12.深田信司は走っていた
深田信司は走っていた。
何故なら、追われていたからだ。
彼を追っていたのは十数人程の集団で、男の方が多かったが女性も混ざっていた。統一感はない。学生、若いサラリーマン、OL、中年もいる。一見は何の共通点もなさそうに思えるが、彼らは一様に目が尋常ではなく、狂気的な怒りの表情を見せていた。その中には、深田と同じ高校の生徒も何人かはいるようだった。
深田信司はそれほど足が速くない。むしろ遅い方だ。短距離ならまだマシだが、長距離になると持病の喘息の発作が起き、咳が止まらなくなる所為で酷く苦手だった。走った事によって身体は酸素を欲するのに、咳の所為で息が苦しくなるのだから、当然だろう。
案の定、この時も走り始めて一分も経たないうちに咳が出始めて息が苦しくなり、足は極端に遅くなった。それで直ぐに集団の中の足の速い一人に追いつかれそうになる。その時、彼は“もう限界!”と、そう思うと息を空に向かって吐き出した。すると、不思議な事に、追ってきた人間達の表情が変わる。彼らは首を傾げると戸惑った表情で立ち止まってしまった。それを見て深田も足を止めた。呼吸を整える。
「こいつ… はぁ、じゃ、ないの、はぁ、じゃないか?」
「そう……、ぜぇ、かも」
彼を追っていた人達は、乱れた呼吸のままでそんな事を言い合っていた
やがてその集団は、方向を変えて学校へ向かおうと動き始めた。が、そこで深田は今度は息を思いっきり地面に向かって吐き出した。するとその瞬間、再び彼らの表情が変わる。深田信司に注目をする。その時には、深田は既に逃げる為に走り出していた。その彼を追って、再びその集団は走り始める。
走りながら、深田信司は思っていた。
“駄目だ、これ。体育のマラソンの授業よりもよっぽどきつい……”
彼がこんな目に遭っている原因は、先週の木曜日、立石望という女生徒からの質問に、「もちろん、協力するよ」と、そう答えてしまった事だった。それで協力の依頼を断れなくなってしまったのだ。その時、彼女はこんな質問を彼にした。
「深田君は正体不明の誰かから、アドバイスの手紙を受け取って、そのお蔭で助かった訳でしょう?
なら、もしもさ。その誰かが、とても困っていたら、助ける為に協力しても良いってそう思ったりする?」
深田信司には、何故か皆から嫌われるという謎の体質があり、その事でずっと悩み苦しみ続けていたのだ。
彼はもしかしたら、理由などなく、根本から自分は間違った存在なのかもしれないと、そう悩みもした。そして、だから自殺をする以外に、この苦しみから逃れる術はないのだとそんな事すらも思うようになっていた。色々と態度を変えてみたり、勉強をがんばって成績を上げ認められるようにしてみたり、様々に努力をしたが、出口は何処にもなかったのだ。
絶望感。
もう彼は、自分のその位置を諦め、後の人生をただ小さくなって目立たないようにして過ごそうと思うようになっていた。もっとも、それでも周囲の人間達は、彼に辛く当たって来るのだが。
ところが、ある日に差出人不明の手紙で、“下を向きながら息を吐き出すと、周囲から嫌われてしまう体質”を自分が持つと、彼は教えられたのだ。そしてそれ以来、その悩みから解放されたのだった。初めは半信半疑だったが、その効果は顕著で、単にため息をつくのを止めるようにしただけで、周囲の態度がまるで違った。
彼は自分の不幸を嘆くあまり、ため息をつく事をいつの間にか癖にしてしまっていた。それで、自ら状況を悪化させ続けていたのだ。
自分の体質を知ってから、彼の人生は一変した。それまでの暗く灰色に包まれた、閉塞感に苛まれた毎日が、急に明るくなった。皆から普通に扱われるというだけで、彼は人生を祝福したい気になっていた。そしてだからこそ、彼は自分の体質を教えてくれた手紙の差出人の誰かに非常に感謝しており、できればお礼がしたいとずっと思っていたのだ。立石からの質問に彼が「もちろん、協力するよ」と答えたのは当然だった。
彼の答えを聞くと、立石は嬉しそうにしてこう言った。
「本当? じゃ、約束よ。絶対に協力してくれるって」
この時、深田は少しだけ、彼女本人がその自分を助けてくれた誰かかもしれないとそう期待をしてしまっていた。そして、次の日曜日の午前中の正午間近、その立石望から彼の許に電話があったのだった。
「約束を果たして。協力してくれるのでしょう? 今から、学校へ集合よ」
と。
“なんだろう?”と戸惑いつつも彼はそれに喜んでいた。デートという訳ではないが、女の子からの電話。しかも立石は、綺麗なロングの髪の毛を持ち、美人と言っても良いくらいの顔立ちをしていた。
ただし、少しだけ気になる点もあった。“学校へ集合”。まるで、他にも人がいるというような言い回し
“もしかして、集まるのは僕だけじゃないのかな?”
