第八章 思惑 〜其の弐〜
潜空艦は、夕闇に包まれ始めたマーベラス国の峻険な山岳地帯へと降り立った。懐かしき秘密拠点の広場。そこには、以前と変わらぬ圧倒的な威圧感を放ち、仁王立ちで一行を待つ女——阿修羅の姿があった。
「戻ったか。……ほう、少しは面構えが変わったようだな」
阿修羅の鋭い眼光が陽炎を射抜く。その視線だけで、ドヴォルグでの死闘で得た経験も、抱えた傷も、すべて見透かされているような錯覚に陥った。
陽炎はタラップを降りるなり、ゼファーから渡された漆黒の封筒を阿修羅へと差し出した。
「阿修羅さん、これを見てくれ。空の上で『影の騎士ゼファー』を名乗る男から渡された」
阿修羅は眉ひとつ動かさず、封筒を受け取ると、中身を一瞥して鼻で笑った。
「ゼファーか。あの小僧、相変わらず落ち着きのない真似を。潜空艦に飛び乗るなど、相変わらず風の術にしか脳がないらしいな」
「……知り合いなのですか」
蒼波の問いに、阿修羅は封筒を無造作に懐へしまい込みながら答えた。
「ゼファー、奴は『天狗族』の末裔だ。昔、奴の首領に稽古をつけてやったことがあってな。……それより陽炎、大和国の『国家間円卓会議』へ行くつもりか? 楽園の『君主』が、ドヴォルグの操り人形と化した国王を使い、国民全員が注目している前で、お前たちを公式に処刑しようと手ぐすね引いて待っているぞ」
陽炎はアゾットの柄を強く握り、阿修羅を正面から見据えた。
「罠だってことは分かってる。けど、雫を『兵器』なんて呼ばせたままでいられるかよ。それに、君主のツラを拝めるチャンスを逃すつもりはねぇ」
その言葉を聞いた瞬間、阿修羅の闘気が爆発的に膨れ上がった。陽炎は思わず身構えるが、阿修羅はその場から動かず、吐き捨てるように言った。
「威勢だけは一人前だが……今の貴様の身体は、強大な力に対して身体が追いついていない。ゼファーも言っただろう? このまま大和へ行けば、君主の覇気に触れただけで、戦う前にお前の肉体は内側から弾け飛ぶぞ」
陽炎は言葉に詰まった。ドヴォルグでの《五分》の限界。あの時感じた、血管が焼き切れるような熱さと筋肉が裂ける感覚。それは単なる疲労ではなく、魂の出力に器が耐えきれていない悲鳴だった。
「雫もだ。受け継いだ『真言』は、人智を超えた御業。だが、それを制御する精神の柱が細すぎる。今のままでは、一度の叫びで自分の魂まで削り取ることになるぞ」
阿修羅の言葉に、雫は小さく震えながらも、毅然と顔を上げた。
「……教えて、ください。……私、強くなりたい」
阿修羅は満足げに一つ頷くと、山々の頂を指差した。
「大和国の『円卓会議』まで、残された時間は僅かだ。これより、このマーベラスの聖地にて、短期間の地獄を見てもらう。……五行(木・火・土・金・水)の理を、言葉ではなく細胞に刻み込む特訓だ」
陽炎と雫は、顔を見合わせた。
それは、これまでの修行とは次元の違う、世界の法則そのものを味方につけるための過酷な旅の始まりだった。
「ノヴァ、紫苑、蒼波。貴様らもだ。弟子の介添えで終わるつもりなら、ここで置いていく。……死ぬ気で来い」
阿修羅の背後、五つの異なる属性の呪力が渦巻く山嶺が、牙を剥くように一行を待ち構えていた。
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阿修羅の宣言とともに、周囲の空気が一変する。
ただの山嶺だと思っていた場所から、色が、温度が、そして《圧》が噴き出す。
それは自然の摂理を凝縮した、五つの属性が支配する地獄の入り口だった。
「まず、陽炎。お前に必要なのは狂戦士の負荷に耐えうる『不壊の肉体』だ。そして雫。お前は真言を紡ぐための『揺るぎなき精神』を練り上げる」
阿修羅は迷いなく、山道の二手に分かれる分岐点を示した。
「陽炎は『火』と『金』の試練場へ行け。煮えたぎる熱気と、肉体を削る鋭利な殺気が、貴様の『身体』を鍛え直す」
「雫は『水』と『木』の試練場だ。絶え間なく流れる力と、命を育み奪う循環のなかで、力の『源流』を制御する術を学べ」
「……別々にやるってことか」
陽炎が雫をちらりと見る。今まで常に隣で戦ってきた彼女を一人にする不安が、一瞬だけ顔を覗かせた。
だが、それを遮るように阿修羅の叱咤が飛ぶ。
「馴れ合うな! 大和の円卓会議では、誰一人としてお前を助けられん。己の足で立てん者に、君主の影は踏めぬと知れ」
陽炎はアゾットを握り直し、短く「分かった」と答えた。
雫もまた、自らの手を胸に当て、力強く頷く。
「……陽炎。私、頑張る。だから、陽炎も……」
「ああ。……どっちが先に終わるか、勝負だな」
二人は背を向け合い、それぞれの地獄へと足を踏み出した。




