第九章 楽園2 〜其の弐〜
アルケイデスが、ニャっと不気味な顔になる。
「——さらに楽しんでもらおうか、ホホホ」
塞いでいた影が細く形態を変え、雫の口の中へ蛇がうねる様にスルスルと入っていった。
『うっーうーー…』
「雫……っ!」
陽炎が叫ぶ。
ヘパイトスの放つ巨槌の重圧に輪をかけて、ヤコブの『真実と嘘』が狂戦士の力を反転し、アゾットを支える両腕の筋肉が悲鳴を上げ、足元の石床がさらに深く陥没していく。
(…雫を助けにいけねぇー!!クソッたれぇー!…)
雫の状況は最悪だった。影法師アルケイデスの放った影が、まるで意思を持つ泥のように雫の口内へと侵入し、その喉を内側から物理的に封鎖している。
「……フォフォ、無駄な抵抗はやめておきなさい。影法師の影は一度入り込めば、内側から肺胞までを蝕む『沈黙の檻』。声を発せぬ彼女は、もはやただの可愛らしい人形に過ぎません」
メラムプースの嘲笑が響く。
雫は必死に声を絞り出そうとするが、喉に詰まった影が真言の震動をすべて吸収し、空気さえも満足に吸えない。翡翠色の輝きが急速に失われていく。
「おっと、よそ見は厳禁。 君の『視界』も反転してあげるよ、カカカ」
ヤコブが指を弾くと、陽炎の視界が歪んだ。
目の前にいるはずのヘパイトスの姿が消え、代わりに背後から無数の巨槌が迫り来る錯覚に陥る。ヤコブの『真実と嘘』が、陽炎の感覚そのものを狂わせていた。
「ガハッ……!?」
背中に凄まじい衝撃。実際には正面からヘパイトスに蹴り飛ばされたのだが、ヤコブの能力により「背後から殴られた」と脳が誤認し、体勢が完全に崩れる。
「死ねよ、小僧。俺の火事場の手品は、骨まで焼き尽くすぜ!」
ヘパイトスが巨槌を振り上げ、トドメの一撃を放とうとする。
その槌には、雫を狙った時以上の紅蓮の炎が渦巻いていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一方、高台の下では絶望的な乱戦が続いていた。
「この野郎……! 爆弾ばっかり投げやがって!」
ジョーカーの放つ爆発するトランプの嵐に、ノヴァは重力障壁を維持するのが精一杯だった。そこにマーキュリーの精神を削る呪歌が重なり、集中力が削ぎ落とされていく。
「師匠、危ない!」
紫苑がカーライルの放った目に見えない呪糸を弾くが、その糸は倒れた死霊還りたちを繋ぎ合わせ、巨大な肉の多足獣を作り出していた。
「……案ずるな、紫苑。だが、このままでは陽炎たちが……!」
蒼波が最奥を見上げるが、そこにはアルケイデスの影に呑まれかけ、膝をつく雫と、感覚を狂わされ翻弄される陽炎の姿しかなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「……あ、が……っ……」
雫の視界がかすむ。口の中に入り込んだ影が、冷たく、不気味に蠢く。
(陽炎……ごめん……。私の声が……届かない……)
「フォフォフォ! 鑑定終了です。お二人の絆の耐久値は、あと数十秒といったところですね」
メラムプースが手帳を閉じ、冷酷な宣告を下した。
絶体絶命。陽炎は、感覚が狂った暗闇の中で、雫の消え入りそうな鼓動だけを頼りにアゾットを強く握り締めた。
「……っ、見えない……何も聞こえねぇ……!」
陽炎の視界はヤコブの『真実と嘘』によって千々に引き裂かれ、平衡感覚を奪われ五感全ての異常をきたし、正面から迫るヘパイトスの殺気さえ、どこから来るのか判別できない。
「終わりだ、小僧! 跡形も残さず消えな!」
ヘパイトスの巨槌が、陽炎の頭上から死の業火を纏って振り下ろされる。
(……くそ、どこだ……どこから来る!?)
陽炎は五感が無くなることにより、無意識下で狂戦士の力を細く、もっと細く研ぎ澄まし感じ取ろうとしていた。
その時——陽炎の意識の底に、雫の苦しげな「鼓動」が響いた。
声を奪われ、影に蝕まれながらも、彼女は必死に陽炎へと手を伸ばしているのを感じとる。
——第六感・心眼。
その刹那——陽炎の黄金の瞳が、さらにその深淵『虚空の白』へと塗り替えられる。
(……見えた)
振り下ろされる巨槌の熱。ヤコブが放つ狡猾な呪力の流れ。アルケイデスの湿った影の質感。
暗闇の世界に、光り輝く線が一本、真っ直ぐに描かれた。
ガキィィィィィィィンッ!!
「なっ……何!? 回避もせず、この一撃を正面から弾き返しただと!?」
ヘパイトスが驚愕に目を見開く。
陽炎は感覚が狂ったままのはずの体で、最小限の動きだけで巨槌の「芯」をアゾットで捉え、その衝撃を受け流したのだ。
「ヤコブ! 何をしてやがる、こいつの感覚はまだ狂ってるはずだろうが!」
「……おかしい。私の書き換えた事象は継続している。なのに、やつは『嘘の景色』を無視して、私たちの『存在の核』を正確に捉えておる……!」
ヤコブの額に初めて冷や汗が流れる。
「……商人ども。嘘(術)は、もう俺には届かない」
陽炎はアゾットを正眼に構えたまま、流れるような動作で雫へと歩み寄る。その歩みには迷いも、狂いもない。
「……雫、待たせたな。その汚ぇ影、俺が引きずり出してやる」
陽炎の体から放たれる黄金の闘気が、物理的な熱量を超え、純粋な「意志の波動」となって雫を包み込む。
陽炎の第六感は、雫の内側に入り込んだアルケイデスの影の「中心点」を、鏡のように鮮明に映し出していた。
「——はああああッ!!」
陽炎が雫の喉元へ、そっと、だが鋭く指先を当てる。
その指先に集中された極小の『不壊の熱量』が、雫の喉を傷つけることなく、内側に巣食っていたアルケイデスの影を直接蒸発させた。
「ゴホッ……! ゲホッ……っ、あ、あ……」
雫の口から黒い煙が吐き出され、彼女の瞳に翡翠色の光が戻る。
「……陽炎……。私、視える。陽炎の心が……今なら、全部……!」
「ああ……。反撃の時間だ、雫。……俺たちの本当の価値を、こいつらに教えてやろう」
二人の絆は、感覚という不確かなものを超え、魂の直接対話へと至った。
覚醒した陽炎と、解放された雫。
二人の前に、七人の商人が放つ異様な圧が、初めて「恐怖」の色を帯びて揺らいだ。




