経過録10日目
アルはもう喋るはおろか、字を書くことすらできない。見知った追跡者達を、僕の肩から睨みつけることしかできなくなっていた。これからの状況は、僕が説明する。僕は逃げようと、キニアンの手を握りながら一歩踏み出す。
「おっと、妙な気は起こすなよ。君の知り合いらしいオジサンをトルソにしたくはないだろ?」
ギンピィが銃を突き付けていた相手は、マシューさんだった。マシューさんの服はあちこち破れ、そこから血が滲んでいた。苦悶に満ちた表情から、僕達はマシューさんがこいつらに何をされたのかは容易に想像することができた。僕達が抵抗できないことを良いことに、ジェマーは無遠慮に僕達の前に立つ。
「君がここに来ることは分かってたよ。なんたって懐かしの我が家だからね」
ジェマーが乱暴に僕の肩からアルを引き剥がした。首を強く握り締められ、アルは甲高い声を上げる。僕達が次に取る行動を察し、ギンピィは引き金に手をかけた。
「何をしても無駄だよ。君もこのネズミも、後は崩壊するだけだからね」
アルはジェマーの手元でもがくが、もはや彼にはネズミ並みの力しかない。ジェマーの握る力の方が強くなっていた。
「俺に構うな! お前達は逃げろ!」
マシューさんの叫びはすぐにかき消された。ギンピィは銃でマシューさんの背中を殴りつける。そのまま攻撃の手を緩めず、ギンピィはマシューさんの顔を打ちのめした。
「オジサン、自分の立場分かってるかい? 人質が喋っちゃダメだよ」
ギンピィは歪んだ笑みを浮かべ、銃で殴り続ける。マシューさんの顔はみるみる赤く腫れ上がる。口元に血が滲み、鼻血をボトボト垂らしていた。
「やめろ!」
僕はギンピィに殴りかかる。ギンピィは後ろに仰け反るも、すぐに僕に向かって反撃した。銃での打撃を横腹にまともに食らい、僕は地面に倒れる。苛立ったように、ギンピィは僕の頭を安全靴で踏みつけ、ドライバーのように押し付けた。荒い息を吐きながら、ギンピィは僕の頭に銃を突きつける。
「やめて!」
キニアンが動こうとすると、ジェマーは片手で拳銃を構える。憎々し気に、ジェマーは銃の撃鉄を上げた。唇を噛みながら、キニアンはその場に凍りつく。
「キニアン女史。何故だってその男に入れ込むんだ? こいつの何がいいんだ?」
「しつこい男は嫌われるわよ、ギンピィ。引き際が肝心よ」
ギンピィは呆れたように笑い、僕に突き付けた銃で何度も殴る。目元を痙攣させ、口の端に泡を溜めるギンピィの姿は薬物で狂ったようであった。
「お前はつくづく俺の邪魔をしてくれるよな。記憶をなくす前から、お前は気に入らなかったんだよ。今すぐお前の使い物にならない脳味噌吹っ飛ばしてやる!」
ギンピィが引き金に手をかけた途端、マシューさんがギンピィに体当たりした。さすがのギンピィにとっても、自分より一回り大きいマシューさんの体当たりは、軽トラックにぶつかったような衝撃だ。たまらず数メートル後ろに吹っ飛んだ。
「さすが父親だ。自分の息子はそりゃあ可愛いよな」
ジーンズを泥まみれにして、ギンピィは皮肉をたっぷり染み込ませた笑いを上げる。僕にこめかみを殴られたような振動が身体中に走った。目の前で血みどろの顔をした大男が、僕の父親? 今まで思い出した記憶の中に、この男が映り込んできた。マシューさんはすっかり老け込んだように、力無く地に伏せる。
「貴様らなぞに息子を引き渡したのが間違いだった。貴様らが息子を壊したんだ!」
流れる濁流のように、マシューさんの口から怨嗟の言葉が吐かれる。マシューさんの口を塞ぐように、ギンピィの銃が突っ込まれた。
「ゴードンさん、勘違いしないでほしいね。息子の頭脳を活かしたいと言ったのは、他でもないあなただ。あなたの言葉通りに、私は彼の頭脳を活用しただけだよ」
マシューさんの口から言葉の代わりに涎が垂れる。僕はマシューさんに歩み寄ろうとしたが、ジェマーが拳銃を突きつけた。
「さて、チャリ。まずはアルにお別れを言おうか。どうせ崩壊する脳味噌だ。人思いに粉々にしてあげようじゃないか」
