人体と魂についての話(2)
「行き場をなくした魂は彷徨い続けるしかなかった。だが i の存在がこいつらの救いになったんだ」そう言って男はまた僕の向かいにある倒木に腰を下ろした。
「魂だけでは、人の体に入り込むことができない。でも i を纏うことで人体に入り込むことができる。そして i は体中を駆け巡り、魂を馴染ませる」
「たしかに魂は余ってるのかもしれない。けれど体はどうなんです? 魂が行き場をなくしてるというのは、体の余りはないって事ですよね?」
しかしこの問いは愚問だった。僕は魂の重さの話をすっかり忘れていたのだから。
人が死んだ時、死後直前と比べて数グラム重さが減る。
つまり死んだ人間に魂は宿っていない。この男は、死んだ人間まで人体の勘定に入れている。
「類稀なる i は、死者を蘇らせることが出来る」
そう男は言うのである。
それはあまりに馬鹿げた話だ。死者の蘇生? そんなの本当に御伽話の世界だ。しかし、非現実的なこの男なら可能なのではないかと思えてくる。そして僕の目の前には非現実の象徴ともいえる i がある。
どんなに馬鹿げた話も、それがどれだけ非現実的でも、そこに現実じゃない要素がいくつもあるのなら、驚くほどに信憑性が増す。
理屈ではないのだ。
櫛森邸から類稀なる i が盗まれた時、櫛森葛流は何も教えてはくれなかった。僕は姿かたちさえも知らなかった。彼は一人でさっさと回収し、そのまま僕の知らないところに保管した。もちろん僕が知らない間に。
あの時の彼は微妙な雰囲気だったし、何を聞こうとも思えなかった。繰り返される悪戯に、いい加減疲れているみたいだった。
類稀なる i が本当に死者を蘇らせるものなのであれば、確かにあの手の連中から狙われる機会が多そうだ。そして、実際にあの時は盗まれもした。
彼がそうまでして類稀なる i を所有する理由とはなんだろうか。立地にこだわり、外観にこだわり、そうやって雲隠れするように暮らしながら、危険を冒しながら彼が類稀なる i を所有する理由。
そういったあれこれを考えていると、男は光る瓶を僕にちらつかせた。
「突然だが、これは今から悪い人間の手に渡る」と男は言った。
「これだけじゃない。ここにあるすべての魂が、悪い奴のもとにいく。これは誰にも止められない」
「そうですね」と僕は言った。
「とても僕に止められるとは思えない」
「君は君にしかできないことがあると思うか?」
僕は少し考えて、ないと言った。
「とても僕にそんな力があるとは思えない」
「しかし君のそばにいる人間はそうではないだろ。要は浸透圧なんだ」
「浸透圧?」
「君はいずれ人形遣いの後を継ぐ」
「それこそあり得ない話だ」
「いや、君はちょっと考えてみることだ。自分が人形遣いになることについて」
僕は考えてみた。僕が人形遣いになることについて。なぜ僕が人形遣いになることがあり得ないのかについて。しかし、うまい具合に理由は出てこなかった。僕は人間らしく理由をでっち上げることができなかった。
でも仕方のないことではないだろうか。それはあまりに荒唐無稽な話に思える。第一、この男になぜそんなことが分かるのだろうか。彼が本当のことを言っている保証なんてどこにもない。僕はただ騙されているのかもしれない。
「結果と選択には一家言あるんだよ」と男は僕の考えを見透かしたように言った。
「結局、あなたは何者なんですか?」僕はようやくまともな質問ができた気がした。この場所に来てからおかしな話ばかりで、この男が一体どんな人物かなんて、どうでもよくなっていたのだ。
「俺は魔法使いでもあるし、時には医者にもなる。でも、俺が自ら名乗る肩書きは、いつも錬金術師さ」
「錬金術師?」
「あらゆる願いを成就させる、願望の体現者。それが錬金術師さ。時の錬成、金の錬成、そして不老不死。あらゆる欲望を叶えるのが錬金術師さ。まあ類稀なる i に不老不死の力はないが……」
「どうして僕に色々教えてくれたんですか?」
「いずれお互い利用価値を感じる時が来る。その挨拶みたいなものだ」
「利用価値?」この質問には答えてくれなかった。
「他には?」
「どうして僕はこんなところにいるんですか? あなたが僕を呼んだんですか?」
男はくすくすと笑いながら「今更だな」と笑った。
「お前は i に呼ばれたんだ。俺の集める i に吸い寄せられた」
「吸い寄せられた?」
「お前の体には、まだ i の残滓が残っている。その僅かな粒子が、お前をここに連れてきた」
そう言って男は膝を叩いて立ち上がり、僕の質問をシャットアウトした。
「もういいだろ。俺は仕事に戻らせてもらう」
男はリュックに入れられた魂をばら撒き出した。魂は霧の中を浮かび出す。魂の姿かたちは分からなかったが、形のない何かが地面に転がっているのは分かった。
それから男は完成させていた類稀なる i を瓶の中から取り出し、これも地面に放った。
「要は浸透圧なんだ」男はもう一度同じセリフを言った。その時、あたり一面を覆っていた霧が輝き出した。
類稀なる i を中心に強い光を放ち、それはたちまち伝播していく。魂たちが輝き出す。霧は光の粒子に変わり、魂は輝き、浮上していく。重さをもつ魂は、移動し続ける i の性質を受け継ぎ、入るべき体を目指して旅をする。
霧が晴れた。朝焼けの光が、光の粒子をさらに輝かせる。男は旅立つ魂たちを見送りながら、声を出して笑っていた。
「見ろ! お前は今、史上類を見ない悪行を目にしたんだ」
これからどうなるのかは分からない。僕はもとの日々に戻れるのだろうか。不安が頭をよぎる。何によせ、もとの世界に帰らなくては。まずはあの異世界へ。この男なら僕がどうやって帰れば良いのか知っているだろう。しかし、僕は目の前の光景に目を離せないでいた。
あの魂たちは悪い人間のところへ行ったらしい。
けれどもその光景は、僕が見た景色の中で最も美しい光景だった。




