に外れて、この時期にしては珍しく少し冷え込んでいるのだが、早朝の登校が、ここまで寒いとは思っていなかったのだ。それで薄手の上着くらいは羽織って来るべきだったと後悔をしていた。

 校門を通り過ぎた辺りで、沙世は後ろを振り返って確認すると、まるで逃げるように少し小走りになった。彼女のかなり後方には、やはり小走りで学校を目指す十人程の集団の姿があったのだ。目は血走っていて顔は赤い。明らかに普通ではない。

 “もう、こんな所まで来てるなんて……”

 そう思うと、彼女は更に足を速め駆け足で進む。もしかしたら、間に合わないかもしれない。急いで靴を上履きに履きかえて、彼女は村上アキの教室を目指した。

 アキはここ最近、彼を狙っている上無深夜の異能『感情感染』を警戒して満員電車を避ける為に、朝のかなり早い時間帯に登校している。だから既に教室にいるはずなのだ。沙世はそれを知っていたのである。

 『感情感染』を使うのに、最も適したシチュエーションは、満員電車だった。異能を使って触れ続ければ、二次三次とどんどんその感情及びにそれに付随した簡単な情報の感染は拡がって行く。感染者達の全てがアキを襲うとは限らないが、精神の不安定な者や相性の良い者は、我慢ができずにしつように彼を狙うだろう。満員電車という閉ざされた空間で、そんな状態に陥れば、本当に死すら覚悟しなくてはならない。アキがそれを避けるのは、当たり前だった。

 だが、実はその方法は確実な回避手段ではない。満員電車をアキが避けても、感染者達がアキがいる場所を目指す危険があるからだ。感染した人間のうちの何人かは、会社や学校へ行く予定を変更して、アキの命を狙うかもしれない。もちろん、その為には、『感情感染』の異能を持つ上無深夜のアキを憎む感情が強くなければいけないのだが。

 “心配性のアキ君の事だから、きっとそれくらいの可能性は考慮しているでしょうけど……”

 沙世はアキの教室に辿り着くと、急いでドアを開けた。教室の中には、予想通りにアキの姿があり、彼は彼女の姿をそこに認めると、「やぁ、どうしたの? こんなに朝早く」とそう不思議そうに尋ねて来た。

 アキは少しばかり着膨れしていた。注意深く見なければ分からない程度だが、どうやら制服の下に何かを着込んでいるようだ。それを見て沙世は、朝の冷え込みの為だろうとそう考えた。ここ最近、毎日、早朝に登校している彼は、朝の冷え込みが強い事を知っていたのだ。

 「呑気に構えている場合じゃないわよ、アキ君! あなたを狙って、たくさんの人がこの学校を目指しているんだから!」

 沙世はアキの言葉を受けると、そう言って彼に近付き腕を掴んだ。そのまま、強引に引っ張る。

 「ちょっと、どうしたの?」

 それでアキはそう尋ねる。すると彼女は必死な顔になって、

 「だから、言ったでしょう? 早く逃げて隠れないと、ここにもう直ぐ、あなたを殺そうって人達がやって来るのよ!」

 そう叫ぶように言って、更にアキの腕を強く引いた。アキはそれを聞くと、相変わらずに危機感のない様子でこう返す。

 「ふーん。じゃ、ま、一応、隠れておきますか」

 「一応じゃないの!」

 沙世は多少苛立たしげな様子でそう言った。アキが席を立つと、沙世は強引に彼の手を引きながら教室を出て廊下を進み始めた。

 「何処に行くつもり?」

 そうアキが尋ねると、沙世は「例の空き教室よ。あそこなら、身を隠すのに好都合だわ」とそう答えた。

 「人がたくさんいる所に逃げた方がむしろ安全じゃないかな?」

 アキがそう言うと、沙世はこう返す。

 「誰が感情に感染しているかなんて見分けがつかないでしょう? 誰もいない所が一番安全なのよ」

 アキはそれに「なるほどね」と、そう応える。

 “一応、理に適ってはいる”

 そして続けて、そう思った。それから彼はこう言った。

 「でも、そんなに心配はいらないと思うよ?」

 「どうして?」

 「僕だってこれくらいの事態は、ちゃんと想定していてさ、対策済みだからだよ。ま、言っちゃうと、松田先生にも早朝に登校してもらっているんだよ。文句は言っていたけど、ちゃんと来てくれている。

 あの人がいれば、『感情感染』の異能は簡単に無効化できる。感染者が百人いたって、問題ないと思うよ。異能が使われている事も分かるみたいだから、それだけ大人数がいれば直ぐに気付く。わざわざ伝える必要もない」

 沙世はそれにこう返す。

 「松田先生だって完全に頼りになる訳じゃないでしょう? 心配性のアキ君らしくもない。念には念を入れておくべきよ」

 「まぁね。だけど、だとしても松田先生を探すのが一番じゃないかな?」

 「それも駄目よ。探している間に、感染者達に見つかったらアウトだもの」

 「そうか。そうだね」

 「でしょう?」

 やがて空き教室に辿り着く。沙世はアキを先に教室に入れてから、自らも足を踏み入れた。彼女はドアの鍵を持っており、それで鍵を閉める。それから言った。

 「これで、邪魔者は誰も入らない」

 「そうだね」

 そして沙世は一歩前に進んで、アキに近付いた。ポケットに手を入れる。アキはそれを見ると言った。

 「なんか、誰も学校に入って来る気配がないみたいだね。僕を探し回っている音が聞こえて来ても良さそうなものなのに。多分、既に松田先生が『感情感染』の異能を無効化させてくれているんだと思うよ。もう、感染者達は、僕を殺したいっていう感情から解放をされているのじゃないかな?」