行ってみると、案の定、そこには複数人が集まっていた。名前は知らなかったが、見た事がある男生徒が二人。知らない女生徒が一人。立石望。そして、教師の松田。
なに、この集り?
深田信司は首を傾げた。
男生徒のうちの一人は、村上アキという名らしかった。立石望はそこで深田にその村上アキを紹介し、そして村上アキこそが、彼にアドバイスをした張本人である事を教えてくれたのだった。
「君が、あの手紙の送り主なの? ありがとう! 僕は君のお蔭で、人生を救われたんだ!」
自分にアドバイスしてくれたのが立石望でなかった事を少しだけ残念に思いながらも、彼はそう言ってアキに頭を下げた。アキはそれに「いや、構わないよ。僕はただ、少しアドバイスをしただけだし」と、そう答えた。それから、こう続ける。
「それよりも、今回は僕らに協力をしてくれる事を引き受けてくれて本当にありがとう。感謝しているよ」
まだ協力する前から、感謝をされてしまった。それで彼の性格上、もう頼みを断れなくなる。
それから村上アキは、深田にはある異能があると教えてくれた。アキが名付けたその異能名は、『スケープゴード・スイッチ』。下に向かって大きく息を吐くと、皆のストレスのはけ口になってしまい、逆に上に向かって大きく息を吐くと、その対象から外れる。全ての異能の性質をアキが深田に教えなかったのは、その性質を利用し過ぎて失敗する事を心配したかららしい。それを説明した後で、アキはこう続けた。
「今回は、その君の異能で僕らを助けて欲しいんだ。実はここにいる人達には、皆、それぞれ異能があるのだけどね」
アキがそう言い終えると、立石がこう言った。
「ま、チームプレイってやつよ。皆の力を合わせれば、個人ではできない事ができるわ。私達はある厄介な敵を相手にしているのだけど、そいつに勝つ為には皆の協力が必要なの。お願い、深田君も協力して」
それから深田信司は、村上アキから彼らが危機的な状況に陥っている事、そして、その危機を脱する為の計画についての説明を受けたのだった。もちろん、彼の性格上、アキ達からの依頼を断れるはずはなかった。
――科学には一つの理想があった。
物理学を展開していけば化学が理解でき、化学を展開していけば生物学が理解でき、生物学を展開していけば心理学が理解でき、心理学を展開していけば集団心理学が理解でき、集団心理学を展開していけば社会が理解できる。
しかし、現実にはそうなっていない。それぞれの分野には、その分野で初めて現れる性質が存在する。リンゴという性質は、物理学からも化学からも導き出せない。それは生物学に至ってようやく出現する。土台となる分野では観られない性質が、その次の分野に生まれる事を“創発”という。
例えば、水が固体、液体、気体と姿を変えるのも同じ様な理屈だ。水分子単体をいくら観察しても、この違いは理解できない。水分子同士の関係性に注目する事で、はじめて捉えられる。
これは人間社会でも観られる。犯罪や通貨は人間社会で創発されたものと見做す事が可能だ。それは人間個人だけでは存在し得ない。人間が複数人集り、そして関係する事によってはじめて生まれるのだ。
実は、これまでの科学で用いられてきた還元的手法では、この“創発現象”は捉え難く、不充分と言わざるを得なかった。つまり、科学の弱点であると言えるのだ。そして、この弱点を埋めるようにしてそういった分野を扱う“複雑系科学”が近年になって誕生をした。その研究の始まりは、コンピューターの発達と密接に関係している。コンピューターによるシミュレーションが可能となった結果、科学的手法が拡がりをみせたのだ。それまでは、とても太刀打ちができなかった“複雑”な事象に挑めるようになったのである(ここでの“複雑”という言葉には、特別な意味があるので注意してもらいたい)。
これまでの科学の欠点を補うようにして生まれたこの分野は、まだその明確な定義すら定まっていない(もっとも、自然科学自体の定義も未だに定まってはいないが)。どれだけ多くの実績が残せるのかはまだまだ未知数だが、少しずつ成果は出始めている。単純な法則から複雑な事象が生まれ得るという理解、カオス理論、ネットワーク科学。
少なくとも、この分野は、次代の新しい可能性を秘めているとは言えるだろう。
……その異能単体では、有効な活用方法が見出せなくても、他の異能と組み合わせる事で“創発”を起こし、まったく新しい性質を獲得する。恐らく、自覚はなかっただろうが、村上アキ達が行ったのはそういう作業だった。
朝。深田信司は、村上アキが来るのと同じくらいの時間帯に登校すると、校門の近くに潜んだ。アキの予想が正しければ、しばらく過ぎると、上無深夜の狂気的な感情に感染した人々が、村上アキを殺そうと、学校に向かって来るはずだったのだ。