ジェマーはアルの頭に銃を当てる。首を絞められ、ぐったりとしていたアルは抵抗する素振りもない。
「アル!」
僕はジェマーに組みついて、アルを振り解こうとした。咄嗟の動きにジェマーはすぐさま僕目掛けて発砲する。雷が空を裂く音と共に、僕の肩は撃ち抜かれた。焼けるような痛みが肩を貫く。片手の力が抜けていく。それでもアルを助けたい一心で、僕はジェマーに突進する。
「こいつっ!」
ギンピィがマシューから銃を離し、僕を狙う。その隙をついて、マシューがギンピィの頸を殴りつける、キニアンが銃を奪い取る。得物を失ったギンピィは、ヘラヘラ笑いながら手を挙げる。
「参ったねぇ。品のない奴らだ」
僕はアルを掴もうとするが、ジェマーと揉み合いになる。僕達が向かっている先には、崖が広がっていた。崖の下には黒い濁流が、僕達を手招きするように飛沫を上げる。僕達は地面を転げ回り、泥まみれになりながらお互いの腕を引っ張った。
「アルを返せ!」
「このボロ雑巾をペットにする気かい? ほっといてもこいつはいつか死ぬんだよ」
「アルは僕の親友だ! お前なんかに渡すものか!」
その時、アルの足がぴくりと動く。薄目を開けて、アルはジェマーの手を見た。血と雨で服は濡れ、身体中が重くなる。ジェマーはもう1発僕に撃ち込もうと、銃を向けた。
「いい加減くたばりな!」
ジェマーは引き金を引く。だが、心臓に目掛けた銃弾はいつまで経っても放たれなかった。トリガーを引く指に、アルが噛み付いていたんだ。ジェマーはアルを投げ捨てようとするが、アルは前歯を食い込ませている。渾身の力を込め、アルはジェマーの人差し指を食いちぎった。ジェマーの手から拳銃が落ちる。僕を押さえ込むジェマーの力が弱くなり、僕はジェマーを崖に押し込んだ。
「アル! チャリ!」
足元が崩れ、僕とジェマーは真っ逆様に崖から落ちていく。黒い濁流の中に、僕達は流されていった。
この日の映像はここで途切れていた。
キニアンの証言
ここから先はキニアンの証言である。キニアンは崖から落ちた二人を探す。だが、濁流は二人の姿をかき消した。キニアンはチャリの面影を求めて、崖から手を伸ばす。
「やめんか! アンタまで死んでどうする!?」
マシューが太い腕でキニアンを引き戻す。それでも、キニアンは崖の方に腕を伸ばし続けていた。
「やられたよ、またあいつに。あいつは俺から全てを奪いやがった。思い人も雇い主も」
抜け殻のように虚な目をしたギンピィ。ギンピィは今にも崖から落ちてしまいそうなほど、ふらついた足取りだ。
「キニアン女史、あなたもつくづく罪な女だよ。あなたはその気にさせるだけさせて、最後には不幸にするんだ」
うわ言のように呟くギンピィ。キニアンはギンピィ目掛けて銃を構える。
「退きなさい、ギンピィ。ここにあなたがいる理由はもう無いでしょう?」
震える銃口を見てギンピィは渇いた笑いを上げる。雨で濡れた髪の隙間から覗く目は、死人のようで不気味だ。
「人一人も殺せないクセに。引き際って言うのはこういう引き方だよ」
ギンピィはすぐさまジェマーが落とした拳銃を拾い、口に入れる。マシューとキニアンはすぐさまギンピィから銃を取り上げようとした。ギンピィは二人の前で口を裂かんばかりの笑顔を浮かべると、後頭部から血と脳漿の花を咲かせる。ギンピィの頭はしばらく、銃弾が貫いた血管から血が溢れ出た。頭の中の物を全てぶちまけると、ギンピィは笑ったまま仰向けに倒れた。見開かれた目は今にも二人を睨み殺しそうだ。流れる雨水の中に彼の血が混じる。
「……バカな奴だ」
マシューは静かに呟くと、ギンピィの死体を崖から投げ捨てた。ギンピィの死体は濁流にかき消され、血も濁流の黒に塗り潰される。だが、崖についた血は人の形を作っていた。
「俺の家に行こう……。この雨じゃあいつの亡骸も探せまい」
マシューに促されて、キニアンはふらつきながら歩みを進めた。
雨は一日中降りしきった。まるで彼らがいたという記憶をかき消すように。