 沙世はそれを聞くと、ゆっくりと笑う。

 「ええ、そうね。そうかもね」

 そしてまたアキに近付いた。アキは言う。

 「もう、大丈夫なのじゃない?」

 「うん。でも、もうちょっとだけ」

 更に一歩、沙世はアキに近付いた。ポケットから手を出す。その手には、何故かカッターナイフが握られていた。そこで彼女は突然に表情を変えた。言う。

 「あなたが、わたしのものにならないのなら!」

 アキが気付いた時には、もう遅かった。彼女はアキに向かって突進していた。

 「殺してやる!」

 そう言いながら、沙世はアキの腹の辺りにカッターナイフを突き刺した。アキは沙世に突進されて、そのまま後ろに倒れ込む。驚愕の表情で彼は彼女を見ていた。沙世はそんなアキの表情を見て、涙を流す。

 「アキ君がいけないのよ……。わたしの事を振ったりするから。だから、わたしは… 殺してやるって…」

 驚いた事に、アキはそれから沙世の頭を撫で始めた。彼にはまだ充分に意識があり、判断力も残っているようだ。しかも、動揺もしていない。苦痛の為か、表情を歪めつつもこう言う。

 「そんなに泣かないで。でも、そうか。そういう事か。君は『感情感染』でずっと苦しめられていたんだね。

 でも、さ。

 そもそも僕と君は付き合ってもいないのに、振られたも何もないじゃない……。告白だってしてもされてもいないのに」

 沙世はそれを聞くと、首を大きく横に振った。

 「付き合っていたみたいな、もんじゃない!」

 アキはそれに優しく笑ってこう返す。

 「……でも、安心して良いよ。僕も君の事が好きだから。最近になって自覚したんだけどさ、君の『強制ツンデレ・ヒロイン』は関係なしで、僕は君を好きなみたいなんだ」

 その言葉に沙世は驚いた表情を見せる。

 「今更、そんな事を言わないで! もう、わたし、アキ君の事を刺しちゃったのよ?」

 沙世がそう言うと、アキはいきなり彼女の口を自分の口で塞いだ。沙世は大きく目を見開く。それから、ゆっくりと目を閉じた。アキは唇を放すと言った。

 「大丈夫。落ち着いて。傷は浅い。これくらいじゃ、死にはしないよ」

 しかし、そうアキが言い終えるのと同時だった。

 「そこまでだ」

 そんな声が響いたのだ。そして、教室のベランダから、一人の男が姿を見せた。それは上無深夜だった。

 痩せていて非常に神経質そうな顔。頬がこけていて、目は浮き出ている。まるで骸骨のような印象を受ける。

 「おっと、やっぱり出て来ましたか」

 それを見て、アキはそう言う。

 「何処かに隠れているだろうとは、思っていましたよ。初めまして」

 それから半身を起こすと、「沙世ちゃん、どいて。危ないよ」とそう言ってから、アキはこう続けた。

 「あなたは僕を確実に殺したいだろうし、自らの手で止めを刺したいとも思っているはず。そう考えていました」

 上無深夜は片手にデジタルカメラを持っていた。もう一方の手には、カッターナイフを持っている。そのナイフは、沙世の持っていたナイフと同じタイプだった。アキはデジタルカメラに注目をして言う。

 「それで沙世ちゃんが僕を刺すシーンを撮ったのですか? もしかして、その写真で沙世ちゃんを脅す気でいたのですかね? 自分と付き合わないと、警察にばらすとか、そんな感じの事をするつもりだった……」

 そう言いながら、アキはゆっくりと立ち上がった。

 「なるほど。中々の卑怯者だ。同情の余地はなしですかね」

 それに上無はゆっくりとこう返す。

 「それがどうした? お前はこれから死ぬんだよ。もう、どうでも良いだろうが。俺は疲れているんだ。あまり怒らせるな。流石にさ、異能を使い過ぎたみたいで、疲労が激しいんだよ。

 ま、あれくらい派手に感染者達を作ってやらなくちゃ、囮の役割は果たせないから仕方ないが。異能を無効化できる松田とかいう教師を、お前から引き離さなくちゃ、どうにもならないからな」

 「松田先生の事は、沙世ちゃんから聞いたのですね?」

 そうアキが尋ねても、上無は何も答えなかった。代わりにカッターナイフを構える。しかし、近づいては来なかった。

 恐らく、それは沙世がアキの前にカッターナイフを手に持って立っていたからだ。彼女はアキを庇っていたのである。アキはそんな彼女に向けてこう言う。

 「危ないよ、沙世ちゃん。お願いだから、どいて」

 しかし、沙世は動こうとはしない。

 「いやよ! アキ君丸腰じゃない!」

 そう返す。

 上無はその間に迫って来た。仕方なく、アキは「ごめん」と言うと、それから彼女を突き飛ばした。上無がそのチャンスを見逃すはずはない。ナイフを手にアキに襲いかかる。そしてアキは、その攻撃を正面から受けてしまったのだった。先に沙世が刺したのと同じ腹の辺りにナイフが刺さる。驚くほどあっさり終わったが、ほとんどアキが抵抗できなかったのは、既に沙世によって傷を負わされていて弱っていたからだろうと上無は考えた。

 アキはその場に、そのままズルリと倒れ込む。それから上無は、血が流れ出るのを期待して、アキを見下ろし続けた。真っ赤な血液が、もう直ぐこの憎むべき男を中心にして、教室内に広がっていくはずだった。

 上無は思う。

 ほら、直ぐだ。もう直ぐに、赤い赤い血液が見えるはずなんだ。

 「アキ君!」

 突き飛ばされて転んでいた沙世は、アキが倒れ込むのを見ると、涙を流しながらそう彼の名を叫んだ。

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