アキから聞いて、朝の冷え込み対策に上着を羽織ってはいたが、それでも待っているのは彼にとって辛かった。もっとも寒さが辛い訳ではなく、彼は緊張に苦しめられていたのだが。
彼に与えられた役割は、アキを殺そうとやって来る感染者達を学校から遠ざける事。彼の異能『スケープゴード・スイッチ』で、自らをターゲットにする事で、感染者達を学校から引き離すというのがその為の手段だった。アキの言葉を信じるのなら、仮に追いつかれても、息を上に向かって吐き出せば、深田が襲われる事はないはずだった。
やがてしばらくが経つと、長谷川沙世が寒そうにしながら登校して来るのが見えた。彼女はモテる事で有名だったので、深田も顔を知っていた。校門を過ぎた辺りで彼女は、後ろを振り返ると少し小走りになる。どうしたのかと思って、彼女が振り返った先に視線を移して、初めて彼は気が付いた。
明らかに普通ではない様子の集団が、小走りで学校へ近付いて来ているのだ。
“あれだ…… 間違いなく”
深田はそう思うと更に緊張した。
あの集団を自分は遠ざけなくてはならない。少なくとも、学校への侵入は許してはならない。覚悟を決める。
それから深田信司は、長谷川沙世が走って校舎へ入って行くのを見届けると、校門の前で仁王立ちとはとても思えない気弱な様子の仁王立ちで立ち、迫って来る感染者達を待ち受けた。そして、感染者達が後数十メートル先に迫った辺りで、力いっぱいに地面に向かって息を吐き出したのだった。
カチリ。
本当にそんなスイッチ音が鳴ったように、深田は錯覚をした。何故なら、迫って来ている人間達の視線が、彼が息を吐き出した瞬間に、一斉に自分へと向かったからだ。
“逃げないと……”
仮に自分の異能の性質を知っていなくても逃げ出していただろうと思える程、彼らの表情は明らかに深田信司をターゲットとして識別していた。
深田の『スケープゴード・スイッチ』と上無の『感情感染』による狂気的な感情の感染。この二つが組み合わさる事で、より顕著な効果を引き出したと言える。後少しで暴行に至る臨界状態にあった感染者達の精神は、簡単に深田をターゲットとして選んでしまったのだ。これも、一種の“創発”と言えるのかもしれない。
深田信司は思いっきり地面を蹴ると、学校の脇の道を全力疾走で逃げ始めた。それに反応して、感染者達は彼を追いかける。追いつかれそうになると、彼は空に向かって息を吐き出して、『スケープゴード・スイッチ』をオフにし、感染者達が学校に戻りそうになると、再び地面に向かって息を吐き出してオンにする事を繰り返した。もちろん、全速力で走っている上に、異能を使っていた所為で、彼の疲労はかなり激しかった。
しかし、それでも彼はその役割を何とか果たす事に成功をしたのだった。感染者達は、恐らく一人も学校へ入ってはいなかった。
空き教室。
倒れた村上アキを見つめながら、上無深夜は徐々に不可解に思い始めていた。血液が出てくる気配がまったくなかったからだ。自分は確かにカッターナイフでこの男を刺した。なのに、どうして血液が流れ出ては来ないのだ?
そこで彼は気が付く。持っているカッターナイフに、血液がまったく付着していない事に。
“まさか!”
そう彼が思った瞬間だった。それまでも感じていた疲労感が更にきつくなったのだ。それも立っていられない程に。その場で、上無は膝を崩して倒れ込んでしまう。その時、「フフフ…」というアキの笑い声が聞こえて来た。ゆっくりとアキは立ち上がる。そして彼は、ポージングを決めながら、こんな事を言った。
「貴様は、“どうして、お前は平気で立ち上がれるんだ?”と言う!」
上無は何も言わなかった。
「……まぁ、言わない。普通、言わないよね、やっぱり」
肩を竦めてアキがそう言うと、驚いた表情で長谷川沙世が訊いて来た。
「アキ君、大丈夫なの? 刺された傷は?」
それにアキは澄ました顔で「うん。全然、大丈夫だよ。何しろ僕は、少しも傷ついてはいないからね」とそう返した。その時、驚愕の表情でアキを見つめる上無深夜は、教室内にいる別の人間の気配に初めて気が付いた。
彼の背後にはいつの間にか三人の人影があったのだ。恐る恐る振り返る。するとそこには、松田と生徒二名の姿があった。沙世が再び、驚いた声を上げる。
「松田先生! どうして、ここにいるのですか?」
松田はにやりと笑いながら、「いやいや、まさか、ここまで上手く行くとはね」と、そう言った。珍しく、自信たっぷりの口調でアキはそれにこう応える。
「単なる幸運ではありませんよ。いえ、幸運ではあるのですがね」
そこには松田の他にも、白石琴美の姿と、そして戸森守がいた。その後で、松田は上無に向けてこう言った。
「あんたは、もう疲労で動けないだろう? 何しろ、異能を三つもつけているんだ。二つ異能を付けても厳しいのに、三つじゃあなぁ…」
三つ?
長谷川沙世は、その言葉に疑問を覚え、そして次の瞬間には理解していた。
“そうか! あの子達の異能か……”




